5.孤独
ラジオから流れてきた音楽に、灯也は耳を疑った。
演奏で、クロック-クロックとわかる。特徴的なカチカチというサウンドは、大学時代に話題をさらっていたあの響きと変わらない。けれど、その音に乗って響いてきたのは、日本で屈指の人気シンガーの声だった。
曲の後、DJが解説を加える。
『これから隔月で、クロック-クロックはさまざまなゲストボーカルを迎えてシングルを連発していきます。インストゥルメンタルでは今、日本で最高のバンドであるクロック-クロックが、日本のトップシンガーの声を迎えて奏でる音楽…今から本当に楽しみですね。ただいまの曲は、森沢貴之とのコラボユニット、“森沢時計店”の「冬がまた来る」でした』
ガソリンスタンドの昼下がりは、いつもと同じように退屈な時間が流れている。ラジオは唯一の退屈しのぎ。けれど、ラジオだって平穏だけを聞かせてくれるとは限らない。
(…里留、周、孝司…)
灯也はただ3人の名前だけを頭の中で繰り返して、ソファに座り込んだ。カレンダーを見ると、西暦と元号が併記されて、今年を表示している。
(俺が勝手に引退を決めてから、…もう、5年…)
自分にとっても長かったが…怒濤のような勢いで変化していく芸能界にいる3人には、とんでもない長さだったのではないか。灯也は彼らの過ごした長い月日に思いを馳せた。
クロック・ロックのメンバーとはプライベート不干渉を約束していたのに、そのプライベート部分で不祥事を起こして、仕事に持ち込んでしまった。でも、3人は責めずにいてくれた。妊娠させた蓮井まどかの事務所が、まどかを置き去りにして理不尽な訴訟を起こしたときは、一緒に怒ってくれさえもした。マスコミに囲まれても、ノーコメントで我慢を通してくれた。
『大丈夫だよ、灯也。あいつらについてる弁護士、「訴訟屋」らしいぜ。あちこちのバカ社長を訴訟に巻き込んで、弁護士費用を儲けてるだけの連中らしい。裁判は勝てるよ』
里留はずっと励ましてくれた。時には疎んだこともある里留の兄貴風…、だがいざこうして危機に瀕してみると、それが本当の思いやりだということがわかる。
『広瀬灯也っていうボーカルを失いたくないだけだよ』
里留は笑っていた。周も、孝司も。
裁判の決着がついた直後、灯也は最低限の荷物だけを持って東京から消えた。マンションの後始末などは、金だけ送って親に頼んだ。残される3人には簡単な置き手紙を残した。
『ゴメン、もう疲れて歌えそうにない。俺がいなくても、元々の大学時代の「クロック-クロック」に戻ればいいし、それで芸能界やっていけると思う。憧れのバンド「クロック-クロック」のサウンドを背負って歌うことができた長い時間は本当に幸福だった。本当にありがとう。迷惑をかけることを心の底から悪いと思ってます』
灯也の実家の家族だけは、灯也の現在の住所を知っていた。実家に届いたクロック-クロックからの手紙が転送されてきた。
『おまえがいないまま音楽活動を再開するのは俺たちも淋しいと思うけれど、ここまで来るためにたくさんしてきた努力を無駄にしたくない。クロック・ロックは「休止宣言」を出させてもらって、しばらくはクロック-クロックをやっていこうと思う。でも、あくまでもクロック・ロックは「解散」じゃない。だから、元気になったら戻ってこい』
何通も。元気かと。まだ歌う気になれないかと。やっぱり一緒にやろうぜと…。
返事を書けなかった。訴訟を起こした蓮井まどかの事務所に疑問はおぼえる。だが、元々、認識が甘かった。まどかの妊娠もそうだが、なにより、明美とのことが…。相手は13歳だ。どこにも弁解の余地はない。明美が身近な大人に相談したりしたら、体の関係にまで至ったことを話したら…。しかも、蓮井まどかを妊娠させたのと同じ頃に2人っきりで会っている。言い訳も、嘘も、何もない。アソビ以外のなにものでもない。明美とのことが露呈したら、間違いなく破滅するだろう。
裁判が終わるまで、軒田明美に関して、灯也に糾弾の声は聞こえてこなかった。そのまま何事も起こさないために灯也が選んだのは、自分の存在を極力消すことだった。誰も刺激しないこと。明美の目に触れないこと。他の、昔の女たちの目にも触れないこと…。
逃げ、隠れていた5年。その間に、東京ではきっといろんなことがあっただろう。クロック-クロックの3人にもきっと…いろいろなことが。
