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8.変化

 明美は清昭に駅まで送られ、一人で電車に乗っていた。

 実際に体が結びついてしまったら、むしろそれまでのこだわりや悩みが空しいくらいに無意味に思えた。もともと守るべき純潔もない。何歳だからというのであれば、世の中の女の子は19歳なんて半分は体験しているらしい。年齢的に決して早くもなく、真面目な恋愛の果てに訪れるものなら、他人にも自分にも恥じるべきものではない。むしろ、13歳の時の歪んだ初体験に後ろめたさを感じながら生きている方が苦痛だ。

 済ませてみれば、あんなに拒んで、目くじらを立てなければならなかった理由がよくわからない。いつかはそうなっていく…、そんなこと、とっくに知っていたのに。

(灯也くんとのことは、こうやって薄れていくんだな…)

 灯也はもう、唯一の男ではなくなった。もう他の人と普通のキスをした。もう普通の「エッチ」もした。灯也との特異な経験も、こうして並べるものができると、過去の思い出として当たり前の出来事のように額縁に入っていく。

 2人のうちの1人。

 そう考えたら、明美の人生を強く歪めてしまった広瀬灯也という存在が、数で数えられる単なる人生経験のような気がした。確かに、自分を大きく変える存在だったと思う。でもそれは生涯に一人っきりの存在ではない。誰もが長い人生の中でそういう「特別な」人と何人も出会ってゆく。明美にとって、その一人が灯也だっただけ。

(…ワンオブゼム)

 その「ワン」はとても大切なものかもしれない。でも、オンリーワンではない…。

(それに、悲しいけど、それは清昭くんも一緒なんだ。3年後の私は、他の人とつきあってて、清昭くんもワンオブゼムかもしれなくて…)

 灯也に抱かれるまで、明美は自分の体が生涯たった一人の男性のものだと信じていた。

『恋愛だけなのに体のツキアイとか、信じられないよね。結婚が前提じゃないとね』

 そんなことを悦に入って唱えていた自分が懐かしい。その傲慢な清らかさが愛おしい。

 清昭は、明美を手に入れて、幸せに打ちひしがれるように言った。

『ありがとう…責任はとるから。大学卒業したら、結婚の準備をしようね…』

 また、思ってしまった。それだけで「結婚」だなんて、子供だなと。でも…その子供っぽさを責める権利が誰にあるんだろう。清昭は純粋に今そういう気持ちなのに。

(私は…後ろめたい初体験が薄まってよかったとか、初めてじゃないってバレなくてよかったなとか、そんなこと考えてるのに。もう2人の人とこういうことがあったなら、もっと別の人とそういうことがある可能性だってあるんだなとか…)

 大人になって汚れるというのはこういうことかもしれない。灯也に体を預けてしまった時、灯也が最初で最後の男性であるかのように思い詰めた。そして、経験してしまった以上、もう自分に他の男性との恋愛は訪れないんじゃないかと考えた。絶望にも似た緊迫感が、あの頃には、あった。でもそれが本当は、ありふれた人生経験なんだと知る。「特別なこと」だった大事件が、「人生経験」の一言で平凡な出来事に変えられていく。

 二人で分かち合った初めての体験なのに、清昭と自分の温度差が切ない。

「大人、…か…」

 明美は声に出してつぶやいた。


 以来、会い方がかわった。デートに出かけることが極端に減り、とにかくお互いの家で会うのが中心になった。会った途端にそういう行為に陥るのが嫌で、明美は抗議した。

「清昭くん、…なんか、もう私のこと、体目当てになっちゃったみたい…」

 清昭は真面目に言い返した。

「それは絶対違うよ。俺、明美だからこうしたいんだよ。明美のこと本当にどうしようもないくらい好きで、だから全部欲しいんだっていうの、わかってもらえない?」

「私のこと好きっていうのが、私自身じゃなくて、体が好きになっちゃってないの?」

「他の人はどうだかわからないけど、俺は好きな女の子じゃないと絶対に嫌だよ。体だけで考えられるんだったら、風俗でいいじゃない。でも俺は絶対に風俗なんて嫌なんだよ。明美のこと体も含めて全部好きで…だからこうしたいのに、…明美は幸せじゃないの?」

