図書室の男の子
本に触れてこなかった女の子と図書室登校の男の子のお話です。同じ作品をpixivにも投稿しています。
この学校の図書室はとても大きいらしい。なぜらしい、がつくのかというと私は他の学校の図書室というものを見たことがないから比較のしようがないのだ。正確に言うと、街の図書館にだってほとんど行ったことがない。理由は単純で私が本に興味を持っていないからだ。嫌いと言うわけではないけれど、ただ今まで国語の授業以外で本に触れてこなかった。クラスメイトの中には図書室が大きいということでこの学校を受験した人もいるほどだと聞く。その気持ちは分からないけれど、学力と家からの距離の近さだけで学校を決めた私よりはよっぽど建設的な理由だと思う。
今日は私のクラスの学級委員の男子が休みだった。風邪とかそんな感じの理由だったと思う。私のクラスには、というか他のクラスもそうなのだが学級委員は男女各一名ずついて、私のクラスの女子の学級委員は私である。別にやりたくはなかったのだがなんとなく押し付けられてしまった形だ。普段はともかく今日は一人で学級委員としての仕事をすることになってしまい、正直少し煩わしい。
(そういえば図書室の男の子のところに行かないと……)と私は必要なものを持って教室を出た。
不登校や保健室登校という言葉は時折聞いたことがあるが、図書室登校という言葉は聞いたことがあるだろうか。私のクラスのとある生徒がそれだ。理由は分からないけれど、朝から放課後まで学校にいる時間はずっと図書室で過ごしているらしい。噂によると留年してしまうのではないかと先生たちに危ぶまれているということだ。どうして教室には来ないのにわざわざ朝早くから学校に来て下校のチャイムが鳴るまで図書室にいるのか、不思議がっているクラスメイトは多い。「図書室の男の子」としてクラスでも、時折あまり好ましい意味ではなく話題にのぼる。
図書室の男の子に授業やHRで配られたプリントなどを渡すのは学級委員の務めだ。普段は同じ男の子どうしということで男子の学級委員がそれを行っているが、今日は私がそうする立場なのだ。
図書室のドアを開け、中に入る。放課後の図書室にはちらほらと人がいた。その中でじっと本を読んでいる、男の子にしては髪が長い姿を見つけ名前を呼んだ。図書室の男の子が振り返る。
「あの、いつものプリントとか持って来たよ」と声をかけると、図書室の男の子は少し不思議そうな顔をした。慌てて私は「あ、今日はいつも持ってきてる子が休みだから……」とごにょごにょ説明する。図書室の男の子は「……あぁ」と納得したように呟いた。男性にしては高めの声。髪が長いこともあり中性的な雰囲気があるなぁ……と関係のないことをつい考えてしまった。
「……ありがとうございます」と男の子が言いプリントを入れたクリアファイルを受け取る。そして無言。前に男子の学級委員がこぼしていたが、図書室の男の子はいつもわりとこんな感じらしい。話しかけてもあまり乗ってくれないのだとか。とはいえ、流石にこれだけで帰るのも薄情な気もする。
「……えーと、この図書室広いね」
「……はい」
「……本好きなの?」
「……はい」
「……」
「……」会話が続かない……。
「……あー、もしかして、図書室が大きいからこの学校に入った、とか?」クラスメイトのことを思い出して言ってみる。
「……はい」と、今までよりは柔らかい声で図書室の男の子が言った。
「そうなんだ……」図書室の男の子も、少なくとも私よりはちゃんとした理由で受験をしていたらしい。それにしても、いくらそこまで本や図書室が好きだからといって、なぜ四六時中図書室にいるのだろう。それは流石に聞けないが、代わりに質問する。
「今読んでいる本、何てタイトルの本?」図書室の男の子はタイトルを教えてくれた。私には聞き覚えがない。
「その本、面白い?」
「面白いっていうか……」と男の子は考える素振りを見せたあと、
「……僕は何度も読んでる。でもあなたは……読む必要、ないかもしれない」
「……どうして?」
「だって、あなたは……」幸せそうだから。そう男の子は言った。
そういう言い方をされると、気になってしまうというものだ。私はその日の学校の帰りに近所の本屋に寄り、その本を見つけて買った。小さいサイズ(文庫というらしい)だったので比較的安く買えた。ページ数は多くないが、本を読み慣れていない私は読み終わるのにおそらく時間がかかるだろう。とりあえず最初の方だけ読んでみるとこの本が小説であること、主人公の女子中学生が友人であるもう一人の少女の不思議な言動に振り回されつつ友情を育んでいることなどが分かった。正直、なぜ図書室の男の子が幸せそうに見えるらしい私には読む必要がないと言ったのか全く分からない。逆に言えば図書室の男の子はこの本を読む必要があったということだろうか。
