土器山の戦い 1
予想通りというべきか、予想外というべきか。植木秀長の武功は目覚ましい物だった。
毛利元清の部隊を打ち破り、撤退する三村元親に傷を負わせるまで迫っていた。捕らえるに至らなかったのは、寸前のところで、停戦の命令が下ったからだった。
戦える者を集めて追撃の兵を送り出し、傷を負って戦えない者をより分け、亀山城へ引き上げる準備をしていた所へ、伝令が駆け込んできた。
「何者だ?」
旗指物に飾り付きの兜という戦場にふさわしくない大仰な格好からして、宇喜多家の伝令ではない。恭しく膝をついたが、大袈裟に書状を取り出すと、厳かに読み上げる。
「征夷大将軍の勅命である。守護職と守護代の争いを禁ず。毛利家・浦上家・赤松家は直ちに停戦せよ」
「馬鹿な、将軍だと? 足利義輝公が暗殺され、三好家の勢力争いが続く京都で、勅命など誰が出せるというのだ?……」
「第十五代征夷大将軍に就任なされた、足利義昭様の勅命にございます」
少し考えると、その名に思い当たった。
「……出家なされていた、義昭様か。しかし、どうやって京に戻り、将軍宣下を受けしたのだ?」
「尾張の織田信長の力添えにより、三好家を京から追い出し将軍となられたのです」
「織田?……いや、将軍の命ならば、従わねばならない。すぐに、戸川、植木の部隊に伝令を送れ」
「ここで、やめて良いのか? 八兄い」
聞きなれぬ名が含まれている事に、不安を感じたのは忠家も同じだったようだ。停戦命令に従うのが正しいのか考え込むように腕を組んでいた。
「どの道、毛利家と何時までも戦っては居られない。収められる時に、矛先を収めねばな……」
予備兵力もすべて投入した後では、消耗した兵や武器を補充しなければならない。それに、三村家に備中を維持する兵力は残っておらず、毛利家も背後に大友家、北では尼子家の残党狩り、と戦線を広げられないとなれば、かなり有利な条件で停戦協定を結べるという打算もあった。
だが、各勢力の動きを組み立てて行くと、何かが引っかかる……。
「浦上家と、赤松家か!」
浦上政宗の仇を討つと、赤松政秀の龍野城へ侵攻した浦上宗景の存在を思い出した。
停戦命令の使者が浦上宗景の元へも向かったはずである。戦いの行方よりも、将軍の後ろ盾が織田信長という聞きなれない名だと知れば、素直に従うとは到底思えなかった。
「浦上宗景様の所へ向かうぞ!」
将軍の名がある以上、守護職や守護代、役職の格の差など気にしている場合ではない。将軍の命に従わぬのなら、幕府の敵となる。
しかし、将軍の使者を追い返した浦上宗景は、三石城の赤松晴政を討ち、街道を塞いで長く伸びた隊列は、赤松政秀の居る龍野城に目前まで迫っていた。その最後方に宗景の本陣はあった。
「宗景様! 兵をお退きください」
「しつこいぞ直家! 尾張の織田とやらが連れてきた将軍など、当てになるものか。それに、調停役に送られてくる羽柴とは、何処の何者だ?」
「しかし、相手は征夷大将軍ですぞ! 将軍の命に逆らえば……」
「何にしても、そやつらが到着する前に、赤松政秀を討てば済む」
「領地を預かる者が、その様な博打を打ってはなりませぬ!」
「くどい! この浦上宗景に逆らうか!」
「その様な事は、決して……」
「ならば、直家、貴様が先陣を切って、赤松政秀を討ち取ってまいれ!」
宗景は、それ以上、一切の反論を許さぬといった態度で言い放った。
(無茶をおっしゃる……)
腹の中でそう呟いたが、それはまた好機でもあった。
先陣を任せられるのなら、いつ合戦を始めるかの一端は握ったも同じだった。それならば、最悪の事態、浦上家と将軍の命を受けて派遣された織田家の兵とがぶつかる事態だけは避けられる。
それに、備前から呼び寄せた兵を隊列の一番後ろから最前列へ進めるだけでも一苦労だ。多少時間がかかっても十分な言い訳もつく。それでも二つの軍隊が交差する街道を兵を一列に並べて、混乱を起こさないよう慎重に進軍させた。
それが裏目に出たのだろうか。長く伸びた隊列で情報の伝達の遅れは致命的であった。
直家が前線に兵を集めた時には、多くの屍が並び、すでに決着がついていた。
合戦の始まりは、まず、浦上家の兵に警戒した赤松政秀が城を取り囲まれないように、街道を挟んで南に布陣した。城に直接取り付こうとする部隊は挟み撃ちに出来る。
その城から出た部隊に黒田孝高が奇襲をかけた。黒田側からすれば、僅かな混乱でも浦上家が突撃を開始するであろうと考える。だが、浦上家は宇喜多家の兵と狭い街道で前線を入れ替えようとしていたため、戦うどころではなかったのだ。
しかし、警戒が浦上家へと向いていたため、少人数ながら奇襲は大成功を収めた。散々赤松の部隊をかき回し、土器山の陣へと引き返して、祝宴を開いているところへ、赤松政秀が夜襲をかけた。
勝利に浮かれていた黒田家は兵力差もあり、黒田職隆の弟・井出友氏を失う甚大な被害を受けた。追手を恐れた黒田孝高は、母里小兵衛や母里武兵衛と言った有力な家臣を殿に残し、討ち死にするまで戦わせ、屍を街道に残したまま姫路城へと逃げかえった。
姫路城まで赤松政秀の追撃がかからなかったのは、その頃になって、やっと街道を抜け出した宇喜多家の兵が兵を並べ始めたからだ。
そして、奇襲で兵力を損ない、宇喜多家と浦上家を一度に相手にする事は出来ないと観念した赤松政秀は、戦わずに降伏した。




