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6.本当の気持ち

 明美の両親に挨拶を済ませた翌週、明美と清昭は待ち合わせて清昭の両親を訪ねた。

「なにせこんな子でしょー。女の子に興味があって、ホッとしたのよー」

「ホントに、そういう意味ではコイツは信用できるから。もてないしな」

 清昭の両親は明るく笑った。

「だからさ、別に、結婚とかそういう挨拶じゃないからね」

 清昭は大真面目に注釈した。

「わかってるわよ、まだ大学生じゃない。貯金もないクセに、おかしな心配しないで、5年ぐらいたったらそういうことも考えられるように立派な男になんなさい」

 清昭の両親はにぎやかな人だった。明美は清昭の両親に好感を持った。自分の親は二人とも真面目でおとなしい方だし、明美もそうだから、とても静かで、穏やかすぎる家庭である。けれど、清昭の家庭では両親がにぎやかで清昭が物静かだった。

「だいたい、ケーキ、なんで1人2つも出すんだよ…」

「1コだとケチくさいじゃない。大丈夫よねえ、明美ちゃん」

「あ、はい、いただきます…」

「俺は1つでいいから、3コ食べない? 明美ちゃん」

「父さん、迷惑だよ! そんなに食べる子じゃないんだから、無理させないでよ」

「あら、太った子だったら『そんなにたくさん食べちゃダメ』ってちゃんと言うから、いいのいいの。健康的に細くって、いいわね明美ちゃん。手、キレイね、触らせて~。若いわ~」

「なれなれしく触るなよ…」

「俺も」

「お父さんはダメよ、触っちゃ。セクハラオヤジ。清昭がふられたら、どうすんのよ」

「スマン、それは困るな。もう金輪際彼女ができないかもしれないのにな!」

 普段落ち着いて真面目な清昭が、両親の前では喜怒哀楽を遠慮なく顔に出す。明美は来て良かったと思った。こうして少しずつ、相手のいろんな顔を知っていく…。

 やっと挨拶とお茶を終えて、2人は清昭の部屋にやってきた。

「…ほんとゴメン。ウチの両親、今日は格別ハイテンションで…。嬉しかったんだと思う」

 清昭は真っ先に謝った。明美は笑顔で答えた。

「ううん、私は本当に楽しかったの」

「どこが?」

「ご両親の人となりもわかってよかったけど、それより、ご両親と一緒にいる清昭くんが、ああこういう人なんだなーって。それが嬉しくて…」

「そう? いつもと…違うかな」

「すごく違う。元気」

 清昭はしきりに首をかしげ、「そうなのかな」と言った。

「それより、私、男の子の部屋入ったの初めて…。見てもいい? いろいろ」

 明美はごく自然にそう言ってから、急に冷水を浴びせられたように気付いた。

(…違う、…私、「男の人の部屋」は入ったの初めてでもなんでもないんだ…)

 あわてて記憶を振り払う。

(そういう、一人暮らしの「部屋」じゃなくて、あくまでも「子ども部屋」の延長として家庭の中にある男の子の部屋…それは初めてだから)

 自分に言い訳をしながら、明美はわざと笑顔を作った。清昭は明美の嘘や隠し事にはまず気付かない。だから大丈夫だけれど、自己嫌悪は感じた。

 大学受験の時の参考書と問題集が全部残っている。それとパソコンに模型。…ベッドがあって、その上には仰々しく模型の箱が出しっぱなしにしてある。ほかはどうやら明美が来るので片付け、大掃除をしたらしい。なぜこの模型は…。