クロック-クロックがボーカルを迎える。特別ユニットと言っていたが、クロック-クロックがボーカルを迎えることが「クロック・ロック」を意味している時代は終わった。
(いろいろなボーカルを試して…、もしかして、俺の代わりを探して、…違うバンドになっていこうとしているのかな…)
責めることはできない。淋しいと伝えることも…。
もう自分を待っていないクロック-クロック。誰とも関わりのない生活。誰も会いに来ない。たった一人来てくれた明美は、思い出を上手にまとめて帰っていった。おそらくは…もう来ないだろう。
灯也は、ソファに倒れ込む自分と明美の姿を思い出した。温かく、切ない記憶。5年前は確かに遊びだったかもしれない。でも、再会したあの日、湧き上がった懐かしさはなんだろう。なぜ時々思い出すのだろう。
外で車の音がした。灯也は条件反射で外へと飛び出していた。もはや、自分にはここでの孤独な暮らし以外にないのだろうと、灯也は漠然と思った。
明美の「リハビリ」は順調だった。大学が終わってから夕方アルバイトに行く。土曜はサークル、日曜日は休み、時々デート。快適に忙しい生活サイクルが出来上がって、長野で灯也と会った時のことなどいちいち思い出してはいられなかった。
交際半年記念の日、清昭は明美に、肩を抱いていいかと訊いた。
「半年記念に、…おめでとうって、そういうご褒美みたいなものをもらいたかったんだ…。でも、なんか、そういう、区切りごとに何か要求したいとかじゃなくて…」
公園のベンチで初めて明美の肩を抱きながら、清昭は一生懸命照れていた。真面目すぎる清昭の言葉に、明美はくすぐったいような喜びを感じた。「大切にされている」…心からそう思えた。
「明美はどう思ってるの、こういう風に、触れ合うっていうか…そういうこと」
清昭は必死の声で訊いた。明美は清昭への愛しさのようなものを感じながら、
「清昭くんがゆっくりしてくれるから、私も、大丈夫」
と答えた。恋はこうして進むもの…優しく、穏やかに、段階を追って。
「じゃあ、嫌じゃない?」
「どうして? 全然、嫌じゃないよ」
清昭はそれからしばらく逡巡して、もう一つ訊いた。
「例えばさ、逆に、どんくさいとか…もっと積極的になれとか…そういう風に思ってたりすることとか、…あるのかなとも、時々思うんだけど」
明美は、自分がまた発作を起こすのを感じた。いつも突然やってくる「ドキン」という鼓動と、それに続く灯也のビジョン。大塚のマンションでまことしやかに声をかけながら手に触れ、髪に触れ、首筋に触れてきた灯也。雰囲気だけで抱きしめてきた灯也。そうして相手のペースで迫られたとき、…必ずしも、嫌ではない…。
でも時には、自分のキャパシティをオーバーしてしまい、つらい思いをすることもある。
「ううん…私は、こうしてゆっくりとしてくれる方がいい」
清昭とは優しくゆっくりと、大切に愛情を育みたい。
「…そうか、よかった。なんか、鈍感な奴とか…煮え切らない奴とか…そういう、もどかしい思いっていうか…させてないかなって、少し心配してたんだ」
明美の肩に回る手の力が強くなる。その力の分だけ、愛されているんだと感じた。
「してないよ」
「うん…なんか、友達とかに聞くと、俺のペースは遅いみたいだから。でも人は人だよね」
会話がなくなって、寄り添う肩、回した腕が二人にとっての全てになった。しばらくそのまま過ごしたあと、清昭は慎重に言った。
「それからさ…。明美に、提案があるんだけど」
「何?」
「お互いの親に、挨拶しない?」
明美は顔を上げて清昭の顔を見た。回した腕がゆるみ、2人の間が少し開いた。
「別に、結婚とか、そういう挨拶とは違うよ、もちろん。でも、真面目なつきあいだってことをうちの両親にも知ってほしいし、明美の両親にもわかってもらいたい」
明美は戸惑った。彼氏ができたなんて、親にはかけらも言っていない。多分、気付かれていないと思う。
「こそこそしたくないし、…やっぱり責任感とかあるし、色々考えた結果なんだけど…」
(ちょっとだけ、めんどくさいとこのある人だよね)
明美は内心、苦笑した。でもあるいは可愛い人と思えなくもない。
「清昭くんがそうしたいっていうんだったら、私は、ついていくだけだから…」
