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ユキが見た世界~初めての恋~

作者: 水野貴代花

私はどうしてあの人のことが、こんなに気になるのだろう?ときどき痛むこの胸の痛みは何?

知りたい、まだ経験した事の無いこの気持ちを…

月から見える世界に興味を持った月の妖精がいた。私の名前はユキ。透き通る白い肌に、背中まで伸びた栗色の髪をなびかせて、いつも自室にある魔法の鏡から人間界の少し先の未来をのぞいていた。



「待ってそんなのダメ、ダメだってば~」


「どうしたんだいユキ」



私の声を聞きつけた父が背後から声を掛けた。振り返ると、思わず父の腕を掴んだ。



「父さん、あの人が悲しんでいるの」


「あの人って誰だい?」



父から聞かれて改めて鏡を見直す。膝から崩れ落ち、うつむく男性の頭上には永澤遥人の名前がある。



「え~と永澤遥人(ながさわはると)って名前が見える」



今までも鏡の中で泣いている人や、悲しんでいる人を見て来た。それを見て同じように悲しく思ったことはあったけれど、こんなに気になる人は居なかった。できる事なら自分が何か手助けをしたい感情に突き動かされてく事に私自身戸惑いを覚えた。



「…私あの人を助けに行ってくる」



「ちょっと待ちなさい、ユキ。月の国から見た人間の未来は、月を離れた時点で見えなくなるよ。ユキはそれでも行くのかい?」



「はい父さん。何故だか分からないけど、どうしても永澤遥人を助けたいの」



「それじゃユキ。一つ約束を守ってくれ、人間の未来をお前が変えてはいけない。必ず人間たちに自分の力で変えさせるのだ。いいね」



「はい父さん。行ってきます」



私は月の国から永澤遥人の家をめがけてジャンプした。

私は永澤家のベランダに降り立つと、とりあえず鉢植えに姿を変えた



「永澤遥人さん、あなたを絶対に幸せへと導きます」



私はドキドキしながら夜を過ごした。

一夜が明けると永澤が働く不動産会社に中途採用で入社した。もちろん男性社員に姿を変えて名前は遥野ユキと名乗った。私の教育係は永澤が選ばれ、この日から私たちは営業に行くにも何をするにも行動を共にした。



「いいか遥野、お客様がどんな生活環境を求め、どんな風に過ごしたいか、お客様の気持ちになって家を紹介して差し上げるんだぞ」



永澤の営業は人当りもいいし、リップサービスも長けている。しかし契約けいやくが取れない、そこには永澤の自信の無さが表に出て、仕事への熱意が感じられないからだと感じた。営業から会社に戻る車の中で、永澤がポツリと言う。



「俺この仕事向いてないのかな~。もっと金になる仕事ないかな~」



「永澤さんは、他に何かやりたい事とかあるんですか」



「いや何もない。ただいつか家を建てて、カミさんや娘たちの喜ぶ顔が見たくて、今日まで頑張って来たけどな…」




車の窓を開け、まるで夕日に助けを求めるかのように手を伸ばし、永澤は空を仰いだ。夕日を浴びる永澤は、今にも消えてしまいそうだった。



「永澤さん、今日仕事が終わったら一緒に一杯飲みに行きませんか」



「ああ、そうだな。遥野の歓迎会も兼ねて飲みに連れてってやるよ」




会社に戻って業務報告を素早く済ませ、出かけるはずが会社は何やら盛り上がっていた。



「田中が五千万の家を売って来た。みんな拍手、この調子でみんなも田中に続いてくれ」



永澤と同期入社の田中がお客との契約を取り、上司から労いの言葉を貰っている最中に出くわした。それに気づいた上司が永澤を見て鼻で笑う。



「永澤お前も田中を見習って会社に貢献してくれよ、ただの給料泥棒じゃ困るよ」



この後どんな展開が繰り広げられるか、月の国で永澤の未来を見たので知っている。あの時の未来は永澤が上司を殴っていた。それを未然に防ぐ方法は無いかと考えを巡らせた。



「いてえ‼こら遥野」


「すっ、すみません」



私はとっさにつまづいた振りをして、手に持っていたかばんを上司の顔をめがけて放り投げた。床に転んだ私は上司に平謝りをし、そっと後ろを振り返り永澤に親指を立てて「ニッ」と笑って見せた。