 幸せ、かどうか。体で結ばれる行為が…。明美はゆっくりと自分の思考を矯正して、それから答えた。

「幸せだっていうのはわかるけど…」

 自分の体が清昭の手で露出されていくのも悪くない。「愛してる」「好きだよ」という言葉も、心の奥の真実の泉からわき出てくるように聞こえて嬉しい。温かい体同士を重ねるのも、大きな安らぎに包まれるような気がする。それと、これは心のずっと奥に仕舞っている秘密だけれど…、敏感なところを責められるのは気持ちいい。もしかしたらもっともっと、一日中裸で抱き合っていたいのかもしれない。女が求めるなんておかしいと思っていたが、本当はそうではないとわかってしまった。女の方もこんなに気持ちいい…。

 でも、ひとつだけ、よくわからないことがある。自分の体の中の、理解できないこと。ひとつだけ。さっきも「幸せじゃないの?」と訊かれてすぐに答えられなかった。

 理解できないこと。きっと時間が解決してくれると思って、明美はそのままにしている。

 明美も、清昭との行為を気持ちいいと思っている。…ただし、途中までは。


 大学生の3月はサークルの合宿たけなわだ。明美の映画サークルは4泊5日の春スキー合宿に行った。合宿の夜、女性部屋で先輩たちが性的な話に盛り上がって笑い合っているのを、明美は知らないふりで流していた。でも、ほうっておいてはもらえなかった。

「ノキ(明美の愛称)、そこでしらばっくれない! あんたも入りなさい」

 ほとんど強引に輪に引っ張り込まれ、明美は困りきった。どうもそういう話は苦手だ。

「ノキひとり、いい子ぶってるよ?」

 会話に入っていかない明美を、先輩方は容赦なく責めた。

「彼氏いるクセに、わたしわかんな~いみたいな顔して、ムカツク」

「あんたって、彼とキスまではどのくらいかかったの?」

 それまでのきわどい会話と打って変わってささやかなネタは、明らかに明美を恋愛初心者と見た質問だった。

「え、…それはだって、プライベートですもん」

「サークルは全部プライベートだよ。しかも自由参加の合宿だし」

 しらばっくれようとしたが、問いつめられて、明美は渋々答えた。

「…5か月くらい、です」

「すご!!」

 先輩方に笑われ、明美は目をパチクリさせた。何がどう驚かれたのかもわからなかった。

「さすが、清純派は違いますね」

「私、今の彼、つきあった当日だし」

 どうやら5か月かかるのは遅いらしいとやっと合点した途端、また質問された。

「…それでさあ、ノキってさあ、…もう彼氏とはシタの?」

 明美はドッと冷や汗をかき、それでもしらばっくれて、

「プライベートなので、お答えしかねます」

 と言った。先輩方は顔を見合わせた。

「やっぱ、そこまでいってるんだ」

「へえ、ノキでもねえ」

 明美は慌てた。

「え、なんで決めつけるんですか? 私は、答えないって言っただけですよ?」

「…ううん、ノキだったら、まだなら大々的に『まだです』って言うよねえ」

 明美は、初心者扱いどころか、子供扱いされているなと思った。不快ではないけれど、複雑だ…。

「だったら加わろうよ、こういう話も。ノキさあ、ラブホテルとか行くの? フツーに」

「普通ですか?」

 ついつい頓狂な声を出してしまい、明美はまた冷や汗をかいた。たしかに、「まだ」のときと「もう」のときとで、自分の態度はあからさまに違うらしい。

「普通じゃないらしい…。私ら、アブノーマルか?」

「じゃあ、ノキは行ったことないとして、ほかに、行ったことない人いたりする?」

 誰も手を挙げなかった。明美は驚いた。かつて本屋で見た「ラブホ特集」を思い出す。

「ノキ驚いてるよ」

「じゃあ、ノキは? ほんとに、1回も行ったことないの?」

「…ないです…」

「えーでも、じゃあどこでしてんの? 野外?」

 先輩方は一斉に笑い、明美は渋い顔をした。このサークルで唯一、価値観の相違を感じるのは恋愛談義の時。先輩や仲間はそれなりに華やかな人たちで、恋愛経験も豊富だ。性的なことは、「おいしいお店」と同レベルで普通に話題に上る。

