桃香
思えば、誰かを愛したことはなかった。家族も友もいない私は一人きりである。
だからかもしれない、医者から残り時間を告げられた時、そのことをひどく悔いたのだ。すい臓がん、ステージ四、余命一年。その言葉が頭の中でくるくると回っていた。
八十年近く生きてきて、誰かと肌を重ねたことも、唇を合わせたことも、手をつないだことさえもない。異性に対して、私は心も体も開いたことがなかった。
だから、私は重い腰を上げたのだ。幸いお金だけはあった。軋む体で繁華街へと一歩、踏み出す。
小さなビルの下には誘蛾灯がついていた。それに誘われる虫と同じように、私は中へと入っていく。受付の男が説明をしてきたのだが、緊張のため生返事で答える。そうしているうちにいつの間にか、私はエレベーターに乗っていた。扉が開くと若い女の前に立っていた。彼女は何かを話して、私はそれに頷いた。
纏っていた薄い衣服が床へと落ちる。初めて見る女の肢体は私の目を釘付けにする。生きた、瑞々しく、血の通った肉体。反対に私の体は皺とシミで埋められていて、途端に恥ずかしくなる。赤面していた私に女は首を傾げた。
「おじいさん、今日はどうしてここに来たの?」
それに対する答えは口にすることも恥ずかしく、うつむくしかできない。
「ゆっくりでもいいよ」
彼女が微笑んだ。言葉の代わりに、私は彼女に手を伸ばす。甘い香水とわずかに混じる煙草の香りが鼻腔をくすぐる。しかし、己の恥に耐えきれなかった私は腕を下ろすのだった。
彼女は優しかったし、どんな話も聞いてくれた。久しぶりの人との触れ合いは楽しかった。それでも空いた心の穴は埋まらない。そんことを彼女に話すと、また明日もおいでよ、なんてことを言った。
だから、翌日も彼女の元を訪れた。すると、驚き、喜んでくれた。ここに来ることで誰かが隣に来てくれる。金で彼女の時間を買っているだけのことだ。それでも、そのことにひどく安心感を覚えていた。それが私の足を動かした。
「今日はどうするの?」
「今日も、話をしたいんだ」
私は昨日も結局彼女を抱かなかった。隣に座ってもらい、私の人生を聞いてもらっていた。連日通いつめ、少ない経験を総動員し、思い出せる限りを語りつくした。しかし、すぐにレパートリーは尽きてしまい、何も話せなくなった。日に日に弱っていく体に、回らなくなる口が私の死期が近いことを表していた。それでも私は彼女のところに通った。
「どうする、今日こそしていく?」
何も話そうとしない私に、彼女はベッドに寝転んだまま語り掛ける。張りのある女性のフォルムはそれだけで私の欲望を刺激する。しかし、彼女に手を伸ばす勇気を持ちえていない。
本当は今すぐ抱きしめて、本能のままにむさぼりたかった。だけれども、弱った体を、年老いてしまったことを言い訳にする。
いつしか、一回りも二回りも離れた彼女のことを本気で好いていた。そして、それが叶わないことも知っていた。お金の上で成り立っているものなのだ。だからこそ、私はその関係を信じた。
「私はもうすぐ死んでしまう。だから、ここ以外の時間も買わせてくれないか? 来週にはもう来れないだから病院に……」
彼女は笑い、金の入った封筒を受け取ってくれた。それから私の肩へと手を伸ばし、ゆっくりと顔を近づける。目を閉じた。唇からはタバコの香りがした。
あれから時間が過ぎ、私はベッドの上にいた。開けられた窓からは風が吹き込んでいた。
意識が遠のいて行くのが分かっていた。苦しみもなく、悲しみもなかった。彼女は私が入院してから、何度か顔を見せてくれた。今日でさえも、すぐそこで私を黙って見つめていた。泣きもせず、笑いもせず、ただ見ていてくれた。彼女との交流の中で嘘でも優しくしてくれたこと、それが嬉しかった。彼女を知れたことが、私にとっての救いだったのだ。
体につなげられた検査機器がけたたましい音を立てる。それが、私が聞いた最後の音だった。
***
病棟の休憩室の中、二人の看護師がため息をつく。
「四号室の佐藤さん、亡くなったわ」
「最後の方は幻覚も見えていたって、桃香って人の名前を呼んでいたらしいわ。そんな人いなかったし、誰も見舞いに来なかったのわね」
「佐藤さんにとって、大切な人だったんじゃないかしら、きっとね」
男を看取った彼女はそう言いながらタバコを吹かした。