清昭の気持ちはうれしかった。真面目なつきあい…、親に大切な人を紹介したい、そういう真剣な関係に思ってもらえる。それも、一つ、愛されている証拠だ。
(ちょっと真面目すぎるけど。でも、理想を守る意志のある人って素晴らしいよね)
ただ、あまりに真面目すぎると思うこともある。これが理想、これがルール…。
「明美の両親ってどういう人? お父さんは、娘の彼氏に対して怖い?」
清昭は戦々恐々といった表情で訊いた。
「怖いんだったら、無理しなくていいのに。うるさい親じゃないよ。お母さんは喜ぶと思うし…お父さんは、多分内心複雑だろうけど、ちゃんとした人なら何も言わないよ」
「じゃあさ、ご両親の予定きいといて。俺も、自分の両親きいておくから」
「…そっちこそ、ご両親、変な女だったら許さないって、すごい怖かったりして」
「それは全然ないな。大学入るまで彼女できなかったから、2人ともすっごく心配してた」
真面目な、真面目な恋愛。ずっと、こんな風に真面目で堅実で立派な恋をしたいと思っていた。心から想い合って、信じ合って、誰に後ろ指さされることもない模範的な恋愛。
(私は自分の理想の人生を送る能力がちゃんとあったのに、灯也くんとのことだけが全部イレギュラーだ…)
自分の理想の恋に酔いながら、でも…もう自分が清昭の思っているような模範的な彼女ではないのも事実だ。恋は初めてだけど、初体験は中学時代。清昭の彼女なのに、他の男とキスを交わしたことがある。清昭はきっと、こういう事実を受け入れられないだろう。
(…清昭くんが真面目な人であればあるだけ、私は結果的に嘘をつくことになるのかな…)
正直になれない。本当のことが言えない。拒絶されたくないから。好きだから。
初体験を済ませているなんて不潔だと思われたくない。どんな状況であれ、どんな事情であれ、他の男と何かあるなんて不潔だと思われたくない。けれど…そうしたことを秘密にしているのだって、清昭はきっと認めないのだろう。
明美は時々、自分がものすごく汚く見えてくる。自分が清昭にふさわしくないような気がしてくる。でも、誰にも言えない。
灯也は寝返りを打った。眠れない。独りということがこんなに苦しい。
クロック-クロックはボーカルを次々に迎え、新しい音楽を探し始める。織部重信は、今や押しも押されぬトッププロデューサーであり、あの事務所の常務取締役でもある。
蓮井まどかは、あの事件が縁で元マネージャーと結婚して、幸せな家庭を築いたようだ。
明美は東京の暮らしに戻っていった。今は19歳…大学生だろう。
自分は今、何なんだろう。灯也は問いかける。けれど答えはせいぜい「ガソリンスタンドの店員」それだけだ。友人もいない、恋人もいない。夢もない。
『もう…歌は歌わないの?』
久しぶりに、自分を求める声を聞いた。明美は歌ってほしいと言った。もしも今、東京に戻ってやり直せるなら…? 明美は自分を恨んでいない。誰かの糾弾を恐れる必要は、もうないんだろう。マスコミは…もう昔のことだ。もう、5年も…。
東京に行ってみようか、という考えがふと灯也の頭をもたげた。
新しいことで次々あふれていくあの街は、もう広瀬灯也なんてボーカルがいたことを覚えていないかもしれない。地味な服装に馴染んだ眼鏡をかけて歩いてみようか。あるいはこの日常から抜け出すきっかけや、なにか楽しいものを与えてくれるかもしれない。
ガソリンスタンドを2日休むことにした。少し迷ったが、ホテルは勝手がわかる池袋にとった。懐かしいかつての住まい、大塚の近く。そう思い入れがあるわけではないけれど、成功していく喜びに満ちた毎日を過ごした場所だ。
明美と…会うことはできるだろうか。連絡手段はもう、何もないが…。
(練馬の…どのへんだろう)
灯也は、明美の家が「練馬」にあることだけは知っていた。最寄りは「練馬駅」。それ以外はまったくわからない。明美にとっては迷惑かもしれない。去っていく明美の車の後ろ姿を思い出し、灯也は目を伏せた。
久しぶりの東京。灯也は長野新幹線を大宮で降り、埼京線で池袋にたどり着いた。
雑踏。たくさんの人が行き交う風景を5年ぶりに見た。都会の風が染みる。かつてここを歩くときは常に人目を避けていた。広瀬灯也、クロック・ロックのボーカル…誰かに気付かれて黄色い声を上げられようものなら、大変な騒ぎになってしまう。
