スラム街の少女
スラム街には高い建物がない。
故に日陰もなく、直射日光が地面を焼くように照らすため、美月は熱の残量に陽炎を見る。
しかし、その陽炎は美月の目の前にいる少女にだけ届かない。
「弟はここ最近様子がおかしかった……
ある日ふらふらと帰ってきたと思ったら急にぶっ倒れて……
それ以来ずっと生きてるか死んでるかわからない状態なんだ……」
少女の後ろを見ると、周りと同じく簡易的に作った布の屋根と、足元にはどこから調達してきたのか、数枚の布が敷き詰めてある。
その布の上に横たわった細い人影は、おそらく少女の弟だろう。肌が青白く線が細い、うっすら開いた口で浅く呼吸し、まるで必死に、かろうじて生にしがみついているように見える。
「……医者には?」
美月は思わず、本を盗まれているということを忘れ、この惨状ともいえる光景に口を出した。
「おまえ、ここをどこだと思ってるんだ。
こんなところに住んでる私たちに、そんな金があると思ってるのか!!」
美月の問いに、少女は眼光を鋭くしながら噛み付いた。
きっと少女自身も、幾度となく医者に診せに行きたいと思ったのだろう。
「……そうだよな、さっきも食い逃げしてきたばっかだし。
ついでに言うと、ここ最近の食い逃げって、お前のことなんだろ?」
「……弟に飯を食わせるためだ……」
足元に寝ている弟の周りには、パンや菓子の袋、ペットボトルといった物が散らばっている。食堂で少女自身は飯を食い、半分は動けない弟に食わせるために盗むといったことをしてきたのだろう。
「…………」
美月には少女と弟がなぜスラム街に身を寄せるようになったのか分からない。しかし、たった今分かることは、少女に降り掛かっている現状は、誰かの手なしに変わることが出来ないということだ。食にせよ病にせよ、このまま放っておけば2人とも最悪の結末を迎えることになる。
情けをかけようと思えばかけられる。
神様の力で病を直し、食べ物を与える。ただそれだけだが、それでは現状の一旦回復であり、今後の解決には何もならないのだ。
「……申し訳ないけど、おれは悪人の手助けなんてできないね
順当に働いて前借りするなりして弟を医者に診せに行けよ」
非道なことだと思うが、これが正解だと美月は答えを出した。
しかし踵を返す美月に、少女が一言放つ。
「……お前、神様なんだろ……」
「!!」
美月は少女の言葉に足を止める。
「食堂の奴らは知らなかったみたいだけど、私は知ってる。
この本は【神の本】!!
神様しか持たない、この世の理をひっくり返す本!!
食堂で見たあの手品も、本当はこの本の力! 神様の御業ってやつなんだろ!」
少女は美月が神様だということを完全に信じ、そして見抜いていた。
神様の力とは少女が美月から盗んだ、【神の本】
この本を使えば、金だろうと弟の症状だろうと、さらに言えば人の生死だろうとひっくり返すことが出来るのだと少女は悟っていた。
「頼む!!」
「私には、弟しかいないんだ……!!
たった1人の、大事な家族なんだ……!!」
少女は太陽の熱を帯びるその地面に手を付き、頭を下げて震える声で美月に懇願した。
「家族……」
「お願いだ!弟をあんたの力で助けてくれよ!!」
家族。美月はこの言葉にしばし戸惑った。
美月は家族というものを知らない。美月の知る自分は常に孤独であり、自由であり、恩恵を与える存在であるからだ。この少女のように懇願してまで救いたいものがあるという気持ちが、美月にははっきりと感じることが出来ず、少女の言葉を真摯に受け止めることが出来ないのである。
「…………」
「どうしてもできないって言うなら……」
沈黙を拒否と見なしたのだろう。
少女は背中に手を回すと、ゆらりと鈍く光るナイフを取り出した。
「この本をグチャグチャにしてやる」
少女は本にナイフを突き立てようと、勢いよく振りかぶった。
「やめろ!!」
「なら助けろ!!!」
しばしの沈黙と緊張感が走った。
お互いが退かずに、砂漠の太陽だけがスラムを照らす。その太陽は少女の持つナイフをまたゆらりと光らせた。
(……くっそ)
頬に汗が伝う。冷や汗なのか暑さのせいなのかわからない。しかし、このままでは埒が明かない。
完全に立場が後退している美月は、覚悟を決めたのか両手をあげ降参を表した。
「見るだけ見てやるよ!!」
「!!」
「だから本返してくれよ
それがないと見れるもんも見れない」
美月は少女の足元にいた弟の脇に胡座をかいて座り、少女に本を返すよう促した。
「……わかった」
少女は一瞬安堵の表情を浮かべたが、またすぐに張りつめた顔をし、弟の治療のため盗んだ本を美月に返した。
美月は本を受け取り、横たわっている少女の弟に向かって本を広げた。光を放ちパラパラと自然にめくれていくページたちには、どこから染み出てくるのであろうか黒インクが人間界の文字とは違う文語をじわじわと映し出していく。
「……」
「……どうだ?」
「…………」
「な、なにかわかったか?」
「………………」
「何か言えよ!!」
「あーもーうるさいなぁ!!」
美月は業を煮やしたように少女の方をぐるりと向く。
「やかましいんだよさっきから!
