7.合流
明美は、清昭との初めてのキスから逃げ出して、家に帰らずに硝子に会いに来た。硝子の家のそばのファミリーレストランで、メニューを前に向かい合った。
「ごはんは?」
明美は恐縮しつつ問いかけた。
「もう、家で食べたよ」
「じゃあ、なんかごめん、来てもらったのに…私はごはん食べるね」
「どーぞ。私は嬉しいわ、明美が私に頼ってくれるようになって」
注文を済ませ、明美は話を食事の後にしようかと少し迷ったが、もったいぶるのも申し訳ないような気がして話し始めた。
「先々週にさあ、私、彼氏とどうしようかみたいな話、したじゃない。…それで、今日いきなりキスって、どう思う? …合意じゃなくて、強引に」
「語呂が合ってるね」
「そういうの、今、笑ってる余裕ない…」
「ゴメン、盛り上げようと思って。…それはオドロキね」
「うん…それで、逃げて来ちゃった…」
しばらく硝子は考えていた。そして訊いた。
「逃げてきたっていうのは、びっくりしたから? 嫌だったから?」
「…びっくりしたし、納得いかなかった」
硝子はもうしばらく考えた。そして優しく言った。
「じゃあ嫌ではなかったのね。…わかってあげなよなんて言ってもきっと無理だろうね。私には、初めての恋に自分を見失う少年の迷いと暴走ってそれなりにわかるんだけど…。でも、私が明美の立場だったら、やっぱり裏切られたような気がするだろうし」
明美は不安に目を伏せながら、告白の準備をした。
「…ねえ、硝子…。私の立場って言ったけど、それってどういう立場? …それは、初めての恋愛とか、ファーストキスとか、そういう風に思って言ってる?」
硝子は不思議そうな顔をした。
「え、うん。…男の子のことはわかるまい、って思ってたけど、怒った?」
「そうじゃなくてね…」
ためらいはあったけれど、自分一人で抱え込むには大きすぎる悩みだった。明美は勇気を出して次に進んだ。
「確かに恋愛は初めてだし、男の子のことってやっぱりよくわからないんだけどね。…あのね、…本当は、キスは、はじめてじゃないの…」
「ウソ!」
硝子は人目を可能な限りはばかった状態で最大限の驚きを見せた。
「どういうこと?」
「うん…以前ね、ちょっと、…好きになった人がいて、それでキスはあったんだけど…、でも、向こうは、遊びとか冗談とか…、私のこと、そのくらい、だったみたい…」
遊びという響きに言葉がつかえる。ただ騙されたのとは違う気が、今でもしている。長野で再会してからはなおさら。
「だったら、その人とおつきあいとか、そういうのはあったんじゃないの? なんか、恋愛はよくわかんないみたく言ってたから、全然知らないのかと思ったら…」
「ううん、相手はずっと年上の人でね、キスはされたけど、恋愛とは違ったみたい…」
「そうなんだ、知らなかった…いつのこと?」
明美はギクリとした。硝子は、中学時代に明美が広瀬灯也と顔を合わせたことがあると知っている。明美が「追っかけをして」一度会っただけと言ってあったし、そんな昔のことは忘れているだろう。でも、上手に答えないと、硝子がそのことを思い出してしまう。
「高校の時…。2年生、くらいかな」
明美は嘘を言った。
「そっか、それじゃあ初彼氏は確かに今の人だし、ちょっと複雑な事情だよね」
硝子は明美の告白を灯也と結びつけて考えなかった。明美はホッとした。そして、複雑な気持ちになった。そんな昔のことを、こんなに気にしているのは自分だけだ。