今は、この数え切れない人の中に、誰が自分を覚えていてくれるのだろうと思う。
5年間…もう、すべての人々が次の段階に進化して、過去の殻を脱ぎ捨ててしまっただろう。新しい自分の世界に、まだ広瀬灯也の記憶を残している人はいるんだろうか…。
大きなCDショップに足を運んでみると、もうCDの陳列棚に「クロック・ロック」の見出しはなかった。代わりに「クロック-クロック」の見出しプレートが出ている。そこに1つだけ、クロック・ロックの「ファーストコンプリート」…灯也がいた頃のシングルを集めたベストアルバムがあった。あとは、年に1回のペースで発売されるクロック-クロックのアルバムが5枚。アルバムごとに2枚ずつ、棚に揃えてある。
彼らのアルバムのジャケットは時計がモチーフ。『灯也がいなくなった3人っていうイメージをつけたくなくて、俺たちの写真を使うジャケットには反対した』と里留が手紙に書いていた。今さら、灯也は里留のことを、やっぱりプロデューサーに向いていなかったんじゃないかと思った。一時、メインプロデューサーの織部重信が会社の方針でクロックを離れる話になったとき、里留がプロデューサーをやるものだと皆が思っていたことがある。結局はそうならなかったが、それで良かったんじゃないかと思った。だって、メンバーやクロック・ロックに対して、愛情が強すぎるから…。
次のシングルは「森沢時計店」というユニット名だとラジオが言っていた。それはどういうジャケットになるのだろう。クロック・ロックのジャケットの4人、その4人目は灯也。時計がモチーフなのか、自分ではない「4人目」がいるデザインになるのか。胸の中にぽっかりと空いた空洞。
突然、かつての騒ぎに対して言いようのない怒りがわいた。自由恋愛じゃないか。遊びか本気か…それは心の中の問題だ。多少サイクルは短かったかもしれないが、それは自分の恋愛のペースにすぎない。蓮井まどかは昔の恋人で、つきあっていた頃に関係があった以上、その名残をつつくくらい誰にだってあることだ。責任と言われるなら、責任をとって結婚する意志は持っていた。一体、何を咎められることがある…。
訴訟屋、という話だった。まことしやかに損害賠償請求などの訴訟を起こさせる。勝っても負けても、弁護士は契約書の分の収入が約束される。アメリカが訴訟社会になっているのは、こういう「売り込みに堪能な」弁護士がたくさんいるからだ。裁判は、当事者同士が問題を解決するためでなく、弁護士の収入のためにある。
まどかが最初に起こした訴訟は「損害分のシェア」だった。それはわかる。妊娠で割を食うのは100%女性の側だ。灯也と連絡がまったくつかなかったまどかが、腹の中で育っていく子供に追い詰められて必死で起こした騒ぎを責めるつもりはない。ただ、訴訟というやり方がいささか感情的だっただけだ。だが、まどかの事務所が便乗して起こした訴訟は愚の骨頂だし、迷惑の極みだった。ゴシップ記者が喜ぶネタがいろいろとあった自分がうかつだったのかもしれないが、それは真っ当な恋愛遍歴にすぎなかったはずだ。ここぞとばかりに食いついてきた売れない元彼女たちにはいささか辟易したけれど。
騒動のきっかけとなった訴訟を起こした、かつてまどかの所属していた事務所は、経営が立ちゆかなくなり、大手に買収されてもう存在しない。まどかは灯也の子供を流産して、その流産のきっかけを作った当時のマネージャーと結婚した。結婚しなくて済んでよかった、と思った記憶は時々気まずく蘇って灯也を苛む。だが本音の本音だ。
本当は、不快なだけで、逃げ出す必要のない決着がついたはずだった。だが、そこに明美の問題が重なっていたことで、灯也は芸能界に居座ることができなかった。誰かのせいにしたくても、さすがに12歳年下の女の子に責任転嫁をできるほど甘ったれた人間ではない。結局、誰にも怒りをぶつけることはできず、自分に返ってくる。
なんとなく池袋の街をうろつく。誰にも気付かれない広瀬灯也。自分が普通の人になってしまったことを思い知る時間。
灯也は、楽器屋に「クロック」の文字を見つけ、ふと立ち止まった。
『クロック-クロックの周が使用する、○○-○○タイプのギター入荷』