「アイツ…」



永澤もやっと笑ってくれて、ホッと胸を撫で下ろした。



「それじゃ永澤さん、飲みに行きましょう。行きましょう」



永澤の背中を両手で押し、会社を後にした。

永澤におすすめの店を尋ねると、彼が行きつけの赤提灯の店に入った。



「今日もお疲れさまでした。乾杯」



店のカウンターに永澤と並んで座りビールを片手に乾杯した。



「あの永澤さん、永澤さんは奥さんと何処どこで知り合ったんですか?」



「カミさんとは居酒屋だ。カミさんが働く居酒屋に俺が客として行き一目惚れしたのさ」



「へ~ドラマチックですね。そうだ、車の中で娘がって言ってましたけど、娘さんが居られるんですか?」



「ああ、二人の娘が居てね、上は中学生で下は小学生なんだが娘は可愛いぞ~。長女なんて中学になっても一緒に風呂に入ったよ」



これにはさすがに私もおどろきを隠せなかったが、永澤にとって家族が何よりもかけがえのない、大切で守りたいものだと分かった。私は少し改まって切り出した。



「永澤さんこのまま一馬力で頑張られますよね?奥さんを働きに出すなんて無いですよね?」



「遥野いきなりどうした。今の所そんな予定はないけど」




ユキは自分に見えた未来を、永澤の手で変えて欲しかった。 


  

「永澤さん、もし奥さんが働きに出たいと言い出しても絶対に飲み屋では働かせないでくださいね」



私の真剣な表情に、永澤もちょっと戸惑いながら



「何なんだ、遥野。今日は変だぞ。…わかった、わかったよ。飲み屋では働かせないよ」



そう言って私の肩を叩いた。


「絶対ですよ…」



私は心の中でどうかこのまま流れが変わってくれ、そう祈った。次の朝会社に出ると、永澤の姿はなかった。上司の吉田から



「遥野、今日からお前の教育係は田中な。永澤は昨日事故に遭って入院したから」と聞かされた。



「ええ‼永澤さんが…」



突然の知らせに息を呑んだ。



「昨日、永澤さんが上司を殴って会社を辞める未来を私が変えたから?これがその代償なの?」



私は仕事が終わると永澤が入院している病院へ駆けつけた。


 「永澤さん、すみません。俺が昨日、飲みに誘ったからこんなことに…」



永澤は大腿部をギプスにおおわれ、痛々しい姿でベッドに寝ていた。



「お前のせいなんかじゃない。心配するな、実は俺はこうなってホッとしてるんだ。今の仕事を続けて行くことに限界を感じてて、当分は心の療養をかねてゆっくりする事にするよ」



永澤はベッドから手を伸ばし、私の頭をクシャクシャとでた。私は自分がわざと躓き転んで、永澤が上司を殴るはずだった未来を変えた。しかし結局は状況が少し変わっただけで、私が見た未来は今も何一つ変わらず、その日に向かって確実に進んでいた。

 永澤はその後手術を受け、リハビリをし三ヶ月ほど会社を休んだ。そんなある日の仕事の帰り、永澤の家に寄り様子を見に行った。出迎えてくれたのは小学生の娘だった。



「お父さんと同じ会社で働いている遥野といいます。お父さんに会いに来させてもらったのだけど、今お父さんに会えるかな?」


永澤の娘はニコッと笑って


「うん。大丈夫だよ、お父さんお客さんだよ」


と家の中へと招き入れてくれた。

永澤は台所の食卓の椅子に腰かけ、私を見て元気そうに笑った。



「遥野よく来てくれたな。まあ座ってくれ」



「永澤さん元気そうになられて良かったです。これ良かったら皆さんで食べてください」



「遥野すまんな、気を使わせて。ゆいお兄ちゃんがケーキくれたから、皿にのせてお茶を出してくれるか」



「わーい、お兄ちゃんケーキありがとう」



永澤の娘がお茶の準備をしてる間、永澤の向かいの席に座った。部屋を見渡しても奥さんの姿がないことに気づいた。



「永澤さん、奥さんは夕飯の買い物か何かですか?」



「いやカミさんは俺がこんなんだから夜、働きに出る事にしたんだ」



「奥さんは何処で働いてるんですか?」



「カミさんが結婚する前に働いてた居酒屋だ。俺がこんな調子で困ってることをカミさんが前に勤めていた店の元同僚に話したら、ならうちに働きにおいでよって誘われたんだよ。カミさんも知らない所で働くより気心が知れてる所がいいって言うもんだから、ついな…」



