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9.埋もれていたもの

 明美は清昭に、体の奥が少しケガをしたと言った。清昭は、自分があまりに求めすぎたせいだと謝った。そして明美が時折見せていたつらそうな表情を、この「ケガ」のせいだと思い、内心では安心したようだった。明美は「完治まで1か月かかる」と言い、二人でひと月の禁欲生活を送ることにした。

 けれど、いざ抱き合わずに一緒に過ごそうとなると、どうしていいのか微妙にわからなくなっていた。会う頻度も下がっていった。お互いそのことには触れずにいたが、まるで体が手に入らないなら大して必要ないかのようで、清昭は少し気まずく思い、明美は釈然としないものを感じた。

 ひと月たって「解禁日」…清昭に恐る恐る求められた明美は黙って応じた。再開してみなければどうにもならないから…。

 清昭はこわれ物を扱うように、優しく、優しく明美に触れた。明美の体に少しずつ火がともっていく。それが体をめぐって、陶酔感と心地よさにかわる。清昭がいつもよりもったいぶっているせいか、もどかしさが募った。

(早く…)

 明美は心の中でそうつぶやき、自分に驚いた。そんな風に思ったのは初めてだ。体が熱くて、苦しくて、切なくて…入ってきてほしいと思った。きっと気持ちよくなれる…。

「…初めて声出してくれたね…」

 清昭の声の響きにまで感じてしまう。必死で止める喉の隙間を声が漏れていく。こんなに感じたのは初めてだった。明美は朦朧としながら清昭が入ってくるのを待った。

 なのに、すうっと現実が入ってくる。明美は突然自分が覚醒するのに気付き、しばらく状況が飲み込めなかった。

 どうしてだろう。目を閉じて没頭しようと試みる。さっきまでの恍惚とした気分に自分を無理やり放り込む。けれど、…明美の心はまた冷えきってしまった。

(いけない、声出したのに、急に黙ったらおかしいと思われる…)

 演技、という冷たい言葉が脳裏をよぎった。でも清昭を傷つけたくはない。明美は少し、演技で、鳴いた。絶望が体を埋めていく。

(なんで、私、感じたふりとかしてるんだろう。最悪みっともない…)

 プライドに大きなひびが入った。でも、突然黙りこくったら、清昭を傷つけてしまう。涙がこみあげてくるのがわかる。だけど、泣くわけにもいかない。

(もうできない、嫌だって言いたい。言えたらいいのに…)

 長い拷問に耐え、明美がズタズタになった頃、やっとそれは終わった。


 徹底的に芝居を通して清昭と笑顔で別れた後、明美は駅沿いの公園のベンチでハンカチに顔を埋めて大声で泣いた。駅の放送と電車の音が明美の嗚咽を隠してくれた。

 限界だった。多分、もう次は耐えられない。本当のことを言ってしまいそうな気がする。

『気持ち悪くてもうできない。死にそうだから、やめて』

 清昭は、そんなことを言われて立ち直れるだろうか。

 直前まで心地よいと思っていた自分の気持ちに嘘はない。でもやっぱりダメだった。絶対に言えない。愛を確かめ合うはずの行為が、自分にとっては絶望だなんて。

(原因は私なの? 清昭くんなの?)

 確かめる手段のない問い。でも、もう限界だ。清昭に会うのが怖い。抱き合うのが怖い。どうしようもないところにまで来てしまった。次は苦しみを全部ぶちまけて、お互いに徹底的に傷ついて別れるしかないような気がする。いや、…多分、傷つくのは絶対的に、清昭の方だろう。立ち直れないほどに。

 清昭と別れたくはない。恋愛は心のつながりだ。体なんてささいなことだ。心が満たされているのに、体が苦痛だから別れるなんておかしい。

(…今、…灯也くんだったらどうなんだろう…)

 静かに禁断の思いが満ちてくる。もともと関係のあった身だ。新しく体を汚すわけじゃない。そして、灯也でも同じようにダメだったら、治療をする必要があるのかもしれない。逆に、もしも灯也と大丈夫だったら…この恋に問題があるのだろう。

 明美はそんな自分の考えを否定しようとした。でも、思考は進んでいった。

 もちろん、灯也はもう他人だし、愛してもいない…でも、割合簡単に抱いてくれるような気がする。例えば、深夜に二人っきりになれば。“あとくされなく”…。

 明美はそんな自分を汚いと、卑しいと思った。だけど、次の瞬間には、思考はまた同じところに戻ってきていた。

 治療なら仕方がないのかもしれない。体が嫌で別れるなんて言えない。調べなければいけない。他の人もダメなのかどうか。手段は、灯也に抱かれてみる…、そのくらいしか思いつかない。「秘密にすることと、言う必要がないことは別」。ゆがみを正すだけだ。