「それでね、…彼氏は、今日のデートの後すごく勝手にキスしてきて、私のこと清純派だからこうするしかなかったとか、そんな風に言い訳してたんだけど、…ホントははじめてじゃない自分も嫌だし、勝手な彼氏も嫌だし…、それで硝子のとこに逃げてきたの」
硝子はまだどこか驚いた顔をしていた。そこにウエイトレスが硝子のお茶と明美の食事を運んできた。会話は一時中断された。
ウエイトレスが行ってしまい、硝子が口を開いた。
「実はキスがはじめてじゃない、とか…そういうのにこだわってるところが、明美もまだまだ清純派なんだよね。みんながみんな、本当に結ばれるべき運命の人に出会うとき、カンペキな純潔を守れてるわけ、ないじゃない。…それに、自分を全部受け止めてもらおうっていうのも、甘えだよね。大切な相手だから言えないっていうの、アリだと思うよ」
「…でも…」
「そんなの真実の愛じゃないとか思ってるの、やっぱ、明美がまだ男の子とつきあった経験が少ないからだと思うよ。秘密をもつのと、言う必要がないのとは、全然別の問題だよ」
明美が沈痛な表情でうつむいていると、硝子が「食べなよ」と言った。明美はおずおずと食事を始めた。自然、お茶しか飲んでいない硝子の方が饒舌になった。
「明美のファーストキス問題は、いいじゃん、気にしなければ。なんなら前のは抹消しちゃえばいいし。物理的にどうこうとか、そういうのは所詮物理的な問題なんだし。明美が今日のをファーストキスにしたかったらそれでもいいんじゃない?」
「…でも…」
「だったら、その年上の人とのキスは納得してるの?」
「よくわかんない…。事実は事実かなって思ってる。いいとか、悪いとかはわかんない…」
そうだろうか。いや、確かに中学生の時のことはよくわからないままだ。でも、長野でのキスは、確かに甘く、美しく感じたのを覚えている。認めたくないけれど、「いいとか、悪いとか」で選べば、いいこと、だったと思う。
「とりあえず、今日のもそれと同じ、事実は事実ってことじゃダメ?」
「そんな、簡単な…」
「明美もそうかもしれないけど、彼氏もさあ、自分でも恋愛にわけわかんなくなってるんじゃないのかなあ。彼、落ち込んでると思うよ。ケータイ、死ぬほど着信してない?」
「…切ってある…」
「じゃあ、留守電に死ぬほど入ってるよ。軒田家にも電話行ってると思うよ」
果たしてそのとおりで、電話を入れると明美の母親は心配していた。清昭が「ケンカをした」と言ったらしく、明美も口裏を合わせ、「今、硝子に喫茶店で愚痴ってるから」と電話を切った。
「彼に電話してあげたら?」
「…それは、…今、あんまりまだ話したくない…」
「めんどくさいね、初恋同士って。…でもまあ、人生において、乗り越えないといけない壁なんだろうね。たださ、…ずるい理屈だって言うかもしれないけど、今回の彼のキスと、前回の明美のキスと、お互い様ってことで帳消しにしたら? …彼氏は勝手だったし、明美は秘密があったじゃない。…どっちにも、言い分や事情があったりするんだと思うよ」
明美の感情も、食事が終わる頃にはだいぶ落ち着いていた。本当のところはファーストキスじゃないのだから、初めてとかそうじゃないとかこだわるのもナンセンスだ。裏切られたというなら、自分だって灯也との過去や、長野でのキスを黙っている。過去の分はともかく、長野でのことは清昭とつきあっている最中のことだ。
結局は「お互い様」なのかもしれない。恋が理想や理屈だけでは済まないことはわかっている。明美は、硝子のお茶代をおごり、礼を言って帰っていった。