永澤はバツが悪そうに言葉を詰まらせた。


「永澤さん…」


私はどうにもならない現実の世界に腹が立った。そして怒りが収まらず、口笛を吹いて時を止めた。私以外みんな石のように動かなくなった。動かなくなった永澤に思いっきり言ってやった。



「永澤遥人‼お前の奥さんは、働いてる居酒屋でお客と恋に落ちる。お前は何で私があれほど奥さんを居酒屋で働かせるなって忠告したのに、何で聞かないの!…私にこの家族を守る事は出来ないのかな…」



気づくと目から一粒の涙がほほを伝った。その瞬間、再び時が流れ出した。お茶とケーキを運んで来た永澤の娘が私の涙に気づいた。



「お兄ちゃん何で泣いてるの?父さんに叱られたの?」


「ううん大丈夫、叱られてないよ」



そう言って永澤の娘の頭を撫でた。永澤の娘が入れてくれたお茶を飲み終わり、ユキが帰ろうとすると永澤が「リハビリだ」と言って外まで見送りに出てくれた。



「それじゃ、永澤さん今度は会社で会いましょう。これで失礼します」



「ああそうだな…。遥野すまなかったな、お前からの忠告を聞いてやれなくて」



「えっ?…いえ、では」



とっさに何も答えられず、その場をあとにした。

永澤の家を後にしたものの、あれはどういう意味だったんだ、と思いをめぐらせる。私が言った事を気には留めていたのか、だとしたらまだ未来は変えられるかも知れないと永澤の言葉に希望を膨らませた。

そして数日後、これから起ころうとしている未来を心配して、こっそり永澤家が見える公園の木に姿を変えて見守る事にした。



「嘘、少し未来が変わってる。これって」



そこで私が見た未来とは少し違った事が起きていた。永澤が妻を毎日、仕事場に送迎していたのだ。自分の知っている未来では永澤は妻の真理の送迎なんてしていなかった。でも今はしている、確実に何かが変わっていた。このまま流れが変わり続けて欲しいと心からそう思った。



「遥人さん、今日の送迎はいいわ。タクシーで行くから」


「タクシー代もったいないし、いいよ。俺が送って行くよ」


「本当に大丈夫だから!」



永澤が妻の送迎を三週間続けた辺りから、だんだんと妻に送迎を断られるようになった。永澤の妻が働き出して一ヶ月経つ頃には、永澤の妻は朝帰りをするようになっていた。そんな妻の様子に永澤は夜も眠れなくなっていった。



「もうこんな時間か。あいつはまだ帰ってないのか…、いったい何処で何をしてるんだ」 



早朝六時、永澤の妻はまだ帰ってなかった。永澤は半分気が狂いそうな張り詰めた気持ちで、寝間着のまま家の外で妻の帰りを待っていた。



 「ちょっと待って旦那だんなが家の前で立って待ってる」



「嘘だろ、ばれたんじゃないか俺たちの事」


「大丈夫、何とかごまかすから。そのまま真っ直ぐ行った所で降ろして」



永澤の妻は大通りからいかにも歩いて帰って来たように振舞ふるまった。永澤は妻に気づくと、隠れてホッと息を吐き、外であることを忘れ勢いよく妻の肩に掴みかかった。


「こんな時間まで何してたんだ」


「ごめんなさい。昨日はお客さんが多くて、片づけが中々終わらなくて」



真理は永澤の勢いに圧倒されつつも、用意していた言葉を申し訳なさそうに伝えた。永澤は妻の浮気を疑いながらも真理が浮気などしてない、あくまでも仕事で遅くなったと言い張ればその言葉を本当であってほしいと信じるしかなった。

 しかし近所に住む永澤の妹は、兄嫁が早朝に他の男の車で帰っている姿を見ていた。



「あれ、義姉さんじゃない?なんでこんな時間に…。やだ、キスしてる」



妹は兄である永澤にすぐに話した。



 「もしもし、兄さん。今朝義姉さんを見たの。知らない男の車に乗って、キスしてたよ。大丈夫なの兄さんたち。義姉さん浮気してるんじゃない?」



永澤は噴き出す怒りと、撃ち抜かれた心の痛みで気がおかしくなりそうだった。妹からの電話を受けて、すぐにでも妻を問いただしたかったが、何も知らない子供たちが居る前では話す事を躊躇ためらわれた。永澤は一秒でも早く聞き出したい中、子供たちが登校するのをじっと待った。いまだばれていないと思っているのか、いつもと同じ顔で子供を送り出す妻が何を考えているのか信じられなかった。その視線に気づいた妻が永澤の方に振り返った。



