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聖血のロゼル  作者: チョコレートスターフィッシュ
第1章

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楽な遠征

第1章


その遠征に、断る理由はなかった。

ロゼインはCランクの冒険者だった。

もうすぐ四十。

若い頃のような無茶は利かない。

体力も落ちた。

傷の治りも遅い。

それでも、剣を握ればそこらの若造にはまだ負けない自信がある。

派手な魔法は使えない。

特別なスキルもない。

だが――生き残る術なら知っていた。

魔物の癖。

罠の匂い。

敵の力量。

そして、引き際。

長く迷宮に潜ってきた者だけが身につける、経験という名の勘。

それだけを武器に、ロゼインは今日まで生き延びてきた。

だが、現実は厳しい。

ランクはCのまま。

若い頃からほとんど変わっていない。

冒険者として食っていくことはできる。

だが、大金を得ることも、名を上げることもない。

平凡。

良く言えば堅実。

悪く言えば、どこにでもいる中年冒険者だった。

それでも、ロゼインはこの仕事が嫌いではなかった。

迷宮には夢がある。

地上では手に入らない財宝。

未知の魔道具。

伝説級の装備。

ほんのわずかだが――人生をひっくり返す可能性。

だからこそ、人は迷宮へ潜る。

そして、ロゼインもまた、その一人だった。

今回の仕事は、その「夢」とは少し違う。

街の冒険者ギルドが募集した、二十人規模の遠征。

目的は第十三階層付近の地図更新。

近頃、迷宮の構造が変化したという報告があり、既存の地図との誤差を確認する必要があった。

危険はある。

だが、深層ではない。

参加者も充実している。

前衛。

後衛。

回復術師。

荷運び。

斥候。

役割は万全。

人数も十分。

報酬も悪くない。

新人にとっては経験を積む絶好の機会であり、中堅にとっては堅実な稼ぎ口だった。

ロゼインも、何度かこうした合同遠征に参加したことがある。

派手さはないが、安定して金になる。

それだけで十分だった。

「おい、新入り。名前は?」

集合場所で声をかけてきたのは、大柄な男だった。

二メートル近い巨体。

分厚い鉄板を重ねた鎧。

背中には、人間一人くらいなら真っ二つにできそうな戦斧。

その姿を見た瞬間、ロゼインは相手が誰か理解した。

重戦士グラド。

Bランク冒険者。

この街では知らぬ者のいない実力者だ。

並の魔物なら一撃で叩き潰し、壁役としても一流。

討伐実績も豊富で、多くの探索隊から声がかかる男だった。

ロゼインは軽く頭を下げた。

「ロゼインだ」

グラドは目を細める。

「へえ。聞いたことねぇな」

口調に悪意はない。

だが、興味もない。

ロゼインのようなCランク冒険者など、記憶に残す価値もないということだろう。

ロゼインは肩をすくめた。

「有名じゃなくてね」

グラドは鼻で笑った。

「まあいい。今回は楽な仕事だ」

戦斧を肩に担ぐ。

「第十三階層まで行って、地図を確認して帰ってくるだけだ」

近くで聞いていた若い冒険者が笑う。

「最近は魔物も少ないって話だしな」

「迷宮が枯れちまってんじゃねぇか?」

別の男も冗談めかして言う。

回復術師の女性冒険者も、どこか気楽そうだった。

誰の顔にも、深刻な緊張はない。

それも当然だった。

二十人の探索隊。

Bランク冒険者のグラド。

回復術師二名。

装備も十分。

普通に考えれば、まず失敗しない。

「昼過ぎには戻れるかもな」

「報酬もらって、そのまま酒場だ」

「お、いいねぇ」

軽口が飛び交う。

笑い声が上がる。

その様子を見ながら、ロゼインは腰の剣を軽く叩いた。

使い込まれた片手剣。

刃には細かな傷が無数に刻まれている。

派手な業物ではない。

だが、長年ともに戦ってきた相棒だった。

「今回も頼むぞ」

小さく呟く。

もちろん、剣が返事をすることはない。

だが、こうすると少しだけ気持ちが落ち着いた。

グラドによる最終確認の声がかかる。

「それでは、これより合同遠征を開始する」

張りのある声が響く。

二十人の冒険者たちが、一斉に動き出す。