 明美は清昭の態度を見て、ベッドをふさいで見せたかったんじゃないかと思った。この上に倒れ込むことはないよと、清昭は安全を主張したいのだろう。

『このゆっくりすぎるペースが、実はもどかしかったりしないか』なんて…。明美は心の中で微笑んだ。そんなことはない。真面目で誠実な恋愛、そう思うと本当に誇らしい…。

「明美」

 清昭の声が響いた。少し声の感じが違っていた。

「何…」

 明美は返事をして振り向こうとした。けれど、それよりも清昭の方が早かった。

「ゴメン」

 明美は突然抱きしめられて言葉を失った。なぜ、と思った。清昭らしくない。もちろん、嫌じゃないけれど…。

「ゴメン、…このまま、…嫌じゃなければこのまま聞いて」

 清昭の声が震えた。明美はそのまま立っていた。

「ゆっくりって言ってたけど、…嘘ついてたつもりもないけど、今、会うたびつらい」

 明美の鼓動が速くなった。

「いつも抱きしめたくて、もっともっと近づきたくて、手をつなぐだけなんて嫌だとか、肩を抱くだけなんて嫌だとか…そんなことばっかり考えて、俺…」

 苦しいほど抱きしめられて、明美は戸惑った。この腕の強さは清昭の想いの強さ…とても強い想い。それはわかっている。でもこういう形で突然ぶつけられるのは乱暴だ。

「両親に挨拶とかも…俺の気持ちがどれだけ真剣かって明美にわかってもらいたくて…不真面目な、っていうか…不埒なとか、そういう感情じゃないよって信じてほしくて…」

 抱きしめ方が変わった。力任せでなく、少し緩くなって動く余裕ができた。

「心底、真剣な気持ちなんだよ。好きだよ。愛してる…そんなこと言うと、軽薄だって思われるかもしれないけど」

『愛してる』は危険な言葉。思い出してしまう…。13歳の自分が灯也に使った言葉。灯也のことは「忘れた」けれど…記憶から消えるわけじゃない。

『愛してるなんて、ガキが吹いてんじゃねえよ』

 灯也にはそんなふうに言い返された。

(…灯也くん、19歳の人が使う「愛してる」は、本物なのかな…)

 13歳の自分が使った「愛してる」は所詮、恋に恋する少女の、中身の伴わない張りぼての言葉だった。19歳の少年の「愛してる」は、どれだけ本気なんだろう。

 清昭は明美との恋が初めてと言っていた。だとしたら、愛しているという言葉の重さを多分、本当には知らない。それを悪いとは思わないが、どんなに真剣に言っていても信じてはいけない。必ず錯覚している部分、過信している部分がある…。

(…どうしてただ何も考えず、すべてを信じてあげられないんだろう…)

 明美が自分の想いに切なさを感じた途端、清昭の指が頬に触れた。明美は身をすくめた。

「抱きしめたくて、キスをしたくて…ずっと言えなくて、できなくて、ずっとずっと我慢してたんだ…、それを汚いとか、醜いとか、思われるなら仕方ないけど」

 唇がそばに来た。明美は一瞬ごとにたくさんのことを考えた。迷いがかけめぐる。こんな風に一気に進んでしまうつもりはなかった。今日、キスをするはずではなかった。

「無理やりはしたくない…一緒にちゃんと、受け入れていきたい。…ダメなら止めて…」

 ずるいと明美は思った。急にそんな風に言いだして、ここまでの距離に来ておいて、最後の決定権だけは明美に寄越すなんて…。

「やだ…」

 思わずよけていた。うつむいて安全圏に入ると、清昭の腕がまた、明美を抱きしめた。

「ゴメン。…本当にゴメン。急に、こんなこと言っても…受け入れられないよね」

 震える声は多分、清昭自身も迷っていたから…。

「嘘を…ついてたつもりはないけど、結果的に俺が宣言したのが嘘だったこと、ホントにゴメン…。俺、自分は他の男とは違うと思ってた。結婚まで5年でも10年でも、その気になれば何もしないでいられると思ってた。でも、それはつらい…すごく…。俺、女の子とつきあうのホントに初めてで、…知らなかった」

 清昭の腕が離れた。明美はうつむいたまま解放された。

「…こんな奴だってわかったら、もう、つきあっていられない…?」

 清昭が明美をのぞき込む。明美は一瞬清昭を見て、またうつむいて、口を開く。

「そんなことはない…。でも、私、…まだそこまでいけないから…、私がそういうの、飲み込めるまで、待って…」

「ホントにゴメン。明美だってそういうの、初めてだってこと、よくわかってるから」

 ズキン、と胸が痛んだ。

(ごめんね…私、はじめてじゃない…)

