上達
朝は相変わらず起きるのだけは遅いが、宿屋の仕事は慣れて早くなってきた。
朝食をとったあと、仕入れの品を宿と食堂に分けて運び込む。
以前はいちいちトロに確認しながらだったが、今では完璧に把握している。時間もだいぶん短縮された。
ルームメイクは、相変わらず風の魔法が使えないので地道にほうきを使って掃除。トロだったら一瞬なんだろうな、と思いつつも要領を得て、スムーズにこなせるようになった。
昼のピーク前、三人で食事をとる。
「タクトくん、卵がもう切れちゃった。あとで買って来てくれる?」
「分かりました。三十個ぐらいですか?」
「うーん。店長、宿のほうのお客さん、どれぐらい入ってます?」
「今日は少ないな。最近、入出国の検問が厳しくなって、ピリついているみたいだね」
「じゃあ……そうね、タクトくんの言ったとおり三十個でよさそうね」
昼食のあと、バザールに行くとスイカ投げのおばちゃんから卵を買う。
「あいよ。卵三十個……とおまけで、オレンジ一個」
「いいんですか?」
「もちろん。試食して、美味しかったらいっぱい買ってね!」
「ありがとうございます」
商売上手のおばちゃんからオレンジをおまけしてもらい、宿屋に戻ると、食堂側は客でいっぱいになっている。
トロとマロンの二人でホールと厨房を回しているが、とてもじゃないが人手が足りていない。
卵をマロンに渡して、俺もオーダーを取りに参戦した。
しかしこの目の回るような忙しいときでも、マロンはいつもにこやかに接客する。
「お会計、3ゴールドになりま〜す!」
明るく元気な声がガヤガヤしている食堂に響く。
「今日もオムレツ最高だったよ! あと、マロンちゃんの笑顔もね!」
「ええ〜っ! ありがとうございます! いつも贔屓にしてもらっているので、今日は1割引しときます!」
「おおー! やった! 助かるよ」
お客さんも笑顔になって食堂を後にする。マロンも商売上手だな。
夕方になると、チェックアウトの部屋から汚れものを取り出して、洗濯業者に引き渡す。そして追加された酒場向けの食材を運び込む。
燭台やランプにトロが魔法で火をいれると、昼とはまるで雰囲気が変わる食堂。温かく落ち着いた酒場に変貌する。
客はまばらになり、そのほとんどは常連になる。日常会話をしながら、段々と仕事をしている感覚はなくなり、忙しかった一日はそろそろ終わりだ。
トロとマロンに連絡して、魔法の練習のために裏庭に出る。
ウォーザリが時間通りに裏庭にやってきた。
「さてさて、今日は水の魔法といきましょうか」
「よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。では師匠お願いします」
借りているウォーザリの本を毎晩読んで、知識は蓄えている。特に魔法制御に関することは、ウォーザリの所感が綴られたコラムまで目を通した。
『魔法の制御、それは静と動。凪のような湖面の心。明鏡止水たる動揺なき心の持ちようをまず作る』
深呼吸して、気持ちを整えた。頭の中を真っ白にして、達するは無の境地。
『そこから、動へと切り替える。魔法の放出から成される結果をイメージし、その些末と思えるイメージの末端までも繊細に描いたうえで、魔法を唱えよ』
唱える前のイメージ。水が細く伸びる、その水しぶきまでもを心の中で描く。
「……小さな水の魔法を発現させたまえ!」
相変わらず、ドゴドゴと壊れた蛇口の水が指先から発射される。
「おほーっ! やはりすごい勢いですな! まさにマラクト級の魔法! さすが師匠!」
「うーん。全然うれしくない……」
せっかくなので厩舎で利用されるバケツに水を注いでいく。
何度かやってみたが、まったく変化はなかった。詠唱方法を変更してみたり、イメージを変えてみたりするが打つ手なし。
インドルが火の精霊から炎を取り出して、炉に投げ入れたのはすごかった。あんなふうに高火力の魔法を見事に制御してみたい、が……それはだいぶん先の話になりそうだ。
諦めて大衆浴場に行った後、店じまいをして、ベッドに横になった。
魔法以外の仕事はできるようになった。だけどそれは、誰でもできること。魔法の方は1ミリも上達していない気がする。早く生活魔法を使えるようにならないと。