星降る翼
冬の童話祭2026「きらきら」参加作品
〜モンゴル帝国建国820周年に寄せて〜
一、仔馬
むかしむかし、モンゴルの西の辺境に、小さな部族がありました。
その集落には、バートルという名の長老が住んでいました。バートルは若い頃、勇敢な戦士でしたが、今では白い髭を蓄えた穏やかな老人になっていました。彼は部族の人々に尊敬され、困ったことがあれば誰もがバートル長老のもとを訪ねるのでした。
ある冬の夜のこと。
激しい吹雪が草原を襲いました。人々はゲルの中で身を寄せ合い、嵐が過ぎるのを待っていました。
その時、バートル長老のゲルの扉を、小さな手が叩きました。
「長老!バートル様!」
扉を開けると、雪まみれになった少年が立っていました。フフー・ナムジルという、集落の若い夫婦の息子です。まだ七つか八つほどの幼い子でした。
「フフー、どうした。こんな夜に」
「馬が...馬の赤ちゃんが倒れてるんです!お母さん馬は死んじゃって...」
少年は泣きそうな顔で、長老の手を引きました。
バートルは厚い外套を羽織り、フフーと共に吹雪の中へ出ました。草原の外れ、岩陰で、一頭の子馬が震えていました。母馬は既に冷たくなっていました。
「可哀想に...」
バートルが子馬に近づくと、その背に何か異様なものがあることに気づきました。
小さな、白い翼でした。
「これは...」
長老の目が見開かれました。
「長老、この馬、変ですか?」
幼いフフーが不安そうに尋ねました。
「いや、変ではない」バートルは優しく微笑みました。「特別なのだ、フフー。この馬は天が授けた馬だ。テングリ様が、お前に贈ってくださったのだ」
「本当ですか?」
「ああ。だが、そのためにはお前がこの子を守り、育てなければならない。できるか?」
フフーは力強く頷きました。
「はい!僕が絶対に守ります!」
長老は子馬を抱き上げ、フフーと共にゲルへと戻りました。
こうして、フフー・ナムジルと翼のある馬、ジョノン・ハルの物語が始まったのです。
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二、成長
それから十数年の月日が流れました。
あの時の幼い少年は、今や逞しい青年へと成長していました。フフー・ナムジルは帝国の守り手、タンマチの一員として西の辺境を守る兵士になっていました。
そして、ジョノン・ハルも立派な馬へと育っていました。
背の翼は、月明かりを受けると銀色に輝くのです。フフーが乗ると、ジョノン・ハルは喜びのあまり翼を広げ、まるで星屑を散らすように美しく煌めくのでした。
ある日の夕暮れ、フフーはジョノン・ハルを連れてバートル長老のゲルを訪ねました。
「長老、ただいま戻りました」
「おお、フフー。無事で何よりだ」
長老は火の傍に座り、馬乳酒の椀を差し出しました。
「ジョノン・ハルも元気そうだな」
「はい。この子のおかげで、遠い哨戒も楽にこなせます」
フフーは嬉しそうに笑いました。
「そうか...」バートルは目を細めました。「ところで、サランゲレルは元気か?」
フフーの頬が少し赤くなりました。
サランゲレル。隣の部族の美しい娘で、フフーの婚約者でした。
「はい。来月、正式に婚礼を挙げることになりました」
「それは良いことだ」長老は満足そうに頷きました。「サランゲレルは良い娘だ。お前にふさわしい」
「長老のおかげです。幼い頃から、いろいろと教えていただいて」
「いや、お前が立派に育ったのは、お前自身の心がけだ」バートルは火を見つめながら言いました。「ジョノン・ハルを大切にし続けたように、サランゲレルも大切にするのだぞ」
「はい」
フフーは深く頷きました。
外では、ジョノン・ハルが静かにいななきました。まるで、主人の幸せを祝福するかのように。
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三、影
しかし、すべての人がフフーの幸せを喜んでいるわけではありませんでした。
トゥヤという女がいました。
彼女も集落の娘で、フフーと同じ年頃でした。トゥヤは美しく、誇り高い性格でしたが、心の奥底に激しい感情を秘めていました。
トゥヤは、フフーに想いを寄せていたのです。
「どうして...どうしてあの娘なの...」
トゥヤは一人、夜空を見上げて呟きました。
フフーが翼のある馬に乗って、サランゲレルのもとへ飛んでいく姿が見えました。星明かりの中、ジョノン・ハルの翼がきらきらと輝いています。
その美しい光景が、トゥヤの心をさらに苦しめました。
「あの馬さえいなければ...あの馬がいなければ、フフーはそんなに遠くへ行けないのに」
ある日、トゥヤはバートル長老のもとを訪ねました。
「長老、お話があります」
「トゥヤか。どうした?」
「フフーのこと...です」トゥヤは俯きました。
「私、フフーが好きなんです。でも彼はサランゲレルと...」
バートルは静かに頷きました。
「そうか。辛いだろうな」
「どうしたらいいんでしょう...」
「トゥヤ」長老は優しく、しかし厳しい目で彼女を見ました。
「人の心は、無理に向けさせるものではない。フフーはサランゲレルを選んだ。それを尊重しなければならない」
「でも...!」
「辛いだろう。だが、その辛さを誰かを傷つけることで晴らしてはならない。」
トゥヤは息を呑みました。
「私が...何かすると...?」
「私は老いぼれだが、人の心は読める」バートルは静かに言いました。
