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見つめる瞳

作者: 意知郎



 私は電車に乗っていた。


 その日もいつもと変わらない日常でつまらない仕事を終えて帰路についていた。違ったのは、どういう訳か先頭車両に乗っていた事で、つまり、いつもはそんな所に乗ったりなどしない訳で、ただなんとなしにホームの端まで歩いて行ったらそこから乗る羽目になったと言う、まあそれだけの事だった。とにかく私は先頭車両の、運転士の後ろ頭がすぐ目の前にある場所を陣取ったのである。

 真夏の夕方は、とても明るかった。空はまるで青く、夕方と呼ぶのが可笑しい気さえした。

 電車の中は、帰宅するサラリーマンやOL、遊びに夢中な若者たちで溢れんばかりに混雑していた。私は彼らに圧されてほとんど身動き出来ない状態になっていた。全く不運と言うより他なく、恐らくもう一本か二本やり過ごしていれば、きっとこんな窮屈な目には遭わなくて済んだのだろうと思う。

 だが、まあ、乗ってしまったものは仕方ない、私は運転士を越えて見える風景に、心地良いレールの単調なリズムと共に遠くからジワジワと流れてくる風景に心を寄せながら、何も考えずにそれを眺めていた。

 ネズミ色のレールと、それが風雨に晒された為に出た錆ですっかり赤茶けた枕木と砕石、その両側に等間隔で並んでいる細い柱が、電車の中に妙に綺麗に飲み込まれて行く。私はあまりこういう見方をした事がなかったので、ああ、電車の正面の景色を眺めると言うのはこんなにも気持ち良いものなのかと、つい心の中で感心をしてしまっていた。

 両脇に民家が立ち並んでいるかと思えば、突然ひらけ、河が眼下に見えたが、それもまたすぐに消え去ってしまった。

 駅に停まり、発車し、今度は遠くまで見渡せる田畑が現れた。空は次第に暗さを増して来たが、それでもまだまだ明るかったから、あぜ道を歩く豆粒の様な人さえ見る事が出来た。

 車内は依然として窮屈ではあったが、とにかく久しぶりに穏やかで気持ち良いひと時だった。

 カーブが見え、やがて近付いて来て、それを曲がるとすぐに踏切が現れた。小さな踏切で、二人か三人ほどの歩行者が電車の行き過ぎるのを待っているだけで、車の姿は一つもなかった。

 母親に手を繋がれ、もう一方の手でこの電車を指差している子供の姿が、かなり近付いてからようやく見てとれた。何処か不思議そうにしている様にも見える表情で、しきりに母親にそれを教えようとしている風で、それが何とも言えず可愛らしく、つい手を振り返したくなる衝動を抑えるのに必死になってしまった。

 立派な駅を一つ過ぎ、小さな駅を一つ過ぎ、公園がふっと現れて消え、マンションの巨体が覆い被さっては開け、とにかく見ていて飽きないものである。

 

 そうしていくつか、様々な風景を通り過ぎて行った後、またもや踏切が遥か遠くに見えて来た。遥か遠くにと言うのは、既に辺りは夕闇に包まれ出していて、その為警報機に付いている赤い光がはっきり見えたからである。

 橙色のライトは数十メートル先までを照らし、その向こうはほとんど闇と言ってもよかった。

 近付くにつれて、その踏切に停車して待つ車の明かりがとても少なかったので、それがあまり大きな踏切でないのが分かった。

 更に踏切が近くなると、そこに立っている街頭に照らされて、小さな人影が居るのも見えて来た。私はその人がどんな思いで待っているのだろうと思い巡らせ、勝手に色々と考えてみた。

 もしかしたら急ぎの用事があって、早く電車が行き過ぎないかと思っているのだろうか? それとも奥様がたが、夕飯の買い物帰りで、子供や旦那の文句でも楽しみながらいるのだろうか? それとももしかしたら、電車好きが電車に乗らず、その雄々しい姿に惚れ惚れと魅入っているのかもしれない。