「真理、ちょっといいか」



「どうしたの、怖い顔して」



笑いながらリビングに戻ろうとする真理の腕を掴み、引き留める。そこで初めて真理は永澤がいつもと違う様子であることに気づき、改めて永澤を見つめた。



「今朝、妹から電話があったよ。お前を見たって」



真理は永澤がやけに落ち着きを払っていることに不気味さを覚え、おもわず息をのんだ。



「今朝は男の車で帰って来て、キスまでしていたそうだな」



 「あ、それは…」



 彼女は咄嗟とっさに言い訳を並べようと口を開くが、永澤の暗く光る目の奥の闇を見て、結局言い訳をする事をやめ正直に話すことにした。



「…他に好きな人ができたの。…ごめんなさい…」



その瞬間「バシッ」と鈍い音とともに真理の頬はゆがみそのまま床に倒れた。永澤の手は感覚が無くなる程の怒りで火照ほてっていた。永澤に顔を叩かれた真理は何か決心がついたのか、床から起き上がり永澤を見る目は冷たいものだった。

その後、夫婦関係の修復の話し合いもまともに出来ないまま、真理は二人の娘を連れて家を出て行き永澤は真理と離婚した。


 私が月の国で見た永澤遥人の未来は変わることはなく変える事ができなかった。

永澤は妻との離婚後、安定剤なしでは眠れなくなり自律神経失調症で大量の薬を飲む生活となった。会社への復帰も出来ないまま永澤は退職した。

私が知っている永澤の未来はここまで、しかし私はこの後、月の国に帰る気にはなれなかった。永澤遥人のその後をどうしても見たかったからだ。

私は今まで自分と関わって来た人たちの記憶から、私の存在を全て消した。そして今度は、草木や鳥や猫へと姿を変えて永澤遥人を近くで見守ることにした。

 月日は流れたが、一目惚れで結婚した妻の事を永澤は今も忘れる事が出来なかった。永澤にとって、人生の中であんなに好きすぎると感じた女性に出会ったのは、別れた妻だけだった。その愛する女性に裏切られた心の痛みは、怒りから悲しみへと変わり、最後は女性に対する不信感で自分自身が傷つく事の恐怖から誰にでも心を簡単に開く事が出来なくなった。


 仕事もあれから転々と変わり、永澤も四十半ばとなった。そんな永澤を友達が心配して未亡人の女性を紹介した。小池香緒こいけかおと言う大柄な女性で、美人ではなかったがよく笑う人だった。主人を病気で亡くし、介護福祉士の仕事をしながら女手一つで二人の息子を育ててきた。その境遇が永澤にとって、どこか心に傷を負った者同士として親近感を覚えた。

 二度目のデートは小池の行きつけのカフェであった。小池は旦那の病気を気づくことが出来なくて自分を責めたこと、父親が一番必要な思春期の息子との関わりの難しさを涙ぐみながら話す小池に永澤はこの人を守ってあげたいという思いに突き動かされた。

永澤は小池香緒と付き合うことを決めた。この様子を近くの木に姿を変えて見ていた私は、永澤の幸せが嬉しいはずなのにチクッと胸の痛みを覚えた。でもこの胸の痛みが何なのか、私はまだ気づかなかった。


 永澤は小池との交際を順調にスタートさせ、小池の息子が社会人となるのを待って再婚することを決め三年の歳月が過ぎた。

小池の息子も社会人となり家を出て県外に就職した。永澤は小池と一緒に二人の息子に会いに行き、お母さんと結婚させて欲しいと承諾を得た。

二人の新居は新築を建てる事にして、二人とも新婚生活にむけて心躍こころおどっていた。

しかし新築の家も完成間近を迎える頃だった。




「一緒には暮らすけど、籍はこのままで小池の姓でいさせて欲しいの…」



「えっ何で…」



永澤は言葉に詰まった。小池は力強い目で永澤を見てゆっくりと話した。



「今、再婚して戸籍が変わると、亡くなった旦那の両親の遺産を息子達に残してやれなくなるから…。それに旦那の両親が亡くなった時に息子に遺産が入ったら、今建ててる家のローンもその遺産で払ってしまえばいいし…」



