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無表情な死神と、回収された新人

作者: mii
掲載日:2026/04/07


感情は、いつから薄れていったのだろう。


怒りも、悲しみも、喜びも。


かつて確かに存在していたはずのそれらは、長い時の中で静かに削り取られていった。


死神として過ごした年月は、もはや自分でも数えきれない。


魂の回収。

未練の切断。

別れの立ち会い。


繰り返される終わりの景色は、やがて心を摩耗させ、

何を見ても、何を聞いても、胸は揺れなくなった。


ただ、仕事をこなすだけ。


――それでよかった。



その日も、いつもと変わらない案件だった。


夕暮れの交差点。


赤く滲んだ空の下で、ひとつの魂が身体を離れようとしていた。


彼女は静かに降り立つ。


白でも黒でもない、曖昧な色の外套。


影のように、音もなく。


「……対象確認」


倒れた青年の傍らで、半透明の存在が揺れていた。


二十五歳。

男性。

交通事故。


まだ自分が死んだことを理解しきれていない、典型的な状態。


青年の魂は、呆然とした表情で自らの肉体を見下ろしていた。


「え……?」


かすれた声。


「……ここは……」


彼女は淡々と告げる。


「あなたの回収に来ました」


「……は?」


青年は振り返り、そこで初めて彼女の姿を認識した。


「だ、誰だよ……あんた……」


「死神です」


あまりにも簡潔な返答。


冗談だろ、と笑い飛ばそうとした青年の顔が、

次の瞬間、凍りつく。


倒れている自分。


騒ぎ始める人々。


遠くで鳴るサイレン。


現実が、ゆっくりと魂を締めつけていく。


「……うそだろ……」


震える声。


「俺……死んだのか……?」


彼女は頷きもせず、否定もしない。


「回収規定に基づき、三日以内に魂を移送します」


「……三日……?」


青年の視線が揺れる。


「ちょ、ちょっと待てよ……!」


声に必死さが滲む。


「無理だ……今は無理だ……!」


彼女は無表情のまま返す。


「3日以上は無理です」


「……妹が……」


絞り出すような声だった。


「俺には家族が妹しかいないんだ……」


青年の瞳に、強い未練が宿る。


「来月……妹の結婚式なんだよ……」


彼女の表情は変わらない。


「……」


「ウェディングドレス姿……見てやりたいんだ……」


震える指が空を掴む。


「約束したんだ…それだけなんだ……」


懇願する声。


「頼む……1ヶ月だけ……待ってくれ……」


夕焼けに染まる街。

泣き崩れる人々。

必死に叫ぶ魂。


だが、彼女の胸は――何も揺れない。


「規定は変えられません」


淡々とした宣告。


「例外はありません」


「……っ……!」


青年の顔が歪む。


「そんなの……あんまりだろ……!」


「あなたの居場所は常に追跡しています」


感情のない言葉。


それは刃のように、静かに突き刺さる。


「俺は……まだ……」


「三日後、再訪します」


彼女はそう告げると、

音もなく、その場から姿を消した。


残されたのは、

絶望に立ち尽くす青年の魂だけだった。



三日後。


青年は、変わらずその場所にいた。


「……やっぱり来たか……」


力なく笑う。


だがその瞳には、諦めきれない光が残っている。


「……まだ、行けない……」


「時間切れです」


彼女は変わらぬ声で答える。


「……くそ……」


青年の拳が震える。


「なんなんだよ……死神って……

人の気持ちとか……ねぇのかよ……」


彼女は何も答えない。


ただ静かに、青年へと手を伸ばす。


「……移送します」


「……っ……!」


青年の身体が光へとほどけていく。


最後に残った視線だけが、彼女を強く睨みつけた。


「……覚えてろよ……」


低く、滲む声。


「あんたの顔……絶対忘れねぇからな……」


怒りと憎しみを残し、

青年の魂は――回収された。


夕暮れの街に、再び静寂が戻る。


「……案件終了」


何も残らない。


何も感じない。


ただ次の仕事へ向かうだけ。


――それが、彼女の日常だった。



そんなある日。


いつも通り案件報告を終え、無機質な廊下を歩いていると、

彼女は呼び止められた。


「今後しばらく、新人死神とのバディ勤務を命じる」


「……新人と、ですか」


「そうだ。教育係として同行し、

一定数の回収を終えるまで指導に当たれ」


それはつまり、余計な手間が増えるということだった。


新人は、たいてい感情的だ。


死んだばかりで現世への未練も強く、規定に反発しがちで、

同じ質問を何度も繰り返す。


彼女は短く返事をし、指定された部屋へ向かった。



新人待機室。


白い壁と机がいくつも並ぶ、その一角に――


「……」


ひとりの青年が座っていた。


黒いコートに、不慣れな死神用の徽章。


落ち着かない様子で椅子に腰掛け、指先をそわそわと動かしている。


彼女は一歩近づき、番号を確認した。


「あなたが、新人の死神……?」


青年は顔を上げた。


その瞬間――時間が、一拍だけ止まったように感じた。


見覚えのある瞳。


夕暮れの交差点で、最後に向けられた、あの強い視線。


「……あんた……」


青年の口元が引きつる。


「なんで……よりにも寄ってあんたなんだよ」


彼女は、無意識に呼吸をひとつ挟んだ。


「……あなたが、新人死神として配属されたと聞いています」


「ああ。そうだよ」


青年は苦笑とも嘲笑ともつかない笑みを浮かべる。


「子犬を助けようとして車に跳ねられた、

あの“バカな”男だ」


自嘲の響き。その裏に隠れきらない怒り。


彼女は表情ひとつ変えず、淡々と尋ねる。


「なぜ、死神に」


「……決まってるだろ」


青年は視線を伏せ、ぎゅっと拳を握る。


「霊界で遠くから見守るくらいなら、

 下に降りて、妹の近くにいた方がマシだ」


ぽつりとこぼれる本音。


「一定数の魂を回収すれば、いずれ転生できるんだろ?