 ガソリンスタンドでの抱擁を思い出し、明美の胸が甘くうずいた。


 明美は長い苦悩の末、やっと清昭に電話をかけた。清昭の彼女のまま他の男に抱かれにいくわけにはいかない。戸惑う清昭に、明美は「別れてほしい」と告げた。

「…どうして?」

 清昭の声が電話の向こうで震え、明美の胸が痛んだ。でも明美自身に迷いはなかった。別れてほしいとくり返す明美に、清昭も必死で食い下がった。

「しばらく会いたくないなら、合わせるし…。なんで別れるとか、必要なの」

 気持ちはわかるけれど…と明美は思った。でも、じゃあ、正直に「体のつきあいが耐えられない」と言ったらどうなるのだろう。いわゆる「性の不一致」というこの状態は、もしかしたら実際に清昭のせいなのかもしれない。でも、違うかもしれない。

「どうしても、一人になりたいの。清昭くんの彼女じゃなくなって、一人で考えてみたいことがあるの。失ってはじめて見えることとかもあると思うし…」

「悩んでることがあるんだったら、二人で乗り越えようよ。それが恋人じゃないの。つらいこととか、苦しいこととか…、それとか、本当に二人の関係が終わっちゃうようなことでも、一緒に乗り越えようよ。俺、明美の悩みだったら何でも受け止めるよ。それが俺にとってショックなことでもいいよ。俺は絶対に大丈夫だよ。明美のこと好きだから」

 明美はまた、思ってしまった。子供だなと。「絶対」なんて本当はありえないのに、こんなに簡単に口にしてしまう…。

(…「なんでも乗り越える」って…私が13歳で初体験を済ませてたなんて知ったら、清昭くんは私のこと、どう思うの?)

 とっくに男を知っていたとわかったら…? 本当は結ばれることが苦痛だったと言ったら…? 抱かれながら、芝居をしたことがあると知ったら…? 体のことは、どうしたって一緒に乗り越えられない。体は怖い。相手のことは見えない。逆に、自分の心の中の知らなかったところまで、不思議な形で見えてしまう。

 でも、あるいは、もしかしたらそうしたこともすべて2人で乗り越えることなのかもしれない。所詮は、心を開ききれていないのがいけないのかもしれない。

(…でもね、清昭くんがそこまで受け止められるほど大人だとは思えないから…。きっと、中学の頃、理想論で生きていた私には、恋人のそういう過去なんて重すぎただろうから…)

 純粋だからもろく、傷つきやすい心。理想から外れているものをどうしても受け入れられない柔軟性のない心。清くて美しいけれど厄介なもの…。壊したら、もう、元に戻らないかもしれない。

(私が何かの心の病気とかだってわかって、こっそり治療して、何もなかったようにまた清昭くんと恋人に戻って、今度は正常にそういう関係になれれば…。そんなの、ずるいのかもしれないけど)

 大人だなと、明美は自分を思う。十代の恋愛は…、もっと切りつけ合って傷つきながら、お互いに成長していくものなのかもしれない。こんなふうに守りに入って、一緒にいるために嘘をつくなんて…。

 どんな手段をとろうと、どちらかが傷つき、どちらかが苦しむ。明美は、自分が傷つき、自分が苦しむほうがいいと思った。清昭には、そのまま綺麗な心で愛してほしい。それは一種の独占欲かもしれないけれど。

「明美が勝手に別れたって思ってるのはいいけど、…俺は認めない。絶対別れない」

 明美は切ない微笑を浮かべた。なんて純粋なんだろう。「絶対別れない」なんて、片方がどんなに主張したところでかなうはずはないのに。

(もしかして、清昭くんに、私はもうふさわしくないのかもしれない…)

 清昭はもっと“純粋な”者同士で恋をした方がいいのかもしれない。明美は知っている。理想どおりにはいかない人生のことも、理想を踏み外すことが必ずしも不幸ではないということも。

 何も言えない明美に、清昭の質問が刺さっていく。

「それとも、もしかして、他に好きな人ができたの? …それとも、もしかして、ずっといたのかな。俺、前に言ったよね。明美って、会話しててもなんかどこかに行っちゃうよねって。…もしかして、俺のこと、嘘だったんじゃないの」

 ああ、と明美は思った。誤解という形ではあるが、すでに清昭を傷つけている。もう、壊れはじめている。修復するなら急がなければならない。

「清昭くん、私には、清昭くん以外に好きな人なんかいないよ。私、清昭くんと幸せになりたいの。自分の理想があって、自分を信じてまっすぐ清昭くんと歩いていきたいの。…そのために、別れるのは、今、どうしても必要なことなの」