そう淡々と話す小池に、永澤は何て計算高い女なのだと思ったが、永澤にとって小池は別れた妻と違って自分を裏切って他の男のとこへ行く女ではないという確かな自信があった。今の永澤には自分を裏切らない女でさえあれば大抵たいていのことは許せた。それに家のローンを遺産で払ってもらえるなら、自分にとってもそう悪い話ではないと受け入れた。

こうして新居の表札には永澤の文字の下に小池と刻まれ二人の新居が完成した。

 永澤と小池の二人の生活はドキドキとワクワクが入り交じり毎日が新鮮で楽しかった。しかし永澤はどうしても別れた妻と小池を比べてしまっていた。小池は基本いい人なのだけれど極度のヤキモチ焼きだ。別れた嫁の事を聞かれた永澤はつい小池の前で口を滑らせてしまう。



「嫁の事が俺は好きすぎて…」



「は?今なんて?好きすぎる?私のことはどうなのよ」



「好きすぎるまでじゃないけど好き」



馬鹿正直に全部話す永澤に、すさまじいヤキモチを焼いた小池の怒りは中々収まらず大変だった。

そんな永澤の様子を姿を隠して見守りながら永澤の幸せを願うのとは裏腹に、私の目からは涙があふれた。



「あれ何で私…泣いてるの⁇」



頬を伝う涙を手で拭っても止めることが中々出来なかった。ただもう今は二人の仲のいい姿が見えない所に行きたい、そう思った。

でも永澤と小池の生活を見守るのが苦しくなって来ても、私は月に帰る気にはなれなかった。

 私は永澤の家の近所にあるコンビニで女性店員の遥野ユキとして働き、永澤のそばとどまった。

 時々タバコを買いに来る永澤を見るのがユキは楽しみで嬉しかった。そんなユキが働いているコンビニに永澤は四度目の再就職の場として働き始めた。

 ユキと関わった人間の記憶は、ユキが全部消していた、永澤もユキを見ても不動産会社で一緒だった遥野ユキだとは気づくはずもなかった。



 「永澤さん、今日から私が仕事の手順を教えることになりました遥野ユキです。じゃ早速実践に入りましょうか」



永澤にレジ関係の事や、商品の陳列方法、棚卸しや清掃作業など一つ一つ教えた。そんな様子を見ていた店長が私に声を掛けてきた。



「遥野さん、永澤さんが入って来てよく笑うようになったね。良いこと、良いこと」



そんな風に周りから見られていたことに急に恥ずかしくなって下を向いた。今度はそんな照れたユキを見て、永澤がからかうように彼女の顔を下から覗き込んだ。



「へえ、遥野さん俺が来て笑顔が増えたんだ。何だか嬉しいなあ」



私は真っ赤になってしまった。真っ赤な顔を隠すように永澤に背を向けたその時だった。ユキの視界はゆがみ頬に痛みが走った。

 その痛んだ頬の先をゆっくり振り返ると、そこには小池香緒が鬼の形相ぎょうそうで立っていた。



「ちょっとあんた、人の男に手を出さないでくれる!」



小池の怒り心頭の様子に永澤も慌てて止めに入る。



「香緒、誤解だ‼遥野さんは何も悪くないんだ。俺が遥野さんをからかって困らせただけなんだ」



「何よ、この女をかばうつもり?」



「いいから、ちょっとこっち来い」



永澤は小池の手首を掴み、店の外へ連れ出した。



「香緒、せっかく雇って貰えたんだから、俺の職場でもめ事を起こさないでくれ」



「何よ。あの女が悪いんじゃない、遥人もあの女をかばうからもっといや



店の外では時々、小池が私をにらみつけながら永澤としばらく揉めていた。

私は突然のことで何が何だかわからないまま叩かれた頬の痛みで涙があふれた。店長がユキに


「顔を氷で冷やしておいで」


と声を掛けてくれた。休憩室きゅうけいしつ椅子いすに座り、氷で頬を冷やしながら泣いた。私を見る小池の目が、今思い出しても怖かった。永澤は小池を内縁ないえんの妻として一緒に暮らして、本当に幸せなのだろうか。私の目には永澤が幸せそうには見えず、それが余計に辛かった。


 

「遥野さんごめん‼俺の奥さんが遥野さんにひどいことをして本当にごめん」



私の所へ永澤が走って謝りに来た。



「ちょっとビックリしたけど大丈夫です…。永澤さん、永澤さんは…いえ何でもないです。仕事に戻ってください、私もすぐ行きますから」



「わかった本当にすまなかった」



永澤に幸せなのか聞こうとしてやめた。永澤が俺の奥さんと言った、俺のという言葉が、心を貫き痛かったからだ。

 私は氷で頬を冷やす振りをして、涙を流した。しばらくして落ち着きを取り戻し、店の中に顔を出した。皆が心配そうに私の顔を見る。その重い空気を変えようと笑顔を見せ、極めて明るく振舞った。