 だったら、その間くらい……あいつの近くで仕事させてくれって、

 交渉したんだよ」


彼女はまばたきひとつせず、その言葉を受け止めた。


「……合理的とは言えません」


「知るかよ。合理的かどうかなんて」


青年は彼女を睨む。


「本日より、あなたは私のバディです。

 案件には原則二人で同行します。規定は、後ほど伝えます」


「ヘェ……」


青年は肩をすくめる。


「俺、あんたのこと大嫌いだけどな」


「それは業務に影響しません」


「俺はするね」



バディ勤務は、予想通り衝突の連続だった。


初日に担当したのは、老女の魂だった。


長い闘病の末、静かに息を引き取ったその人は、

ベッドの傍らで眠る孫の頭を、最後まで名残惜しそうに撫でていた。


「……もう少し、撫でさせてやってもいいんじゃないか」


青年がこぼす。


「回収時刻です」


彼女は迷いなく腕を伸ばす。


「待てって」


青年が思わず制した。


「ほら、あの子……まだ、ばあちゃんがいないって知らないのに」


「死神は、感情による判断を許されていません」


「でも……!」


青年の声に、老女はふっと微笑んだ。


「……いいんですよ」


振り返るように、彼女たちの方を向く。


「ずいぶん、優しい死神さんがいるんですねぇ」


青年は言葉を失う。


老女はそっと孫を見つめると、穏やかな表情で首を振った。


「この子が泣くのも、いつか笑うのも、きっと全部必要なこと。

 私がここで粘ったところで、何も変わりはしませんよ」


彼女は淡々と、老女の魂を受け止めた。


未練は確かにあった。

それでも、静かに終わりを受け入れる魂もある。


案件が終わった後も、青年はしばらく黙り込んでいた。



別の日には、

自身が招いた事故に謝り続ける魂に出会った。


また別の日には、

残してきた家族を思い、

「行きたくない」と泣き叫ぶ魂もいた。


その度に、青年は感情をあらわにした。


「ひどすぎるだろ、この規定……!」


「全部、切り捨てるのかよ……!」


「もう少し人の気持ちを考えろよ!」


その度に、彼女は同じ言葉を返す。


「回収できなかった魂は、行き場を失います」


淡々とした声。


「未練に縛られ、形を保てなくなり、

 いずれは歪んだ存在となって、誰かを傷つけるかもしれない」


ある日、青年はそれを目の当たりにした。


時間を過ぎても回収されなかった魂が、

自分の死を認められず、

現世にしがみつき続けた結果。


その姿は、もはや人の形をしていなかった。


「……これが、“回収できなかった魂”のなれの果てです」


彼女の説明に、青年は息を呑む。


「うそだろ……これが、人……?」


かつて別の死神が担当していた案件の残骸――


そこに残るのは、もはや“誰か”ではなく、“何か”だった。


青年の声は低い。


「あれは、どうなるんだ?」


「回収要請がない以上、放置するしかありません。

それに下手に手を出せば…こちらが被害を受けます。」


「だから、問答無用で回収しろって?」


「それが私達の仕事です」


彼女は静かに答える。


「人助けではありません」


青年は唇を噛んだ。


それでも、すべてを否定しきることもできなかった。


彼は徐々に理解していく。


回収されなかった魂が、どれほど危うい存在になるか。


“情”だけで救えないものが、確かにこの世にはあることを。


そして同時に知る。


死神の多くが、元は人間だということも。


生前の未練。

守りたかったもの。

取り返したかったもの。


それぞれの事情を抱え、

それでも「働く事」を選んだ者たち。


「……じゃあ、あんたも」


案件からの帰り道、青年がぽつりと言う。


「元は、人間だったのか」


彼女は前を向いたまま答える。


「覚えていません」


「嘘だろ」


「私にとって重要なのは、今です」


それは、本心でもあり、逃げでもあった。


青年は小さく息を吐く。


「……あんたさ」


「なんですか」


「ほんと、腹立つよな」


新人と並んで歩いていた足を止め、彼女は小さく息を吐く。


視界の端で、青年が怪訝そうに首を傾げた。


「…今日のあんた、いつもより無表情が怖いんだけど」


「いつも通りです」


「いや、いつもより“刺さる”」


その軽口に、心のどこかがちくりと痛んだ。


……昔の私なら、きっと笑って冗談を言い合っていた


そんな自分は、もうとっくにどこかへ消えたはずなのに。


ふと、記憶が引き戻される。



まだ、死神になる前。


彼女は普通の人間だった。


どこにでもいる大学生で、友達がいて、彼氏がいて。


部活とバイトと、たまに家族の病院付き添いと。



……あの頃の私は、何も知らなくて、ただのバカだった。



今思えば、そうとしか言えない。


彼氏のことが世界のすべてみたいに思えた。


親友も、世界の一部みたいに信じていた。


弟の病気のことは、頭の片隅に追いやって。


「お姉ちゃん、行ってらっしゃい」


ベッドの上で笑う弟の声を、

何度も「またね」と軽く受け流して。


――その「またね」が、もう二度と来ないなんて、

考えもしなかった。


ある日。


何気なく覗いた彼氏のスマホ。


メッセージアプリで、

彼氏と親友のやりとりを見つけた。


夜遅くの通話履歴。

自分の知らないスタンプ。

自分には送られたことのない、甘ったるい言葉。


頭が真っ白になった。


問い詰めたときの、二人の顔はよく覚えていない。


ただ、「ごめん」「でも」「好きになっちゃったんだ」という、

耳障りな言葉だけがぐるぐると回った。


最低なのは、浮気をした二人だけじゃなかった。


……勝手に絶望したのは、私の方だ。


弟のことも、両親のことも、その瞬間はどこかへ吹き飛んでいた。


「全部どうでもいい」と思ってしまった。


“裏切られた自分”に酔っていた。


自分こそが一番かわいそうだと思い込んでいた。


雨の夜。


視界が滲んで、信号も車のライトもよく見えなかった。


泣きながら、考えもせずに横断歩道へ踏み出した。


タイヤが水を弾く音。

スリップするような急ブレーキ。

誰かの悲鳴。


次に目を開けたときには、もう自分の身体は地面に倒れていて、

白い光の中で、見知らぬ存在が彼女を見下ろしていた。


……あれが、初めて見た死神だった。


彼女は、最初から死神だったわけではない。


ただの、身勝手な人間だった。


自分より弱い弟を残して。


両親に、これ以上必要のない心配と悲しみを与えて。


その事実が、あとからじわじわと胸を締めつけた。


「弟より先に逝くなんて、最低だ」


両親の涙を思い浮かべるだけで、胃が捻れるような感覚がした。


だからこそ、彼女は望んだのだ。

弟を守れる場所に行きたい、と。


「弟の寿命が尽きるその時まで、近くで見ていたい。

 少しでも、何か役に立ちたい」


その願いは、意外なほどあっさりと受け入れられた。


「一定数の魂を回収し、任務を全うすれば――

 いずれ、あなたにも転生の機会が与えられるでしょう」


そう告げた“死神側の誰か”の顔はもう曖昧だ。

ただ、「弟を守る」という目的だけが、当時の彼女を支えていた。


弟の病室の窓の外から、何度も彼の笑顔を見守った。


両親の疲れた背中を、何度も見送った。



「……おーい」


不意に、目の前で手が振られた。


「戻ってこい、先輩。置いてくなよ」


彼女は瞬きをして、今へと意識を引き戻した。


「ぼーっとしてたぞ。珍しいな」


「何でもありません」


「顔は無表情でも、なんか雰囲気が刺々しい。怒ってるだろ、絶対」


青年はじっと彼女を覗き込む。


「なぁ、あんたさ……」


「なんですか」


「人間だった頃のこと、ほんとに何も覚えてないのか?」


一瞬、足が止まりそうになるのを、彼女は意識してこらえた。


「業務には関係ありません」


「そうやって、すぐそれだ」


青年は眉をひそめる。


「人の未練にはあれこれ言うくせに、

自分のことは全部それかよ」


その言葉が、妙に胸に突き刺さった。


(……人の未練には、あれこれ言っている?私が?)