 明美の胸に切なさがこみ上げた。確かに清昭に、「男性とつきあうのは初めてだ」と言った。ただそれは、明美の価値観で灯也との関係を「つきあう」とは言わないだけだ。

 はじめてじゃない。もっと先も知っている。なのに拒むなんて、いけないんだろうか…。

(でも、清昭くんは…もう灯也くんで経験済みだからとか、そういう問題じゃない)

 明美にとって、自分が選んだ大切な恋人とははじめてだ。それが事実。

「…ああ、…」

 清昭はため息とも叫びともつかないものを吐き出して座り込んだ。

「言わずにいられればよかったのに…。ずっと我慢して、俺だけつらければよかったのに。大切にしたいってほんとに思ってるんだよ。でも、もうこんなに好きでしょうがなくて、それは、触れたいっていう想いにどんどんつながってくんだよ…」

「…清昭くん、あの…」

 思わず口をつきそうになった言葉に、明美は自分でヒヤッとした。つい、「気にしないで」と、そして「わかってるから」と言おうとした。

 男性が最終的に女性に求めることを知っている――灯也との経験で。それが遊びでも本気でも、最終的に男性が女性をどうしたいのかを知っている。明美は自分が嫌になった。

(…逆に、清昭くんは、そこまでわかってないかもしれないのに…)

 清昭は、抱きたいとまで、結ばれたいとまで、まだ思っていないかもしれない。きっと最後にはそういうところまでたどりつくのだろう。けれど、今の清昭にはあるいはキスまでの思いで精一杯かもしれない。明美の身体が知っていることと、清昭が思い描いていること、その切実さはあまりに違っている。明美は自分を少しだけ「大人」だと思った。

『恋愛って、結局、生殖行為なんだよ』

 灯也の声が聞こえる。そんなことはないと…恋愛は心と心だけの問題だと…思っていたし、今だってそうだと思う。でもきっと、それだけでは終われない日が来る。それを「結局」という言い方で済ませるなら、灯也の言ったことは真実だ。

 明美は、「あのね」という言葉の続きが宙に浮いてしまったので、慌てて継ぎ足した。

「…清昭くんが一生懸命に真面目に考えてくれるんなら、私も…ちゃんと考えるから…」

 何も知らないようなふりをするのは「嘘」だと明美は思った。だけど、何を知っているでもない自分がわかったようなことを言うのも「嘘」に違いない。

 男性とは、ずっと…手をつなぐだけではいられないのだろうか。「その先」に進まなければいけないのだろうか。

 明美は、それでは済まないのだろうと思った。それは「想像」でなく「実感」として。

 その日はなんとなく気まずくて、間もなく明美は清昭の家を出た。


 明美は社交的でないので、親しい友人は少ない。その数少ない中に、中学1年の時の同級生、大原硝子がいた。高校を経て、大学生になって、硝子は面倒見がよくて頼りになるお姉さんタイプの女性になっていた。

「明美が相談なんて、初めてじゃない?」

 池袋の喫茶店で、明美と向かい合って座ると、硝子は言った。

「…初めてだっけ?」

「だって、いつも、私が根ほり葉ほり聞く方で、明美からって話さないじゃない」

「そうかな、私、硝子にはいろいろ話した気がするんだけど」

「私が問いつめて白状したことばっかりよ。彼氏ができたことも秘密だったじゃない」

「秘密とかじゃなくて、…友達一同に報告して回るとか、そういう話じゃないと思って…」

 硝子は「これだもんね」と肩を上げてみせた。明美は決まり悪そうな顔をした。

「それが明美の方からわざわざなんて、私はスッゴク嬉しいな~。で、何?」

 目を輝かせて乗り出す硝子に、明美は気後れした。でも言わないではいられなかった。

「ううん、大した話じゃないんだけど…。彼氏と進展しないといけないみたいで…」

 明美は小さい声で言った。硝子は明美が話しづらいだろうと気を回し、質問を入れた。

「どのくらいの?」

「…ううん、あんまり具体的じゃない。…でも、この前、突然抱きしめられて、キスされそうにはなった。だから、そのくらいは考えないといけないんだと思う」

「ふうん。誠実な人なんだね、本当に」

 硝子は明美の彼氏「清昭くん」の話をそれなりに聞いて知ってはいた。でも、明美が「誠実な人なんだよ」と言うのと、本人が本当に誠実な人間かどうかは別問題だと思っていた。

