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青筆のエリーと数々の話  作者: 八七川ヤナギ
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青筆のエリーと始点の話 2

 フィロス商店は、店舗自体はあまり大きくないが、貴族ともやり取りがあるようなしっかりした商店である。ただ店頭で販売している物品は庶民向けのものが多い。そこそこ綺麗に編まれた布や、装飾がされていない食器、簡単な大工道具などである。同じ通りの商店街にはそれぞれの専門店もあるが、物にこだわりが少ない人々にとってはフィロス商店の方が手頃で入りやすいようだ。


 私はエレーナと出会うまで、失礼ながらフィロス商店を知らなかった。マニフォールド家で働き始めたときから、仕事に必要なものは大抵は執事長が取り寄せてくれたため、商店街に出向くことがほぼ無かったからだ。ただエレーナと初めて会った日は偶然、注文とは違う物品が届けられたために、返品手続きなどが面倒臭くて直接品物を買い取りに行ったのだった。


 そんなことを考えつつ店内を伺えば、エレーナは無地の白布を商品棚に詰めようとしていた。台を使えば楽に入れられるはずの、少し身長より高い棚に向かって、背伸びをしながら布の巻物を押し込んでいる。横から声を掛けた。


「それはおいくらなのかしら」

「……は!いらっしゃいませ!こちらに大きさの見本がございま…あの時のお姉さん!」


何か考え事をしていたのか、私に対して反応が少し遅れていた。お辞儀の後に私の顔を見てすぐ思い出してくれたのは嬉しかった。口調が砕けていても全然かまわない。


「うちで買い物してくれるの?」

「せっかくだしね、花瓶の下敷きとして使えそうな布をね」


そういえば花粉が落ちて染みになっていたのを思い出したので、友好の印と言っては大袈裟だが買うことにした。


「じゃあこっちに見本があるから着いてきて」


布は大きさ当たりの値段が各店舗で設定されている。だいたいこの大きさの四角形でいくら、という見本が手拭き布、作業机、家の扉ほどの大きさ別に提示してある。この見本の大きさが店によって微妙に違ったり、生地の質によって値段が上下するので、そこをどう値切るのかが布の買い物という訳だ。


ただ今日はあまり値引き交渉をする気はない。エレーナの仕事ぶりがどんなものか見てみたかったのだ。


花瓶が乗せられる正方形の机よりも大きめの、白の無地を注文した。屋敷にはあまり煌びやかな装飾はなく、花瓶も黒なので、薄い色の下敷きが合うはずだ。


エレーナは、私が身振り手振りで示した大きさを、木机の表面に針を立てて記録した。そして、何やら線がたくさん入った木の棒を取り出し、針と針の間に当てて、数字を呟いている。石板に書きつけると、つらつらと数字を縦や横に書き連ね始めた。


「定規で長さを計った後に、布の大きさを計算しているのね」

「そう!ほかのお店だと、見本の大きさの板が何枚分、とかで大雑把にやるんだけど。うちはしっかり計算するから信用度抜群!」


その信用は客側も計算ができる前提だけどね、と思いながら合計金額が出るのを待つ。学校に通うか、通ったことのある人の関係者程でなければ、桁の多い掛け算などの少し難しい計算はできない。平民の暮らしでは、硬貨十枚ほどの足し算引き算が出来れば十分なのだ。私自身は、勉強させられたことがあるのである程度計算は出来る。


金額を聞き、そのまま支払うと、エレーナが声を掛けてきた。


「ねえ、その布は花瓶の下に敷くのよね?何も絵を付けないの?」


普通はちょっとした飾りになるよう植物モチーフの絵を小さく描いたり、動物の絵をつけたりするものだ。だがマニフォールド家の奥様は簡素な飾り付けがお好きで、カーテンや絨毯も無地だったりする。


「ええ、そのつもりだけど」

「……よかったら絵付きも買ってくれませんか」


急に真面目というか緊張したような表情のエレーナが、私の目を真っ直ぐ見てそう言った。


「今すぐ必要というわけでは無いし、絵がどんなものか見てみないと分からないわ」

「絵の見本を持ってきます。布の大きさに合わせて描きます」


エレーナは店の奥へ行くと、二階へ上がっていったようだった。


春の季も中盤にさしかかり、ぽかぽかした昼下がりである。外から聞こえてくる商売の声と、チュンチュンという鳥の鳴き声に耳を傾けていると、エレーナが降りて来た。


「これ、私が描いてみたの」


そう言ってエレーナが広げた手拭き布ほどの大きさのくすんだ布に描かれた模様に、私は言葉を失ってしまった。一つの大きな円の内側に、たくさんの図形が規則正しく並んでいる。円の端に近づくにつれて、繰り返される図形は細かくなって歪んでいき、個数も増えている。よく見れば、三角形がひたすら繰り返されていて、黒色に塗りつぶされているものとそうでないものとが交互に並んでいる。迷宮に迷い込んだような、頭がくらくらするような、それでいて秩序立っている不思議な絵柄だった。端の方は滲んでいるが、それを補って余りある緻密さだ。