店内に入ると、クロック-クロックのポスターが貼られていた。バンドスコアのラックにもクロック-クロックをクローズアップした手書きポップが出ている。彼らはまだスターであり、憧れの存在。一方の自分は普通の人だ。
クロックが今やっている音楽を知りたくて、バンドスコアを1冊買った。店員は顔色一つ変えずにレジを打ち、ありがとうございますと頭を下げた。
本当に、自分は「クロック・ロック」というバンドのボーカルだったのだろうか。デビューしたのはクロック-クロックだけで、自分は、大学時代に共演した思い出を錯覚していたんじゃないのか…。
広瀬灯也…。一体、今まで何をして生きてきたんだろう。歌っていた記憶が希薄になる。さっきCD屋で見た「クロック・ロック」のベスト盤に自分の写真が入っていたのが、何よりも救いに感じられる。幻ではなかった…。
街の中を「森沢時計店」の「冬がまた来る」が流れている。いい作品だ…。客観的に、灯也も「いい」と思う。けれど胸は痛む。
頬にふっと涙がこぼれ、灯也は自分でも驚いた。慌てて目を拭った。そして、明美に会いたい、と思った。
今の灯也を知っているのは明美だけだった。町田に住む家族とはあまり連絡をとっていない。クロック-クロックの3人を含め、友人とはすべて音信不通だ。広瀬灯也、元クロック・ロックのボーカル、その時代と今をつないでくれるのは明美しかいない。
池袋から練馬までは電車一本だ。どうせ何をするという目的もなく出てきたのだから、練馬駅で明美が通りかかるのを日がな一日待っていてもいい。「軒田」は珍しい名字だが、家を探し出すことはさすがに難しいだろう。駅で待つしかない。
会ってどうする…。どうもしないけれど、話だけでもしたい。つまらないファミリーレストランの一角で、飲み放題のドリンクとともにしばらく話ができれば…。それか、またメールでも再開できたなら。携帯電話のアドレスは誰にも知られたくないが、パソコンがあるからまたフリーのアドレスを使えばいい。明美がネットの向こうにいれば淋しさはだいぶ楽になる気がする。今すぐ長野を出るのは不安だが、メール越しに明美と東京の話をしながら、少しずつ世間とのズレを埋めていけたら…。
ただ、それでもやっぱり、クロック-クロックの3人に連絡を取ることはできない。彼らはこれからコラボユニットを組んで次々に作品を発表する。そこへのこのこと広瀬灯也が顔を出すことは、彼らを混乱させるだろう。気も遣わせてしまうだろう。邪魔をすることはできない。
状況が許すようであれば、今の住まい、今の仕事を離れて長野の市街に出て、楽器屋の店員でもしようか。それとも、東京に戻ってくることもできるかもしれない。もう広瀬灯也なんか記事にならないとすれば、何の問題もない。…だが、広瀬灯也が記事にならなくても、クロック-クロックの足を引っ張る記事は書ける、それがどうしても気になる。
でも今はとにかく自分を世間とつないでくれる窓がほしい。明美はもうあの頃のことなど忘れたいだろうか。
(考えても仕方がない…。今、ほんの少しでも、頼りになる可能性が考えられるのは明美ちゃんだけなんだから。ダメだったらまた考えよう)
とりあえずは練馬に向かおうと思い、灯也は西武池袋線に乗った。
練馬駅は地上遥かなる高みにあった。灯也は周りの人々の顔を見回しながら階段を下りた。明美の姿がすぐにわかるだろうか。おそらくわかるだろう。13歳の時よりもだいぶ綺麗になったけれど、根幹をなす地味で真面目な風貌はかわらない。そして、今日びそんな風に地味を標榜して生きている女の子は少ない。
はじめは練馬駅入口に人待ち顔で立っていた灯也だが、簡単に明美が通りかかる様子はないので、周辺の店を見たりして歩き回った。住宅地だから日曜の昼でも人の往来は多い。駅の周辺のどこかに明美がいるかもしれない。
駅から遊園地が見えていた。一駅隣に大きな遊園地があるらしい。もしも明美に午後の予定がなければ、遊園地まで行ってみようか…、灯也はそんなことを考えた。退屈に任せて遊園地の案内を探すと、駅のインフォメーションセンターに地図入りの小さなパンフレットが置いてあった。灯也はそれを見ながら壁にもたれ、時折目を上げて明美を探した。