「お前の目に、危ういものが見える。頼む、トゥヤ。愚かなことはするな」
トゥヤは何も言わず、ゲルを出て行きました。
長老は深いため息をつきました。
「テングリよ...どうか、あの娘を導きたまえ...」
しかし、祈りは届かなかったのです。
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四、失った翼
それから数日後のこと。
フフーは馬の群れを追って、辺境から営地へと戻ってきました。長い任務を終え、疲れていましたが、心は軽やかでした。明日はサランゲレルに会いに行く日だったからです。
「ジョノン、今日はゆっくり休んでくれ。明日また飛ぶからな」
フフーはジョノン・ハルの首を優しく撫で、柵の中で休ませました。ジョノン・ハルは嬉しそうに鼻を鳴らし、翼を小さく震わせました。
フフーが自分のゲルに戻り、装備を片付けていると、外から悲鳴が聞こえました。
「フフー様!大変です!」
近くにいた若い兵士が叫びながら駆け込んできました。
「どうした?」
「ジョノン・ハルが...!」
フフーは装備を放り出して外へ飛び出しました。
柵の前に、人だかりができていました。人々が何かを囲んで、ざわめいています。
「どけ!どいてくれ!」
フフーが人々を押しのけて中に入ると、そこには——
ジョノン・ハルが倒れていました。
その美しい翼は、根元から切り落とされていました。
「ジョノン...!」
フフーは馬のそばに駆け寄りました。ジョノン・ハルは苦しそうに呼吸をしていました。傷口からは血が流れ、白い毛を赤く染めていました。
「誰だ...誰がこんなことを...!」
ジョノン・ハルは、主人の声に応えようとするかのように、かすかにいななきました。その瞳には、まだ光が宿っていました。
「大丈夫だ、ジョノン。お前は大丈夫だ...」
フフーは馬を抱きしめました。
しかし、翼を失った傷は深すぎました。
月が空を渡る頃、ジョノン・ハルは静かに息を引き取りました。
最期まで、主人を見つめて。
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五、響く音色
三日三晩、フフーはジョノン・ハルのそばを離れませんでした。
食事も取らず、水も飲まず、ただ死んだ馬を撫で続けていました。
「フフー...」
バートル長老が、静かにやってきました。
「長老...」
「辛かったな」
長老はフフーの隣に座りました。
「ジョノン・ハルは...僕の家族でした。幼い頃から、ずっと一緒で...」
フフーの声が震えました。
「ああ。お前たちは、共に育ったのだからな」
二人はしばらく、無言で座っていました。
やがて、バートルが口を開きました。
「フフー。お前はジョノン・ハルをどうしたい?」
「え...?」
「このまま、土に還すか?それとも...」
長老は空を見上げました。星が無数に輝いていました。
「ジョノン・ハルの翼は、星のように輝いていた。その美しさを、その優しさを、お前はどう残したい?」
フフーは考えました。
そして、ある夜、夢を見ました。
ジョノン・ハルが現れて、優しく語りかけてきたのです。
『フフー、悲しまないで。私はいつも、あなたのそばにいたいの』
『でも、お前は...』
『私の体を使って、何か作って。そうすれば、いつまでもあなたと一緒にいられるわ』
目が覚めると、フフーの頬には涙が伝っていました。
その涙が、朝日を受けて光りました。
「そうだ...そうすればいい...」
フフーは立ち上がり、バートル長老のもとへ向かいました。
「長老、教えてください。僕は...ジョノン・ハルと、ずっと一緒にいたいんです」
バートルは優しく微笑みました。
「では、作ろう。お前とジョノン・ハルの絆を、形にするのだ」
長老の指導のもと、フフーは手を動かし始めました。
まず、木を削って、ジョノン・ハルの頭の形を彫りました。優しい目、誇らしげな耳、すべてを思い出しながら。
それに長い柄をつけ、根元に箱を作りました。
そして、ジョノン・ハルの皮でそれを覆い、尻尾の毛を張りました。
最後に、松脂を弦に塗りました。
完成した楽器を手に取り、フフーは弦を弾きました。
すると——
ヒィーン
ジョノン・ハルのいななきが聞こえたのです。
フフーは驚いて、もう一度弾きました。
今度は、草原を駆ける馬の足音のような音が響きました。
さらに弾くと、翼が風を切る音、星空を飛ぶ音、そして——
ジョノン・ハルの優しい心が、音色となって溢れ出したのです。
「ジョノン...お前、ここにいるんだな...」
フフーの目から、また涙が零れました。
でも今度は、悲しみだけの涙ではありませんでした。
喜びと、感謝と、愛しさが混ざった涙でした。
バートル長老は満足そうに頷きました。
「これがモリンホール、馬頭琴だ。ジョノン・ハルは、永遠にお前と共にある」
フフーは琴を抱きしめました。
その夜、フフーは月明かりの下で馬頭琴を奏でました。
音色は草原に響き渡り、星々がきらきらと瞬きました。
サランゲレルも、遠くからその音を聞いていました。
トゥヤも、ゲルの中で震えながら聞いていました。
そして、すべての人が思いました。
ああ、なんて美しい音だろう、と。
フフー・ナムジルとジョノン・ハルの絆は、こうして音楽となり、永遠に語り継がれることになったのです。
めでたし、めでたし。
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