「お前は…」


青年は続ける。


「本当は優しい人だったんじゃないかって、最近思うんだよ。」


「…優しい?」


「だって、魂の形を守り続けてるだろ。

でも、冷たすぎる態度は、どうにかしてくれよ。」


真っ直ぐな目だった。


彼女は、いつも通り短く返すつもりだった。


だが、口をついて出たのは、別の言葉だった。


「……どうして、そんなに簡単に誰かを信じられるんですか」


青年が目を瞬かせる。


「何を?」


「誰かのことを。仕事のことを。自分の選んだ道のことを」


彼女の声は、ほんの少しだけ熱を帯びていた。


「全部裏切られるかもしれないのに。

 いつか急に失うかもしれないのに……

どうして、そんな顔でいられるんですか」


そこで初めて、彼女は気づいた。


自分が、イラついていることに。


青年の、真っ直ぐすぎる感情が腹立たしい。


胸の奥がじくじくと痛む。


ずっと沈めたはずの何かが、じわりと浮かび上がってくる。


青年はしばらく黙って彼女を見つめ、それからぽつりと言った。


「……そりゃ、怖いよ」


「……」


「何か信じても、失うかもしれないし。

 大事な人が、急にいなくなるかもしれないし。

 俺だって、怖い」


軽口のような言い方。


でも、その奥の痛みは隠しきれていない。


「それでもさ」


彼は、正面から彼女を見る。


「何も信じないで生きるより、マシだと思っただけ。

もう死んでるけど」


そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、彼女の胸の内で何かがきしんだ。


「……本当に、あなたは……」


「うん?」


「本当に……腹立たしい新人死神ですね」


思わず、そう言ってしまった自分に、

彼女自身が驚いていた。


怒りを覚える。

悔しさを覚える。


自分の過去を思い出して、胸が締めつけられる。


それらは全部、とうの昔に手放したはずの感情だった。


なのに今、

目の前の青年のせいで、

少しずつ、色を取り戻し始めている。


それが、何よりも腹立たしくて、


そして


少しだけ、怖かった。



それから、数ヶ月。


相変わらず喧嘩は多いものの、順調に仕事をこなしていく二人の姿は、お馴染みになりつつあった。


そして、今日もいつも通り、

彼女と青年は指定された現場へ向かう。


その案件は、特別なものではないはずだった。


灰色のビルの屋上。


夕陽が傾きかけ、風だけが冷たく吹き抜けている。


そこに、一つの魂がうずくまっていた。


「対象確認」


彼女がそう呟いた瞬間、その魂が顔を上げる。


「……アイツノセイダ……」


低く、擦れた声。


「アイツノセイダ、アイツノセイダ、アイツノセイダ……」


同じ言葉を、何度も何度も繰り返している。


青年が眉をひそめる。


「……これ、もしかして……」


彼の記憶にあるのは、死亡直後の魂の姿だ。


初回の接触のとき、その魂はもっと落ち着いていて、

「まぁ、そういう運命だったのかもな」と苦笑いさえ浮かべていた。


回収予定日を伝えたときも、「三日後か、早いな」とぼやきながらも、

それなりに受け入れているように見えた。


――なのに、今は。


「アイツノセイダ……アイツノセイダ……アイツノセイダァ……!」


魂の輪郭が、ぐにゃりと歪む。


人の形が保てない。


怒りと恨みが濃縮され、黒い靄のようなものが混ざり始めていた。


青年が小さく息を呑む。


「……こんなに、変わるのかよ……」


彼女は淡々と言う。


「生前の恨みが、強い魂は、稀に歪みが早まる事があります」


「でも……死亡直後は、わりと平気そうだっただろ」


「死の実感は、時間差で訪れることもあります」


魂は、ひたすら誰かを責め続けていた。


「アイツノセイダ……オレガシンダノハ……アイツノ……!!」


その声には、悲しみも痛みも、もう混ざっていない。


あるのは、ただ相手を呪うような、濁った憎悪だけ。


青年は、一歩前に出ようとして、彼女に腕を掴まれた。


「下がってください」


次の瞬間、歪んだ魂がこちらに向かって飛びかかってきた。


「っ!」


黒い影が、爪のような形になって彼らを裂こうとする。


彼女は咄嗟に回収用の鎖を展開し、魂の一部を絡め取った。


だが、怒りに染まったそれは、ぐずぐずと鎖を腐らせる。


「やば……!」


青年も、補助用の鎖を投げる。


これまで何度も見てきた“普通の魂”とは違う。


言葉も届かない。


説得も意味をなさない。


「完全に、歪んじまってる……!」


「躊躇しないでください。

ここで取り逃せば、もっと危険な存在になります」


彼女は、いつも以上に淡々と告げる。


ふたりは互いの鎖を交差させ、

暴れる魂を徐々に追い詰めていく。


「アイツノセイダアアアアアアア!!」


最後の叫びとともに、魂は大きく膨らみ――


やがて、しゅう、と音を立てて、鎖の中に収まった。


空気だけが、急に静かになる。


青年はしばらくその場に立ち尽くしていた。


「……これが、歪んだ魂の成れの果て…なのか?」


「いえ、その初期段階と言ったところでしょうか」


彼女は続ける。


「もちろん、個人差はあります。

 未練を整理する者もいれば、

 こうして恨みだけを育ててしまう者もいる」


青年は、鎖の先に封じられた光の塊をじっと見つめた。


そこに、もう“誰か”の面影はほとんど残っていない。


「……あの日の俺も、もしかしたら、

 ああなってたかもしれないってことか」


ぽつりとこぼれる言葉。


彼女は横目で彼を見た。


「あなたは、そうなる可能性は低いでしょう」


「なんで言い切れる」


「回収時、他人の幸せを願う余裕がありましたから」


「それ、褒めてるのか?」


「判断材料として述べただけです」


そう言う彼女の声は、いつも通り淡々としているのに、

青年には、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。


「……まぁでも」


青年は、空を見上げて息を吐く。


「化け物には、なりたくねぇな。」


それは、死神という仕事に対する、ささやかな理解の言葉だった。


彼女は何も返さなかったが、

隣を歩く青年との歩幅は、以前より自然に揃っていた。



その数日後。


青年は呼び出しを受けた。


「ひとり立ち試験、ですか」


彼が読み上げた文書の内容に、彼女も目を通す。


「一定数の案件同行を終えたため、

 次の案件をもって単独回収試験とする――」


上役は事務的に説明を続けた。


「担当死神は新人一名。

指導役は同行するが、基本的には見守りに徹すること。

判断・決断は、本人に委ねられる」


青年は、少し緊張したように息を呑んだ。


「……ようやく、俺も“一人前扱い”ってことか」


「試験を通過すれば、の話です」


「分かってるよ」


軽口を叩きながらも、その表情は真剣だった。


上役が、案件表を差し出す。


「次の指定魂はこちらだ」


青年はその紙を受け取り、目を通した。


次の瞬間、顔から一気に血の気が引く。


「……は?」


紙を持つ手が、小刻みに震えた。


彼女も同じ紙を覗き込む。


そこには、見慣れた名前が記されていた。


――青年の妹の名前。


その下に、小さく付け加えられた文字。


「胎内魂 一体」


青年は、凍りついたように動けなくなった。


「……冗談、だろ」


声がかすれる。


「だって……あいつ、結婚して……ようやく、落ち着いて……」


彼女は無表情のまま、書類を読み終えた。


「対象は、妹さんのお腹の中に宿る魂。

 まだ生まれていませんが、回収指定となっています」


「なんでだよ……」


青年が一歩、ふらつくように後ずさる。


「まだ……生まれてもないのに……」


上役は淡々と告げる。


「回収予定日は、二週間後だ。

それまでに状況を把握し、当日、魂を確実に回収せよ。

それが君のひとり立ち試験になる」


あまりにも機械的な声だった。


青年は、ぎゅっと紙を握りしめる。


「……二週間後……」


呟きが、床へと落ちる。


妹夫婦は、とても幸せそうに暮らしていることを、

彼は知っていた。


たまに現世に降りたとき、遠くから見守っていた。


式場で笑っていた妹の顔も、

隣で照れていた夫の顔も、はっきり覚えている。


そして今、お腹を撫でて笑うその姿を、

何度も何度も見てきた。


「……俺が……」


自分のひとり立ち試験。

そのために指定されたのが、

妹のお腹の中にいる、まだ名前もない、小さな魂。


「俺が、その命を……?」


声が震える。


彼女は、そんな彼の横顔をじっと見つめていた。



病院の白い廊下は、いつ来ても落ち着かない。


青年は、診察室の天井近くに身を潜ませるように浮かびながら、

妹夫婦の背中を見下ろしていた。


「……検査の結果ですが」


医師の声は、できるだけ穏やかに抑えられていた。


それがかえって、悪い知らせの前触れのように聞こえる。


妹は緊張した面持ちで、両手を膝の上で握りしめている。


隣で、夫が手を重ねた。


「お腹の赤ちゃんに、少し問題が見つかりましてね」


壁に貼られたエコー写真が、やけに鮮明に見えた。


