観音寺城の戦 2
誰が考えても甘い算段。
それは、朝日が昇る頃には、儚くも散った。
六角高頼の軍は、観音寺城の南の山に布陣して動かぬ構え。一日で決着がつかない事は、初めて戦場に出た新兵にも見て取れるだろう。
「大勝して油断した相手を攻めるのは簡単だけど、追い詰めれば、どんな動きをするか分からない。目先の勝利に惑わされず、万全を期す。六角高頼は冷静だね」
「今の内に撤退できれば……」
「今から撤退にかかっても、酒の抜けきってない兵が、敵の目の前を並んで歩く事になる。そんな相手と戦うのは、鶏の首を刎ねるより簡単だろうな」
「だが、ここで待っていても敵が増えるだけじゃないか」
「そうなんだけどね……。三度も破った六角高頼に、鎧袖一触で逃げ出した京極高清。そんな相手がいくら集まろうと、何度攻めて来ようと、一兵卒でさえ恐れていないんだよ。それは、傲りや慢心ではあるのだけれど、命を失うその時になっても自分が負ける筈がないと思って居る兵士は、強いよ……」
多賀高家の言い方は、どこか悲しげだった。
「酒宴の真っただ中に敵が攻めてくれば、着の身着のままでも応戦し、次の行動に移るきっかけにもなったんだけどね」
士気の上がった軍の弱点は、間を取られる事。
燃え上がる熱狂が冷め、ゆっくりとした慢心だけが残れば、兵士たちは安全に家に帰る事しか考えない。
狂乱が醒めぬように兵士たちにはさらに酒がふるまわれ、酒宴が続けられた。
ようやく号令がかかったのは、観音寺城の北に斎藤妙椿の軍が姿を現してからだった。
「朝廷に歯向かう斎藤妙椿を倒し、近江に平安を、天下に太平を築くのだ!」
多賀高忠の変わらぬ武神のような号令も、どこかうすら寒い影があった。
歓声を上げるが、薄まった熱狂に、武将たちも目を向けないようにしていたが、彼らを割って前に出たのは多賀高家だった。
「父上! 是非とも先陣は私にお任せください!」
偽りの酔いを醒ます沈黙が流れたが、それを偽りと認めるには遅すぎた。
振り上げた拳を下ろす場所を探すように、
「必ずや、斎藤妙椿を討ち取れ!」
刃を交えねば、血を流さねば、認められない。
本物の敗北を突きつけてこそ、兵士たちは再び必死で戦えるのだ。
「僅かな騎兵だけで、斎藤妙椿を迎え撃つなど、無茶も過ぎるぞ……どうする気なんだ?」
兵を率いて出陣する多賀高家に、馬を寄せて尋ねた。
意気揚々と先頭に立っていたが、経久には、余りにも無謀な行為に思える。
「どうするも……ないさ。三百の兵を並べて戦うだけよ。この刀もあるしな」
振り回すには大きすぎる刀を肩に担ぐ姿は、勇ましくも滑稽に見えたが、誰よりも人目を引く姿は戦場に向かう覚悟のほどを感じさせる。相手が強大であればこそ。
「俺も出陣させてくれ」
「経久、ありがたいが、連れて出る兵が居ないだろ?」
確かに美濃から遅れて戻ってきた十名ほどしかいない。
「戦力にはならんが、太鼓を叩いて先導する。三百の兵だけでは、怒りに任せて踏み潰そうとするかもしれんが、楽隊を揃えての出陣なら、古典儀礼を好む斎藤妙椿も満足するだろう」
時間稼ぎの策でしかない。今さら時間を稼いでも、何になるのか分からなかったが、何もしないよりはましかもしれない。
それは、そんな僅かな望み、結果を先に送ろうとする思いだったのかもしれない。
「それは、危険すぎる賭けだよ……。本当は、君たちだけでも、京へ退いてくれればと思っていたのに……」
「悪い方に賭けたつもりはないさ」
予感はあった。
それが何か分からぬまでも、何らかの行動を取れば、結果が得られると。
太鼓を叩き、騎馬隊を先導して歩き、平野に横一列で布陣する。
三百の騎兵を横一列にした見せかけだけの薄い布陣。戦いになれば一気に崩れる。
それが分かっていても、楽隊で礼を示せば、斎藤妙椿もゆっくりと重厚に兵を並べて受けて立つ。
稼げるだけの時間は稼いだ。
後は激突するのみ。
多賀高家が号令をかけようとした瞬間。
観音寺城の兵たちが、大地を揺らさんばかりの怒号を上げた。
空気が震えるほどの音に、訓練された軍馬も、恐れ小さく嘶く。
「これは、何が起こったのだ?……」
「高家、あれを見ろ! 湖だ!」
琵琶湖の波の間に船が見えていた。
一船二船ではない、大きさも不ぞろいながら、無数に。
船から放たれる矢が、斎藤妙椿の軍に降り注ぐ。
「味方、何だよな?……」
零れるように呟いたが、先頭の安宅舟の船首に立つ姿を見た途端、息をのんだ。
「経久の旦那、無事だったか」
湖面に走る風にはためく派手な着物姿は間違いなく華模木だった。




