青筆のエリーと始点の話 3
エレーナから初めて布を買ったときから五年が経った。エレーナは18歳、私は23歳になった。マニフォールド家の奥様はエレーナの描いた模様を気に入り、家具の上にかけられたカバーにさりげなく模様が入っていたりするようになった。あれ以来フィロス商店とマニフォールド家は取引が続いている。
これまで色んなことをエレーナに教わったり、逆に教えたりした。エレーナからは、彼女が考えている数式術の内容や学校の様子を教わり、私からはこれまで働いてきた家の様子や、言葉遣い、立ち居振る舞いなどを伝えた。
この五年間、学校と仕事の合間にマニフォールド家に来たエレーナが、私に与えられた部屋に来て勉強会を開くことが多かった。エレーナは奥様に気に入られたので、マニフォールド家への訪問が許されたのだ。こちらの方が、偶にとはいえ紙も使えるし、文字を書く必要のある時は便利だった。
エレーナはこの春の季を最後にこの街の学校を卒業するそうだ。貴族しか入ることが許されていない図書室に忍び込んだりと、実はやんちゃなこともやっていたらしいが、無事に終わりそうで良かった。
一方で、マニフォールド家は少し騒がしかった。旦那様はこの街と王都を行ったり来たりして忙しく、奥様がこの家の女主人として貴族の付き合いをなさっていたが、この前の冬の季に突然倒れられたのだ。心の臓の辺りが急に痛んだそうだ。医者に診てもらった後に半日ほどで意識が戻り、現在はほぼ快復しているが、代わりに家の使用人の数が三人増えた。奥様に無理をさせないよう、旦那様によくよく言い含められた者たちであった。
***
エレーナの卒業式まであと七日という頃。作業机を挟んでの勉強会で、エレーナが提案をして来た。
「……ねえ、エルザ。私と一緒に王都に行ってくれない?」
少しの間のあと、エレーナが何のことを言っているのか思い当たった。
「なんだっけ、幻の本を探しに行くの?」
「そう!」
数式術序説、数式術各論という二冊の教科書は、エレーナとの初対面の時に話題になってから、偶に私たちの間で会話の種になっていた。この街の学校の数式術の先生で、その二冊を知らない人はいないそうだ。しかし図書室には無い。見たことのある人もいない。エレーナはわざわざ図書室に潜り込んでまで確かめたそうだ。扉にかかっていた魔術の力を使った鍵は、友人に何とかしてもらったらしい。
そこまで有名なのに幻の本となっているのは一見不思議なのだが、理由があるそうだ。なんでも、その本を読んだ人は数式術についての理解がとてつもなく深まり、以後数式術の発展に寄与する大きな発見をするらしい。そんな不思議なお宝を量産できるはずが無く、数冊しか無いだろうという訳だ。
似たような昔話は沢山ある。人や動物、植物、その他様々な存在の強烈な想いが何かに宿ることがあり、その想いに触れた人が数奇な人生を歩むという物語だ。語られ方は様々で、芸術の才能が花開いたり、狼に恩返しされたり、家を蔦に埋め尽くされたりする。
想いに触れることが出来る人というのも多様だ。努力がなかなか報われていなかった人、極悪非道の人、運が良かっただけの人、一瞬油断した人などなど。動物が主人公の話もある。
そして、強烈な想いというのも色々な現れ方をする。一瞬強く光るとか、妖精という形をとって忠告してくるとか、夜に隣からうめき声が聞こえてくるとか。
そう考えると、数式術の幻の教科書というのも、著者のフィブロ・イクエースの想いが込められた本という事なのだろうか。数式術界隈の知る人ぞ知る伝説のようなものだと思うのだが、実物を私は見てしまっているので存在を否定することは出来ない。しかし、私は当時数式術の才能が開花したわけでも無いので、伝説をすべて肯定できる訳でも無い。
エレーナ曰く、数式術序説、各論の二冊は、理路整然としてとても分かりやすく書かれた読みやすい教科書であり、ぶっちぎりで高価だからこそ出回っていないのでは無いかという事だった。私が見たことのある本は、名を騙った偽物なのではと聞いたことがあったが、
「うーん。そんなことしたら書いた人は一生数式術に関われなくなるよ。読んだ人には分かるらしいもん」
だそうだ。マグプタ家の旦那様はあの本を読んだのだろうか。読んだ上で私の手の届くところに置いていたのだろうか。疑問は尽きない。
それはそうとして。
「お金は?それにご両親はなんて言ってるの?」
「貯金あるし、王都の親戚の店で修行して来いってさ!」
ここでいう修業とは商売についてである。幻の本と修行と、どちらが大事なのだろう。
「ついでに本を探すってこと?」
「本が優先!」
「私がその本を見たのってこの街だし、マグプタ様たちの行方って今分からないのよ。なんで王都なの?」
「本が一番出回ってるの王都のはずだし、学校の先生に数式術を教えた先生も王都にいるらしいから、調べるには丁度いいかなって」
数式術に詳しい人に聞くのは確かにいい方法だ。別にマグプタ夫妻を探さなければいけない訳では無い。この街から出て探しに行きたいとは常々エレーナが口にしていたことだ。しかし、それにしても。
「私、着いていっても邪魔にならない?」
「え!なんで!むしろ一緒に来てくれないと寂しいよ!」
エレーナの大きな瞳が震えながら私を見つめている。
この五年間、エレーナの数式術への情熱にいつも驚かされてきた。生き生きと語ってくれるエレーナに対して私は、尊敬の念と同時に申し訳なさも感じていたのだ。私はエレーナ程理解が速くない。数式術に熱い思いを注いでいるわけでも無い。数式術に関しては、ただエレーナの話を楽しみ、ときたま質問をし、エレーナの出す問題に答えたり答えられなかったりしていただけなのだ。エレーナの勉強の邪魔になってはいないかという不安は徐々に徐々に膨らんでいた。
何と言おうか困っていると、コンコンコン、と部屋の扉がノックされた。はい、と言いながら扉を開けると、執事長が立っていた。
「奥様がお呼びです。エレーナ様もご一緒に」
少し気まずさを感じながら、執事長について、エレーナと共に奥様の寝室へ伺った。