「このまま成長しても、出生直後から重い障害を持つ可能性があります。

 あるいは、持ちこたえられずに……」


医師は言葉を選びながら説明を続ける。


「……産まれてすぐに、危険な状態になることも考えられます」


妹の顔から、さっと血の気が引いた。


「そんな……」


絞り出すような声。


夫が慌てて肩を抱く。


彼の指先も、小刻みに震えていた。


「選択肢としては、

妊娠の継続か、中断か……ご夫婦でよく話し合ってください」



その夜。


妹の部屋で、嗚咽が響いていた。


ベッドの端に座り込み、両手で顔を覆って泣き崩れる妹。


隣で、夫が背中をさすり続けている。


「……ごめん、ごめんね……」


妹はお腹を抱きしめるようにして、

何度も謝っていた。


「ごめん……お母さんのところに来てくれたのに……

 苦しい思いさせちゃうかもしれない……」


夫は、首を横に振る。


「悪いのは誰でもないよ。君でも、赤ちゃんでもない」


「でも……でも……」


言葉にならない涙が、ぽろぽろと落ちていく。


青年は、すぐそばにいながら、その肩に触れることもできない。


「……くそっ」


誰にも届かない声で呟いた。


「……なんで、こんな」


約束も果たせず、先に旅立ち。


守ると決めた妹の

一番の宝物を奪おうとしているのが自分である事に。


それが、


どうしようもなく苦しくて、

情けなくて、何も出来なくて…。


「ごめんな。ごめん」と泣きながら、ただただ謝っていた。



やがて、妹は泣き疲れたのか、


息を整えながら、ぽつりと呟いた。


「……それでも、産みたい」


夫が目を見開く。


「……いいのか」


「怖いよ。正直、すごく怖い。

 もしかしたら、すぐお別れになるかもしれないって言われて……

 考えたくもない」


そこで一度、言葉を飲み込む。


「でも……来てくれたんだもん。

 この子、ちゃんと“うちの子”として迎えてあげたい」


妹は、涙で赤くなった目で、そっとお腹を撫でた。


「どれくらい一緒にいられるか分からなくても……

 それでも、私たちのところに来てくれたことだけは、

 ちゃんと喜んであげたいの」


夫は唇を噛み、それから静かに頷いた。


「……分かった。俺も、一緒に抱えるよ。

 君がそう決めるなら、俺も一緒に戦う」


二人は寄り添い、お腹にそっと手を重ねる。


青年は、その光景を見下ろしながら、

ある決意を固めていた。



報告室。


案件状況の確認モニターの前で、

彼女は淡々とデータを呼び出していた。


「妹さんの検査結果、確認しました」


「見たのかよ」


青年は、どこか責めるような眼差しを向ける。


「医療情報は、回収対象の状態確認として参照が許されています」


彼女は事務的に答えた。


「胎児は重い疾患の可能性あり。

 出生後、長く生きられない可能性が高い。

 あるいは、出生前に……」


そこまで言って、言葉を切る。

青年は歯を食いしばっていた。


「……だからか。

 だから“回収指定”なんだな」


彼女は静かに頷いた。


「おそらく、そうです。

このまま成長しても、短い時間の中で、

多くの苦しみを味わうかもしれない。

その前に回収することで、負荷を軽減する意図があるのでしょう」


「軽減……?」


青年は、目を見開く。


「それが、“優しさ”だって言いたいのかよ」


「判断基準は、上層のものです」


彼女は淡々と続ける。


「長く生きられないことがほぼ確定している魂に対して、

 今回収するのか、あと少ししてから回収するのか。

 結果だけを見れば、大きな差はありません」


「……は?」


青年の表情から、ゆっくりと血の気が引いていく。


「今回収しても、

 病気で苦しんだあとに回収しても、

 “回収される”という事実は変わらない。

 ならば、余計な苦痛を避けるために――」


「同じなわけあるかよ!!」


報告室に、怒声が響いた。


青年が机を叩きつける。


透明な存在であるはずの彼の手が、書類をはじき飛ばしたような錯覚さえ覚える。


「お前、マジで言ってんのか……!?」


彼女は、ほんの少しだけ目を見開いた。


「今ここにいるのは、妹の“子ども”なんだぞ……!

 あいつは、名前もまだないその命のことを、

 もう“うちの子だ”って言ってんだぞ……!」


青年の声は震えていた。


「一緒に笑いたいって思ってる。

抱っこして、写真撮って、

バカみたいなお祝いだってしてやりたいって……

 既に一緒に生きようとしてるんだよ……!」


彼女は、じっと青年を見つめる。


「それでも、お前は——」


青年は彼女を、真正面から睨みつけた。


「『あとで回収するのと今回収するのは同じ』だなんて、

 そんなふざけたこと、本気で言えるのかよ!」


胸の奥が、鋭く痛んだ。


彼女自身、かつて“時間の差なんて関係ない”と、

自分の死を安易に諦めた人間だったから。


「……苦しみが少ない方が――」


「苦しみが少ないって、“誰の”だよ!」


青年の一言が、彼女の言葉を遮る。


「上の判断か? システムか? それとも、

 見てるのが辛いからって、こっち側の都合か?」


彼女は、答えられなかった。


青年は、深く息を吸い込む。


「俺は嫌だ」


静かな声だった。


「妹が、“産む”って決めたのに、

 その気持ちを無かったことにするみたいな回収、絶対に嫌だ」


拳を握る手が、きしむほど強張る。


「上層部に逆らうと言うこと?」


「現実から目を逸らすつもりはない。

 いつか、どうしても回収しなきゃいけない日が来るかもしれない」


それでも、と彼は続ける。


「その時まで、“一緒に生きようとする三人”の邪魔はしたくない」


妹と、そのお腹の中にいる小さな命。


何もかも不安なはずなのに、それでも前を向こうとしている家族。


「何か方法があるはずだ」


彼は自分に言い聞かせるように呟いた。


彼女は、青年の横顔を見つめる。


「どんなに無茶だって言われても、あの子を助ける道を探す」


彼は、拳を握ったまま、彼女を真っ直ぐに見た。


「……あんたがどう言おうと、俺はそう決めた」


彼女の胸の奥で、また何かが軋んだ。


かつて、自分が投げ出してしまったもの。


守れなかった弟のこと。


残してきた両親の涙。


すべてが、青年の言葉に重なっていく。


「……あなたは、本当に」


彼女は、ぎゅっと唇を結んだ。


「どうしようもなく、死神に向いていませんね」


「知ってるよ」


青年は、悔しそうに笑った。


「でも……それは、重大な規定違反です」


静かな報告室に、彼女の声だけが落ちた。


「知ってるよ」


「意図的に回収を遅らせる。

 あるいは、回収予定の魂を“助けようとする”。

 それらは全て規定違反に該当します」


青年の指が止まる。


「……で?」


「罰則は重いものになります」


彼女は規定文書を呼び出し、淡々と読み上げた。


「回収義務を故意に放棄した死神は、

 転生権限を剥奪される」


青年が、ゆっくりと顔を上げる。


「……転生、権限……?」


「一定数の魂を回収し、任務を全うした死神には、

 再び人として生きる機会が与えられます」


それは、彼が最初に聞かされた“希望”だった。


「ですが、意図的な規定違反を行った場合……

 その権利は失われる」


彼女は淡々と続ける。


「死神は魂を扱う仕事です。

 その裁量が、他者の生と死に直結する以上……

 罰則も、それに見合うだけ重くなります」


青年は、しばらく黙って彼女を見つめていた。


「……つまり」


小さな声で、確認するように呟く。


「もし俺が、“あの子を助けるために”規定に逆らったら。

 俺は、もう二度と人間に戻れないってことか」


「そうなります」


「だからやめろ、と?」


「当然です」


彼女は、青年の目をしっかりと見据える。


「あなたがここに来た理由は、妹さんの近くで見守るためでしょう。

 ならばなおさら、長く現世に留まれるよう、規定に従うべきです」


「……長くいられる“だけ”だろ」


青年が、低く笑った。


「ただ見てるだけで、何もできないくせに」


その言葉に、胸の奥がわずかに疼く。


「何もできないわけではありません」


いつもの調子で返そうとして――


言葉が、そこで詰まった。


(……本当に、そうだっただろうか)


弟の病室の窓。

両親の背中。

震える自分の手。


浮かびかけた光景を、彼女は押し込めるように目を伏せる。


「……あなたが規定違反をしたところで、

 状況が好転する保証はどこにもありません」


「保証なんて、元からどこにもねぇだろ

“赤ん坊は長く生きられないかもしれない”。

 それは医者が出した“可能性”だ。絶対じゃない」


「でも、回収指定が出ている以上――」


「上の判断だろ? それだって“絶対”じゃない」


真っ直ぐな視線。


「俺は信じたいんだよ。

 あいつが必死で守ろうとしてる命が、

 最初から“無かったこと”にされるような世界じゃないってことを」


彼女は、唇を結んだ。


「……転生権限を失っても?」


「失っても、だ」


青年は迷いなく言い切る。


「俺は、守るって決めたんだ」


胸の内で、何かが軋む音がした。


(……馬鹿だ。そんなのは、ただの無茶で、無謀で――)


