青筆のエリーと始点の話 4
「良いじゃない、着いて行ってあげたら」
開口一番、ベッドに姿勢よく座っている奥様がそうおっしゃった。
「え、あの」
これまでの会話を聞いていたかのような口振りの奥様に戸惑っていると、奥様が続けた。
「前々から思っていたのよ。エレーナちゃんはエルザにとても懐いているわよね」
思わず横に立っているエレーナを見ると、目が一瞬合った後にそっぽを向かれてしまった。
「まあ、恥ずかしがっちゃって」
おほほ、と手を口に当てて笑う奥様は何だか楽しそうである。すっかりお元気になって何よりだが、旦那様を度々困らせたいたずら好きまで復活しているようだ。
「私たちの話をお聞きになっていたのですか。一体どうやって」
「あら、私は聞いてないわよ」
どうだろうか。狙いすましたかのように執事長が現れたのだが。
執事長が淹れた紅茶に口をつけた奥様が種を明かした。
「実は、エレーナちゃんに頼まれていたのよ。エルザを貸してくれないかって。私は元通り動けるようになったし、使用人は増えたでしょう?エルザはここに来て六年経つし、外の世界を飛び回っても良い頃よ。あなた、十歳からずっと貴族の家の手伝いをしてるんでしょう」
確かに私は貴族の家くらいしか知らない。十歳になるまでは孤児院で育てられた。
「今日エレーナちゃんがエルザに頼むって聞いて、ゴードンに様子を伺ってもらってたのよ」
やはり盗み聞きでは無いか。貴族家ではよくあることとは言え、その技能を私たちの会話に使わなくても良いのに。執事長を軽く睨むと、一瞬苦笑いした後、すぐに澄ました顔に戻っていた。
「そしたら、エルザがあまり乗り気じゃないようだから。背中を押してあげようと思ってね」
痛いところを突かれて返答に窮していると、エレーナが話しかけて来た。
「エルザ、私と一緒にいるの楽しくないの」
「そ、そういうことじゃないのよ!私がエレーナの勉強の邪魔になってないか心配になったのよ。私がいなくてもあなた、十分にやっていけるじゃない」
「違うよ!私の話、一番ちゃんと聞いてくれるのがエルザなの。その時が一番楽しいの。一人で勉強してるより、エルザに話しながらの方がもっともっと楽しいの」
そんな風に思ってくれていたのか。エレーナが一生懸命なのでかなり照れてしまう。そこに奥様が追撃をして来る。
「エルザ、最初の頃は冷静で大人びた子が入ってくれたわと思っていたけど、エレーナちゃんと話すようになってから表情が豊かになったわよね」
自分ではそんなこと全く思っていなかった。思わず頬を触ってしまう。
「あれはいつだったかしらね、一巡季くらい前かしら。あなた、窓を拭きながら、
『絶対1じゃない、1になる訳ない』
とかぶつぶつ言っていたわよ。むすっとしたり考えたりして十面相をしていたの。見ていて面白かったわ」
なんてことだ。よりによってあの時を奥様に見られていたのか。エレーナに、
「0.999...は実は1なの」
と教えられ、いつまで経っても1には辿り着かないじゃない、そんなのおかしいと言い争いになっていた日があったのだ。私にしては珍しく感情が昂っていた。
恥ずかしさに顔が赤くなるのを感じていると、奥様がとどめを刺しに来た。
「あなた、自分で思っている以上に、エレーナちゃんと数式術をやるの楽しんでるわよ」
そうなのだ。やはり私は楽しかったのだ。申し訳なさを感じる以上に、エレーナと語り合えることを嬉しいと感じていたのだ。数式術もそうだし、私の経験を話すときだってそうだった。
「そう、ですね。楽しかったです」
「なら決まりね。エレーナちゃん、エルザを連れて行きなさい。たまに二人の様子を教えてくれたらそれで良いから。手紙用の紙も渡しておくわ。何か新しい模様が出来たらそれも教えて頂戴ね」
「はい!ありがとうございます!」
こうして、私はエレーナと王都を目指す旅に出ることになった。出発は、エレーナの卒業式から一巡手後になった。エレーナのご両親への報告や、荷物準備などやることもある。王都で本が見付からなかった時は、探すのを手伝ってほしいと頼まれたので、二つ返事で引き受けた。私も幻の本をこの手で確かめたくなった。
「エレーナ、私に内緒で奥様に話を通しておくなんて、商人っぽくなったものね」
「えへへー」
五年の付き合いだが、エレーナのこの笑い方は変わらない。私と話すときは、お転婆がそのまま大きくなったような性格で、少し子供っぽいと思わなくもないが、私は気に入っている。逆に私のどこを気に入ったのか聞いてみると、
「初めて会ったときは、数式術の話を分かってくれる人だっていうのと、大人っぽくていいなあって思ったの。でも今は、家族の他には一番話しやすい人だし」
だそうだ。大人っぽさが崩れたとでも言うのだろうか。まあ、いいか。
奥様に言われて思い出したが、0.999...の話はどうやって納得したのだったか。確か、『...』の意味が重要だったはずだ。
そうだ、エレーナは次の勉強会でこう言っていた。
「0.9、0.99、0.999、っていう風に続いていく数の並びがあって、それはどんどん1に近づいていくでしょ。そこまでは良い?うん。つまり、1を目的地にしているんだよね。どんどん近づいていく先が目的地。んで、『...』ていう記号をくっつけると、その目的地自体のことをさすの」
『...』をつけると目的地を表している、という約束事があって、0.9、0.99、0.999、という並びの目的地がたまたま1だったという話だ。『...』を「永遠に9を後ろにくっつけ続ける」という意味だと思ってしまうとこんがらがるのだ。
私たちの旅の目的地は、ひとまずは王都だが、最終的にはフィブロ・イクエースの著書である「数式術序説」「数式術各論」の二冊だ。永遠に辿り着けないのではなく、しっかりと1に到達できるように願おう。二冊あるから目的地は2だろうか。
私も随分染まったな、と考えながら、集合場所である街門まで鞄を持って歩いて行った。フィロス商店が用意してくれた馬車があり、そこでエレーナが手を振ってくれていた。
この世界にはゼロもあり、十進法表記です。
アラビア数字はさすがにそのままではないでしょうし、少数の表記も異なるかもしれませんが、私たちが読めるように神様か何かが私たちの目にフィルターを掛けているという体でお願いします……。