「うん、だから、私もすごく真剣に考えたいの」

「そうかあ。でも、まじめに考えちゃうと、そういうの、行き詰まっちゃうよね。なんか、いいような気もするし、いけないような気もするし」

「抱きしめるとこまではもう進んじゃったから、それは考えても仕方ないかなって思うんだ。ただ…なんか、キスは特別って気がして…。だから、考えてるのは、キスから後」

「明美って、キスは初めて?」

 硝子はそれを「訊くまでもないこと」と思っていた。ただの話のとっかかり。だって、明美は今の彼氏が初めてつきあった相手だ。初めてじゃない可能性なんてあり得ない。

 明美は気持ちを顔に出さないように必死で隠し、それから嘘をつくべきか否かを一瞬だけ迷い、他に選択の余地がなかったのでうなずいてみせた。胸がちくりと痛んだ。

「まじめに考えちゃうよね。多分、ファーストキスって、一生の思い出だし」

 明美の胸がまた痛んだ。ファーストキス…それは、広瀬灯也とだ。

(だけど、恋愛のキスじゃなかったんだから、清昭くんとが最初になるのかもしれない)

 そう思ったら、少し感情におさまりがついた。

「…あのさあ、聞いたことなかったけど、硝子って、キスとか…」

 硝子は照れたように笑い、告白した。

「ゴメン、なんか明美には話しづらくてさ。2番目につきあった人と、そこまでいってた」

「えっ、そうだったの」

 明美は顔を上げて硝子を見た。硝子の今の彼氏は3人目だ。

「なんか、中学生の時にみんなで話してた価値観から言うと、高校生でキスなんてどうよ…って感じだったじゃない? 明美がそこからどれだけ成長したかわかんなくて」

 ちょっと後ろめたそうな硝子に、明美は気を遣った。

「え、…そんなことないよ、高校生だったら、キスくらいなら、普通でしょ?」

 硝子は上目遣いで明美を見て、口元を押さえてからかうように笑った。

「よかった、私、明美だったら、まだ『高校生でそんなの不潔だわ』って言うかと思った」

「…そんなこと思わないよ…。だって、中学校の時の私たちって、なんかすっごい変な理想論みたいなの、持ちすぎてたって思ってるもん…」

 明美は恐縮して言いながら、今なお自分が「高校生でキスなんて」と言いそうに見られていることに気が塞いだ。中1で初体験をしておいて、そんなことを言う権利がどこにあるだろう。

「うん、そうだね~。中学の頃、なんか自分って、なんて美しかったんだろうって思ってるんだ。無知という純白の世界に、君臨していられた時代。ふふふ」

 硝子は穏やかに笑った。明美は笑えなかった。

「美しかったかなあ…。私、結構、恥ずかしかったと思ってるんだけど」

「それが若さよ。自分がそういう、理想という名の傲慢さに満ちていた時代を過ごしたっていうのは、振り返ってみると、すごく可愛らしくて、愛おしいわ」

 当時の思い込みは確かに子供じみて恥ずかしかったし、ある意味美しかったとも思う。今でも、それに執着したいような、その頃に戻りたいような気持ちを抱えている。明美は笑顔で「愛おしい」と振り返ることができる硝子がうらやましかった。

 明美が黙っているので、硝子が続けた。

「子供には、子供である期間が必要だったんだと思うな。そして、今私たちは、女の子として、女性として、成長過程にあるのよ。自然なことよ。だから、明美の相談も、自然ってことだよね」

 自然なこと、という言葉が明美の心に清涼な風のように染みてくる。

(灯也くんとのことでだいぶ人生に狂いは起こったけど…、19歳で、初めての恋に戸惑う私は、本来の私なんだろうな…。女の子として、女性として、正常な成長過程)