彼女は、そう言い切ろうとした。


だが、言葉より先に、別の記憶がせり上がってくる。



彼女のひとり立ち試験の日も、

同じように“名前の知っている誰か”の案件だった。


対象魂:実弟。


書類に並んだ、簡潔すぎるその文字列を見たときの、

吐き気がするような感覚を、彼女は今でも覚えている。


(……私のひとり立ち試験も、弟の魂の回収だった)


弟を、守れなかった。


どうすることもできなかった。


彼女は絶望した。


何も感じない方が、楽だ、と。


感情を持てば、揺れる。


揺れれば、判断が鈍る。


判断が鈍れば、誰かを救えない後悔が増える。


だったら――最初から、感じなければいい。


未練も。

怒りも。

悲しみも。


全部、心の海に沈めてしまえばいい。


そうして彼女は、少しずつ自分自身を削っていった。



「……だから、止めているんです」


彼女は、今、目の前の青年に向き直る。


「同じ選択をして欲しくない。あなたには、来世で幸せを得る権利があります」


青年が、目を細めた。


「同じ選択?」


「もっと違う方法で妹さんを守るべきです。」


青年は、ふっと息を吐いた。


「俺は俺のやり方で、あいつらを守りたい」


その瞳には、強い意志が宿っていた。


「規定違反になるギリギリのラインでもいい。

 何か、方法はあるはずだ。

 知られていないだけで、絶対に。」


彼女は、言葉を失った。


(……どうしたら止まってくれるのだろう、

考えれば考えるほど、わかってしまう。

彼は何を言われようと突き進むだろうと。)


絶望的に思う一方で、

胸のどこかで、かすかな羨望が生まれているのを、自覚していた。


彼女が、あの日、手放してしまったもの。


もう二度と戻らないと思っていた“真っ直ぐさ”が、

目の前の青年の中で、強く燃えている。


それが、


ひどく眩しくて――


同時に、ひどく痛かった。



夜の住宅街。


窓から漏れるあたたかな灯り。


妹の家の二階、寝室のカーテンがうっすらと揺れている。


「……ここだな」


青年は、そっと壁をすり抜けて中に入った。


ベッドの上には、眠っている妹がいた。


隣には、同じように眠る夫。


二人の間にある毛布のふくらみが、小さな命の存在を物語っている。


灯りは消えているのに、

妹の顔は泣き腫らした跡で赤くなっていた。


(……また泣いてたのかよ)


胸の奥が、ぎゅっと痛む。


青年は、そっとベッドの足元側に膝をついた。


伸ばした手は、妹の身体をすり抜ける。


触れることはできない。


それでも、その位置だけは何となく分かった。


妹の下腹部。


そこに、かすかな光が丸く集まっている。


まだ、形と呼ぶにはあまりに不確かで、

指先で触れたら消えてしまいそうな、小さな光。


「……ここにいるんだな」


思わず、声が漏れた。


「初めまして。お前の叔父さんだよ」


青年はそっと笑う。


「勝手に死んで、ごめんな」


出来れば、こんな形で出会いたくなかった。


青年は、光に向かって囁く。


「みんな、お前を待ってるぞ。

だから、俺に協力してくれ」


その言葉は、心の中だけで形になる。


青年は目を閉じ、

意識を集中させた。


死神になってから知った事。


人の生には、それぞれ長さの違う糸のようなものがあり、

死神は、その終端を見定めて回収のタイミングを決めているらしい。


寿命そのものを書き換えるのは、

本来、絶対にやってはならないことだ。


でも――


(少しだけでいい。ほんの少しでいいから)


青年は、祈るように意識を伸ばした。


「頑張れ……」


無意識に声が漏れる。


「頑張れ。少しでも…長く」


小さな光の周りに、淡い輝きが広がっていくのが見えた気がした。


温かい何かが、指先を伝って流れ込んでいく。


それは、自分の魂から削り取られていくようでもあり、

逆に自分が満たされていくようでもあった。


(……行け……!)


青年は、額に汗を滲ませながら、

ただひたすらに願い続ける。


その瞬間――


ふっと、光が消えかけた。


「……っ!」


動揺した拍子に、意識の集中が途切れる。


さっきまで感じていた温もりが、一気に冷たさへと変わった。


小さな光は、薄く揺れている。


今にも萎んでしまいそうな、不安定な明滅。


(……だめだ)


青年は急いで手を引いた。


下手に触り続ければ、

こちらのせいで消えてしまいそうだ。


「ごめん」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


妹にか。


お腹の子にか。


それとも、こんな無茶を選んだ自分自身にか。


どちらにせよ、

今の彼には、それ以上触れることはできなかった。


(もっと他に方法があるはずだ。

 寿命の糸だけじゃない、回収のタイミングをずらすやり方とか……

 上層の判例の裏を突けるような抜け道とか……)


焦りと必死さで頭がいっぱいになっているせいか、

青年は自分の周囲の気配に気づくのが遅れた。


妹の家の前の路地。


街灯の下に、人影がいくつか立っている。


「……嘘だろ」


死神用の外套。


同じ徽章をつけた者たちが、ただ静かにこちらを見ていた。


「新人死神」


中央に立つ一人が、淡々と告げる。


「規定違反行為を確認した」


青年の背筋が凍る。


「……見てたのか」


「お前が試験対象案件に感情的に関与する可能性は、

 当初より想定されていた」


別の上官が、冷静に答える。


「今回の案件は特異だ。監視をつけるのは妥当だろう」


「……初めから、俺を疑ってたってことかよ」


「疑っていたのではない。

 “試した”のだ」


試験、という言葉が、やけに空虚に響く。


青年は、奥歯を強く噛みしめた。


「まだ……まだだ」


彼は、じり、と後ずさる。


「まだ、捕まるわけにはいかねぇ」


背を向けて走り出そうとした瞬間、

足元に黒い鎖が絡みついた。


「っ!」


「逃走行為を確認」


「拘束を許可する」


上官たちの声は、ずっと変わらない。


青年は、必死にもがいた。


「放せよ……! まだやれることが……!」


彼の叫びも虚しく、

鎖はさらにきつく締め上げられる。


「……くそっ……!」


悔しさと情けなさと、どうしようもない無力感が混ざり合い、

胸の奥が焼けるように痛んだ。


(結局、何もできなかった……)


