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虫の影と夢の音

作者: 壱葉竹鶴

1

 しんと静まり返ったその場所に、雪が降っていた。美冬が泣いているのを消せもせずにはたはたと落ちる雪は、美冬の肩を震わせていた。

 

 寂しい白い雪 真っ赤なお目めにうつらない

 寂しい白い雪 真っ赤なお手てを狂わすの


 童歌でも歌うように美冬は繰り返し呟いている。

「母様、どうしたの?」

 襖の向こうで獅子〈しし〉が様子をうかがっている。けれど美冬には獅子が自分の子であるという自覚がなかった。母様、母様といつも呼んではくれるけれど、乳をやった覚えもなければおしめを変えてやったこともない。それは全部、滝がした。美冬の妹の滝が、生まれてすぐの獅子を連れて行ってしまった。美冬は生んだだけ。ただ生んだだけなのだ。涙の浮かぶ目の中に、黒い虫が通った。

 蝶のようにひらひらと浮かんでいたけれど、影しかみえない。涙のせいだろうか、と拭ってみると、蝶の姿なんてどこにもなかった。

「獅子」

 美冬は襖の向こうの子を呼んだ。

「今、蝶がそっちに行った?」

 声は細く、揺れている。

「いいえ、母様。今は冬だよ。蝶なんていやしないよ」

 そう言われて窓の外を見る。たしかに冬だ。このはたはたとおちる雪は、この寒さは、たしかに冬だった。

「そうね。蝶なんていないわよね」

 そうは言っても、たしかに美冬は蝶を見たのだ。

 廊下で大きな足音がする。それを聞いて美冬はため息をついた。滝に違いない。私の所に来た獅子を連れ戻しにきたのだ。

「獅子、獅子」

そう呼ぶ声は悲鳴のようだった。

 自分が育てた獅子が美冬のもとに来ようとするのがつらいのだろう。自分こそが獅子の母親であると、私を見下ろして目じりに涙を溜めた滝を思い出す。取ってくれるな。そう言った。美冬は何もしていない。ただここで座り込み、今日のように涙を流していただけだった。


2

 あれから滝は、美冬の目を見ることを避けた。

「姉さんのそのつらそうな目が呼ぶのよ」

そう言った。けれど、獅子は襖の中に入って来たりはしない。襖を開けることもしない。だから美冬の目を見ることなんてない。獅子は獅子なりに育ててくれた滝に義理を持っているのだ。まだ小さいのに、そんな風に出来るのが美冬は羨ましかった。

 美冬はこの部屋で育った。食事もずっとこの部屋に運ばれてきた。この部屋には美冬が生活するための何もかもがそろっていた。だから美冬にとってはこの部屋が世界のすべてだった。

 美しい冬。そんな風に名をつけた両親は、自分達が許可した者だけを美冬の部屋に通した。だから美冬は、世の中には少数の人しかいないものだと思っていた。それは違うと言った人を思い出す。一緒にここから出よう。そう言った人を。

谷崎。彼はそう名乗った。谷崎は美冬の姓でもある。けれど、それまで彼が部屋に来たことはなかったし、いつもなら連れてくるはずの両親は一緒ではなかった。彼は家族中のどの人にもとがめられずに家の中を行き来出来る立場なのだと言っていた。

「美冬さん、どうも駄目だ。この家はおかしい」

 谷崎はそう言ったけれど、美冬には何がおかしいのかわからなかった。谷崎の言うおかしい家が自分にとっては当たり前のものだった。知らないから、何かと比べておかしいと思える要素はないのだ。そうだ、あの時も蝶が飛んでいた。それを思い出した。

「母様」

 襖の向こうで滝に捕まった獅子が、何か言おうとしたけれど、美冬は呼びかけに答えなかった。獅子の母は滝で良い。今、獅子がどんな姿をしているのか想像しようにも、美冬は男の子供を見たことがなかった。生まれた姿を見た時、小さいのだなと思ったその姿しか知らない。そういうことを考えているうちに、涙がとまっていることに気づいた。けれど、震える肩はそのままだった。手のひらを見ると、まるで手首から流れる血が伝っているかのように真っ赤だった。

 

 美冬の部屋の鏡は割れている。ある日、何かの衝撃で割れた。あれは何だっただろう。もしかしたら入ってきた父が割ったのかもしれない。その破片で手首に傷をつけたのが、谷崎の来た最後の日だった。美しいね。父が連れてくる人達は美冬を見て必ずそう言った。

「これは飼いたくなるね」

 そうも言い、美冬の肩を抱いた。それはあまりにも日常で、挨拶のようなものだった。そんな時、部屋にはいつもたくさんの蛙が鳴いていた。姿は見えないけれど、それはもうたくさんの声だった。

 ゲーコゲーコ。

 そう鳴くのを蛙なんだよと教えてくれたのは谷崎だった。

 

