第四話「名前のない記憶」
『……凪?』
突然、聞き覚えのある声がした。
僕は振り向いた。
少し離れたところに、一人の女性が立っていた。
知っている顔だった。
なのに、その瞬間――
僕はなぜか、少しだけ安心した。
「……美月」
『やっぱり凪だ』
美月は笑いながら、こちらへ歩いてきた。
彼女とは、もう十五年以上の付き合いになる。
同じ田舎で育ち、高校を卒業した後、僕たちはそれぞれの理由で東京へ出てきた。
上京してからも、ときどき会っていた。
『こんなところで何してるの?』
「ちょっと考え事」
『珍しいね』
「失礼だな」
美月は笑った。
『で、何見てたの?』
僕は振り返った。
さっきまでいたカフェ。
大きな窓の向こうでは、何事もなかったように時間が流れている。
「……香りがしたんだ」
『香り?』
「うん。どこかで嗅いだことがある気がして」
『香水?』
「たぶん」
僕は、さっきの香りを思い出した。
花のようで、少し甘い。
でも、甘すぎない。
その奥に、乾いた木のような温かさがある。
「懐かしいんだけど……思い出せないんだ」
『何を?』
「誰の香りだったのか」
顔も思い出せない。
名前も分からない。
どこで嗅いだのかさえ、覚えていない。
それなのに――
香りだけは知っている。
「変だよな」
そう言って笑おうとした。
けれど、美月は笑わなかった。
「……何?」
『今の話』
「うん」
『前にも聞いたことある』
僕は美月を見た。
「俺が?」
『うん』
「いつ?」
美月は少し考えた。
『十年くらい前』
胸の奥が、かすかにざわついた。
十年。
その言葉を、僕は心の中で繰り返した。
なぜだろう。
初めて聞いたはずのその数字が、
妙に気になった。
「俺、そのとき何て?」
『細かいことまでは覚えてないよ』
「誰の香りか言ってなかった?」
美月は首を横に振った。
『名前は教えてくれなかったと思う』
「……そうなんだ」
『何度か聞いた気はするんだけどね』
「どんな人だったとかは?」
『それも、あんまり話してくれなかったと思う』
「……そうなんだ」
『ただ、凪にとっては、何か特別な人だったんじゃないかな』
「どうして?」
『名前も教えてくれないのに、その人の話だけは何度かしてたから』
僕は少し考えた。
「じゃあ……俺は何を話してたんだ?」
美月は記憶を探るように視線を落とした。
『香りのこと』
「……香り?」
『うん。どんな香りだったかまでは覚えてないけど』
美月は、少し懐かしそうな表情を浮かべた。
『その人の話になると、香りのことを話してた気がする』
「……そうなんだ」
『普通さ、気になる人がいたら、どんな人なのかとか、何を話したとか、そういうことを話すじゃない?』
「……まあ、そうだね」
『でも、凪は違った』
美月は僕を見た。
『その人のことを聞いても、名前は教えてくれないし、どんな人なのかも、あんまり話してくれなかった』
「……なのに、香りの話はしてた?」
『うん。なんか不思議だったから、それだけは覚えてる』
僕は何も言えなかった。
十年前の僕は、何を思って、その香りの話をしていたのだろう。
美月は、その香りを知らない。
僕が十年前に話していた香りと、今日のカフェで感じた香りが同じものなのかも分からない。
それでも――
十年前の僕が、誰かの香りについて話していた。
そのことだけが、妙に気になった。
「女の人だった?」
『うん。たぶん』
「俺、その人のこと……好きだったのかな」
美月は、口元に小さな笑みを浮かべた。
『十年前、私も同じこと思った』
「え?」
『凪に聞いたの。その人のこと、好きなんじゃない?って』
「俺は?」
『違うって言ってた』
「……そっか」
なぜか、少しだけ安心した。
『でもね』
美月は僕を見た。
『今思うと、ちょっと変だったんだよね』
「何が?」
『好きじゃないって言うわりには、その人の話をするとき、なんだか嬉しそうだったから』
「……そうだったんだ」
『まあ、十年も前のことだから、私の思い違いかもしれないけど』
美月はそう付け加えた。
僕は、もう一度カフェを見た。
十年前。
僕には、誰かのことを話すだけで嬉しくなるような時間があったのだろうか。
その人の名前も。
顔も。
どんな言葉を交わしたのかも。
今は、何一つ思い出せない。
なのに――
なぜ、香りだけが残っている?
『そういえば……』
美月が呟いた。
「何?」
『一つだけ覚えてる』
「何を?」
美月は少し黙った。
『その人の話をした、最後の日』
雨上がりの風が吹いた。
『凪、言ってたよ』
「……何て?」
美月は僕を見た。
そして、静かに言った。
『忘れなきゃいけない人なんだ、って』
言葉が出なかった。
忘れたい人、ではない。
忘れた人、でもない。
忘れなきゃいけない人。
「……どうして、そんなこと言ったんだろう」
美月は首を横に振った。
『分からない。私も聞いたけど、凪は何も教えてくれなかった』
「……そっか」
『ただ、そのときの凪、いつもと少し違ってた気がする』
「どういうふうに?」
美月は言葉を探すように、少し間を置いた。
『なんていうか……自分に言い聞かせてるみたいだった』
僕は黙っていた。
『忘れたいっていうより、忘れようとしてる感じ』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
十年前。
僕は確かに、その人を知っていた。
名前も。
顔も。
きっと、声だって。
それなのに今は、
何一つ思い出せない。
ただ――
香りだけが残っている。
僕はもう一度、カフェを見た。
あの香りは、もうしなかった。
それでも胸の奥には、
まだ微かに残っていた。
まるで――
忘れたはずの誰かが、
もう一度、僕を呼んでいるように。