「正常」という言葉を使ってから、明美は反省する。どうやらまだ少し、理想論に基づく固定観念は抜けていないらしい。誰にだって予想もしないことは起こり得る。それは、正常とか異常とかではなく、人それぞれの事情だ。

「硝子は、迷わなかった? 最初にキスするとき」

 明美は真剣に問いかけた。硝子はちょっと照れたように視線をそらし、当時を思い出すように首をかしげた。

「なんか、いろいろ迷ってたり、悩んでたりしてたはずだったんだけどね。でもなんか、そういう雰囲気になったら、イケナイわとか思いつつ逃げなかったりしてね。自分に『だって、いいなんて言ってないもん』って言い訳して…それなりに、私にも清純派というか、そういう自負があってさ。まあ、もう清純派なんてとっくに卒業しちゃったけど」

 硝子の言葉が灯也に体を許した時の自分の気持ちに重なって、明美はヒヤッとした。

「清純派かあ…」

 明美が気を取り直してつぶやくと、硝子は大笑いした。

「明美なんか、19歳にしていまだに『最後の清純派』だよね。あの頃『清純派』だった友達の中で、まだキスもしてないのなんて、多分明美だけだと思うなあ」

 いちいち、外から見える自分と現実のギャップが痛かった。硝子には、13歳の時に明美が「清純派」とやらを卒業してしまったことなんてわからない。でも仕方がない。灯也とのことは、永遠に自分一人だけの秘密だ。それでもせめて反論くらいしたかった。

「私、清純派じゃないよ」

「でも、キスを迷ってる心のどこかに、いつまでも清くありたいとか、男とキスをしたこともない自分は美しいとか、そういうのない? 清純派のこだわり。私はあったよ。キスなんかしたら、自分が一段階穢れるとか…そういう」

 硝子のまっすぐな瞳は明美の胸を刺す。自分はもう、キス一つで「穢れる」となんて盛大にこだわれるほど清純ではない。

「ううん、清純でいたいとかはないよ。でも、彼氏がね、心を大事にしようって、触れ合うとかそういうのは考えてないよみたいなことを言ってたのに、この前急に、本当はつらいとか、抱きしめたいとか言われちゃって、それがまだうまく飲み込めないの」

「彼氏も清純派なんだね。…でも、男の清純派なんて、最悪のウソツキだよ」

「…ウソツキ?」

「悪気もないんだろうし、ただ単に子供なんだと思うけど。でも、手を出したくないみたいなこと言えるなんて、全然、わかってないよね。恋愛って、もっと、もっと、もっとって、エスカレートしていくだけなんだよね。…心のつながりだけでいいって思えるのって、本当は、お互いを全部手に入れた後だと思う。いろんなことがあるけど、心が結ばれてるっていう充実感が何にも勝るって思えるのは、全部の出来事、比較し終えた後だよ」

