#1 ミドリ、としけんに堕つ
「あなただ。着いてきなさい」
どうやら私に対して発せられた言葉らしい。
何をやっても平均かそれ以下。こんな私が指名?!
こんなこと今までの人生であった?!
……まあ、あったか。悪い意味でならいくらでも。
「森野さーん。ごみ捨て行ってきて」
「ミドリちゃんが見つけたんだから、この猫、持って帰ってあげないと。ね」
十八年分の大したことのない、どちらかというとネガティブな記憶が、走馬燈のように薄い胸の中を駆け巡った。
その間に、私を指名した黒髪ロングの綺麗なお姉さんは、通天閣一本分ぐらい向こうを歩いていた。
「えっと、あの! お、お姉さん! わ、私どうしたら?!」
慌てて声をかけるが、まだ脚は動こうとしない。よくわからない展開に身体も頭もついていけてない。
「……あの娘。『としけんのアオイ』に捕まったか」
「今年のイケニエってわけか……しょーがない。俺たち将棋部は手を引こう……」
さっきまでインドアクラブとは思えないほどの快活さで私を勧誘してきた将棋部のメンズが、不穏なセリフをはきながら引き潮のように後ずさっていく。
「え? ちょ、ちょっと! なんのことですか?! としけんのアオイって何? 建設コンサルか何か?」
私が一歩寄ると、一歩下がる将棋部たち。二歩進むと、四歩後退。数学に弱い私には何の関数かわからないけど、どこかの国の軍隊のように均整の取れた行動だ。
「何してるの? 早く来なさい」
私と将棋部が集団行動のようなパフォーマンスをしていると、『としけんのアオイ』と呼ばれる女性から催促の声が飛んできた。
なんでこんなことに……。
入学初日。バイト、サークル、恋、恋愛、彼氏、恋人……勉強以外の色んな希望に満ちて、私は大学の門をくぐった。
門を超えたところには、新入生を勧誘しようと待ち構えるサークルの部員がたくさんいた。私がテニス部と将棋部に挟まれてスカウトされている最中、群衆を割って唐突に現れた美女は、開口一番誰何した。
「あなた、名前は?」
あっけにとられながらも私は答えた「森野緑です」。美女は十秒ほど目を伏せ、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。「大丈夫ですか?」心配した私が声をかけると、美女ははたと顔を上げ、冒頭のセリフを放ったのだ。
としけんのアオイはすでに、あべのハルカス一棟分ぐらい先にいる。私の周囲は、いつのまにか、同心円状に人が掃けていて、薙ぎ払い系の技を繰り出した後のような有様だ。あの人はいったい何なの? 学生の間で有名だということはわかった。もちろんさほど良くない意味で。あまり関わらないほうがよさそうだということも一瞬で理解できる。でも、どういうわけか、私はすでに、彼女の『イケニエ』であり深いところで関わっている人間、と周囲に認識されているようだ。
前門の不穏、後門の疎外感。うん。どちらも地獄だ。しかし――私は思う。
人は一人では生きていけない! 大学デビューでいきなりぼっちなんてごめんだ! もうどうにでもなれ!
