マロン
マロンの部屋のドアを叩くと、か細い声が聞こえた。
「タクトだよ。マロンさん?」
「……はい」
マロンに似つかわしくない元気のない声。
ごそごそとドアから音が漏れて、少しだけ開いた。
「タクト君?」
半分ぐらい顔を出し片目と栗毛の横髪だけが見えた。うっすら目の下にくまができて、起きてすぐだったのか、寝癖が天井に向かってはねているのが分かった。いつもと違うマロンは、妙に淑やかに見えて、食堂では見せない別の顔だった。
「夕ご飯を持ってきたよ」
「……うん。ありがとう」
小さく頷くマロンが儚げに思えて、変わりように慌てた。
「これさ、俺が全部作ったんだよ。このオムレツも作ったし、あとホラクトも使えるようになったんだ」
そのせいで、ちょっとテンション高めに早口でしゃべってしまう。
「え……トロ店長じゃなくて、タクト君が作ったの?」
頷くと、マロンはちょっと待ってと言って、一旦ドアを閉めた。
バタバタと足音が聞こえる。そして再び開くと、寝癖が消えて、しっかりと髪を後ろにまとめたマロンがいた。いつものマロンだったが、それでもどこか疲れた感じがして笑顔はなかった。
俺がトレイを差し出すと、マロンは「あっ」と声を漏らした。
「タクト君、手を火傷しているよ!」
「そうなんだよ。ちょっとフライパンを握ってたら、火傷しちゃった。ハハッ」
「だから、濡れた布を必ず準備しときなさいって……」
フライパンの握り手に巻く布を余熱取りに利用していたせいだった。オムレツを作りまくっていたことで、いつしか握り手の熱を十分にとれなくなっていたのだ。
マロンはトレイを受け取った後、手を引いて部屋にいれた。
初めてマロンの部屋に入った。
客室と同じ広さで、俺の部屋とほとんど変わらない。さっき片付けたのか、タンスの引き出しに服の裾が挟まっているのが見えた。
椅子に座って気づいたが、マロンはいつもの服ではなく厚い生地の白いワンピースを着ていた。たぶん、部屋着なのだろう。
マロンは水桶と綺麗な布をもってくると俺の手を取って、モラクトで冷やしてくれる。
桶の底に水が拡がっていく。
俺は後ろの方からマロンの横顔を盗み見た。
「マロンさん、元気ないね」
「……」
何度か瞬きすると、話しづらそうに顔は向けず横目で俺を見た。
「タクト君は、元の世界に戻りたい?」
「え?」
「もし、戻れるなら戻りたいよね」
予想外の質問だったので、しばらく考えた。
元の世界に戻れたら親にも会いたいし、幼馴染にも友達にも会いたい。魔法は使えなくなるが、べつに異世界で無双したいわけでもないし。
でも……。
「戻らないと思う」
「エッ、ほ……本当に?」
マロンは俺に顔を向けた。
白い肌が輝いて、一瞬眩しく感じた。
「だって、マロンやトロのことを放って、元の世界にもどるなんてできないよ。この世界に来た日から、この宿と二人を守るって決めたんだ」
「そう思ってくれてたんだ……うれしいな」
そして、守りたいという気持ちは二人の優しさや、町の人に愛されている二人を見てどんどん大きくなっていた。
やっとニッコリ笑ってくれて、俺は心底安心した。
思わず涙で視界が滲み、俺はいつものマロンがほんの少しでも傷ついたり、まして失ったりすれば気が狂うんじゃないかと思った。
「私もね、タクトくんがもしここを去って行ってしまったらって思うと……」
ふと、マロンの顔が俺の顔に近づいてきてことに気づく。
俺は身構えた。
こ、これはまさか……。
ファーストキス!?
マロンの大きな瞳に俺の顔が映る。その瞳の先には俺の唇があった。そのままの速度で、ゆっくりとマロンは瞳を閉じた。
ザ……ザザザーーァーー
ハッとマロンの目が開く。桶から大量水が溢れていた。
「あああーッ!」
耳まで真っ赤にしたマロンは、モラクトを止め、タプタプの水桶を持って部屋から出て行ってしまった。
「……」
俺のファーストキス……。
戻ってきたマロンは、耳までだった赤味が顔全体に達して真っ赤になっていた。
「こ……こ、このオムレツはタクトくんが作ったんだよね?」
気まずそうにマロンはトレイの前に座って、場の雰囲気を変えようと必死だ。
「そうだよ。トロ店長にも食べてもらって、美味しいって言ってくれたんだ」
オムレツを一口食べたマロンは、ピンと背筋を伸ばして、目を丸くした。
「ほんとに美味しい……!」
パクパク食べて、あっという間に平らげた。
「なんか、いつものマロンに戻ってよかった」
「えー……なにそれ……食いしん坊ってこと」
「半分そうかな」
「ヒドイ」
頬を膨らませると俺は笑う。
お節介で、笑顔が太陽のように明るい、元気なマロンが戻ってきた。