青筆のエリーと始点の話 1
昔住んでいた奉公先の屋敷で、奇妙な本を見たことがあった。当時の私は文字をゆっくり読むくらいしか出来なかったが、それでもその本が異質であることはすぐに分かった。見たことのある文字と、見たことの無い記号が入り乱れ、しかし何か役割を持って書かれているような不思議な印象を受けた。
本棚の掃除の手が止まっていた事を奥様に注意され、慌てて仕事に戻ったが、その日の就寝前に奥様がその本を貸して下さった。「あの人の道楽みたいなものだし問題ないでしょ」と奥様はおっしゃった。その日は寝入るのが遅くなった。本は高価だし、じっくり手に取る機会もないので観察に集中してしまったのだ。内容はほぼ分からなかったが、今思えば前書きの途中ほどで寝落ちていたのだろう。しかし、題名と著者だけは頑張って発音したので覚えている。
数式術序説 フィブロ・イクエース
私は自分の記憶力にたった今感謝している。なぜなら、乗り合い馬車でたまたま一緒になった女の子が「数式術基礎」という本を取り出したとき、思わず声を掛けてしまい、そこから会話が弾んだからだ。
「あなた、数式術を勉強しているの?」
「!?お姉さん、数式術知ってるの?」
「あ、いえ、昔見かけた本に似たようなものがあったから」
「へえ~。どこにあった本か聞いてもいい?」
「勤め先の書庫よ」
「誰が書いたとか分かったりする?」
「ええっと、ふぁ、ふぁい、違う、フィブロなんちゃら」
「!?もしかしてフィブロ・イクエース?」
「そうそうそれそれ」
「じゃあ数式術各論?それとも序説の方?」
「序説の方ね」
「えーいいなあー私も見たいなー」
反応と動きが大きくて面白い子だ。今は私たち二人の他には御者さんと護衛さんしか馬車に乗っていないので、周りを気にせずに話ができる。
私が馬車を降りるまで会話は続いた。少女はエレーナという名で、商家の娘だそうだ。実家のフィロス商店から学校の近くまで乗っていく途中だったらしい。学校とは貴族の子息が行くものだと思っていた私は、素朴な服を着ているエレーナと学校のイメージが重ならなかった。もしや無礼な口調だったかと一瞬身構えたが、貴族以外の出身の者も学校にはそこそこいるらしいことをエレーナの話から聞いた。エレーナの話し振りは素直で、私を安心させた。
現在の私は、数式術序説を見た家とは違うところで家政婦として働いている。掃除道具を街の商店街で買った帰りに乗った馬車でエレーナと出会ったのだ。勤め先の家に戻る間、エレーナとの会話の最後の方を思い出していた。
「学校に本はたくさんあるの?」
「あるにはあるけど、貴族じゃない人はあまり見られないかなあ」
「じゃあその本は?」
「これ?これは教科書。計算とかを習うときに使うんだよ」
「キョ―カショ」
「お手本がたくさん載ってたり、そのお手本が正しいことの理由が載ってたりするの」
「本を読むのは楽しい?」
「楽しいよ。でも数式術がいちばん面白い。歴史とか勉強してもよく分からない。あ、でも数式術の歴史は別だよ」
「数式術が面白いっていう人、私初めて会ったわ」
「ええー面白いよー。まあ学校でも魔術とか理術とかの方が人気だけど」
「あなた魔術も習ってるの?」
「それは貴族の人とかがやってる。計算とかお会計を仕事に使う人が数式術を勉強することが多いかな」
「じゃああなたみたいな商家の子が多いのね」
「うん。でもみんな嫌々勉強してる感じでつまんない」
計算が楽しいと思う人は少ないだろうな。
「お姉さんはどう?」
「私?私はどうかなあ。分かったら楽しいのかなとは思うけど」
「ホント?じゃあ私と一緒に勉強してくれない?」
一緒に勉強って。私何も知らないのに。
「楽しいし、お金で騙されにくくなるよ」
確かにそういう経験はあるけれど。
「時間が空いてる時でいいからさー」
「ん~。そこまで言うなら教えてもらおうかしら。仕事の合間とか休みとかで」
「いやった!」
押し切られてしまった。でも悪い気はしない。元気な子と話すのは、それだけで自分の中に燃料がつぎ込まれる感じがする。
「お姉さんのお名前聞いていい?」
「エルザよ」
「どこで働いてるの?」
「この街のマニフォールド家の屋敷でお手伝いをね」
「じゃあそこに数式術序説が!」
「ごめんなさい。その本を持ってらした方々は、どこかに引っ越されたみたいなの。というかあなたそれが目的なのね?」
「えへへー」
「えへへじゃないわよ。っと私はここで降りるわ。どうやって連絡を取ればいいかしら」
「私の家、貴族様にも伝手があるから、きっとそのマニフォ?家にもお手紙が書けるわ!」
少し不安だが、ご両親がうまい具合に調整してくれるかもしれない。たまには私もフィロス商店を覗いてみるか。
馬車から身を乗り出して手を振るエレーナを見送った私は、少しワクワクしているのを自覚した。文字はすらすら読み書きできるようになった。もしかしたらあの謎めいた本も読めるようになったのかもしれない。意味は分からずとも、エレーナに教えてもらったら前進するかもしれない。
ただそのためには、あの本と共に引っ越したマグプタ夫妻の行き先を調べなければならない。本を見せたらエレーナは喜ぶだろうなと想像しながらマニフォールド家に到着し、掃除をした後奥様に聞いてみたが、ご存じないとのことだった。旦那様ならご存知かもしれないが、ここ一季月は王都から戻られないらしい。なにやら出向中であるとか。残念だ。
フィロス商店と何か伝手があるのかも奥様に聞いてみたが、無いようであった。執事長に聞いても同じ答えだった。
それからニ巡手、つまり二十日ほど経っても音沙汰がなかったので、買い物のついでにフィロス商店に立ち寄った。するとそこにはむくれた表情で布を運んでいるエレーナの姿があった。
一巡手=十日
一か月=二つの月がともに新月になる日と日の間≒三十日
一季月≒三か月
一巡季≒四季月
読んで下さりありがとうございます。