迷宮の入口へ。

街の中央に口を開ける、巨大な石造りの階段。

地上の喧騒とは対照的に、その奥には闇が広がっていた。

何度見ても、この光景には独特の緊張感がある。

ロゼインは深く息を吸う。

湿った空気。

石の匂い。

かすかな冷気。

迷宮の息吹だ。

「よし、行くぞ!」

グラドの声が響く。

先頭の灯りが揺れ、探索隊はゆっくりと地下へ降りていく。

一段。

また一段。

地上の光が遠ざかる。

足音だけが、石壁に反響する。

コツ、コツ、コツ――。

ロゼインは無意識に剣の柄へ手を置いた。

まだ、この時は誰も知らなかった。

それが――二十人の探索隊にとって、最後の遠征になることを。


迷宮の入口を越えた瞬間、空気が変わった。

湿った石の匂い。

土と苔の混じった冷たい空気。

遠くで水滴が落ちる、規則的な音。

ぽたん。

……ぽたん。

地上の喧騒は、すでに遠い。

カンテラの灯りが揺れ、

石壁に長い影を作り出す。

先頭を歩くグラドの巨体が、

ゆっくりと闇を押しのけるように進んでいく。

「第一階層、異常なし!」

斥候の声が響く。

隊列は安定していた。

先頭にグラド。

その左右に前衛。

中央に荷運びと回復術師。

最後尾近くにロゼイン。

合同遠征ではよくある配置だ。

ロゼインは周囲に目を配りながら歩く。

壁の亀裂。

床の凹凸。

天井の状態。

隊の動き。

すべてを自然と確認していた。

若い頃のように力任せには戦えない。

だからこそ、こうした小さな確認が命を救う。

第一階層から第三階層までは、何事もなかった。

ゴブリンが二匹現れたが、

グラドの戦斧が一振りされただけで、

肉片となって吹き飛ぶ。

「はっ、準備運動にもならねぇな」

グラドが豪快に笑う。

周囲も笑った。

「さすがグラドさん!」

「一撃じゃねぇか」

「俺たちの出番がないな」

軽口が飛び交う。

空気は明るい。

緊張感より、遠足に近い気楽さがあった。

第四階層。

洞窟狼が三匹現れる。

だが、前衛と弓使いの連携で、

あっという間に片付いた。

ロゼインは一匹の死骸を見下ろす。

若い個体だ。

痩せている。

「……餌が足りないのか?」

小さく呟く。

「何か言ったか?」

隣の男が聞く。

「いや」

ロゼインは首を振った。

確信はない。

ただの勘だ。

だが、何となく胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が残った。

第五階層。

休憩。

壁際に腰を下ろし、

水筒の水を飲む。

グラドが干し肉を齧りながら笑う。

「どうだ、新入り。楽な仕事だろ?」

「今のところはな」

「今のところ?」

グラドが片眉を上げる。

ロゼインは苦笑した。

「迷宮ってのは、油断した奴から死ぬ」

その言葉に、

近くの若い冒険者が肩をすくめた。

「ベテランは心配性だな」

「年を取ると慎重になるもんさ」

ロゼインも笑ってみせた。

実際、それで何度も生き延びてきた。

慎重すぎるくらいで、ちょうどいい。

休憩を終え、

隊は再び進み始める。

第六階層。

第七階層。

ここまで来ると、本来ならもう少し魔物に遭遇してもおかしくない。

だが、現れたのは数えるほど。

しかも、どれも弱っていた。

「ほんとに魔物が少ねぇな」

後ろの誰かが言う。

「最近潜った探索者が狩り尽くしたんじゃねぇか?」

「ありがたい話だ」

笑い声が続く。

だが、ロゼインは笑えなかった。

静かすぎる。

迷宮には独特の気配がある。

どこかで蠢く魔物。

遠くのうなり声。

爪が石を引っかく音。

そうしたものが、今日は妙に少ない。

まるで。

この迷宮そのものが、息を潜めているようだった。

第八階層へ降りる階段の前で、

ロゼインは足を止めた。

石床の上に、

黒い染みがこびりついている。

しゃがみ込み、指先で触れる。

乾いている。

血だ。

かなり古い。

だが、その量は少なくない。

「どうした?」

グラドが振り返る。

ロゼインは立ち上がった。

「……血痕だ」

グラドはちらりと見ただけで鼻を鳴らす。

「迷宮じゃ珍しくもねぇ」

「そうだな」

ロゼインも、それ以上は言わなかった。

