グール。空腹。
アゼリアの光がロゼインの背中を照らす。
二人は奈落の闇へ進んだ。
しばらく歩く。
ロゼインはふと口を開いた。
「あのパーティの死体」
低く言う。
「この上の階層で階層主とやり合ったな」
アゼリアの光が揺れる。
「分かるのでございますか?」
ロゼインは歩いたまま答える。
「マップだ」
腰の地図を軽く叩く。
「ここは二十一階層」
「主は二十階層にいる」
少し間を置く。
「たぶん負けた」
奈落の闇を見る。
「勝てなかったんだろう」
アゼリアは黙って聞いている。
ロゼインは続けた。
「だから逃げた」
足元の闇を指す。
「下の階層へ」
静かな声だった。
「だがこの深さで消耗してたら終わりだ」
奈落の奥を見る。
「深層の魔物に囲まれる」
短く言う。
「それで全滅だ」
少し沈黙が流れる。
アゼリアの青い炎が小さく揺れた。
「ではロゼイン様」
「なんだ」
「それと階段は関係あるのでございますか?」
ロゼインは迷宮を見回した。
壁。
通路。
床。
それから答える。
「関係ある」
低く言う。
「逃げてきたなら」
顎で周囲を示す。
「この近くに階段がある」
剣を握り直す。
「探すぞ」
二人は通路を進み始めた。
アゼリアの光が、石壁を淡く照らしている。
闇はすぐそこにあった。
光の外側は、何も見えない。
ロゼインは足を止めず、周囲を観察している。
床。
壁。
通路の曲がり。
石の削れ方。
しばらく歩いたところで、ロゼインが小さく呟いた。
「……こっちだな」
アゼリアが顔を向ける。
「何かあるのでございますか?」
ロゼインは壁に手を当てた。
指先で石をなぞる。
「風だ」
短く言う。
「わずかだが流れてる」
アゼリアの炎が揺れた。
「階段の空間でございますか」
「たぶんな」
ロゼインはそのまま通路を曲がる。
数歩進む。
その瞬間だった。
闇の奥で――
何かが動いた。
ガリッ。
石を引っかく音。
ロゼインの足が止まる。
剣が静かに持ち上がる。
アゼリアの光が前方を照らした。
闇の中に、いくつもの影が浮かび上がる。
低い体。
長い腕。
地面を這うような姿。
灰色の皮膚。
口の奥に並ぶ、鋭い牙。
アゼリアが小さく言う。
「……グレイブ・グール」
ロゼインの目が細くなる。
深層に棲む肉喰いの魔物。
しかも――
一体ではない。
闇の中で、さらに動く影。
三。
四。
五。
ロゼインは小さく息を吐いた。
「なるほど」
剣を構える。
「深層らしくなってきたな」
その瞬間。
一体のグールが、地面を蹴った。
闇から飛び出す。
ロゼインの体が、先に動いた。
踏み込む。
剣が横に走る。
ガキンッ!
骨を断つような硬い感触。
グールの首が跳んだ。
だが残りの影が一斉に動く。
アゼリアの光が大きく揺れた。
「ロゼイン様!」
闇が、牙を剥いた。
三つの影が同時に動く。
低い。
速い。
地面を這うように距離を詰めてくる。
ロゼインは一歩前に出た。
死体から剥ぎ取った片手剣を構える。
小柄な体。
細い腕。
闇の中で金の髪がふわりと揺れた。
その姿だけ見れば、迷宮深層にいるにはあまりに華奢だった。
だが――
グールが跳んだ。
牙が目前に迫る。
ロゼインの腕が振り下ろされる。
ドンッ!!
重い衝撃音。
斬撃ではない。
叩き潰した。
グールの頭が石床にめり込む。
石がひび割れた。
その瞬間――
バキンッ!!
剣が折れた。
刀身が半ばから吹き飛ぶ。
ロゼインは折れた柄を見た。
金の髪が肩に落ちる。
「……またか」
小さく舌打ちする。
拳を握る。
骨が軋んだ。
「力が抜けねぇ」
肩を回す。
「加減が分からん」
その隙を突くように、残り二体が動いた。
左右から同時に飛びかかる。
ロゼインは折れた剣を横に振った。
ゴッ!!
鈍い衝撃。
グールの体が宙に浮く。
そのまま壁へ――
ドゴォン!!
石壁に叩きつけられる。
鈍い破砕音。
壁にヒビが走った。
グールの体が崩れ落ちる。
ロゼインはそれを見て、少し眉をひそめた。
壁を見る。
拳を見る。
「……まずいな」
低く呟く。
「迷宮壊しそうだ」
だがもう一体が止まらない。
地面を蹴る。
牙を剥き――
アゼリアへ飛ぶ。
青い炎が揺れた。
アゼリアの骨の足が一歩下がる。
静かな動きだった。
骨だけの体。
だがその骨格は妙に整っている。
細い肋骨。
滑らかな腰のくびれ。
広い骨盤。
肉がなくとも分かる。
かつての体の形。
その所作は不気味なほど優雅だった。
アゼリアの指が開く。
床に散った骨片が震える。
スケルトンを呼ぶ。
だが――
近すぎる。
召喚が形になる前に、グールが目前まで迫る。
牙が開く。
アゼリアの腕が軋んだ。
ギシッ。
前腕の骨が外れる。
関節が滑る。
骨が組み替わる。
長く伸びる。
細い骨が一本、鋭く突き出した。
骨の槍。
その動きは、戦いというより――
舞いのようだった。
グールが飛び込む。
アゼリアは一歩踏み込む。
そして――
突く。
バキィッ!!