 とても醜い姿をしていて、小さな子供はそれを投げて遊んだり、時には恐れて逃げたりするのだと言っていた。

「美冬さんは当たり前って言うけれど、きっと嫌だったんだよ」

 そう呟いた。

「外にはね、人だけじゃなくて、虫だってたくさんいるんだ。蛙は大きな声を出すし、きっと何度も聞いていたんだと思う。それを怖いと思ったことだってあるだろう」

 美冬は、蛙というのは一年中鳴き続けているものだと思っていた。けれど、違うのなら自分に聞こえている鳴き声は何なのだろう。谷崎は美冬の頭をよくなでた。大丈夫だよと口にしながらなでた。

「蛙の声は美冬さんの悲鳴なんだよ」

 美冬は谷崎が来ると涙が出なかった。肩の震えも止まった。谷崎以外の人と話をすることなんてほとんどなかった。だからか最初は話なんて何をしたら良いのかわからなかった。

 ある時、空を飛ぶ鳥のようにひらひらと舞う影を見つけた。それを蝶なのだと教えてくれたのも谷崎だった。ゲーコゲーコと鳴く声はしなかった。

「蝶はね、美しいんだよ。きっと窓から見たことがあるはずだ。いろんな色をしていてね、女性ならきっとあんな風になりたいと思うんだろうな」

美冬は鏡を見た。白い肌に目と鼻と口。蝶にもこんなものがついているのかな。そんな風に思った。それからよく窓の外を見るようになった。けれど雪ばかりつもって虫なんていなかった。

「春になったらたくさん見られるよ」

 谷崎は美冬の唇に唇を重ねながら言った。

「谷崎さんは私を飼わないの?」

 そう聞いたのは出会って十回目の時だった。それを聞いて、滝崎は悲しそうな顔をした。

「僕は義父さんとは違うよ」

 そう言って頭をなでる谷崎の後ろで襖が開いたのはどのくらいの時だっただろう。滝が立っていた。

「何をしているの?」

 悲鳴だった。美冬は谷崎の顔を見た。彼の表情は打って変わって険しいものになっていた。でも立ち上がりはしなかった。美冬を抱きしめて、ここを出ようと言ったのはその時だった。

「この家はおかしいんだ」

「おかしいのはあなたよ」

 滝は崩れ落ちた。美冬には、どうして滝がそんなつらそうな姿をしているのかわからなかった。

「あなたは私の夫なのよ」

 そうだ。鏡を割ったのは滝だった。美冬を叩こうとしていろんなものを倒した。だけど谷崎が美冬をかばう。その日から滝崎は来なくなった。

 滝の声に集まった家族が、顔を青くして谷崎を連れて行った。

「必ず助けにくるから」

 彼はそう言った。けれどあれから何年の冬が越えても彼は現れない。家族の誰も、滝でさえもあの頃のことを話さなかった。美冬はずっと外を見ていた。蝶の姿を何度も見た。あれがきっとそうなのだ。そう思った。獅子が襖の外で美冬を呼ぶと、蝶の影が必ず通る。そのたびに滝の割った鏡の破片で美冬は自分を傷つけた。谷崎は来ない。なのに蝶の影は飛ぶ。

 獅子を生んだ記憶しかない。けれど、腹の中にいる獅子に、まるで谷崎に話しかけるように美冬は聞いていた。

「いつ迎えに来てくれるの?」

 谷崎はもうこの世にいないのかもしれない。そう思うこともあった。虫にいなくなる時期があるように、谷崎にもいなくなる時期はくるはずだ。けれど、美冬はずっと彼を待っていた。虫がまたどこからか現れるように、襖を開けてきてくれるのではないだろうか。そう思う。

 獅子はいくつになったのだろう。もしかしたらもう子供の姿ではないのかもしれない。あれから何年経っているのかわからない。割れた鏡に映す自分の顔は、あいかわらず白くて目と鼻と口があった。割れていろんな風に映る鏡に、自分は年老いたような気もするし、変わっていないような気もした。

「母様」

 また襖の向こうで声がした。滝に連れて行かれたはずなのに。

「僕が助けてあげるから」

 その声に、谷崎の意思を感じた。肩の震えは止まっていた。

 そうして、またいくつもの冬が過ぎた。考えてみたら谷崎が連れて行かれてから、両親はもう他の人間を美冬の部屋に通さなかった。もう蛙の声は聞こえなかった。

 時々、父は私の部屋に来る。そして言うのだ。

「すまなかった」

 父が謝る理由を考えてみた。谷崎を連れて行ったことを言っているのだろうか。

「もう、閉じ込めたりなんかしないから」

 今さらそんな風に言われても一人、部屋を出るのは怖かった。谷崎がいないのに自分の行く場所なんて検討もつかなかった。だからここにいるしかなかった。襖の向こうで泣く声が聞こえる。滝だろう。でも美冬にはどうすることも出来ない。

「母様」

 今日も獅子が美冬を呼んでいた。

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