帰宅すると「清昭くんから伝言」とメモを渡され、しかも携帯電話の留守番電話に「とにかく電話がほしい」というメッセージが3回入っていた。長い謝罪メールも入っていた。明美は3日間、放置した。毎日のようにアルバイトに通い、夜10時過ぎに帰宅した。
「明美ちゃん、ケンカはいいけど、意地張るのはやめなさい」
母親は何度も電話を受けているらしく、明美を一生懸命たしなめた。
木曜日、アルバイトがなかったので、明美はやっと清昭に電話を入れた。着信表示で誰だかわかるだろうからと、電話が通じても声を出さなかった。
「明美、ほんとゴメン…」
消え入りそうな清昭の声がした。明美はまだ黙っていた。
「怒ってるのか、俺のこと嫌いになったのかわかんないけど、今度の日曜は会って…」
沈黙が続いた。
「…もう会えない…?」
清昭の消え入りそうな声を聞いて、明美はやっと満足した。
「この前のことは全部忘れるし…なかったことにする。もう絶対しないで」
「わかってるよ、本当に反省してるし、後悔してるよ…」
日曜日に会い、清昭に必死で謝られながら、明美は全身で不機嫌を装ってみせた。でも、心の中では後ろめたい思いに駆られていた。
(灯也くんに長野でキスされたときには、灯也くんのこと、自分勝手だとか怒らなかったのにね)
ガソリンスタンドの小屋での長いキス。逃げようとも、遮ろうともせず、ただ終わるのを待っていた。心の奥底では、気持ちいいと思っていた。理由はない。難しいことを考えても仕方がないのだろう。感情というのはそういうものなのかもしれない。だから、清昭の気持ちも、理屈ではどうにもならなかったのかもしれない。
かといって、このままなし崩し的に清昭とのつきあいが進展してしまうのは嫌だった。許したと思われたら、どんどん突っ走られてしまう…。
「でも、一つだけ言っておきたいのは…、明美が男だったら、多分、今の俺の気持ちと同じ感情味わったらきっと、すごく苦しいと思うよ」
清昭は一生懸命言ったが、
「清昭くんも私だったらショックだと思うよ」
という明美の言葉に迎撃され、墜落した。
「…ねえ、清昭くん…。私たち、なんだか先入観とか、勘違いとか、そういうものにたくさんとらわれてつきあってる気がしない…?」
明美は静かに言った。きっと、まだわからないだろうと思いながら…。
「例えば、どういう?」
「…私のこと清純派とか言ったけど、今清昭くんと男女交際してる時点で、私に清純派って言葉は当てはまらないと思うよ」
「そんなことないよ、今の普通の女の子って、みんな、信じられないくらい乱れてるじゃない。大勢彼氏とっかえてたり、二股とか三股とかかけてたり、簡単に男とホテル入ったり。明美なんかすごく慎ましくて、清楚で、真面目だよ」
一瞬、明美は清昭の中にずっと昔の自分を見た。マスコミの流す情報を鵜呑みにして「みんなバカ」と言っていた頃…。
「真面目な人、私の他にもいっぱいいるよ。一部の極端に乱れてる人を基準に考えるのって、それはそれで間違ってると思うよ」
そう言ってから、明美はそんな自分の言い方が、ずっと昔の灯也に似ていると思った。
(…灯也くんって、こんな風に私を見てたんだ…)
純粋かもしれないけれど、偏った価値観。美しいと言うこともできる。でも、あるいは愚かな子供と言うこともできる…。明美はその感覚から逃れるために言葉を続けた。
「私たちまだ7か月と少ししかたってないじゃない。多分、もっと、何年とか一緒にいたらいろいろなことに気付いていくんだと思う。今、私たちがお互いに見てるお互いの姿って、すごく勘違いとか誤解とか、あるんじゃないのかな。…私は、そういう風にたくさんわからないことがある状態で、キスとか進んでいく勇気がない」