 先輩方はひとしきり明美で遊んだ後、自分たちの話に突入していった。

「今の人が一番好きだけどさあ、前の男の方が体は良かったんだよね。切ないなあ」

「最近彼氏とうまくいってないから、まじイカなくなっちゃって。演技したよ、演技」

「実はさ、黙ってたけど、前彼とカラダだけ続いてたんだよね。お互いそれだけってことで割り切る約束で。でも、やっぱそういうのって病んでるかな? どう思う?」

 一人一人いろいろな事情を抱えている。明美は先輩方のリアルな話に目を白黒させていた。時々意味がよくわからない単語や暗黙の表現がある。理解できない心理がある。自分もいずれはそんな心理がわかっていくのだろうかと思いながら、難しい物理の講義を聴くようにして聞き入った。

「カラダってショックだよねえ。私自身が知らないことを知ってたりするんだよね。前に、超カッコイイ男と遊びでホテル入ったら、全然感じないの。頭では、この男、食うぞくらいのノリで思ってるのに、カラダは『なんで私こんなことやってんだ?』とかいう感じで冷めててさあ。もう絶対やんないと思ったね」

「カラダは正直だよね。落ち込んでるとか、結構出るよね」

「あーわかる。他に好きな人ができた時、彼氏とデキなくてマジ困った」

 体は正直…。明美は暗い気持ちになる。でも、そういうわけじゃない。裸で抱きしめられるのも、愛撫も気持ちいい。

 誰にも言えないし、誰にも訊けない。実は、清昭が入ってくると、冷めてしまう。ゾッとする時もある。その感覚は、自分の体がまだ幼いせいだと思っていた。実際、次第に体が熟していくのを感じていたから、きっといつか最後の行為も気持ちよくなるのだと思って待っていた。ずっと、何度も、耐えながら。

 皮膚の感度は上がっていくような気がする。でも、反応のないふりを必死で繕う。だって、そうでなければ、その後に突然冷静になった瞬間を気付かれてしまう気がして…。

 苦痛…それは少しだけ体、でも大半は精神的な。

『なんで私こんなことやってんだ?』

 さっき耳を通っていったセリフ。多分、それが近い。清昭が入ってくると、それまでの体の火照りも気持ちの高ぶりも全部冷めてしまう。血の気が引くように、すっと。『私、なんでこんなことしてるんだろう?』…自分が暗いどん底に落ちていくような絶望感。『早く終わって』とつぶやく。…それは次第に悲鳴にかわる。涙が出たのは一度や二度じゃない。

 自分の中に、何か清昭を受け入れきれないものがあるのだろうか。それとも、ずっと性的なものを拒んできた少女時代に、突然大人の男との大人の行為を体験してしまった心のゆがみなのか…。

 例え話や漠然としたイメージとして先輩方に何か訊いてみようかと思った。

 でも、明美は結局何一つ言えなかった。


(…やっぱり、灯也くんとのこと、トラウマになっちゃってるのかな…)

 自分ではそんなつもりはないのに。灯也のことは、ちょっとショッキングではあったけれど、いい思い出。

 清昭以外の人が相手だったらどうなのだろう。とはいえ、誰かと確かめてみるわけにはいかない。最近は清昭と会うのが少し憂鬱にも感じる。清昭のことは好きだし、体を許しあうのも幸福だ。…体に入られるその時間が苦痛なだけで…。「今日は抱きしめるだけにして」と何度か言ってみたが、男の子はそうはいかないらしい。

 先輩方は、こういう営みについて十分楽しんでいるようだった。自分だけが特殊だなんて、そんなごたいそうな人間のつもりもない。でも…。

 先輩方の性的なトークの断片を並べて、明美は思案に暮れる。どうして自分だけ悦べないんだろう。男がヘタだとか、そういう単純な問題ではない。だって、はじめは心地よいのだから。ただ、体が結ばれる瞬間、そこからもうスーッと冷めていく。頭の中の快感のもやがあっという間に消えていく。

 カラダの相性…そこはよくわからない。いろんな人と比べてみれば相対評価が下せるのかもしれないけれど。

(灯也くんとのトラウマ? …だとしたら、どう克服したらいいんだろう?)