「店長、私外のゴミを片付けて来ますね」



「ああ、わかった。宜しく」



店の外に出てゴミ箱に新しいごみ袋をセットしながら、何か視線を感じた。その視線の先を見ると、店のかどにはまだ小池が立って居た。小池は私と目が合うと自分の所に来いと手招きした。

 今度は何だろう、嫌だなとおもむろたたかれたほほを押さえた。小池の所に行くと、彼女は腕を組んだ状態で口を開いた。



「さっきは悪かったわ…。でも、彼が寝言で遥野って言ったから朝起きて職場に遥野って人居るのって聞いたら居るよって言うの。それで見に来たら私より若い女じゃない。その上二人で楽しそうに話しているから、ついカッとなって」



「それで、誤解は解けましたか?」



「いいえ、誤解ではなく確信に変わったわ。いい、よく聞いて。彼があんたを好きになったとしても、彼は私から離れられない。」



小池は鋭く私を睨むと、勝ちほこったようになおも言い放った。



「彼との今の新居は私が前の旦那の遺産で払う予定なの。彼は私に頭が上がらないし、家から追い出されないように必死で私にしがみついて来るわ。きっと、いや絶対よ、だってっ、あの人自律神経失調症なのよ、あの人には私しかいないの!」



小池の感情の高ぶりがそのまま声に現れ、あまりの必死さに戸惑いを隠せなかった。そんな私を見て小池はハッとした表情で少しだけ平静を取り戻し、浅く息を吐いた。そして先ほどとは打って変わり、表情を無くし地面に視線を投げて言葉を続けた。



「…彼はいつ又働けなくなるかわからない、だから彼は私がたよりで、私から離れる事が出来ないの」



私へ向けられているはずの言葉が、まるで小池自身に言い聞かせているようだった。ユキが小池の顔を見ようとすると、丁度ちょうど顔を上げた彼女と目が合う。その目は再び鋭く光っていた。



「だから、あなたもこの事をしっかり覚えておいてちょうだい」



そう言うと小池は帰って行った。小池は私に謝りたかったのではなく、釘を刺しておきたかっただけだった。私はため息をつきながらゴミの片づけに戻った。



「大きなため息」



そう言って店の裏手から永澤が声をかけてきた。


「えっ…」



驚いた。永澤はいつから居たのだろう。まさかさっきの会話を聞かれたのだろうか。私は恐る恐る永澤に聞いてみた。



「永澤さん、いつからそこに」



「ああ、俺はタバコを吸いに今来たとこだけど…どうかした?」



「ああ、そうなんですね。突然背後から声を掛けられたからビックリして…。それじゃ私、仕事に戻りますね」



話を聞かれてなかった事にホッとした。永澤にはこれ以上傷ついて欲しくなかった。

この日以来コンビニの仕事も店長が配慮して、永澤と私が同じ時間帯勤務にならないようにシフトを入れ替えた。小池も永澤から勤務表を見せてもらい安心したのか、あれから店に乗り込んで来ることはなかった。 

