#2 トイレの花子(?)さん!(後編)
「ここだ」
「うぇええ……全然キレイですねぇ……旧校舎のトイレっていうワードは、もっと薄暗くてところどころカビが生えてて、汲み取り式のものを指すんじゃないんですか?」
私が今見ているものは、LED式の照明をこれでもかと反射している真新しいステンレスパイプが意匠的に配置されたエレガントなトイレだ。
「旧という言葉は、新と比較するためにしか存在しない。どんなに歴史があろうがなかろうが、新校舎が竣工した時点で、旧校舎というものは生まれる」
「……なにが言いたいのかちょっとよくわからないです」
「この旧校舎は、廃校跡に、たかだか二十五年前に建てられたものだ」
壁についたシミを見ながら部長が言う。
「去年、サニタリ関係のリノベーションもしたからねぇー。構造は二十五年物だけど、設備は最新式だよ。ウォシュレットはもちろん、自動洗浄システムもあるし、なんなら暇つぶしのモニタもついてる」
「暇つぶしのモニタ! 用を足しながら何を見るんですか?! まさか、カレーの映像とか?」
必要性がわからないので、ちょっとお道化てみると、部長がほんの少しだけ眉根をひそめてこちらを向いた。
「ミドリ、いくらお前がバカで有名だからといって、よそではそういうことを言わないほうがいいぞ」
「は、はい……」
マジメに回答されると、本当に自分がどうしようもないほどバカな気がしてきた。
「そんなどうでもいいことは考えなくていい。このトイレに何か霊的なものを感じるか? どうだ?」
「うーん……特に何にも……」
そもそも今まで生きてきて感じたことがないのだから、ここで急に花開くわけがない。トイレで感じるとしたら便意ぐらいのものです。と、返答してみたかったが、これ以上バカを晒すのも嫌だったので、言葉を飲み込んだ。
ちょろろ……。
「ん? あ! ちょっと待ってください! 入ってる人いるじゃないですか! あんまりここで騒々しくするのはどうかと思いますよ」
よくよく耳をそばだてればウォシュレットの音がする。気がする。一番奥だ。扉の下を見るとシューズも確認できる。
「入ってる人?」
部長がまた一ミリ程度眉根をひそめる。表情が分かりにくい。無表情にしてるから、皺もよらずこんなに肌がキレイなんだろうか?
「恥ずかしいから、今からは七不思議とか変な会話しないでくださいね……。ほら、一番奥に足見えてるでしょ? がさごそしてる音も聞こえるし」
部長はさらに一ミリ眉毛を近づける。
「スカーレット。どうだ?」
「うーん……私にも……なんのことだか」
スカーレットが困惑した笑顔でこちらを見る。
「え?」
「あなた、見えるの?」
地底から響くような低音がトイレに響いた。
扉ががたがたと揺れ始め、照明がちかちかと点滅する。
「え? ええ!? ええええええ!」
私は素っ頓狂な声を上げた。どういうこと? 見える? 何が? 私?
「霊が姿を現す気になったみたい……ようやく私にも足が見えたよっ! ミドリちゃんっ!」
スカーレットが浮かれた様子で私の手を握る。骨のきしむ音が身体を駆け巡った。
「いだだだだ!」
「あ! ごめんね! つい興奮しちゃって!」
「こうなるからスカーレットを連れてくるのにはリスクがあると言ったんだ。というか……今は私にも見える。よもや……ミドリが……本当に……アタリだったとは……」
部長がぼそぼそとつぶやく。
「え? 部長、今何て言いました?!」
アタリ? なんなの? どういうこと?
「やい! お前はトイレの花子だな! なぜこの学校に巣食う!」
ごまかすためにか、とってつけたようなセリフをトイレの住人に向かって部長が言う。
「私の質問無視かよ!」
「あなたたち……私が怖くないの?」
個室からテノールが応える。部長が眉根を開き、あっけにとられたような表情になった。
「ん? 怖い? お前が……ということか? むしろ何故怖い? 単位を落とす方がよっぽど怖いな私は。必修を二つ落としかけている……。卒業の危機だ」
「は、花子さぁんっ! さ、サイン! サインもらっていいですか? スカーレットさんへって書いて!」
後ろからはスカーレットが目をハートにして乗り出してきた。どこに隠し持っていたのか色紙を抱えている。
「あー! あー! あー! 雰囲気! 二人とも空気読んでください! ここは怖がるところでしょうが! 花子さん! すみません! 二人とも怖すぎて錯乱してるんです! だから気を悪くしないでください!」
なんなんだこの人たちは。私は出来る限りのフォローをした。
「う……嬉しい……嬉しいヨ……」
聞こえてきたのは予想に反するむせび泣きの声だった。
「うれ……しい? ど、どういうこと……?」
「アナタたち……ホントに私が怖くないなら……こっちまで来て。でも、恥ずかしいから一応ドアの前でノックはしてね……」
「いいだろう。しかし、随分野太い声だなお前」
怖いもの知らずなのかバカなのか、上から目線の態度で部長が闊歩する。奥の個室を二度叩く白く細い手首は、美しい軌跡を描いた。態度以外の動作は洗練されて優雅である。
扉が開くと同時に、スカーレットが驚き混じりの声を上げた。
「こ、これは!」
私は見えているものに対する理解が追いつかずリアクションがとれていなかったが、スカーレットの叫びでようやく事態を把握した。
「え?! お、男の人? 声質が変だと思ってたけど、や、やっぱり男の人だったんですか?!」