「……これはまた、初めて見たわ。なんだか圧倒されてしまって」

「えへへー、まあ、私が考えた訳じゃないんだけど」


私が目を見張っているのを見て少し安心したのか、エレーナが照れ笑いをしている。


「いったいどうやって描いたのよ」

「真っ直ぐな線は定規で引いて、曲がってる線は実は全部丸なの」


丸というと、円のことだろうか。確かに三角形を縁取る曲線を辿ってみると、円の一部に見える。


「……なんというか、すごいわね、これ」

「四巡手くらいかかったもん。お父さんのインクをこっそり借りて、削った木の枝で描いたんだ」


インクは高価なのに何をやっているんだこの子は。


「昨日バレちゃって、お小遣い減らされちゃった」

「だからむくれていたの?」

「え?私そんな顔してた?」

「むすっとしながら仕事してたじゃない」

「あ、あれは、お姉さんに連絡とる方法が見つからなくて悩んでたの。あれから馬車でも会わなかったし」


そんなに私と数式術を勉強することを楽しみにしてくれていたとは思わなかった。もっと早く来れば良かった。


「それで、この模様を描いた布、買ってくれませんか?」

「私自身は気に入ったけど、奥様に伺ってみないと決められないわね。悪いけど」

「そんなあ」


エレーナが店番に出ている時にある程度売り上げなければ、お小遣いが元に戻らないそうだ。そういえば他に店員はいないのかと周囲を見回すと、食器コーナーで接客をしている青年が一人いるだけだった。13,4歳程に見えるエレーナだけが一人で店番をしていた訳では無かったが、青年が売った額はエレーナの小遣い上昇には貢献しないらしい。


「うーん、協力してあげたいけどね」


なぜか、この模様にはずっと眺めていられる魅力がある。こんな細かい模様を描き切るエレーナの趣味にも私は惹かれている。花瓶の下敷きにするのも悪くないが、タペストリーのように壁に飾るだけでも面白いのではないか。だが現在私の持っているお金はマニフォールド家のものである。いや、もしかしたら奥様も気に入るかもしれない。


「もしよかったら、私の勤め先に来て売り込んでみる?」

「え!いいの!」

「もちろん、ご両親の許可をもらってからね」

「いやった!」


ありがとうお姉さん、と言いながらエレーナは、もともと私が注文した方の布をはさみで切り出した。そう言えばまだ受け取っていなかった。作業をしながらもエレーナはワクワクした表情で聞いてくる。


「いつ頃になりそう?」

「五日後から七日後のどこかで迎えに来るわ。奥様のご予定にもよるけど、その辺りに暇があるはずだから」

「お昼までは学校だけど、昼過ぎからはいつも店番してるから、呼ばれたら飛んでいきます!」

「ちゃんとご両親に説明しておくのよ?マニフォールド家の家政婦のエルザが、装飾品としてエレーナの布に興味を持ってるって。というか、ご両親に着いてきてもらった方が良いかもね」

「うん、わかった!」


自分の描いたものを人に見せられるというのが嬉しいようだ。父に隠れて描いていたのがバレて、逆に公開できるようになったというのは少し面白い。


仕上がった布を受け取る時に、一つ頼みごとをした。改めての自己紹介のようなものだ。


「これからは私のこと、エルザって呼んでほしいわ」

「え、エルザさん!」

「呼び捨てでいいわよ、私もあなたのことエレーナと呼ぶから。仲良くなりたいっていう証ね」

「え、でも年上の人だし、丁寧な言葉を使わないと商人の娘として」

「結構口調は乱れていたわよ」

「う」


気にしていながら治らない癖らしい。何はともあれ、今日は楽しい買い物だった。


「では、またね、エレーナ」

「はい!お買い上げ下さりありがとうございました!エルザさん!……エルザ!」


最後に思い切って私の名を呼ぶエレーナは、目をつぶっていて微笑ましかった。


 エレーナがあそこまで楽しそうに語るということは、あの模様も数式術に何か関係するのだろうか。エレーナ自身が考えた訳では無いようだったが、ではどこであの模様を見て再現しようと思ったのだろう。キョ―カショとやらに載っているのだろうか。再会したときに聞いてみよう。


マニフォールド家に戻った私は、今日の話を奥様に伝えた。どんな模様が見られるか楽しみにしてくれるようで、私は安心した。


「ポアンカレ 円板」で画像検索して下さると、エレーナの描いた模様に近いものが出てきます。

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