 そんなありきたりな情景を空想しながら、その人影がもっとハッキリ判る程近くなるのを、心を浮き浮きさせて見つめていた。

 ところがそれは、私が思っていたどれとも違うと言う事が、やがてハッキリしたのである。

 それは、子供を胸に抱きかかえた女だった。多分その子は、まだ四歳かそれぐらいの様に見えた、小さな子供であった。

 きっと母親に違いないと思うし、きっと息子か娘に違いないと思う。子供は母親の胸にしっかりとしがみつき、顔だけこちらに向けていた。だが、母親はうつむき、こちらを全く見ようとしていなかった。それから女が、一瞬顔をあげてこの電車を見たかと思うと、またもや彼女は顔ふせ、それから突然遮断機の棒をくぐって電車の正面に飛び込んで来たのである。

 私は思わず声を上げたが、それを見ていたのは私だけではなかった様で、同時にすぐそばで私みたく圧し潰されそうになっていた女も驚きの声を張り上げ、それを聞いた他の乗客も何事かと正面に振り向いて、そうして車内は一斉に騒然となってしまった。

 今や子供を抱えた女は線路のまん真ん中に棒立ちに立ち、外に居た時と同じように少しもこちらを見ようとしなかった。ただ、子供だけがじっと見つめているのである。自分の方へ、もの凄い勢いで近付いて来るこの電車を。

 当然の事だが、もう電車を停める事は出来ない。

 見も知らぬ他人の運命なのに、なんと私の胸に大きな悲しみを覚えさせるものなのだろうか。それも、これほど短い時間の間に。

 さっきまで飛ぶように消えていた景色は、水の中を泳ぐよりも遅く、そのせいか私には、今ならまだ間に合う様に思えてならなかった。

 だが、その感覚は所詮現実ではなかった。

 運転士は急いで緊急停止をかけたが、間に合わない事は誰の目にも明らかだった。もうそこまで数百メートルも残っていないし、彼女が逃げようとしない限りどうしたってそこに辿り着いてしまう訳だし、きっと子供は幼な過ぎて何も解っていないのだろう、母親の胸の中で身動き一つしていないのである。

 電車はブレーキをかけつつもおよそ停まらぬ勢いで、もう百数十メートルの鼻先まで進んでしまっていた。

 乗客にどけどけと叫ぶ暇も与えず、女性達に目をつむり顔を背けさせる余裕も譲らない一瞬間であった。

 電車は停まらない。

 それは、懸命に停めようとしている運転士自身が一番解っている事に違いないだろう。

 とうとう子供の顔が判別出来る程その距離が狭まった時、私はその子供が死ぬべき人にある事を、どうしても納得出来なかった。何故ならその表情には死の覚悟など微塵もなく、今から起き、そして過ぎ去って行くその運命に、少しも向き合っていないからだった。

 数十メートル手前。そこが、私から子供の顔が見える最後の距離だった。その後は電車の窓から下に消えて行き、二人の姿はもう何もなくなってしまった。


 私が落ち着いた我が家に辿り着いたのは、いつもより二時間近くも遅くなってからだった。何も知らない妻が何をしていたのかと訊いていたが、何故だか私は、少しもそれを話す気にならなかった。代わりに子供をかかえ上げ、優しく、力強く抱きしめていた。

 あの瞬間。

 最後にその目を見つめた、あの瞬間。見知らぬ子供は、まだ生きていた。

 時間はその時を迎えていなかったのだし、あの体にはただの一つの傷さえなかったのだから、まだ生きられる可能性があったのじゃないかと思う。最後の一瞬が過ぎ去るまでは、思いを変えられたのじゃないだろうか?

 でも私には、悔しい気持ちをどんなに抱えたとて、ただ見ている事しか出来なかった。

 私は布団の中でも思い出し、そしてつい、泣いてしまった。

 わずかな運命さえも、諦めないで欲しかったと。



                             終

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