だが。

血痕の位置。

飛び散り方。

それは何かが一方的に叩き潰されたように見えた。

第八階層。

第九階層。

進むにつれて、会話が少なくなっていく。

理由は誰にも分からない。

ただ、何となく。

誰もが無意識に声を潜めていた。

カンテラの灯りが揺れる。

足音が響く。

コツ。

コツ。

コツ。

そして。

その音だけが、やけに大きく感じられた。



第十階層へ降りる階段を下りた瞬間、空気がさらに重くなった。

温度が下がったわけではない。

だが、胸の奥をじわじわと圧迫するような息苦しさがあった。

誰もそれを口にはしない。

だが、隊の動きは明らかに変わっていた。

足音は自然と小さくなり、

話し声も消えている。

先ほどまで飛び交っていた冗談は、もう聞こえない。

聞こえるのは――

カンテラの火が揺れる微かな音と、

二十人分の呼吸。

そして、靴底が石床を擦る音だけだった。

第十階層。

本来なら、この辺りにはオークや大型の洞窟狼が現れる。

新人にとっては十分に危険な階層だ。

だが。

何もいない。

気配すらない。

「……おかしい」

今度は誰も笑わなかった。

グラドも無言のまま歩き続ける。

戦斧を握る手に、わずかに力がこもっているのをロゼインは見逃さなかった。

しばらく進んだところで、

先頭の斥候が低い声を上げた。

「止まれ」

隊列が止まる。

カンテラの灯りが前方を照らす。

床には黒い染みが広がっていた。

血だ。

それも、これまでとは比較にならない量。

乾いた血が石の隙間にこびりつき、

まるで黒い沼のように広がっている。

さらにその先。

壁にも。

天井にも。

血飛沫が無数に散っていた。

誰かが息を呑む。

「……なんだよ、これ」

ロゼインはゆっくりと周囲を見回した。

石壁には無数の傷。

深く抉られた跡。

何か巨大なものが、

力任せに暴れたような痕跡だった。

「魔物同士の争い……?」

誰かが震える声で呟く。

ロゼインは答えなかった。

そんな生易しいものではない。

これは、一方的な破壊だ。

第十一階層。

ここまで来ると、

誰一人として無駄口を叩かなかった。

回復術師たちの顔からも余裕は消えている。

若い冒険者の一人は、

何度も唾を飲み込んでいた。

リアルな恐怖は、

派手な叫び声よりも静寂として現れる。

ロゼインは、それを知っていた。

先頭を歩くグラドの背中も、

どこか強張って見える。

この男が緊張している。

それだけで、十分すぎるほど異常だった。

やがて、通路の脇に何かが転がっているのが見えた。

革袋。

折れた槍。

砕けた盾。

そして――人間の腕。

「っ……!」

若い冒険者が口を押さえる。

切断されたのではない。

潰されていた。

骨も肉も区別がつかないほどに。

「ここで何が起きたんだ……」

誰かの声は震えていた。

答える者はいない。

第十二階層へ向かう階段が見えた。

その瞬間。

ロゼインの背筋に冷たいものが走る。

階段の周囲には、

無数の足跡が残っていた。

人間のものではない。

あまりにも大きい。

そして深い。

石床がひび割れるほどの重量。

「……でかすぎる」

斥候がかすれた声を漏らす。

グラドが低く言った。

「全員、警戒しろ」

その声には、もう余裕はなかった。

誰も返事をしない。

ただ、それぞれの武器を強く握る。

ロゼインも剣の柄を握り直した。

手のひらに汗が滲む。

嫌な予感ではない。

確信だった。

この先にいる。

何か、とてつもなく危険な存在が。

そして探索隊は、

重苦しい沈黙の中、

第十二階層へと足を踏み入れた。


その時だった。

後方から、震える声が上がる。

「……なあ」

若い冒険者の一人だった。

顔色は青ざめ、

握った槍の先が小刻みに震えている。

「そろそろ……引き返した方がいいんじゃないか?」

その言葉に、隊の空気がぴたりと止まる。

誰もすぐには答えなかった。

だが、その場にいた全員が同じことを考えていた。

静かすぎる迷宮。

消えた魔物。

大量の血痕。

潰れた死体。

巨大な足跡。

明らかに、何かがおかしい。

ロゼインも無言のまま、剣の柄を握りしめる。

(……確かに)