便座に座っていたのは、恰幅が良く、髭の剃り跡が生々しく青い、しかしながら、ギリギリ結んだおさげに吊りスカート、という、まあ、どう見ても男性だった。
「ご、ごめんなさい! 騙すつもりはなかったの! この通り、何故か身体は男なんだけど、気持ちは女の子なの! パンツもおろしてないから目を背けないで!」
「き、気持ちはわかりましたけど、女子トイレ使わないでくださいよぉ! やっぱりちょっと問題ですよこれ!」
私が出来る限りの抵抗をしていると、スカーレットがマジメな顔をして遮った。
「いや、ミドリちゃん。最近こういうケースは諸外国では認められつつあるのよ……。日本でも最近そういう判決が出たし……でも多くの人々の気持ちはまだ付いていけてない……グレイな状況なのよ……」
花子は目を輝かせる。
「そ、そうなの?! なんて良い時代!」
迷走しそうな話の方向性。快刀乱麻を断ったのはやはり部長だった。
「お前ら。私たちは社会活動をしてる団体じゃない。花子、お前は生物学的に男で七不思議のひとつ。客観的な事象はそれだけだ。面倒な話は以後蒸し返すな」
冷たい断定的な物言いと迫力に、全員が「はい」と頷いた。
「で? お前は何故化けて出る? 理由を聞こう」
花子の背筋が伸びた。
「あ、は、はいっ! わ、私……この場所に昔あった学校のトイレで百年ぐらい前に死んじゃった幽霊なの……。時々戯れに生徒に手を振ってみたりしてたんだけど、五十年ぐらいそればっかりしてると飽きちゃって……しばらく寝てたのね。で、こないだ久しぶりに出てきてみたら、何もかも変わってて……。そう、校舎から違ってたわけ。とりあえず便所を探したわ……で、この場所を見つけたの。とりあえず便座についたら、変なボタンがいっぱいあることに気づいたのね。そういうのって、ほら、ね。押したくなるじゃない。で、一つ推してみたわけ。そしたら……水が……水がお尻に噴射されはじめて……。どうしたらいいのかわからなくなって……逃げてもよかったけど、そしたら、聖なる便所が水浸しになっちゃうじゃない! もう、私がお尻で蓋をしておくしかない! そう思ったの……。で、時々人が来るから、助けてもらおうと思って、手招きしてたの」
「あー……手招きってそういう……ことっすか……」
脱力感が全身に染み渡る。ちょろちょろ聞こえていたウォシュレットの音は幻聴でもなんでもない。ずうっと花子の尻を濡らすためだけに、今も流れ続けているのだ。
「誰か助けて! この水を止めて! 私の思いはいつまでも誰にも通じなかった! みんな怖がって走り去ってしまった!」
花子はゾウが義太夫を歌うような声で嗚咽を漏らしはじめた。
「可哀そう……本当に可哀そう」
スカーレットは言葉とは裏腹に堕天使のようなスマイルを浮かべている。
「これ……私止められますよ?」
「ほ、ほんと?」
涙やら鼻水やらで花子はとにかくテカっている。
「そ・の・か・わ・り……止めたら、サインくれます?」
「お、鬼かこの人!」
部長とは違うタイプの狂気をスカーレットに覚えた。
スカーレットが人差し指一本でできる簡単な作業を終え、無事ウォシュレットは止まった。
「助かりました! あなた方は命の恩人ですぅ!」
「いや、花子さん死んでるから!」
全体的にバカみたいな話だったし、ここにきてお約束のようなツッコミをさせられて嫌になる。
「これに懲りたら、妙にうちの生徒を驚かすんじゃないぞ。居場所がなくなって暇なんだったらうちの部室に顔を出せ。軍人将棋の相手ならミドリがいつでもするから」
「普通の将棋ね! 微妙に外さないでくれます?!」
「うふふ……アナタたちといると楽しそう……。ちょっと校内を散策してから寄らせてもらうわ! ありがとう! じゃあまた」
「あ……消えちゃった」
スカーレットはそう言うが、私には見えていた。
「うーん……私はずっと見えてますね……。理科室のほうにスキップしながら歩いていってます……花柄のパンツがちらちら見えて、風紀上問題あるかと……」
隣で部長が唸りだした。
「むうう……しかし、ミドリ。お前本当に見えるんだな……」
「みたいですね……。私も今の今まで気づきませんでした……。ん? あ! そうそう! さっきも部長似たようなこと言いましたよね? そもそも私に霊感があるって知ってたからこの部に誘ったんでしょ? なんで今更驚いてるんですか?」
私が部長を問い詰めると、スカーレットが鈴を頃がしたような声で笑いだした。
「ミドリちゃんミドリちゃん! 全部部長の嘘だったからよ!」
「う……そ? どういう……ことですか?」
目の前が疑問符だらけになる。
「部長はね、毎年、色のついた名前の子を一人だけ部活にリクルートしてるの。一昨年が私。去年は桃ちゃんって子。桃ちゃんはすぐにやめちゃったけど……」
「つまり……私の霊感とかそんなんじゃなく……名前がミドリだったから……?」
「そうそう! 私はね。ちょーっとだけ霊感あるし、こういう話がめちゃくちゃ好きなの! だから続けてるんだ! ミドリちゃんみたいなホンモノが来てくれてすごく嬉しい!」 きゃぴきゃぴしているスカーレットを尻目に、無表情な部長が言う。
「人と人が磁石のように惹きあうワケないだろう? スタンド使いか? 漫画か? まったく……もう少し大人になって、物事を自分の小さな脳みそで考える癖をつけたほうがいいぞミドリ」
「こ、こいつぅー!」
私の怒りは旧校舎中に響いた。