静かだが強い明美の語調に対し、清昭の言葉にはあまりに力がなかった。
「…わかったよ、本当にゴメン。でも、…ホントに他の人と比べるわけじゃないけど、…俺は、明美に全然手出してない方なんだよ…」
明美には、他の人の進行スピードなんか興味はなかった。自分のことになると周囲の人の早熟さをものさしにして自分を正当化するのに、明美を清純と評するためには同じものをけなす対象にする、そんな清昭をずるいと思った。そして、そのずるさがかつての自分の中にもあったような気がした。
けれど、だから清昭が間違っているとか、そういう風には思わない。どうやら少し、自分の方が大人なのだろう。時折訪れるこういう葛藤は、相手を知るために必要なプロセス。恋だからこそ、つきものの障壁。
誰かと一緒に生きていくことは難しい。乗り越えたり、挫折したりしながら、ともに生きる運命の人を探していくのが「恋愛」なんだろう。だから、はじめてのキスでつまずいてしまった清昭との交際も、乗り越えていけるように頑張っていかなければ…。
明美は、清昭に「もう絶対不意打ちはしない」と約束させ、もとのさやにおさまった。
一人になってから、明美は自分の新しい感情に気がついた。
19歳で初めて経験した、恋の果てのキス。これでやっと、「追いついた」という感覚。13歳のファーストキスはあまりに早すぎて、そして恋ではなくて、自分の中でずっと違和感だった。時間がねじ曲がった場所。経験だけが先走っている。
清昭と唇が触れた瞬間を思い出す。強引でよかったのかもしれない。だって、清昭との「ファーストキス」の瞬間、灯也とのことはまったく思い出さずにいられたから。きっと、「いい?」と訊かれたら、待たれたら、思い出していただろう。
かつての衝撃の体験も、こうして次の体験に消されて薄れていく。清昭とのキスを二人だけのものにできた。納得のいかない経緯になったが、他の男の影がちらつくよりずっといい。明美はやっと、清昭とのはじめてのキスを嬉しいと思うことができた。
明美の一週間は、月曜日に大学に行くことから始まる。かつて「真面目」の称号をほしいままにしていた軒田明美も、結局は普通の人で、楽な授業はサボったりしている。むしろ、大学の後のアルバイトが楽しい。事務書類を作る。会議で使う書類のコピーを取る。資料を図書館に探しに行く。掲載紙を関係者に送付する。版が組まれた後の写真原稿の整理と、資料室への保管依頼。競合他誌のスクラップ。いくらでも仕事はある。ただし深夜のアルバイトは禁止。遅くなっても21時には必ず帰される。
不思議だなと、明美は思う。地味で真面目でおとなしい「優等生」…恋にも疎くて、18歳でやっと初彼氏ができたような自分が、華やかな芸能界に関係のある雑誌の編集アシスタントをやっている。マスコミ業界というのもエネルギッシュ。わからないものだなと思う。自分に縁のない世界だと思っていたけれど、実際に入ってみると決して違和感のある場所ではない。
土曜はサークルに出る。映画のシナリオとか、原作候補の作品とかは、主に家で書く。アルバイトが忙しくてなかなか書けないから、最近は授業中にプロットを練っていたりする。サークルに出るときは、主に、今撮影をやっている人の作品の手伝い。レフ板を持ったりもするし、エキストラもするし、撮影場所付近を避けて通ってもらうための交通案内係もやる。本当は地味に小説とシナリオを書くだけの活動をするつもりだった。でも、のうのうとそんなことだけやらせてもらえる余裕はなかった。
