#2 トイレの花子(?)さん!(前編)
思ったより筆が走っちゃいました……二回に分けます。
「これで……どうかな?」
乾いた打音が部室に響き渡り、空間を飛び回ったあとのエコーが心に沁みる。この一瞬のために生まれてきたのだ。私は。
「うーんと……これは……」
スカーレットは斜め上を見上げて五秒ほど静止した。長いまつげが強調されて美しいし、うらやましい。
「どう動いても三手先には王様がやられちゃうから……詰んでるね」
「そうです! スカーレットさん飲み込み早いですねー。いやあ、良きライバルができて嬉しいです!」
私、森野緑は、同じ部活のブロンド美女、スカーレット先輩と将棋を打っているところ。つまり至福のひと時だ。彼女はルールを全く知らなかったので、私が一から教えた。
毎日放課後に一局ずつ打って、今日で一週間。スカーレットは教えてもいないのに飛車を振ってきた。内心驚いたが、将棋歴十年の意地を見せ居飛車で応えた。まだ、「危ない」という局面があるわけではないが、彼女の伸びは不気味なほどに早い。
もしかするとそのうち……?
とも思うが、私の十年はそんなに軽くないと信じたい。とっかかり上、良きライバルとは言ったものの、そんな簡単に追いつかれては困るのも人情だ。
「そういえば最近、部長見てないですね」
駒を片づけながら聞いてみる。部長のアオイは今日もいない。
「気にしない気にしない。いつものことだよ。部長は結構忙しいからね」
「忙しい? 文系の四回生って理系と違って楽だって聞いてたのに……」
この部活に入ってしまったことで、花の大学生活はじめの一歩は大きくつまづいたが、お洒落で楽しいキラキラしたひと時を、まだ諦めたわけではない。
「そういう意味では忙しくはないかな? あ、でも部長は単位結構落としてるから、そういう意味でも忙しいのかも」
スカーレットは屈託なく笑う。私も笑おうと思ったが、あまり他人事とも思えず、左の口角が引き攣れただけになった。すでにいくつかの授業が意味不明状態、エマージェンシィなのだ。
「部長はね。勉強以外にやることが色々あるの」
「そうなんですか? 謎が深いなぁ……なんだかんだで私まだ部長と二回しか会っていないから、人となりも生活も未知との遭遇状態ですよ……」
そう。初回は、入学初日に拉致されたとき。二回目は構内でたまたますれ違ったとき、だけ。
私も初の大学生活でバタバタしてたし、ゴールデンウイークはあるしで、いつの間にか季節はもう五月になっている。
「そのうちわかるよ! あんな面白い人はそうそういないから、未知との遭遇楽しみにしてて!」
「いやー……平凡な私から見たら、スカーレットさんも十分面白いですよ。でも部長にはちょっと親近感湧いてきたなぁー。単位落としても割と大丈夫なんだなって」
「大丈夫ではない」
開錠の音と同時に響く、抑揚のない部長の声が私を刺した。
「え、あっ! 部長! ……どこから湧いて……いや、どこから聴いてました?」冷や汗が首筋を伝う。
「部長は単位落としても大丈夫なんだな、平凡な私と同レベルで親近感湧いちゃうわっはっはっは。というところだ」
「いやいや! そこまで失礼なことは言ってません! 悪意を持った改ざんしないでください!」
「ところで、花子を調べようと思う」
部長は意に介さずといった様子で私を無視した。手には大きく『七不思議』と書かれた怪しい装丁のノートを持っている。
「は、花子?」
「なんだミドリ。知らないのか?」
「大輔花子か……山田花子だったら、親戚のように知ってますけど……それじゃあないですよね?」
急に花子と言われてもわからない。私の既知である花子のラインナップはこれと、市役所の記入サンプルの中で息づいている『日本花子さん』ぐらいだ。
「スカーレット。ミドリは何を言ってるんだ?」
「お笑い芸人ですよ。ね、ミドリちゃん」
スカーレットが天使のような笑顔で助け船を出してくれた。
「そうですそうです! スカーレットさんわかってくれるんだ! じゃあじゃあ、去年のM1みました? 決勝のネタめっちゃ……」
「お前ら一旦黙れ」
「はい」共感を求めようとした私の心は、部長の鶴の一声を受け、一瞬でしぼんだ。
「花子と言えば、本学……六道大学七不思議の一つ『トイレの花子さん』に決まっている。先日、目撃情報があったため、私は単独調査を決行していたんだ」
「えええええ! 超有名人じゃないですか! 呼んでくれればよかったのにぃぃぃ!」
こちらが驚くほど興奮した様子でスカーレットが叫んだ。私の中にある美しいスカーレット像が少し崩れる。もしや、このお方も部長と同レベルの変人なのでは?