 そう言って微笑む硝子は大人の顔をしていた。明美は、硝子が今の相手と、その先にある「もっと深い心のつながり」を実際に見つけたのだろうと思った。

「…じゃあ、やっぱり、これから私たちって、エスカレートしていくしかないのかな?」

 明美は覚悟したように言い、硝子が答えた。

「多分、そうなると思う。男の方が引き返してくれることなんて、期待しちゃいけないと思うよ。…でも、明美は、迷ってるけど…嫌なの? 彼氏と、キスとか、そういうの」

 明美はウーンと悩んでから答えた。

「嫌とか、そういうふうに思えるとこまでも、まだ全然たどりつけない」

 恋の果てに、お互いの合意の上で唇を交わすというのがどういうことなのかは、今もってわからない。灯也は、「突如キスをされる」ということしか教えてくれなかった。

「それでも、多分、男の子の勢いって止められないよ」

 にっこりと硝子は笑った。明美はたじろいだ。

「悩んだ時間は全部無駄になると思う。なるようにしかならないし、来るべき時が来たらそうなっていくものよ」

 それからしばらく話をして、2人は喫茶店を出てそれぞれの方向へと別れた。


 明美は一人になってから、清昭のことを一生懸命考えていた。なるようにしかならない…それは多分、そうだろう。だけど自分の気持ちをまとめておくことは必要だと思う。

 ずっと困っているのは、灯也のイメージが鮮烈すぎること。灯也は手の届かないはずの憧れの人で、比べるなんてナンセンスだ。自分自身、心から清昭のことが好きだし、そばにいたいし、幸せにしてあげたいと思っている。だけど、なんとなく清昭の影が薄いというか、現実感が乏しい気がする。ここはまぎれもない現実なのに。

 とはいえ、現実の中で清昭と先を急ぐ気にはなれない。灯也で知っているいろんなことを、清昭に転換して考えるのは怖い。自分を抱いた灯也の映像を清昭に置き換えようとすると拒絶反応が起こる。灯也とのキスの映像を清昭と置き換えてみただけで、ヒヤッと焦りが胸を打つ。とんでもないと脳が叫んでいるようだ。

 けれど同時に、そうして男性に触れることを上手く認識できないことに優越感がある自分にも気付く。「私、まだ、そういう恋愛とかわからない」と思うとホッとする。「清純派」…やっぱり、こだわりはあるのかもしれない…と明美は思った。


 エレベーターから人が一気に降り、清昭と明美だけが残った。清昭が明美に向き直り、エレベーターの壁に押し付けて突然のキスをした。すぐにエレベーターは目的の階につき、2人は逃げ出すように降りた。清昭は、

「…卑怯な奴って思った?」

 と訊いた。明美は、何か答えなければと思いながら、まるっきり声が出なかった。

 それはあまりにも突然だった。食事をしようとこのビルに来て、最上階を目指してエレベーターに乗って、最後、ほんの1階分移動する間の、思いがけないキスだった。

「俺はもうすごくそういう気持ちになっていて、…半年すぎたからそう早くもない…っていうか異常に遅いって友達にも言われて、…もちろん人を基準にするつもりはないけど」

 清昭は息を継いだ。

「それと、明美って、初めてとか…純潔とか、そういうのすごくこだわってるんじゃないかなって。…そういうのこだわってたら、永遠に何もできないような気がして…」

 明美は清昭に憤りを感じた。実際触れてしまってから、今さらそんなこと…。

「…明美には、なんか、彼氏とかいちゃいけないみたいな、なんかすごく清いところがあって。俺、触れるのが罪悪みたいな、そういうの、取り払いたかったんだ」

 動けないまま、明美はぼうっとエレベーターホールの案内板を見つめていた。勝手にキスをすることはやっぱり「裏切り」だと思う。信じていた自分がバカだったのだろうか…。

 そして、やっぱり清昭を「子供だ」と思う。明美のそれがファーストキスだとか、清いだとか、純潔とか、触れるのが罪悪だとか…それは清昭の妄想にすぎない。明美を心底理解したわけではなく、見た目で中身まで勝手に決めつけている幼い感情。

 明美は泣きだしたい気持ちに駆られた。清昭にも、硝子にも、すべて話してしまいたい。灯也とのこと…キスをしたこと、抱かれたこと。それがもうとっくの昔に起こったという事実。自分は清純派ではないし、今回のキスはファーストキスではない。

(誰にもわかってもらえない…)

 明美は泣き顔を必死でこらえた。どんなにつらくたって、言えるはずはない。清昭と別れることを覚悟したとしても、硝子から誰かに知れることを覚悟したとしても、言ったあとに返ってくるであろう、この質問が怖い…。

『相手は?』

 そして、明美の心に疑念がわく。裏切ったのは清昭の方だろうか。他の男とキスしたことがあるのに、いかにも恋を知らないように振る舞っていた自分の方ではないのだろうか。

 背後でチーンという音がして、人が何人か降りてくる気配を感じた。明美は悩み、悩んで、ギリギリでエレベーターの閉まりかけたドアに飛び込んだ。絶妙のタイミングで、明美は清昭から逃げおおせた。

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