 どうにかしなければ…。そうは思っても、結局苦痛は少しの間だけだ。どんなにつらくても終われば解放されてしまう。だからつい問題解決に消極的になる。

 いつかふと、目覚めるように気持ちよくなるんじゃないだろうか…。

 明美はずっとそう思っている。さすがに、もういい加減不安にはなってきたけれど…。


「…俺が悪いのかな…」

 突然背後から聞こえてきた沈んだ声に、明美は振り返った。清昭がベッドに腰掛けたまま暗い顔で足元を見つめていた。まずい、と明美は思った。清昭は、明美の苦痛を表情から読み取ってしまったのだろう。

「考えたくないけど…ヘタなのかな。それとも俺の体に問題があるのかな。…まだ、明美って、一回もイッたことないよね」

 すっと血の気が引いたが、それを隠して小さな声で言えた。

「…そういうのって、時間がかかるんじゃないの?」

「時間は、けっこうたったと思うけど…。問題があるのかな。…俺じゃダメなのかな」

 明美の心臓が喘ぐ。多分、そうじゃない…問題があるとしたら自分の方だ。

「それって…私に問題があるってこと?」

 明美はムッとした声を装って言った。救わなければならない。彼が悪いのではないと思うから。

「どうして、明美の方なの」

「私、別に不満とかないのに…なんで、そんな風に言うの?」

 そう、不満はない。苦痛があるだけだ。

「明美が気持ちよくならないから」

「そんなことないよ」

「イカないじゃない」

「それって、ないとダメなものなの? 私はよくわかんないし、別に必要ないと思ってるけど…」

「…」

「やっぱり、相手は私じゃない方が良かったのかな。…もっとちゃんと、こういうことに積極的になれる子だったら、いい関係が築けたんじゃないの?」

 いささか誘導尋問が過ぎるなと明美は思った。清昭が案の上の反応を返した。

「俺は明美じゃないと嫌だって何度も言ったじゃない」

「だって、私はこれでいいって思ってるのに…不満なのは、清昭くんの方でしょ?」

「…これでいいって思ってるの? …本当に?」

「なんでいけないの?」

 嘘だ、と明美は自嘲する。だからって…言えるはずはない。死ぬほど苦痛だ、なんて。

 私は満たされているよと何度も明美は言い、その都度自己嫌悪と暗い疑問に苛まれながら、二人はお茶を飲みに街へ出た。


 清昭を追いつめてしまったことで、明美は決心してメンタルクリニックを訪れた。家からも、大学からも、バイト先からも遠く…誰にも会わないところ。少しの間、アンケートを記入しながら待っていると、名前が呼ばれた。

 女医というから勝手に若くて綺麗な人を予想していたが、待っていたのは中年の女性だった。眼鏡をかけ、少し太めの体を小さくみせるように座っていた。

 明美はお辞儀をして椅子にかけた。そして、大切な恋人とのそういう行為の際、肝心の所で突如冷めてしまうことを話した。女医は「ちょっと体を見ますね」と言って聴診器を腹と背中に当て、服の両袖をまくって腕を見た。明美は、恋人からの暴力等といった形跡を見ているのではないかと思った。聴診は服をまくり上げるための口実に見えた。