 そんなある日、同じコンビニで働くアルバイトの大学生に声を掛けられる。



「今度の土曜、夜シフトを代わって貰えませんか?」



「私は構わないけど、その日は永澤さんがシフトに入ってるから店長に相談してからだね」



そう言うと大学生の子が直接店長に相談しに行き、店長も


「まあ大丈夫だろ」


とあっさり変更となった。

 永澤と同じシフトになった当日、勤務交代の先輩たち皆がニヤニヤして頑張れよ‼と私の肩を叩いて行った。その皆のニヤニヤした顔の意味をその夜知ることになった。

 夜のコンビニは深夜になると客もほとんどいなく、休憩室から店内を見る事が多い。その休憩室で永澤が話しかけた。



「遥野さんは好きな人とかいないの?」



「えっ」



とっさの質問に驚いた。



「私、恋愛経験なくて人を好きになるって感情がよくわからないんです…」



月の妖精には未経験の感情だった。しかしそんなユキの言葉をからかうわけでもなく真剣に聞いていた永澤は言った。



「人を好きになるって、気が付いたらいつもその人の事を考えたり、気づいたらその人を目で追っていたり、会いたくなったり、声が聴きたくなるものだと俺は思う」



 永澤が教えてくれた誰かを好きだと思う気持ちを、私はすでに感じていた。それは今まで永澤に対して感じていた気持ちと全く同じであったからだ。

 ドクンドクンと音をたて始める心臓の鼓動こどうに私は必死で永澤にはさとられては困ると自分の服の首元をギュっとつかんでえた。

しかし気づくと私の目からは涙があふれ出た。泣いている私を見た永澤が言う。



「ようやく自分の好きな人は誰か気づいたんだね。遥野さんはその人に好きだって言わないの?」



ユキは横に首を振った。



「どうして?遥野さん可愛いしもったいないよ」



「私はその人を好きになってはダメなんです。好きになっても結ばれないんです…」



「そんなの言ってみないと分からないよ」



私は首を横に何度も何度も振り続けた。すると永澤がおもむろに自分の話を始めた



「俺はバツイチだけど、別れた奥さんに他に好きな人が出来てね。俺は奥さんの事が好きすぎて現実を受け入れられずに自律神経失調症になった。そして安定剤なしでは夜も眠れないんだ。そんなころ友達に今の奥さんを紹介されて、向こうも旦那と死別して女手一つで二人の息子を苦労して育てて来た話を聞かされたら何だか心に同じ傷を持つ者同士、ささえ合って生きていけると思ったんだ。

でも違っていた、俺は俺だけを見てくれる女ならあの時は誰でも良かった。小池もそうだ、でも小池はゆがんだ愛で俺に執着してきた。俺はその時、小池を愛していなかったと気づいたんだ…。遥野さん俺を救ってくれないか俺は遥野さんと仕事をして行くうちに遥野さんの事が好きだと気づいたんだ」



永澤からの突然の告白に口笛を吹いて時を止めた。永澤は石のように動かなくなった。

私は永澤の前に行くと永澤の唇にキスをした。そしてそっと永澤の頬に両手をあて優しく言った。



「私も永澤さんの事が好きです。でも私は月の妖精、人間を好きになりその思いを伝えるとお互いに関する記憶を全て失うの。私はたとえ結ばれなかったとしても、永澤さんとの思い出や記憶を失いたくないの…。ごめんなさい」



そう言った瞬間、私の手に温かさを感じた。

ハッとして永澤の顔を見ると永澤の目から一粒の涙がこぼれていた。



「ええっ‼どういうこと」



驚いて自分が座っていた場所に戻り、再び時を動かすために涙を流した。何もなかったかのように時は動き出した。



「永澤さん」



恐る恐る声をかけてみた。永澤は優しい眼差しで私をじっと見つめたまま、涙をただ流していた。もう一度



「永澤さん」



と声をかける。



「ユキ、遥野ユキ」



永澤は私の名前を呼ぶと、目の前に居る私の腕を引き寄せ抱きしめた。私は永澤の胸に顔をうずめる。顔を上げようとすると、永澤は優しく私の頭に手を当てそして子供をあやす様にゆっくりと背中をさすって言った。



 「遥野ユキ、俺はお前の事全部覚えてる。正確にはさっきのキスで全ての記憶を取り戻したずっと俺の近くで見守っていてくれたんだな」



「へ?意味が分からない。どういうこと?」



「今から俺が話す事をよく聞いて。俺が不動産会社で働いていた頃に事故にあって会社を休んでいただろ、その時遥野がケーキを持って家を訪ねて来たよな。あの時も遥野は時を止めて俺にこう言った。永澤遥人お前の奥さんはお客と恋に落ちる、そう言って怒っていたよな、あれも俺にだけ聞こえていたんだ」



「嘘…、だからあの時私に忠告を聞いてやれなくてすまないって言ったの?でも待って、その後の記憶がなぜ残っているの」 



「それが俺にも分からなくて、でも周りの人に遥野の事を聞いても誰もそんな子知らないって言うし…。家の近所のコンビニで遥野を見た時、女になってたけどお前だってすぐに気づいた」



永澤の知っている男の私ではなかったが、なぜか永澤は女として現れた私に違和感を抱かなかった。



「お前がここに居たから、俺はこのコンビニで働くことにしたんだ。俺には内縁の妻が居るけど、お前にどんどん惹かれていった。今日のシフトチェンジも念入りに皆に協力してもらって出来たことなんだ」