ふと、「引っ越した」という可能性を考えた。そういえば、まだ練馬に住んでいると聞いたわけではない。もしかしたら練馬駅で明美を待つというのは不毛なことなのだろうか。灯也はガソリンスタンドで交わした会話を片っ端から思い出していった。明美の住まいに関する情報は思い出せなかった。
灯也は、あと30分だけ待つことに決めた。それで行き合えなかったら、縁がなかったということだ。
会えたら…何から話そう。はじめは他愛ない話を。そして、メールの話にもっていければいい。断られたら…仕方がない、明日一日都会の空気を吸って、とりあえずは長野に帰ろう。気が変わったらと、連絡先だけ渡して。会えなかったら…明日も来てみようか。明日は月曜…きっと大学の授業があるだろう。大学が終わるのは何時頃だろうか。
自分にとって明美は何なのだろう。中学生の頃から知っている懐かしい存在。…単なる興味本位にすぎなくて、女として愛するなんてできないと思っていたけれど…。
『10年したら23歳になるのに…。灯也くんはそれでも35歳だから、普通に釣り合う歳になれるのに…』
5年と少したって、今は19歳と31歳…。13歳と25歳は明らかに不穏だったけれど、今は…ちょっと歳が離れているだけだ。
関わりのある人がすべて消えた長野の暮らし。そこに、ある日突然訪れた明美の姿は、灯也にとって深海に一筋の光が降り注いだように思えた。『ああ、迎えが来たんだ』…断絶していた世間からの使者。同じことを繰り返す毎日の中、誰一人広瀬灯也と気付かないことに絶望しながら、いつか誰かが気付いてくれたらそれは「大丈夫」という合図だという気がしていた。明美が「灯也くん」と呼んだ瞬間…、灯也はこの都会に、世間のしがらみに、戻っていくタイミングがやってきたような気がした。
だから、やっぱりこの特別な気持ちは恋愛感情とは違うのかもしれない。でも、明美を「特別な人」と思う自分がいるのも確かだ。「救いに来てくれた人を好きになる」というナントカ症候群の話もある…灯也は自分でそう思った。会いに来てくれた、そのことがどれだけ心を癒してくれたか…。そして孤独すぎたこの長い月日の中で、5年前、中学生だった明美と一緒に過ごした時間は自分の中で美しいものになっている…。
ささやかに開いた窓。きっと、明美が自分をこの大きな都会の雑踏に呼び戻してくれる。でも、それも、ここでもう一度会い、自分がその窓をしっかりつかむことができればだ。
灯也は辛抱強く待った。ウロウロするのも疲れたので、もう一度改札が見える場所で人待ち顔に立った。そして、こんなにたくさんの人とすれ違っても、誰も広瀬灯也に気付かないことを改めて思い知らされながら過ごした。
また電車が到着したらしく、人が一気に階段を降りてきた。灯也は目をこらす。そして目を疑う。芸能人として変装用に作った厚手の素通し眼鏡を慌てて外す。
明美に間違いない…。
寄りかかっていた壁から起き上がる。何て声をかけよう…。
灯也が一歩を踏み出そうとしたその時、明美が背後を振り返った。灯也はそのまま凍りついた。明美にさしのべられる手、それをそっと握る明美の嬉しそうな顔…。
5年間、と灯也は思った。明美は19歳だ。それは、当然想定しておくべきだった…。
寄り添うように手をつないで階段を降りる幸せそうな2人。一度残念そうに手を離し、改札を抜けたら、その一瞬を悔やむようにまた手をつなぐ。そして、灯也には気付くことなく、満面の笑みを交わし合いながら駅を出て去っていく。
天使の訪れは、迎えではなく、一瞬の気まぐれ…。灯也は手をつないで歩いていく明美と清昭に背を向けた。
(…そうだよな。言ってたじゃん…割り切れたって。人生経験だって。…それは、5年前にもう俺と終わったんだって確認したんだろ…)
なぜ、明美は変わらずにいてくれるなんて錯覚を起こしていたんだろう。もう灯也に手玉に取られて遊ばれていた子どもじゃない。自分の足で人生を歩いている一人の女性…。
長野に帰ろう、と灯也は思った。
ここにいるすべての人が、もう広瀬灯也という存在を覚えていない。この後、誰かとの再会を重ねるたびに、もっともっと傷ついていくような気がした。きっと、里留も、周も、孝司も新しいボーカルを迎えて…そしてすべてが、灯也なんかいなくても幸せに完結している。もう、ここには居場所がない。
灯也は練馬駅をあとにした。