 身体に異常がないことを確認して、女医は問診を行った。具体的に、どの段階で、どういった心境になるのか。相手のことをどう思っているのか。自分に対する感情も。

「その原因になるかもしれない過去の出来事など、心当たりはありますか?」

 気の重い質問だが、答えなければならない。

「…13歳の時、一度だけ、男性とそういう関係になりました」

 女医の動作が一瞬止まったのは、13歳という年齢のせいだろうか。

「具体的に話してもらっても構わない?」

「おつきあいというわけではないんですが、私がその相手に一方的に憧れていて…」

 どうしても美しく話してしまう。多分、これではいけないのだろう。

「でも、性的な興味があって近づいたんだって、ハッキリ彼に言われました。…それでもいいような気がして、一度だけ、なし崩し的に…。でも悪い印象は持っていません」

「その方とは、そのまま?」

 女医は努めてビジネスライクに話を進めていく。是も非も決めないし、そうした判断をさしはさんでいる気配すら感じさせなかった。

「5年くらいは本当にそのままだったんですけど、去年の夏、…再会して、少し、話をしました」

「どんな話を?」

「あの時はすまなかったとか…私のこと、心配してくれてたみたいでした。…それから、今の暮らしが淋しいって、そんな話を」

「その時には、男女の関係はなかったの?」

「…そこまではなかったですけど、少し…触れるくらいは…」

「その後は?」

「いえ、もう会ってもないし、何も…連絡手段はないし…、お互いに何も知りません」

 女医はまとめてメモを取った。そしてそのまま話題を変えた。

「それで、今回の相談の件だけど、今の恋人と深いおつきあいになった時はどういう過程をたどったの?」

「多分それは、…今の私の年齢だったら、まあ、普通なのかなっていう…。つきあうことになって、手をつないだり、キスをしたり、その延長線上で…」

「ご自身で、そうした関係に納得いかなかったりとか、そういうことはなかったの?」

「それは、…それなりに、誰にでも、葛藤みたいなものはあるんじゃないでしょうか…。向こうの勢いに押されて、断りきれなかったというか…」

「今は納得されてるの?」

「あの、多分、…本当に、私の、その問題の起こる瞬間まではとても普通だと思うんです。相手のことが好きで、求められて、幸福だと思うし…実際に、普通の女性と同じように、気持ちよさを感じないわけじゃないし…。

 ただ、その…体に入られると、それまでの幸福感とか、気持ちよさとか、全部抜けてしまって…。なんか、ストンと、現実の自分に戻されて、私何やってるんだろうって思って、あとはただ我慢してるんです。うんざりするんです。なんでこんなことしてるんだろうって。…彼のことは好きなのに、なんでだろうって思うとますますつらくなってきて…。

 自分が我慢して済むならいいと思ってたんですけど、彼が気付いてしまって…」

「もう具体的に問題が起こってるんですね。少し、メモを取る時間を下さいね」

 しばらく女医はメモを取っていた。明美は何が書かれているのか気になったが、殴り書きの英語だった。それから家庭環境、幼児期の育てられ方、両親に対する思いなどを聞かれた。明美は何の変哲もない幸福な家庭と、真面目な幼少期を語った。

 最後に、女医は所見を述べた。家庭環境の歪みも心的外傷もみられない。特に薬を出したりするような治療も必要ない。ただ、…。

「ただ、気になった点が二つほどあったのでお伝えします。ひとつは、…あなたは以前関係のあった年上の方に対して、まだ強い憧れをおもちではないですか?」

 ある程度は予想していた答えだった。話していないが、相手は当時のトップアーティスト、広瀬灯也だ。憧れが消えることなんて永遠にないだろう。

「…それは、一応、私も考えました」

「それともうひとつ、…今おつきあいしている方に対して、あなた自身の感想が希薄ですね。それは現在恋愛中だから、かえってそうなってしまうということもあるかもしれません。でも、以前の方に対しては具体的に話されるのに、今の方については一般的とか、普通とか、そういう言い方ばかりされていました。恋愛に、一般的も、普通も、ないと思いますよ。百人いたら百通り、あると思います。それをあなたが簡単に片付けたのが、ふしぎだなあ…と思いました」

 明美にはピンとこなかった。平凡な幸福…、自分が求めているのはそういうものだ。広瀬灯也の記憶は確かに平凡でないけれど、その差を問題視する必要はないような気がする。

「まずは、相手の方に協力していただいて、しばらく体の関係をやめてみてはいかがですか? もしかして、最初だけ偶然に、体調などの関係でつらかったのかもしれませんよ。そして、それを問題だと思い込んで、どんどん思い込みが強くなっていっているのかもしれません。しばらくは心のおつきあいの方を優先させるのをお勧めします。二人で会える時間が多いようですので、ひと月も関係を止めたら、かなり気分も変わってくるんじゃないでしょうか?」

 明美は病院を出た。こうした診療に健康保険が使えるのかわからなかったし、扶養家族として父の健康保険で性的なカウンセリングを受けるのも避けたかった。誰にも、何も知られないために、すべて自己負担で診療費を払った。名前も木田明実と書いていた。

 明美は、親の庇護を離れ、はじめて大人になったような気がした。そしてこの地球上に偽名ではあっても自分自身の性的な異常事態がカルテとして記録されたのは、取り返しのつかないことのように感じられた。

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