妹に触れることもできない。


お腹の子を守ることもできない。


ただ、規定に逆らおうとして、

中途半端に手を出して、何も変えられないまま捕まるだけ。


「……最悪だな、俺」


かすれた笑いが漏れた。


それはもう、自分を笑うためのものですらなかった。



連行された先には、

すでに彼女の姿があった。


無機質な尋問室。


壁際には監視役の死神たち。


中央の席に、裁定官らしき人物が座っている。


その対面に、彼女と青年が並んで立たされていた。


「新人死神による回収対象への直接干渉。

 寿命の改ざんを試みた疑い。

 ならびに逃走行為」


裁定官が、淡々と読み上げる。


「弁明はあるか」


青年は、喉の奥が乾いて、すぐには声が出なかった。


「俺は——」


それでも、口を開きかけたとき。


「すべて、私の指示です」


横から、静かな声が割り込んだ。


彼女だった。


無表情のまま、まっすぐに裁定官を見ている。


「今回の一連の行動は、

 私が新人死神に命じて行わせたものです」


「は……?」


青年は、思わず彼女を見た。


「ちょっと待て、何言って——」


「黙りなさい」


小さく、しかし有無を言わせない調子で遮られる。


彼女は一度だけ、青年の方へ視線を向けた。


その瞳は、いつも通り冷静なようでいて、

どこか決意の色を帯びている。


「新人教育の一環として、

 現場での判断の幅を教える必要があると考えました」


彼女は裁定官に向き直る。


「回収予定の魂に接触し、

 どこまで干渉が許されるかを示すために、

 妹さんの胎内魂への接触を許可しました」


「そんな許可は、誰からも出ていないはずだが」


裁定官が眉をひそめる。


「ええ。上層への事前申請は行っておりません」


彼女は淡々と認める。


「完全に、私の独断です」


「おい、やめろって…」


青年は、鎖を引きずりながら一歩前に出ようとした。


「違う、命じたのは彼女じゃなくて…」


「命令、指示、判断。

 すべて私が行いました」


彼女の声に、重ねていく隙はなかった。


「新人死神は、それに従っただけです」


尋問室の空気が、ひやりと冷える。


裁定官は、しばらく彼女を見つめ、

それから低く息を吐いた。


「……以前にも、規定違反歴があるな」


その一言で、青年の心臓がどくりと跳ねた。


「転生権限の剥奪。

 条件付きでの死神継続を認められた前歴が」


彼女は何も否定しない。


「そうだな?」


「はい」


小さく頷く。


青年は、初めて聞かされる事実に、ただ呆然としていた。


(……前にも、違反してる?

 転生権限を……もう失ってる?)


頭の中で、何かがぐらぐらと揺れ始める。


その先を聞くのが、怖かった。


青年が何か言おうと口を開いたとき、

彼女が一歩だけ前へ出る。


「全て理解しています」


はっきりとした声だった。


「私は…、それでも良いと考えました」


青年は、その横顔を見つめた。


いつもと同じ無表情。


いつもと同じ静かな声。


なのに今は、

その姿がひどく遠く感じられた。


裁定官の言葉が、尋問室の空気を重く沈めていく。


「二度目の重大な規定違反となれば――」


彼女はその続きを、聞かなくても分かっていた。


(……知っている。もう、とっくに)


胸の奥で、冷たい何かがゆっくりと溶け出す。

 

  ◇ ◇ ◇

 

ひとり立ち試験の日。


案件表に記された名前を見た瞬間、

あのときの私も、目の前の彼と同じ顔をしていたのだと思う。


対象魂:実弟。


ベッドの上で、細い身体を起こして笑っていた弟。


「行ってらっしゃい」と手を振ってくれたあの子が、

試験案件として、淡々と文字にされていた。


あの時の私は、普通じゃなかった。


ただ、必死だった。


(私が守るって決めたのに。

 あの子だけは、二度と裏切らないって決めたのに)


両親の涙も、弟の笑顔も、全部頭の中で渦を巻いていた。


「……方法があるはずだ」


そればかり考えていた。


寿命を変えてはいけない。


それが死神の絶対の規定だと、百も承知だったのに。


(それでも――)


私は、生きている人間の寿命に手を伸ばした。


彼氏だった男。


私を裏切り、親友と共に、私から日常を奪った人間。


「……あんたなんかの寿命、一日くらいなくなったって、誰も困らない」


そう思った。


いや、本当は分かっていた。


そんなふうに使っていい命なんて、一つもないって。


だけど、あの時の私は、もう正常な判断ができていなかった。


“あの人の時間を、弟に分けてあげられないか”

それは、許されない発想だった。


本来、寿命の“線”は、どの魂にも触れてはいけない領域だ。


それなのに私は、他人の寿命の線に手をかけ、

その端を弟の魂へと繋げようとした。


「お願い……!」


必死だった。


弟に、生きてほしかった。


両親に、これ以上何も奪われてほしくなかった。


結果は――最悪だった。


弟の寿命は伸びなかった。


代わりに、

どちらの寿命の線も、不自然に軋んでしまった。


弟は、予定通りの時刻に、静かに息を引き取った。


彼氏だった男は、その数日後、別の事故であっけなく死んだ。


寿命の線に手を出したことで、

私の意図しないところで“軌道修正”の揺れが生じたのだと、

あとから説明された。


(何も、救えなかった)


あの日の私は、

失いたくなかったものを、全部失った。


弟も。


両親の笑顔も。


自分が「守る」と決めたはずの誓いも。


そして何より、自分自身への信頼を失った。


「……あなたの行為は、重大な規定違反です」


冷たい声だった。


「本来、この時点で、あなたの魂は消去されていてもおかしくない」


裁定官は、書類をめくる手を止めずに告げた。


「しかし、あなたは一定数の魂を誠実に回収してきた実績がある。

 その点を考慮し――条件付きで、死神としての存続を認める」


その代わり、と付け加えられた言葉は、今でも鮮明に覚えている。


「転生する権利は剥奪される」


あの時、私はただ頷いた。


それが当然の罰だと思った。


弟を守れず、勝手に絶望して死に、

それでもなお誰かの寿命を勝手にいじろうとした自分には、

それくらいが釣り合っているように思えたからだ。


「さらに、二度目の重大な規定違反を行った場合」


裁定官は、重く言葉を落とした。


「あなたの魂は、永続的拘束対象となる。

 冥府の“牢獄”に収監され、

 いかなる転生も、消滅も、許されない」


“無”の中で、ただ存在し続けるだけ。


それが、二度目の違反者に課される罰。


「……分かりました」


その時の私は、静かにそう答えた。


感情は、とっくに限界まで擦り減っていた。


弟も守れなかった私が、

自分の未来まで望む資格なんてない。


それからだ。


怒りも、悲しみも、

少しずつ自分から手を離していったのは。

 

  ◇ ◇ ◇

 

「――二度目の重大な規定違反となれば」


今、裁定官の口から同じ言葉が紡がれていく。


青年の前で告げられる判決は、

彼ではなく、私に向けられていた。


「以前の違反歴により、転生権限はすでに剥奪済み。

 今回をもって、死神としての資格も剥奪する」


淡々とした声音。


「魂は、冥府拘束領域へ移送。

 永続的に収監とする」


青年が、目を見開く。


「……魂を、収監?」


鎖に繋がれたまま、一歩前へ踏み出そうとする。


「ふざけるな!なんでお前になる!」


「すべて、私の指示です」


私は、もう一度はっきりと言った。


「新人死神は、命令に従っただけです。

 処罰されるべきは、私です」


裁定官が「静粛に」と告げる声が聞こえた。


護衛役の死神たちが近づいてくる。


私は、彼らに腕を取られた。


それが、自分の最後の“仕事”であることを、

どこか現実味のない感覚で理解した。


青年の叫びが、尋問室に響く。


「違う、違うだろ! やめろよ!

 俺が勝手に動いたんだ! あんたは関係ない!」


「いいえ」


私は、彼の方へと顔を向けた。


真正面から、その瞳を見る。


「私は、あなたに選ばせました。

 その上で、止めきれなかった。

 それは、指導者としての落ち度です」


「そんな言葉遊び、誰が――!」


彼の声は震えていた。


私は、ふと口元に力を込める。


笑う、という行為がこんなにもぎこちないものだったかと、

自分で自分に驚いてしまう。


――でも、それでも。


今だけは、どうしても、笑っておきたかった。


「……あなたには、生まれ変わってほしいのです」


青年の動きが止まる。


「は……?」


戸惑いと驚きが混ざった顔。


私は静かに言葉を重ねる。


「生まれ変わったら…、次は自分の事をもっと大切にして下さい」


そこまで言って、少しだけ喉が詰まった。


「あなたが救われる未来を、願っています」


自分でも驚くほど、

その言葉には熱がこもっていた。


あの時の自分のために。


守れなかった弟のために。


残してきた両親のために。


そして今、

私の目の前で、

無茶で、無謀で、それでも真っ直ぐであろうとする青年のために。


(あぁ)


ようやく理解した。


どうして、彼のまっすぐさが、

こんなにも胸に痛かったのか。


どうして、彼の言葉に、

何度も心を揺らされてしまったのか。


私は、彼を見ていた。


ずっと前に手放してしまった、自分自身を見るように。


青年の瞳が、大きく揺れる。


「……あんた……」


声にならない声が漏れる。


こんな感情が、

まだ自分の中に残っていたなんて。


(私は、この人が好きなんだ)