「そういう反応になるだろ? お前がいると調査の邪魔だと判断しただけだ。気にするな」
「うう……そ、そんなぁ……。こんなステキな機会……誰だって興奮しちゃうよねぇ? ミドリちゃん」
スカーレットが、健康な男子大学生なら一呼吸の間にオチそうな瞳で私を見てくる。
「い、いやぁ……私は……それほどでも……ないかなぁ? スカーレットさん……こういう方面に意外とミーハーなんですね……。で、でも……心霊現象なのかどうなのかはさておき、目撃情報というのがどういうものだったのかは気になります」
スカーレットが私の肩に頭を預けたまま口をとんがらせている中、部長が語り始めた。
「三日前、旧校舎四階の女子トイレを使用した女生徒から報告があった。彼女の話を要約するとこうだ。女生徒は、トイレに入るなり嫌な予感がした。どこか肌寒いような、生ぬるいような。よくわからない雰囲気だったそうだ。彼女の直観は『これ以上先に進むと危ない』と告げた。身体をひるがえして出口に向かおうとしたそのとき……」
「きゃあああああああああああああああああああああああああ!」
耳をつんざくような嬌声が、私の頭の横で爆発した。一瞬、気が遠のき、ソファのひじ掛けに倒れこんだらしい。気付いたときには側頭部がじんじんと痛んでいた。手で触るとタンコブになっている。
前を見ると部長が、あの仏頂面の部長が、耳を押さえて渋面を作っていた。
「まだ何も言ってない……!」
「す、すみません……。お約束かと思ってやってみたら、のどがつぶれました……金輪際もうしません……」
スカーレットが咳きこんでいる。身体を張ったボケをするために、怪音波を発したのはこの人らしい。昔読んだ『空想科学読本』に音波を使う怪人(ウルトラマンか何か)が実はめっちゃ強い、みたいな計算が載っていたのを思い出した。今、その心が理解できた。
「部長……私の左耳はイカレましたが、気にせず続けてください……右耳で聞きます……」
「み、ミドリちゃん……私ののどの心配もしてよぉ……」
スカーレットの咳がとまらない。高齢者が嚥下に失敗したときのような悲惨さだ。一体どれだけ声帯に負担をかけたんだ……。
私はかまってちゃん化したスカーレットを無視して、部長に右耳を向ける。
「続けよう」
すでに部長はいつもどおりの能面に戻っていた。
「女生徒は三つある個室の一番奥の扉がゆっくりと開くのを見た。身体は金縛りにあったように動かない。ぎぎぎという扉のきしむ音が響き渡る中、勇気を振り絞って声を出した。『だれか……いるの?』すると、扉の動きが止まった。静寂がトイレを包む。万力で固定されているように扉から視線が外せない。一秒なのか十秒なのか一分なのか。時間間隔が狂う中、永遠とも思える時が過ぎた。ゆっくりと水の音がした。ちょろろろ……。身体からは脂汗がにじむ。何かが起きる。そう思ったとき、木綿のように白い指が、扉の影からゆっくりと現れ、おいでおいでと手招きを……」
「きゃああああああああああああああああああああ!」
さっきの仕返しとばかりに、私は力いっぱい叫んだ。部長を見ると口角が少し上がっている。あの部長が!
「正解だミドリ。叫ぶのはそこでいい。A+だ。声量もちょうどいい。へなちょこな人間が精一杯大声を出した程度で聞きよかった。ダイエット中にもかからわず、毎晩夜食を食べて腹筋がひさんなことになっている弱い女の目一杯というところだな」
褒められているようなけなされているようなコメントを部長からいただいた。しかも、私の現状を百パーセント言い当てられている。そんなに大したことなかったかな……。私は「どうも」と言いながら、自分の腹を指でつついてみた。なるほど、砂漠のチョコレートぐらいには柔らかい。
「ミドリちゃんだけずるいなぁ……」
横でまだスカーレットは咳をしている。
「スカーレットさんのはずるいとかそういう問題の百メートルぐらい手前ですよ! ボルトでも九秒五八かかりますよ! はっはっは」
私は笑いながら、スカーレットにツッコミを入れる。彼女の肩を手で叩くと、誇張じゃなくカアーンという銅鐸を撞いたような音が響き、私の左手の甲はみるみるうちに青くなった。
「痛っ! なんじゃこりゃ!」
「あ、ごめんね! 今トレーニングのハイシーズンだから! いつもより身体が固くなってるの」
スカーレットは照れくさそうに笑っている。私は変色した手と彼女の顔を交互に見ながら、疑問符がそこら辺中にばらまかれていくのを感じた。
「え? なっ! なに? どういう……」
「で、私はそのトイレを調べてきたが、特段変わったところはなかった」
こちらの流れをガン無視して、部長がメインストーリィをぶっこんでくる。
「部長は霊感ゼロですからねぇ」
スカーレットもなんなく主題に合流する。私だけが置いていかれている。聞きたいことは山ほどあるが、この人たちがそれを認めてくれるとは思えない。前回で理解している。じんじんする手とキーンと鳴る耳のことは一旦忘れて、私も急いで話に入る。
「霊感もないのに、よく都市伝説とか調べてますね!」
「だからいいんだ。私が調査して何もなければ、逆説的に霊的な何かが原因だと言えるだろう。数学で言うところの背面飛びだ」
「背理法、ですよ。部長」
スカーレットがにこりとしながら、人差し指を立てる。
「と、いうことは……今回のトイレの案件は、七不思議の一つ、トイレの花子さんが原因の霊的現象……だと?」
少し鼓動が速まった。本当にこんなことが起きて、本当に調べようとしているのか?