永澤からの話を聞いて、今までの出来事が一本の線でやっと繋がった気がした。

でも私は一つだけ引っかかっていた。私が時を止めて永澤に好きですと告白し、それを永澤は聞こえていた。それなのになぜ二人とも記憶が消されてないのか…。

考えこむ私を見た永澤は、自分のよみがえった記憶を話して聞かせた。



「遥野が俺にキスした時、忘れてた記憶を全部取り戻したんだ。俺と遥野の記憶が消されなかったのは、俺も月から来た妖精だったからだ」



ビックリしすぎて声にならなかった。



「どうも俺は別れた奥さんの前に、別の人間の女性に告白して、月の妖精だった記憶を全部消されたらしい。そして記憶を書き換えられて人間の家族にまぎれたようだ。でもお前を好きになってお前にキスされて無くした記憶を全部取り戻した」



「でもちょっと待って永澤さん内縁の妻が居ますよね、これからどうするの?」



「小池香緒に同棲生活解消しようって全部話すよ、そして小池香緒の記憶から俺に関する記憶を全て消してあの家を出る、それが小池香緒のためでもある」



「そう…わかった…」



私は永澤の決断が嬉しいはずなのに、小池の立場で考えると胸が痛んだ。

私は永澤の腕の中からスルッと抜け出ると、仕事に戻った。その切り替えの早さに永澤はさっきの出来事は夢だったのかと混乱するほどだった。



「遥野なんか怒ってる?」



永澤が心配そうに聞いてきた。



「怒ってないです、すごく嬉しい…。でも永澤さんはまだ内縁の妻が居る身だし、小池香緒さんに対しても私は最低限の礼儀を守らないとダメだと思ってる。今まで永澤さんを支えてくれた小池香緒さんから永澤さんを引き離し月へと連れて帰る私が小池香緒さんにできる謝罪だから」



私がそう言うとパっと永澤の方を振り返り微笑んだ。その笑顔に永澤の心を撃ち抜かれた。そして永澤も仕事が終わって家に帰ったら小池と話すと決意した。

朝陽が登り勤務時間の交代がやって来た。店長達がニヤニヤしながら二人の前に現れた。



「お疲れもう上がってもいいぞ」



「はい、ありがとうございます。昨日は特に変わりはありませんでした。じゃあ遥野帰るぞ」



そう永澤が言うと店長達は顔を見合わた。



「何も無かったわけないよな。遥野さんから遥野に呼び方が変わったし、明日は下の名前で呼んだりして」



からかいながら手は帰れ帰れと、温かく見送ってくれた。

店の裏口を出て永澤が言った。



「ちゃんと話し合って別れる。そしてお前を迎えに行くから」



「はい」



昼になっても永澤から連絡はなかった。怒ると手が付けられなくなる小池の事だからどんなことになっているのか、悪い想像しか浮かんで来なかった。心配になって永澤の家が見える近所の公園まで行ってみた。ベンチに座って永澤の事をじっと待った夕方になって永澤がやっと家から出て来た。



「永澤さん」



思わず大声で叫んだ。永澤は私を見つけると真っ直ぐ私に向かって歩きだした。手を伸ばせば触れる距離に永澤が現れた時、思わず涙がこぼれた。

 永澤の顔は腫れあがり、アザになって痛々しい姿だったからだ。永澤は小池の気がすむまで殴られ、こんな時間になったようだった。永澤は私の腕を引き寄せ、思いっきり抱きしめ笑って見せた。



「おまたせ」



「うん…うん」


と永澤の胸で泣きながら、永澤の背中に手を回してギュっと抱きしめ返した。

そして最後に私たちに関わった人たちの記憶から自分たちの記憶を消した。

その瞬間永澤の家から、鼻歌を歌いながら花に水をやりに小池香緒が出て来た。

その横を永澤と手を繋いで歩く。



「こんにちは」



私が声を掛けると


「こんにちは」


と小池から愛想よく挨拶がかえって来た。永澤と私に出会う前の小池の日常に戻った瞬間だった。小池の横を通り過ぎる瞬間小さな声で永澤が言った。



「今までありがとう」



二人はそのまま夕日に溶け込む様に消え、月に帰って行った。その時、小池香緒の目からはなぜか一粒の涙が訳もなく流れた。

 


この話は読む人が誰の立場で読んでいくかで物語が良くも悪くも変わっていきます。

愛する人を奪われたと感じる人も居れば、もとあるべき場所に戻っただけと感じる人も人それぞれに色んな受け止め方ができる作品になりました。

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