心のどこかで、

その事実を静かに受け入れる。


(気づかせてくれて、ありがとう)


それは、彼に向けた、

誰にも届かない感謝の言葉だった。


護衛役の手が、少し強く肩を押す。


私は、一歩、前へ出た。


「やめろよ!」


青年の叫びが、背中に飛んでくる。


振り返りたい気持ちを、どうにか押し殺して、

それでも最後に、ほんの少しだけ首を横に向ける。


視線だけで、彼を見つめる。


「……さようなら」



牢獄は、無だった。


光も、音も、匂いもない。


足場も、壁も、天井もない。


「ここにいる」という感覚だけが、かろうじて自分を繋ぎとめている。


どれくらい時間が経ったのか、まったく分からない。


一秒なのか、一年なのか、一世紀なのか。


そもそも時間という概念が、ここには存在しているのかどうかさえ怪しい。


自分の姿も、もう分からない。


手を動かしているつもりなのに、

指先の感触はどこにも触れない。


目を開けているのか閉じているのかも曖昧で、

ただ、世界からの情報が一切届かない状態が続くだけだ。


(……これが、“罰”)


かつて裁定官が告げた言葉が、やけに鮮明によみがえった。


冥府拘束領域。


いかなる転生も、消滅も許されない、“無”の牢獄。


存在しているのか、もうしていないのかさえ分からない。


それでも、意識だけは、どこかで微かに灯り続けている。


その小さな灯りが、途切れずに残ってしまうせいで――


たった一つ、どうしても消えない感情があった。


(……あの人は

ちゃんと、転生する道を……受け入れてくれただろうか)


きっと彼は、何度だって迷うだろう。


(……どうか、前に進んで)


ここから祈ったところで、届くはずもない。


それでも、彼女は願わずにはいられなかった。



あの人だけは、生まれ変わってほしい。


そう思い続けることで、

辛うじて自分という輪郭を保っていた気がする。


考えることに疲れ、

何度も意識がぼやけ、

自分という存在そのものが、じわじわと溶けていくような感覚の中で――


ある日、彼女は「夢」を見た。


それが本当に夢だったのか、

意識が壊れかけた末の妄想だったのか、

それとも別の何かなのか。


判別する術はない。


ただ、突然、世界に「色」が戻った。


まぶしいほどの青い空。


どこまでも広がる草原。


背の低い草が風に揺れ、さらさらと音を立てる。


足元には、柔らかい土の感触。


頬を撫でる風は、ひんやりとしていて、心地よい。


(……なに、これ)


久しぶりに「眩しい」と思った。


光というものを、こんなにはっきりと感じたのはいつ以来だろう。


風がこんなにも優しくて、

土がこんなにも温かかったことを、

もう忘れていた気がする。


ぼんやりと空を見上げていると、

ふと、視界の端に「誰か」の気配があった。


気がついたら――目の前に神がいた。


神は、彼女を見下ろすでもなく、

ただ静かにそこに立っていた。


男とも女ともつかない、曖昧な輪郭。


その声は不思議だった。


耳で聞くというより、直接心の奥へ落ちてくるような響き。


「お前がここに呼ばれた理由は、一つだ」


彼女は、知らず息を呑んでいた。


神は続ける。


「お前を牢獄から出すことは、本来ならばできない。

 それらは、上官ごときに覆せるものではない」


神の声は、淡々としていた。


「だが、あの青年は諦めなかった」


彼女の胸が、大きく脈打つ。


「あれは、自らの足でここまで来た」


「……ここ、まで……?」


「神域へ至る道は、人の魂にも、死神の魂にも、容易く開かれぬ。

 あれは道を探し、拒まれ、なお進み、ようやくここへ辿り着いた」


どれほどの苦労だったのか。


どれほど無茶をしたのか。


神は静かに告げる。


「そして、あれは言った。

 胎内の魂を救おうとしたのは、自分の意志である、と」


彼女の目が見開かれる。


「……!」


「お前の指示ではない。

 自分が勝手に、規定に逆らい、助けようとしたのだと」


それは、彼女が庇って覆い隠したはずの事実だった。


「さらに、あれは願った」


神の声は、どこまでも穏やかだった。


「自分の魂と引き換えに、

 お前を牢獄から解き放ってほしい、と」


世界が、ぐらりと揺れた気がした。


「……何を……」


喉が引きつる。


声がうまく出ない。


「代償として、あれは自ら牢獄へ入ることを望んだ。

 お前の代わりに」


「やめて……」


思わずそう呟いていた。


「やめて……そんなの……」


彼女の足元の草が、風に揺れる。


その柔らかい音が、かえって現実味を増してしまう。


「なんで……」


胸の奥から、熱いものがこみあげてきた。


「なんで、そこまでして……私を助けるの……」


あの人は、本当に、どうしようもない。


真っ直ぐで。

馬鹿で。

自分のことより、いつも誰かのことばかり考えて。


妹のために死神になって。


生まれてもいない命のために規定を破ろうとして。


今度は、バカ正直に自分の魂まで差し出そうとする。


「……そんなの……」


彼女の声は震えていた。


「そんなの、駄目に決まってる……」


目の奥が熱い。

視界が滲む。


彼女は、いつからこんなふうに泣いていなかっただろう。


「本当に……馬鹿だ……」


唇を噛む。


「なんで、あなたは、そんなふうに……」


声にならない嗚咽がこぼれる。


神は黙って、彼女を見ていた。


彼女は、震える手を握りしめ、

顔を上げた。


「お願いします……!」


気づけば、叫ぶように言っていた。


「どうか、あの人を……あの人の魂を、奪わないでください……!」


神の表情は変わらない。


けれど、彼女はもう止まれなかった。


「彼は……彼は、失ってはいけない魂です……!」


涙で声が途切れそうになる。


それでも、言葉を絞り出す。


「あんなに真っ直ぐで……

 あんなに、人のことばかり考えて……

 自分が傷つくことも、自分の未来を失うことも、

 何も惜しまないで……!」


胸の奥に溜まっていたものが、

一気に溢れ出していた。


「そんな魂が……そんな人が……

 牢獄なんかに閉じ込められていいはずがない!」


草原に、彼女の声が響く。


「彼は、素晴らしい魂です……!」


息が乱れる。

涙が次々と落ちる。


「純粋で、清らかで……っ、

 私は、あんなふうに誰かを思える人を、知りません……!」


彼女は、神に向かって必死に頭を下げた。


「どうか……どうか、お願いします……!」


声が裏返る。


「お願いです……!