 本当の気持ちではあっても、その中には嘘がちりばめられている。清昭を裏切るために、そして裏切らないために別れる。もしかしたら結果によってはもう清昭とやり直せないのかもしれない。灯也と抱き合って心地よかったら、自分は一体どうなってしまうんだろう。

 長い長い沈黙の後、清昭はすりつぶされるような声で言った。

「…待ってるから」


 さすがに今回は、「清昭くんと一緒じゃないでしょうね」と母親に訝られた。

「じゃあ、清昭くんの家の電話番号教えるよ。私がいない間に、電話かけてみるといいよ」

 明美はにこにこして母親に清昭の家の電話番号を書いて渡した。

「あのね、今サークル用に書いてる原稿が、長野に関係ある話なの。調べたり、肌で感じたりしたいから、一人で行くの。心配しないで」

 親に嘘をつくのは、いつも灯也と会うときだ。明美は一人になってから苦笑する。

 灯也とガソリンスタンドで再会したのは9月。約半年が経っている。灯也はまだ同じ所にいるだろうか。

(でも、行き場がないみたいだったから…。きっとまだいる…)

 大学二年の新学期が始まる直前、4月上旬に、明美はまた2泊3日の予定で長野へ向かった。

 新幹線を降りると、長野駅は半年前と変わっていなかった。駅レンタカーの事務所で手続きをして、小さな白い車を借りた。若葉マークを貼る。少しペーパードライバー気味になっていたから運転に不安があるが、道もわからなかった前回よりも気が楽だ。灯也のためにとった運転免許。灯也に会うときにしか乗らない車。

(灯也くん、私ね、今、芸能雑誌の編集アシスタントやってるの。クロック-クロックに会えたら、灯也くんのこと、教えてもいい? …反対されるかな、やっぱり…。でも…またやってほしいの。クロック・ロック。灯也くんの歌が聴きたいの…)

 車を運転しながら、明美はずっと灯也に話しかけ続けた。清昭のことを考えると胸が痛む。明美が他の男に抱かれに行くなんて考えもしないだろう。それでも、今の自分は清昭の彼女ではない。せめて、別れるというおとしまえだけはつけてきた。

 灯也ともう一度関係して、それが不快でなかった場合はどうなってしまうんだろう。でも、事実を確かめないうちは何も言えない。机の上で考えて結論を出しても、それは机の上のものでしかない。

(人生は、理屈じゃない…、そうだよね、灯也くん)

 そう灯也に呼びかけて、明美は苦笑する。13歳の時に大人にされたのは、体じゃなくて、心の方なのかもしれない。

 たくさんの考え事をしながら車を走らせて、見覚えのある道に着いた。明美の鼓動が速くなった。見覚えのある民家、そしてその先には古いガソリンスタンド。ハンドルを切って車を入れる。時刻は14時20分。夜に会うなら、少し早すぎたかもしれない。

 小屋から駆け出してくる人影…。

(…あれっ…)

 灯也ではない。明美の胸を、ギュッと心臓をつかまれたような感覚が横切った。灯也はもういないのだろうか。

「いらっしゃいませ」

 中年の男性が運転席をのぞき込んだ。とっさに、明美はまたここに来る口実を作った。

「あの、…すみません、小鳥の森っていうところに行きたいんですが、道を教えてもらえませんか? お礼に、帰りがけにはガソリン入れに寄りますから…」

「あっそうー。いい地図、あるかなあー」

 男性は間延びした言い方で小屋へ戻っていった。帰りに寄る算段がついて、明美はとりあえずホッとした。以前来たとき店にいたのは灯也一人だったが、灯也が経営しているなんてことはないだろうから、今の人は店長で、灯也は店員だろうか。

 しばらくして、男性が古ぼけたパンフレットを手に戻ってきた。

「あのねえ、このガソリンスタンドは書いてないけど、こっち行ったら大きな道に出るから。それが、この道ね。この地図持っていっていいから」

 イントネーションが微妙に違うのは長野の方言だろうか。ふと明美は、地図を持つ男性の指が少し不自然に震えていることに気付いた。どこか悪いのだろうか。ガソリンスタンドなんて体力の要る仕事だ。だったら、きっとこの男性一人では無理に違いない。

(灯也くんは、きっとまだいるね…)

 明美はお礼を言ってハンドルを切り、アクセルを踏んだ。道に出ようとしたら、丁度反対車線からミニトラックがガソリンスタンドに入ろうと向かってきた。明美が慌てて止まると、ミニトラックもウインカーを出したまま止まった。明美はミニトラックの運転席を見上げた。

(…あ…)

 ミニトラックの方も運転席から見返していた。灯也だった。その目は間違いなく明美に気付き、少しだけ表情が変わった。でも、明美は背後にガソリンスタンドの男性の視線を感じ、そのまま道路に出るしかなかった。灯也も、そのまま車を入れるしかなかった。

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