アルバイトとサークルで自分が変わったような気がする。いつもおとなしかったはずなのに、今では毎日駆け回って過ごしている。子どもの頃から黙って本を読み、詩や小説を書いて過ごす文学少女だったはずが…。
日曜日は休みで、よく寝ているか、清昭と会うかのどちらか。明美はこうして1週間を終える。忙しくて、怒濤のような毎日。でも充実している。
『なんか、軒田さんって、植物、みたいだよね』
つきあい始める前に清昭に言われた言葉が、今では不思議だ。そして思う。植物のような自分を好きになった清昭は、こうして変わっていく自分をどう思っているのだろうと。
明美は突然不安に駆られた。「恋に恋する」という言葉が浮かんだ。清昭だけでなく、自分自身に対しても。そして、そんなことを考えてもしょうがないとも思い、振り払った。
2人ははじめてのクリスマスを迎えた。何もないのが好きな清昭と明美は、明美の部屋で手作りのクリスマスをすることを選んだ。
「豪華に高級ディナーとかクリスマス特別メニューとか、そういう方が良かった?」
「ううん、要らない。なんだったら、5年に1回くらい、そういうのがあれば十分」
「でも、その5年に1回を、今回の初めてのクリスマスにすればよかったかなって…」
「全然。むしろ、はじめてのクリスマスは、自分らしく…自分たちらしく過ごしたいの」
「とはいっても、男にも、格好のつけどころっていうのがあるんだよ?」
明美は笑って流した。清昭にそういうのは似合わない。
でも、かつての野暮ったい眼鏡の少年から抜け出したいのか、清昭はそれなりに身なりに気をつけるようになってきた。秋からは眼鏡もコンタクトにかえた。とはいえ「オシャレ」まではたどり着けていないけれど…。
二人だけの、初めての大切なクリスマス。清昭は明美にキスを求めた。明美は戸惑ってみせたが、もう心の中では許していた。
ゆっくりと触れる唇。一度離れて、お互いに気持ちを落ち着かせて、…そして、もう一度。清昭は「その先は?」と小さな声で訊いた。明美は「ダメ」と答えた。
だから、クリスマスはそこまでだった。
大晦日、お正月、バレンタインデー…、冬はとにかく、イベントが多い。大学の授業もろくになくて、自由な時間がたっぷりある。大学生の恋人たちが盛り上がるには十分な季節。明美と清昭は、バレンタインデーに正念場を迎えていた。
「もう少し」
清昭はそれを何度も繰り返して、そのたびに少しずつ進んで、クリスマスからひと月半の間に明美の体に触れ、服を取り払うところにまでたどりついていた。
「清昭くん、…早いよ、なんだか焦ってるみたい…。私、まだそんな気持ちになれない…」
明美は同じような言葉を何度も口にして、それなりに拒否を伝えてきた。そのたびに清昭は「もう少し」と言った。
「お願い、もう少し…」
「だって、いつもそうやって、結局もう少しじゃないんだもん…」
「最後まではまだいいから…ホントに、もう少しだけ…」
清昭の切ないため息が明美を責める。許さない自分が悪いような気になってくる。そして少しだけと思って黙る。そうすると、清昭が「もう少し」を遂げる。その「もう少し」は服の上から触れることであり、じかに触れることであり、服を奪うことであり…。
そしてもう、残っていることがほとんどなくなっている。
「本当に…最後までは絶対しないから…」
清昭の掌が、唇が、明美の体中を這う。明美は体中を硬直させてその行為を受ける。でも、いつも心配していることは…。
(初めてじゃないって、わかるのかな…? 何か明白に、証拠って、あるものなのかな?)