 どうか、彼の転生を……彼の未来を……奪わないでください……!」


そこまで言って、彼女はついに言葉を失った。


荒い呼吸。

止まらない涙。

掠れた喉。


草原の上で、彼女はただ肩を震わせるしかなかった。


神は、しばらく何も言わなかった。


ただ、草原を渡る風だけが、彼女の涙の跡をなぞるように吹いていく。


彼女は、顔を上げた。


胸の奥は、まだ焼けるように痛い。


けれど、もう引く気はなかった。


「あの人を……お願いします……」


掠れた声で、もう一度だけ言う。


神は静かに彼女を見つめ、それから、世界の法そのもののような声音で告げた。


「願いを、そのまま叶えることはできない」


彼女の肩が、わずかに震える。


「規定は規定。

 魂の価値がいかに尊くとも、裁定を覆すには、それに見合うだけの証が要る」


証。


その言葉に、彼女は無意識に唇を噛んだ。


神は続ける。


「だが、お前の願いに理がまったくないわけではない」


草原が、一瞬だけ息を潜めたように静まり返る。


「ならば、条件を与えよう」


彼女は、反射的に背筋を伸ばした。


神の目が、真っ直ぐに彼女を射抜く。


「危険度の高い魂を、お前一人で千体回収せよ」


「……千体」


その数字を、彼女はゆっくりと繰り返した。


決して少なくはない。


だが、それ以上に、その言葉に含まれた別の意味の方が重かった。


「危険度の高い魂……とは」


神の答えは、淡々としている。


「悪魔になりかけたもの。

 すでに悪魔と化したもの。

 人の理から外れ、怪物と呼ばれるもの」


彼女の脳裏に、これまで見てきた“歪んだ魂”がよぎる。


恨みに呑まれ、輪郭を崩し、もはや人の形を保てなくなったもの。


だが、神が言っているのは、それよりもさらに深い“闇”だと、本能で理解した。


「そうした魂は、通常の回収対象とはまったく異なる」


神の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「近づくだけで侵食されることもある。

 取り込もうとした鎖を逆に喰われることもある。

 一歩間違えれば、お前自身が魂を奪われる」


彼女は、静かに息を呑んだ。


死神は“終わらせる側”であって、

奪われる側ではない。


その絶対が崩れる領域。


「千体すべてを、お前単独で回収しろ」


神は言った。


「誰の補助もなく。

 誰の判断も仰がず。

 お前自身の意志と技量のみで、成し遂げるのだ」


草原の空気が、少しだけ重くなる。


その条件は、試練というより、

ほとんど不可能を命じているように思えた。


けれど――


「それが果たせた時」


神の声が、世界の輪郭を静かになぞる。


「青年に、転生を許可しよう」


彼女の瞳が、大きく揺れた。


「……本当に」


「ただし、千体を回収できなければ、

 あれの願いも、お前の願いも、ここで終わる」


容赦のない条件。


曖昧さのない宣告。


だが、それでも。


――道がある。


細く、遠く、険しくても。


完全な“無”で閉ざされていたはずの未来に、

たった一本でも道があるのなら。


それだけで十分だった。


彼女は、ゆっくりと拳を握る。


何もできなかったと、自分を責め続けた時間。


その全部が、胸の奥で熱を持ち始める。


「……やります」


自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。


神は何も言わない。


ただ、その続きを待っている。


彼女は真っ直ぐに神を見た。


涙の跡はまだ消えていない。


それでも、その目にはもう迷いはなかった。


胸の奥から、言葉が湧き上がる。


「絶対に成し遂げてみせます」


風が、彼女の髪を大きく揺らした。


「悪魔だろうと、怪物だろうと……

 どれだけ危険でも、どれだけ時間がかかっても」


誓いだった。


「私は、あの人を生まれ変わらせる」


神の前で、彼女はまっすぐに立つ。


ただ規定の中で生きてきた死神が。


今は、自分の意志で、誰かの未来を掴みに行こうとしている。


「――絶対に」


神は、ようやく小さく頷いた。


それが承認なのか、

ただの観測なのかは分からない。


それでも彼女には、それで十分だった。


もう、立ち止まる理由はない。



そして――。


それからの戦いは、ほとんど記憶がない。


悪魔になりかけた魂。

完全に悪魔と化した魂。


人の形を失い、ただ憎悪と飢えだけを抱えて彷徨う怪物たち。


彼女は、それらをただひたすらに回収し続けた。


一体。


また一体。


何度傷つき、何度魂を削られ、何度倒れかけても、立ち上がった。


数えることに意味はなくなっていた。


ただ前へ進むしかなかった。


そして――最後の一体。


それは、これまでのどの魂とも違っていた。


最初に見えたのは、影だった。


いや、影と呼ぶにはあまりにも濃く、重く、禍々しい塊。


空そのものが腐り落ちたような黒。


地を這う瘴気のようなものを何本も垂らしながら、巨大なそれはゆっくりと身を起こした。


あまりに大きくて、輪郭が掴めない。


人の顔のようなものが見えたかと思えば、

次の瞬間には獣の顎になり、

また別の瞬間には、幾つもの腕のようなものが蠢いていた。


「……これが」


最後の、一体。


彼女は構えた。


けれど、本能のどこかで理解していた。


これは、これまで自分が相手にしてきたものとは、まるで違う。


怪物が、こちらを見た。


それだけで、全身の魂がざわつく。


飲み込まれそうな圧。


見つめられているのに、逆にこちらが“観察されている”ような感覚。


次の瞬間、それは吠えた。


音ではない。


無数の悲鳴が、一斉に頭の中へ流れ込んでくるような叫びだった。


彼女は歯を食いしばり、鎖を放つ。


動きは意外と遅いのかもしれない。


鎖は簡単に怪物へと巻きつき、

黒い肉のような表面を抉り、

確かに光を灯した。


――いける。


そう思った瞬間。


怪物の表面が、ずるりと崩れた。


中からまた別の“顔”が現れる。


泣き叫ぶ女。

怒りに歪んだ男。

何かを恨みながら笑う子ども。


「……っ」


彼女はもう一度、鎖を締め直す。


光が走る。


肉が裂ける。

魂の断片が弾ける。


それでも、消えない。


何度回収しても、何度核を穿ったと思っても、

怪物は形を変えてそこにいる。


「どうして……」


声が漏れる。


怪物が腕のようなものを振り上げた。


回避は、間に合わなかった。


衝撃。


身体が吹き飛び、視界が白く焼ける。


地面に叩きつけられた感覚すら、もう曖昧だ。


(まだ……ここまで来て、終わるわけには…)


立ち上がる。


鎖を投げる。

砕かれる。


また立ち上がる。


その繰り返しだった。


あと一体。


あと、一体なのに。


青年の顔が浮かぶ。


(絶対に、成し遂げるって……)


怪物が、大きく口を開いた。


それは口なのか、裂け目なのかも分からない。


ただ、深く、暗く、底のない穴のようなもの。


逃げなければ、と思った。


だが、もう足は動かなかった。


鎖は砕け、

腕も、視界も、感覚も、少しずつ怪物の“中”へ引きずり込まれていく。


(……勝てなかった)


意識が、ゆっくりと薄れていく。


暗闇の中、彼女はただ一つのことだけを思った。


(ごめんね)


誰に向けた言葉かは、もう分かっていた。


(……結局また、守れなかった)


怪物の闇が、彼女を完全に呑み込んだ。



下界では、いつもの日常が始まっていた。


朝になれば、人々は目を覚まし、

仕事に向かい、

誰かが笑い、誰かが泣き、

何も知らないまま、一日を生きていく。


あの怪物は、回収されないまま存在している。


人の目には見えず、

けれど確かに、世界のどこかに禍々しく居座り続けていた。


それでも、世界は回る。


いつも通りの朝。

いつも通りの風。

いつも通りの空。


そして――


小さな産声が、二つ、上がった。


一つは、どこかの病院で。

もう一つも、同じように、別の場所で。


泣き声は強く、澄んでいて、

まるで世界の始まりを告げるようだった。


あの草原で、神は静かに言った。


「あの怪物は、一体ではない」


風が、草を揺らす。


「何個もの魂が、長い年月の中で折り重なり、絡まり、

 一つの巨大な禍となった集合体だ」


だから、彼女が何度回収しても消えなかった。

核が一つではなかったからだ。


「だが、お前はすでに条件を満たしていた」


神の声は、どこまでも静かだった。


「怪物を構成していた魂は、捕食されるその直前までに、回収対象として計上されていた。

 お前は、最後の一体に辿り着く前に、すでに千体を終えていたのだ」


あと一体だと思っていた。


まだ足りないと思っていた。


けれど、本当は、もう届いていた。


「捕食される前に、回収できてよかった」


神は、そう言った。


それが救いなのか、皮肉なのか。


もう、それを確かめる者はいない。


けれど、確かなことが一つだけある。


彼女の願いは、届いていた。


真っ直ぐで、馬鹿で、どうしようもなく人のことばかり考えるあの魂は、

ちゃんと新しい命として、この世界に戻ってきた。


そしてきっと――


彼女もまた、どこかで。


泣き声は、しばらく世界に響いていた。


それは、終わりではなく。


回収でもなく。


失われたものへの弔いでもない。


ただ、まっさらな始まりの音だった。




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