「女生徒が嘘をついていなければ……ね」
スカーレットがもっともな意見で釘をさす。
「そこでミドリ。お前の出番というわけだ」
部長が私を見た。私も部長を見た。ちょっと意味がわからない。
「な、なんで? 私? どういう意味ですか?」
「あれ? ミドリちゃん聞いてなかった? 部長がミドリちゃんをこの部に強奪してきたのって、君がものすごーーーく霊感が強いかもしれないから、なんだよ」
スカーレットがたわむれに私の頬を指で突いてくる。警棒を当てられているような硬質な感触だ。そんなもの当てられたことはないが。
「入学初日のことを覚えているか?」
部長が遠い目をした。
「あ……は、はい。名前を聞かれて……お前だ! って言われて……無理やり……」
「惹きあったんだ」
「はぁ?」
なんだ? 百合展開でもはじまるのか? 私はとっさに両手で胸を抱えた。
「持つものと持たないもの……磁石のSとN。反対の性質は惹きあうんだ。ルックスは人並、ファッションは周回遅れ、頭の程度も犬並、霊感ぐらいしか取り柄のないお前。まるで正反対の私」
「……それは暗に、自分は可愛くてセンスもバツグンで頭も良いって言いたいんですか?」
なんだこれは。ただただ侮辱されてるだけじゃないか。百合展開のほうがマシだ。そんなからっ風のふきそうな私の心象風景に一切の気遣いなく、部長は「そうだ」と答えた。
「私もね。二年前、部長におんなじこと言われて入ったんだよ。ちょっと霊感があることも自覚してる。でも、七不思議案件は、噂ばっかりでまったく起こらなかったし、私もなーんにも見えなくて、全然見つけられなくて……」
スカーレットがしょげたようにつぶやく。
「でもね! ミドリちゃんは別格らしいし、なんせ、入学していきなり七不思議案件発生だなんて、スーパーミラクルラッキーガールに違いないよ! 私、めちゃくちゃ期待してるの!」
ころころくるくると表情を変えながら、スカーレットは私の手をとった。これなら、百戦錬磨の歌舞伎町のホストでもおとせるだろう。
「で、でも……わ、私……今まで生きてきて、一回も霊的な経験したことない……と思うんですけど……」
「気づいてないだけかもしれない。あまりに霊感が強い人間は、霊的存在を普通の人間として認識している場合があると東日流外三郡誌に書いてあった」
「超有名な偽書だよそれ!」
部長の本気なのか冗談なのかわからないフォローにツッコミをいれる。彼女の肩口はぷよんとした感触があり、私の手も柔らかく跳ね返されただけだった。中身はともあれ、こっちは普通の人間の肉体だ……少し安心した。
「でもほんと……わかんないですよぉ。ええー……言われてみれば肝試しやったときも、コースの色んな所に人が立ってて、なんて管理された肝試しなんだって思った経験はあるけど……それとかがそうなのかなぁ?」
「それはお前がふらふらしてドンクサイから、野井戸に落ちたり、高価な墓石に傷をつけたりする可能性があって危ない、と主催者が判断して手配した結果じゃないのか?」
「部長はどっちに私を導きたいんですか! 今のは私のモチベーションを上げるために肯定してくれなきゃダメでしょ!」
「まあまあ、とにかく……ふふふ。今日全部わかるよ」
怪しく笑うスカーレットさんの言葉で矛を収め、私たちは連れだって旧校舎に向かうことにした。
(続く)