少なくとも一人は話し相手が得られるであろう『前』に向かって、私は駆け出した。
*
「ここだ」
としけんのアオイはそう言うと、場違いに豪奢な扉の前で止まった。さっきまで歩いていた廊下は、一般的な大学構内をコピペしてきたような簡素な作りだったのに、このドン突き付近だけはロココ調だ。
「ここだ……と言われましても。何がここだ、なんですか? その前にここはどこなんですか? 私今日入学してきたばかりで何にもわかってなくて……」
私の質問を百パーセント無視して、彼女はノブを握る。
「ぴろりんりん」
電子音が鳴った後、モータ音が響く。どうやら開錠されたらしい。
「え? なんですかこれ?! 握ったら開くの?! え? すごい! ちょっと私もやってみていいですか?!」
「取っ手に掌紋認証システムがついている」
私の質問を五十パーセント無視して、彼女は部屋に入った。
「お前も来い」
アオイに促されて部屋に滑り込む。扉が閉まり、またモータ音がした。オートロックらしい。
「え? えええ! な、なんですかこの部屋?! マイケルジャクソンでも住んでるの?!」
大教室並みの広さがある上に、奥にもう一つ部屋があるスイートルーム造り。触るのも恐れ多い感じの調度品でコーディネートされており、開いた口がふさがらない。
「部室」
「ぶ、部室?! 部室って……あの部室?! 物部守屋の『部』に氷室京介の『室』って書く部室?!」
「お前が何をしゃべっているのか一向にわからんが、ここは都市伝説研究部の部室だ」
「いやいや! 広辞苑に記されている部室っていうのは、こう、汚くって臭くって、男子ならグラビアアイドルの、女子ならイケメン俳優のピンナップとかが雑然と貼り付けられている、せまーい部屋のことですよ! こんなビンテージもんがごろごろしてるような空間は部室とは呼べません!」
「お前の俗な広辞苑は買い替えたほうがいいな。それに、ビンテージじゃなくてアンティーク」
「そんな用語どうでもいいですよ! 俗な私の広辞苑には違いが書かれてません! えええ……一体何なのこれ」
私がカルチャーなのかなんなのかわからないショックで打ちのめされているとき、また開錠する音が響き、後ろで扉が開いた。
「あら? 部長、今年の子もう見つけてきたんですか?」
きらめき、天の川のように流れるブロンドヘア。吸い込まれそうな濃い青の瞳。圧倒的な存在感を持つ美女がまたぞろ現れた。
「ああ、私の第六感がこの子だとね」
アオイが自分の頭を指さしながらブロンド美女に答える。
「ええと……ど、どちらさまでしょうか……?」
「あっ、ごめんなさい! 君の頭ごなしに会話しちゃったね。私はスカーレット。スカーレット小原。冗談みたいだけどホントの名前だよ。オハラはちっちゃい原っぱで『小原』だけど」
スカーレットはころころと屈託なく笑う。
「す、スカーレットさん……が、外人さん?」
「半分正解! お父さんはアメリカ人だけど、お母さんが日本人だからハーフなの。へへへ、だから日本語上手でしょ?」
「ど、どおりで! ビビアン・リーも風と共に去っちゃうほどの美しさ……」
「やだやだ! ヨイショしなくていいよ!」
「あの……わ、私はミドリと言います。ちょっとハグしてもらってもいいですか?」
スカーレットの美しさに目が眩み、怪しい世界に入りそうになった私を正常に戻したのは、部長の拍手だった。パンパンと乾いた音が部室を満たす。
「不純同性交友は一向に構わんが、後にしてくれ。せっかくミドリが部室にまで足を運んでくれたんだ。話を進めよう」
「運んだっていうか……着いてこいって言われた……」
私が文句を言い切らないうちにアオイが続ける。
「部長の私、副部長のスカーレット。そして、期待の新入部員ミドリ。ようやく三人に増えた。都市伝説研究部の真の活動がこれからはじまる」
「え……すでに数に組み込まれてる……っていうか、三人しかいないんですか?! しかも私含めて! その前に、なによりなにより、都市伝説研究部ってなに?!」
「今日、ミドリに許された質問は一つだ。緊急動議により、今、そう決まった」
アオイが人差し指を立てる。横でスカーレットが「部長は二票分持ってるらしいよ」と鈴のような声を上げて笑っている。
「なんつー独裁者……ええと……じゃあ一番大事なところ! ずばり! 都市伝説研究部とは?!」
「スカーレット」
アオイがスカーレットを見る。
「はいはい。説明しろってことですね。うちはね、ミドリちゃん」
「は、はい」
スカーレットが優しく笑いかけてきたので、どこか嬉しい。
「この世に存在する不可解な出来事を調査する諜報機関なの」
「ちょ、諜報機関?! 公安とかMI6とかCIAみたいな……?」
私が目を丸くして聞き返すと、スカーレットは少し困ったような表情をした。