テレビドラマや漫画で、行為の後に、初めてだったの初めてじゃなかったのという会話が出るのをよく見る。何か、誰が見てもわかる純潔のしるしというものはあるのだろうか。初めてのときに出血する人もいるらしいが、それが純潔の証拠とも限らないらしい。何を根拠にしているのだろう。何で調べればいいのかわからないし、人に訊くのははばかられる。どうしてもわからない。何か明白な「過去」のしるしがあって、それが男の側にわかるとしたら、清昭はどんなに傷つくだろう。
そう思って、明美は自己嫌悪になる。過去を知られたくないとか、相手が傷つくだろうとか、そういう問題じゃないはずだ。自分が清昭と結ばれたいかどうかが大切なのに。
…とはいえ、「考える」とか「問題」とか、そんな難しいことじゃないことも最近わかりはじめている。清昭の触れる部分が脳に不思議な信号を送っているのがわかる。だから、ダメだといつも言いながら、しばらく続けられると拒めなくなる。痺れるような感覚に身を任せて、理性が消えていくのを感じる。
(まだ、つきあい始めて1年もたってないのに…こんなこと…)
繰り返し、そう思って止めようとする。でも、清昭の切実な渇望と自分の中の不思議な痺れが、理性の介入を許してくれない。
バレンタインデーは清昭の部屋で、日中、両親が出掛けているのをいいことに抱き合う。清昭が部屋のドアにしっかり鍵をかけるのを見て、明美は最初から、この部屋で二人がどうなるのかわかっている。なのにそのことにしらばっくれて、何でもない顔をして座る。そして予想通りの展開にまたいつもの「ダメ」を唱える。ダメだけど、清昭が明美を押し倒して、結局は続きをはじめてしまう。
「…つらい…」
清昭の声が漏れた。明美も、自分が悦びを感じている事実を隠すのに必死で、我慢に我慢を重ねて、とてもつらかった。
「どうして最後まで…ダメなの?」
「どうしても…」
ほとんど条件反射にすぎない。その先までかまわないと体がガンガン伝えている。
「つきあい始めてから一年とか、三年とか、たたないとダメとか思ってる?」
清昭がため息に乗せて思いを吐き出す。明美は戸惑う。
「…そういう風に、期間とかで考えてない…」
「多分、考えてるよ。明美は、いつまではダメとか、理屈で考えてるでしょ…」
「そんなことないから、今、ここまでOKしてるんじゃない…」
男女の最大の駆け引きは、結ばれるかどうかを決めるこの瞬間なのかもしれない。
(…ダメだもん、大学生でそういうの、それに私まだ19歳だし、…絶対ダメだもん…)
そんな言葉を反芻しながら、明美は必死で心地よさを律していた。清昭は、そんな明美の必死さを、初体験に震える初々しさだと思っていた。
「お願い…。もう、俺、本当につらい…」
清昭の声に、明美はまともに答えられなかった。どうなってもいいような心地よい痺れが体から退いてくれない。でも、とりあえずは「ダメだ」と答えなければならない。
「ダメ…」
断固拒む明美に、清昭は強行突破をしようか迷った。勇気はなかなか出なかった。かわりに指で触れた。明美は声を失い、必死で抵抗した。
「どうして? まだ19歳だから? 大学生だから? つきあい始めて1年たたないから? …それとも、俺が相手じゃ嫌だから?」
明美が返事に窮していると、清昭の指が動いた。明美は驚愕に目を見開き、顔を逸らして苦悶の表情になった。ショック…としか表現できない、何かが事実として訪れてしまった衝撃。体の中に入られるという感触。そして、思い出してしまう、昔の…。
「…痛かった…? ゴメン…」
清昭の心配そうな声に、明美は気まずさを覚えた。
(ゴメンね、…私、はじめてじゃないから…)
余計なことを次々に思い出す。13歳のあの日、灯也と最後に会って、逃げるように家に帰って…、泣きたくても泣けない、感情が何かにコーティングされてしまったような感覚。のどの奥から何かがほとばしる、何かを吐き出したいような気分。痛み。母親に見つからないように捨てた下着。翌月のしかるべき日まで続いた不安…。
あの時に、乗り越えなければならないことは乗り越えてしまった気がする。もしも清昭とたどりつくことになったらと、予定を決めるときに体調を計算した自分がいる。痛むかもしれない、でもそれは仕方ないと思った自分がいる。そしてきっと、その瞬間が訪れてもあの時ほどのショックはないだろう。相手が何をしたいのかを知っているから。
あの時は…本当のところ、わかっていなかった。裸で抱き合えば、それが行為なのだと思っていた。灯也が体に入った瞬間、明美は初めて生殖のメカニズムを正しく理解した。
「明美…」
明美は清昭の声で我に返った。いけない、また「どこか」に…、最近は指摘されないけれど、ずっと以前に言われた「どこか」に行ってしまった…。
明美が気まずく目をそらした瞬間だった。
「…ゴメンね…」
一瞬、その言葉の意味がわからなかった。でもそれは一瞬だけだった。
その日、明美と清昭は結ばれた。