骨槍がグールの口から頭蓋を貫いた。
骨を砕きながら突き抜ける。
青い炎が骨の内側を走る。
グールの体が痙攣し、崩れ落ちた。
静寂が戻る。
アゼリアの腕がゆっくり元の形へ戻る。
カチ…
カチ…
骨がはまり直る音が迷宮に響く。
ロゼインは折れた剣の柄を見た。
それを無造作に捨てる。
カラン、と乾いた音。
拳を握る。
骨が鳴った。
小柄な体には似合わない音だった。
「……武器がもたねぇな」
アゼリアの青い炎が静かに揺れる。
「ロゼイン様」
「なんだ」
「お怪我は」
ロゼインは拳を見る。
「問題ない」
アゼリアは静かに頷く。
「それならよろしゅうございました」
ロゼインは拳を軽く握り直す。
骨が小さく鳴る。
そしてふと、アゼリアの腕を見る。
「……さっきの」
アゼリアの青い炎が揺れた。
「はい」
ロゼインは少し眉を上げる。
「骨」
「外れてただろ」
アゼリアは小さく頷く。
「はい」
「骨格を変形させることができます」
ロゼインは少しだけ感心したように息を吐いた。
「なるほど」
グールの死体を見る。
頭蓋は完全に貫かれている。
「槍にしたのか」
「はい」
「盾や、鞭のような形にも変形できます」
ロゼインは腕を組む。
少し考える。
「……便利な能力だな」
そしてグールを顎で指す。
「突きも悪くなかった」
その瞬間――
アゼリアの青い炎が、ぱっと大きく揺れた。
骸骨の肩がぴくりと上がる。
「……ほ、本当ですか」
少し前に出る。
すぐに姿勢を整える。
「い、いえ」
「僭越ながら、最適と判断いたしました」
だが炎はまだ嬉しそうに揺れている。
ロゼインはそれを見て少しだけ口の端を上げた。
「嬉しそうだな」
アゼリアの頭がぴたりと止まる。
「そ、そのようなことは」
骨の指が胸の前で小さく動く。
ロゼインは肩をすくめる。
「まあいい」
そして言った。
「頼りになる」
アゼリアの炎が――
ぼわっと大きく揺れた。
「は、はい!」
ロゼインは折れた剣の柄を石床に置き、軽く拳を握り直した。
「……行くか」
アゼリアの青い炎が、石壁に淡く揺れる。
湿った石の匂い、遠くで滴る水の音、低く響く自分たちの呼吸。
迷宮の空気は重く、どこか腐敗したような臭いが混ざっている。
三日間、まともに食べていない。
腹の奥が痛むが、聖血が体を満たし、筋肉や傷は完全に回復していた。
見た目は華奢な美少女のままだが、力は以前とは比べものにならないほど強くなっている。
アゼリアが小さく息を吐いた。
「ロゼイン様……お腹は……」
言葉は淡いが、気遣いは確かだった。
ロゼインは軽く肩をすくめる。
「平気だ」
「……本当に?」
骨の指先が胸の前で小さく震える。
「大丈夫だ。腹が減ってても、今は気にする暇はない」
アゼリアは少しだけ頷き、炎が揺れた。
通路は狭く、時折天井から石が崩れ落ちる。
壁は濡れ、所々苔が光を反射して淡く光る。
床の石には、以前の冒険者や魔物の痕跡が残り、迷宮の歴史を語るかのようだ。
耳を澄ませば、遠くで低くうなり声のような音がする。
風か、魔物か。
ロゼインは手を壁に当て、指先でわずかな空気の動きを確かめた。
「……階段はすぐそこだ」
空気のわずかな変化。湿気と冷気の混ざる場所。
迷宮の構造が、ほんのわずかに開けている。
アゼリアの炎が一瞬強く揺れる。
「ロゼイン様……足元もお気をつけくださいませ」
「わかってる」
通路を曲がると、石の床がわずかに広がり、影の先に階段の気配が差し込む。
暗くて湿った空間に、階段の先が微かに口を開けている。
ロゼインは深く息を吸った。
「ここからだ」
足元の石は滑りやすく、壁の苔が湿っている。
階段を上れば、確実に魔物が待っている。
二十階層のボスフロア――遠征隊が逃げる途中で屠られた、恐怖の存在が確実にこの先にいる。
アゼリアがそっと、ロゼインの背に手を添える。
「ロゼイン様……お体に無理は……」
「大丈夫だ」
だが二人の間に、緊張が満ちる。
迷宮の闇は深く、静寂は不気味に重い。
振り返れば、三日間彷徨った裂け目の記憶が、まだ胸を押しつぶすようだ。
踏み出すたびに石が微かに鳴り、湿気が鼻を刺す。
アゼリアの炎が揺れる。
「……ここから先、必ず危険でございます」
「わかってる」
ロゼインの声は低く、冷静に響いた。
だが胸の奥では、まだ緊張が走る。
階段の先――二十階層のボスフロア。
恐怖も絶望も、すべて待っている。
二人は互いに視線を交わし、迷宮の深淵へ一歩を踏み出した。