「うーん……。まあ、そんな感じかなぁ? もうちょーっとスケールが小さいけど」
「メインは恋人の素行調査や迷い猫の捜索だ」
アオイが横から割り込んできた。
「え? ……それって、流行ってない探偵事務所のテンプレートじゃないですか!」
高まった期待が一気にしぼんだ。
「教授陣の弱みにつけこんだ成績操作も取り扱う」
「恐喝! もう、犯罪の領域ですよ!」
表情一つ変えることなく危ないことを言いのけるアオイ。他の生徒が敬遠している理由がわかった気がする。
「まあまあ……それは表向きの活動だから……としけんの神髄はここじゃないの」
スカーレットが補足する。彼女も倫理観はだいぶん薄いようだ。
「……どっちかっていうと裏っぽさ満載ですけど……」
しゅっと、風を切る音がして、私の顔の前に人差し指が突き付けられた。アオイの茫漠とした目が怖い。
「ミドリ、としけんの真の目的は、この大学に巣くう七不思議を解明することにある」
「な、七不思議? そんなのホントにあるんだ……金田一少年でしか存在してないと思ってた……」
「私は……ミドリ、君が入ってくるのを待っていたんだ」
「え? ど、どういうこと? な、なんでですか?」
「今日、お前に許された質問は一つだけだ」
「ぐぅ……」
人を持ち上げたり、期待を裏切ったり、アオイの話ぶりはめくらでっぽうだ。
「私とスカーレットが、なぜ今まで七不思議に取り組んでいなかったか? それにはもちろん理由がある。やつらと対峙するには支度がいる。その最後のピースがミドリだった……とだけ言っておこう」
「うう……持って回った言い方するなぁ……。で、でも、私……まだ、将棋部にも惹かれてて……ここに入るって決めたわけじゃ……」
「あ! そうそう。入室記録をつけなくてはな」
私の言葉を再び遮って、アオイは洒落た戸棚に向かった。クリップボードを取り出し、そこに何かを書いている。
「ほら、これを書け。私が書いた下に入室時間と名前を。時間は同じだから、名前だけ書くといい」
アオイからクリップボードとペンを渡された。
「あ、は、はい。……そっか。こんな高価そうなものがごろごろしてるところですもんね……セキュリティしっかりしてないとなぁ」
私は『三代 葵』と書かれた行の下に『森野緑』と大きく書いた。部長の名前が『さんだいあおい』ということをようやく知った。
「あ、スカーレットさんも書かなきゃですよね。どうぞ」
入室記録セットをスカーレットに手渡した。スカーレットは「ありがとう」と受け取った後、私のほうをじっと見て、少し口角を上げた。
「ごめんねミドリちゃん」
「え?」
「この入室届……一部だけ裏にカーボン加工されてるの。それで……」
スカーレットがクリップボードに挟まれた入室届を一枚めくる。
「下には都市伝説研究部への入部届が仕込まれてるわけ……もう意味わかったかな?」
「ん? 入部届の名前記入欄に……私の名前が……写って……る?」
背中に冷や汗が流れた。
「学務部には今から私が提出しておくから。君の正式な入部を歓迎する。じゃあまた後で」
アオイは今までにないスピードで猫のようにするりと部屋を出て行った。
「えええええええええ! わ、私の青春は?!」
ショックでわめきだした私を見ながら、スカーレットが屈託なく笑う。
「私も二年前、同じ手口でやられちゃったんだ! 昔取った杵柄だね!」
「いやいや、それなんか意味合い少し違いませんか?!」
「大丈夫だよ。慣れたらこの部活楽しいから! この部屋だって使い放題だよ! ホントは入室記録なんて面倒くさいものないから。ミドリちゃんの掌紋もすぐに登録してあげるからね!」
「で、でもでも! 私の唯一の特技は将棋なんです! 人並ですけど……将棋部で活躍しなきゃ、なんにも良いところないんです! そんな人生辛くないですか?!」
「いいよいいよ! やったことないけど、私が将棋の相手してあげるから! 確か……はさんだら裏返って……ドラが一つ増える……んだっけ?」
「オセロと麻雀混じってるよ! そんな摩訶不思議なテーブルゲーム聞いたことないです!」
「大丈夫大丈夫! すぐ覚えるから! そんなことより、今からパーティしよ! ミドリちゃんの歓迎会! 部長が学務部から帰ってくるまでに準備しちゃって驚かそうよ! ミドリちゃんは主役だから、そこにある一番豪華なお皿使ってね!」
スカーレットに背中を押されて食器棚まで来たとき、私はもう全てを諦め、流れるところまで流れてやろうじゃないかと開き直っていた。
変な人たちに囲まれて、七不思議なんていう、もっとずっとへんてこなものと向き合わなきゃいけない。木枯らしどころかブリザードが吹き荒れている私の青春の有様が見えた気がした。
(続く)