銭湯
朝、宿屋の隣で銭湯を経営する老夫婦が、宿を訪れた。
「本当に申し訳ないのぅ……」
二人とも、トロに頭を下げる。
ちょうど遅れて起きて来た俺は、偶然その場に居合わせた。
「いえいえ、大丈夫ですよ!」
トロは笑顔で老夫婦にそう答えると、老夫婦は安心した様子で宿を出ていった。
「店長、どうしたんですか?」
「うん。ちょっと隣の銭湯の掃除を任されてね……」
「え……結構広いから時間がかかりますよ」
「そうなんだよね、昼には終わらせないといけないんだけど、お隣さんがぎっくり腰になったみたいでね……」
「それなら、俺やりますよ」
「ほんとに! いやー助かるなぁ」
引き受けてしまってから悩んでいたらしく、トロは大喜びだ。
昼になって銭湯に行くと、いつもいるはずの店主はいない。あらかじめトロから教えてもらった通り、掃除用の石鹸とブラシを持って男湯に入った。
「掃除するとなると、結構広いな」
普段は気づかなかった個室の数や、大風呂の大きさにため息がでる。
すると後ろで、男湯の扉が開いた。
「あの、タクト様。私、手伝います」
マーリーが声を掛けてくれる。
「やった! 助かるよー。じゃあ、女湯の方をお願いしてもいいですか」
「はい」
「あ、あと……その『タクト様』って呼び方はちょっと……俺たち同じぐらいの歳だから、『タクト』でいいよ」
「分かりました。タクト。でも、その……タクトは人間なのに五十代には見えないですね」
まさか……。
「もしかして……失礼だけどマーリーは五十代なの? あのインドル親方と同じってこと?」
「はい。私は生まれて今年でちょうど50年目にあたります」
人は見た目によらない……というか、エルフとドワーフは見た目によらないのか。
「おぉぅ……じゃあ、マーリーのほうがずっと年上なのか。たぶんトロもマロンも知らないと思うけど……敬語を使うべきなのかな……」
部活に入っていた俺は、年上というだけで序列をつい意識してしまう。
「いえ、年齢は関係ありません。仕事を遂行するうえで混乱のもとになりますので。いままで通りでお願いします」
「わ、分かりまし……分かった」
マーリーは扉を閉めると、女湯の方に向かった。
昼のピーク時なので、トロやマロンのほうも大忙しのはず。
早めに終わらせないとな。
俺も急いで仕事に取り掛かる。
となりの女湯の方から、マーリーの小さな風の魔法を唱える声が聞こえる。
「いいなぁ……マジで生活魔法を使いたい」
額から汗が流れて目に入る。片っ端からブラシで風呂垢を取り除き、綺麗にしていった。
「キャーーアアッ!!」
突然マーリーの叫び声が、タイルの壁にぶつかって弾けるように響いた。
「な、なんだ!?」
急いで女湯のほうに移動する。
扉を開けた途端、目の前を覆い尽くす大量の泡。
「どうなってんだこれは……!?」
ゆっくりと泡の中に入る。
俺の背丈ぐらいまで泡が積まれていて、少し先も見えない。慎重に前へ進みながらマーリーの姿を探した。
「マーリー?」
「え!? タクト? こっちに来ちゃ……」
声とともに横から現れたマーリーに体がぶつかる。
「キャアアーッ!」
「うわっ!」
マーリーの体はバランスを崩して、思いっきり俺にかぶさってきた。俺もマーリーを受け止めるが、床が滑りやすくなっていて、マーリーを抱えたまま倒れた。
「あいたた……」
ふと目を開けると、マーリーがなぜか裸のまま俺の上に乗る形になっていた。
「ああっ」
顔を真っ赤にしたマーリーが慌てて、周りの泡を手ですくい、胸に付けて下半身をもう一方の手で隠した。
「な……なんで、裸なんだっ!?」
「だ、だって、宿屋の制服を汚したくなかったから……」
にしても、なんで全裸!?
「か、風の魔法で一気に泡を広げて、それで擦ったほうが早いかなと思いましたが、し、失敗でした……ど、ど、どうしましょう」
マーリーはパニック状態で、俺に乗っかったまま謎の質問をつぶやく。
「いや、そんなことよりも服を……」
とその時、女湯の扉が盛大に開いた。
「大丈夫!?」
悲鳴を聞いて、駆けつけてきたのはマロンだ。
「「へ?」」
一緒に俺とマロンは扉の方に顔をあげた。
「水の精霊よ。魔力と引き換えに……」
マロンが水の魔法を詠唱し始めた瞬間、マーリーは何かを悟り、胸や下半身を腕で隠す。
「大きな水の魔法を発現させたまえ!」
ドオッと扉の方から水流が迸る。
視界が開けると同時に、泡まみれだったマーリーにもメラクトが当たり、泡が流されて真っ白な素肌が露わになった。
すっかり泡が流された女湯の中央で、裸のマーリーと倒れた俺がマロンの瞳に映る。
「ち、ちょっと! 何をしてるの!!」
「あ、いやこれは……」
慌てて俺は顔を横に振るが、マロンは怒って扉を勢いよく閉めた。
「やばい!」
俺は急いでマロンの後を追うと、事情を説明する。
「……魔法のせいでこうなったんだよ!」
「じゃあ、なんでマーリーは素っ裸なのよ」
「そ、それは、大切な制服を汚したくないからって、裸で掃除していたみたいなんだ。それを俺は知らなくて……」
「ほんとにぃ?」
最近、マロンは看板娘の座を奪われてしまったこともあり、マーリーに敵対心が芽生えている。
「まあいいわ。今回は未遂ということで許してあげる。タクトくんには私がいるんだからね……」
「えっ?」
マロンの言葉に思わず問い返してしまう。
マロンは視線を外して小走りで食堂に戻っていってしまった。
すると服を着たマーリーが遅れて俺のところにやってくる。
「マロン様、機嫌が悪かったですね」
「う、うん」
マロンのあの最後の言葉って……そういうことなのか?
俺の頭のなかで、マロンの言葉がリフレインする。
「でもマロン様が止めてくれてよかったです。私、タクトを襲いそうになってましたから」
「う、うん。……えっ!? それってどういうこと?」
マロンの言葉をかき消すような強ワードが、耳から飛び込んで脳内を刺激した。
「あ……。いえ、す、すみません、い、いまのは、聞かなかったことにしてください」
顔を真っ赤にしたマーリーは、銭湯のほうに走っていった。