「よく分からない……」と私は独り言を言った。
用もないのに図書室に来たのは初めてかもしれない。厳密にいうと用がなあるのかないのか分からないが、私はまた図書室の男の子のところに来ていた。
「この間の本、本屋さんで買って少し読んだよ」と声をかけると、図書室の男の子は「えぇ……」と微妙な表情で言った。
「どこまで読んだんですか……」とあまり楽しくなさそうに聞いてくる。
「えーと、主人公が不思議ちゃんっぽい友達となんだかんだ仲良くなっていっているところかな」
「そこまだ序盤じゃないですか……」
「私、本あんまり読まないからさ、読むのに時間がかかるんだよね」
「ほら、やっぱりあなたには必要ないじゃないですか」と男の子は突き放す。でも、前に同じことを言った時よりは冷たい口調ではなかった気がする。
「……前にもそれ、言ってたよね。どうしてそう思うの?」
「……幸せな人間は、本を読む必要なんてないからです」またよく分からないことを言われた。
「僕が前に読んだ本に……あ、今あなたが読んでくれている本とは別ですよ、とある本にそうやって書いてあったんです」
「幸せな人間は〜ってことが?」
「はい」
「じゃあ今、あなたは幸せじゃないって自分で思ってるってこと?」言ってしまってからここまで踏みこんで良かったのだろうかと思った。でも図書室の男の子はそのことには触れず、
「……本、ちゃんと全部読んでくださいね」とどこか遠くを見るように言うだけだった。
私は生まれて初めて徹夜をした。受験勉強の時だってそこまでしたことはない。その事自体にもそれが本を読むためだということにも自分で驚きながら。私はどうしてここまでこの件に入れこんでいるのだろうと我ながら不思議だが、その本を最後まで読めたおかげで図書室の男の子が言いたいことがなんとなく分かった。そして、それを元に私は彼が図書室登校である理由について、ある仮説を立てた。
その日の図書室はいつもより静かだった。話がしやすくて助かる。図書室の男の子は私が本を読み終わったことを伝えると「……どうでしたか?」と試すように聞いてきた。
「この本は、児童虐待について書かれた小説だったんだね」と私は言った。男の子は黙っている。
「この本、最初は主人公の女の子が友達と仲良くなっていく過程を描いているんだけど、途中からその友達が親から虐待を受けていることが分かるんだよね。友達の不思議な言動も、人を振り回す癖もある種のその子のSOSみたいな……」私は一度言葉を切って、それからまた続ける。
「私、前からあなたが教室には来ないのに学校自体には朝から放課後までずっといるの、不思議に思ってたんだ……。もしかして、もしかしてだけど……」どうか外れていてほしい、そう願いながら私は言った。
「あなたは帰宅拒否をしているんじゃないの? 家に、帰りたくない……?」あまりにも拙い私の仮説を、だけど男の子は否定してくれなかった。
それから男の子は、おそらくほんの一部なのだろうけど、自分の家庭の話をしてくれた。それはとても酷い話で、話を聞いた私は思わず「それは、いちはやくだよ!」と言ってしまった。
「いちはやく……? あぁ、189のことですね。よくそんなこと知ってましたね」
「それはどうでもいいから、いちはやくが嫌なら先生……っていうかその前に図書室の司書さんはこのこと知ってるの!?」
「……いや……」男の子の表情は、自分の状況を大人たちに話したくはないと語っていた。でも私は彼に大人たちに助けを求めてほしかった。なぜなら。
私が読んだあの本では、最後に主人公の友達、虐待を受けていた女の子は自死してしまったからだ。同じストーリーをなぞりたくはない。
結局その日、私は図書室の男の子を説得することはできなかった。帰り際に男の子は私に聞いた。
「……本、どうでしたか?」それは、彼にとってはとても大事な質問に思えた。だから私は真剣に考えて答えた。
「……面白かったかは分からないけど、何度も繰り返し読みたいと思ったよ。他にもあなたのおすすめの本があったらまた読みたいな。だから……」死なないで。それは言葉にできなかった。
一人の帰り道で、私は思った。私は、多分これからも彼と本の話をする以上のことを彼に対してできないだろう。だけど、せめてこの学校の図書室や、彼の好きな本たちが、これからも彼の居場所の一つになりますように。生まれて初めて、私は誰にともなく、それでもとても強く祈った。