胸の奥で、長年培ってきた勘が警鐘を鳴らしていた。

戻れ。

これ以上進むな。

ここから先は、踏み込んではならない。

冒険者として積み重ねてきた経験のすべてが、

そう叫んでいた。

沈黙を破ったのは、グラドだった。

「……ここまで来て手ぶらで帰れるかよ」

低い声。

だが、その言葉には以前の余裕はない。

「第十三階層はもうすぐそこだ」

戦斧を握り直す。

「地図を確認したら、すぐ戻る」

若い冒険者は唇を噛む。

「でも……」

「怖いなら後ろにいろ」

グラドは振り返らない。

「俺が前にいる限り、誰も死なねぇ」

その言葉に、誰も反論できなかった。

Bランク冒険者。

重戦士グラド。

この場で最も強い男。

その存在こそが、彼らの最後の安心材料だった。

ロゼインは小さく息を吐く。

(……嫌な予感しかしない)

だが、ここで一人だけ帰るわけにもいかない。

二十人で来た以上、

二十人で動く。

それが合同遠征の鉄則だった。

「全員、警戒しろ」

グラドの号令とともに、

探索隊は重苦しい沈黙の中、

第十二階層へと足を踏み入れた。


次の階層へ足を踏み入れた瞬間――

ロゼインの全身に、粟立つような悪寒が走った。

空気が違う。

重い。

冷たいというより、

何か巨大な生き物の腹の中に入り込んだような圧迫感。

息を吸うだけで肺が軋む気がした。

「……っ」

誰かが短く息を呑む。

だが、誰も声を上げない。

上げられなかった。

この階層には、音がなかった。

ぽたん、と落ちていた水滴の音すら聞こえない。

二十人もいるはずなのに、

足音さえ闇に吸い込まれていく。

静寂。

異様なまでの静寂。

まるで、この場所だけが世界から切り離されたかのようだった。

先頭のグラドが、ゆっくりと足を止める。

「灯りを前へ」

指示に従い、

カンテラの光が前方を照らした。

そして――

誰かが、喉の奥で悲鳴を殺した。

そこにあったのは、鎧だった。

いや。

かつて鎧だったもの。

分厚い鋼板は、

まるで粘土のようにひしゃげ、

球のような塊になっている。

兜も盾も、

原形を留めていない。

そして、その隙間から。

赤黒く乾いた肉片と、

白い骨が覗いていた。

「……うそだろ」

若い冒険者の声が裏返る。

ロゼインの喉が、ごくりと鳴った。

これが何を意味するのか。

考えるまでもない。

鎧ごと、人間が押し潰されたのだ。

力任せに。

まるで虫でも踏み潰すように。

グラドですら、一歩だけ後ずさる。

そして、視線を横へ向けた。

壁。

そこには――

三本の巨大な爪痕が刻まれていた。

深い。

あまりにも深い。

石壁を、まるで柔らかな木材のように抉り取っている。

指先でなぞれば、

腕ごと入りそうなほどの幅だった。

「……こんなの……」

回復術師の女が、震える声を漏らす。

「魔物がつけられる傷じゃない……」

ロゼインの背中を、冷たい汗が伝う。

その時。

――ドン。

遠くで、重い音が響いた。

全員の体が硬直する。

――ドン。

また一歩。

石を踏み砕くような音。

ゆっくり。

確実に。

こちらへ向かってくる。

――ドン。

――ドン。

誰かの歯が、かちかちと鳴った。

「に、逃げよう……」

かすれた声。

今度は、誰も反論しなかった。

グラドでさえ、無言のまま戦斧を構える。

額には汗が浮かんでいる。

ロゼインも剣を抜いた。

手が震えていた。

長年の経験が、叫んでいる。

逃げろ。

今すぐ。

だが――

足が動かない。

闇の奥。

カンテラの灯りが届かない場所。

そこに、二本の角が現れた。

続いて。

巨大な肩。

岩のように隆起した筋肉。

鬼のような顔。

漆黒の皮膚。

血のように赤い双眸。

そして。

裂けた口元が、ゆっくりと吊り上がる。

「……嘘だろ」

誰かの声が震える。

グラドの唇から、

掠れた声が漏れた。

「……奈落鬼」

その名が告げられた瞬間。

怪物は、笑った。

ユニークモンスター。

奈落鬼バルガス。

迷宮の深淵に存在するはずの災厄が、

二十人の探索隊の前に姿を現した。







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