集中できないんだっての!!」
どうやら神の本は神様が使うにしても、体力と集中力を使うらしい。気温の暑さも相まって美月の体は汗をかき、着ているシャツがひっついていたりと、少女の一言以外にもイライラする要因はあったようだ。
「し、しかたないだろう!
弟の命がかかってるんだから!!」
少女は先程までナイフを握っていた者と思えないくらい、しゅんとした表情を見せる。弟がとても心配でいてもたってもいられないのだろう。
「……なぁ」
その様子を見た美月は弟の方を向き、再度本をかざし続ける。
そして少女に背中を見せた形で、ここに来て疑問に思っていたことに対して問いかけた。
「その……こいつはあんたの家族ってやつなんだろ
【家族】って、なんだ?」
「はぁ?」
少女は拍子抜けしたような声をだす。
「神様なのにそんなことも知らないのか?」
「もー、一言多いなぁ」
少女は、神様とはこの世界を作り、人間を作り、何もかもを超越した存在だと思っている。
それなのに、家族という当たり前なものをなぜ知らないのか。それを知りたいと言う美月のことを、少女は神様というよりも人間らしいと思った。
「教えてあげよう」と少女が美月の隣に座り、少女とは肌の色が違う弟の頭を撫でながら話した。
「家族って言うのはさ。
同じ家に暮らして、飯食って、一緒に寝るやつのことさ」
弟の頭を撫で、頬を撫で、伝う汗を指で拭った。
その手の動きは、自分とさほど年の離れていない子にしては大人びた、とても愛情深行動のように美月には見えた。
「それだけ?」
美月はあとに続く言葉を待ったが、少女は歯を見せてにぱっと笑って見せた。
「それだけさ!
あと、お互いを何より大事にするんだ」
「何より、大事に……」
人に対しての大事、という言葉の重さはこの少女にとって当たり前の重さなんだろう。
美月にとって大事なものといえば、この本のみだ。
しかし、遠い昔に、美月にもそのような者がいたことがあるような、かすかな記憶と懐かしい感覚が蘇った。
「おれも、そうだったのかな……」
完全に思い出しはしないものの、誰かの大きな背中と小さな背中に挟まれて、自分は世界を歩いている。そんな記憶が脳裏に焼き付いている。
「神様にも家族っているのか?」
少女は純粋な瞳でこちら見る。
神様というものに興味があるのだろう。
「どうだろう。
おれ、旅してる途中だから。
誰かと暮らしたこともないし」
「じゃあ待ってるやつは?」
美月は少女の方を向くと、少女は変わらず弟の頭を撫でていた。
待ち人がいるのか、記憶の中に住むあの背中が待ち人なのか。遠い昔から旅をしてきた美月にはもう思い出せるほど近しい記憶ではなくなっていた。
けれどどこかに引っかかるものがある。無事でいるか、どんな生活をしているのか...これが少女の言っていた「家族」に近しい言葉なのかと。
小難しい顔をする美月に少女は背中をバンバンと強めに叩いた。
「言ったろ、お互い何より大事なんだって。
離れてても、大事に思ってれば、そいつは家族なんだよ」
そう言う少女をしげしげと見つめる。
少女は褐色の肌だが、弟は色白の肌をしている。この2人は血は繋がっていなさそうだが、大事な家族だという。
一般的な家族というものとは違うと思うが、少女の言うことに間違いがあると思えない。
「ちょっと大雑把過ぎない?」
美月は思ったことをそのまま口にした。
「おまえが聞いてきたのを答えてやったんだろ!」
少女はがぁっと吠えるように言う。
美月の問に、少女は少女なりのちゃんとした答えを持っていたから言った言葉だったのだ。
「それより、弟は? 大丈夫なのか??」
本題は弟に向き直る。
弟は未だその白すぎる肌をさらに青濃くし、ヒューヒューというか細い呼吸音を続けている。
「弟くんは……どうやら言霊が、肉体と精神から離れてるみたいだ」
「言霊? にくたい……それってやばいのか?」
「この世界の人間はみんな体の中に言霊を入れ込んでる。それが離れると肉体と精神のバランスが崩れる仕組みなんだ」
この世界の人間達の体は大きく分けて「肉体」と「精神」に分かれて出来ている。肉体は精神に宿り精神はまた肉体に宿る。それをより繋ぎ合わせるのが魂の言霊だという。魂の言霊は人間達に平等にあり、大きな力を持ち、人1人の生命を司るものだった。
少女は難しい話は聞きたくないと言った顔をしている。
「よくわかんないけど、魂が抜けてるみたいなもんか?」
「そんな感じ。
どちらにしろこのままじゃ危ない……!」
美月は弟の前にかざしていた本を勢いよく閉じ、ホルダーにしまうと急ぐ様子で少女に問いかけた。
「弟くんが最後に行った場所はどこ?!」
「えっ、場所?
確か……今閉鎖してるでっかい言霊がいるところって言ってたかな」
「それだ!!!」
美月はその場から少女の手を引っ張り、勢いよく駆け出した。
「おい! どこ行くんだよ!」
「あんた、家族救いたいんだろ」
美月は走りながら少女の淡褐色の瞳を見て言う。
「神様について来い!
家族を教えてくれたお礼だ!!」
そう言うと神様・美月は、汗ばんだ手で少女の手を引きながら、また砂漠の太陽の中を走り出したのだった。




