4.新しい時間
明美は車で一晩明かし、翌日の新幹線で帰京した。両親に「ダブルブッキングで、二日目の宿が取れてなかった」と言い訳をして部屋に戻った。
部屋に帰ると、ゆっくり、こらえていたものを吐き出す。広瀬灯也との再会は、明美の中にたくさんの化学変化を起こした。丁寧に整理しなければならない。
真っ先に思い出したのは、灯也に押し倒された瞬間だった。忘れなければと、明美はその記憶に重しをつけて、深い深いところに沈めた。清昭に知られるわけにもいかないし、自分としても受け入れがたい背徳行為だ…灯也が強引にしたのだとしても、キスなんて。彼氏がいるのに他の男とキスをする。ありえない。断じてあってはならない。
灯也が心配してくれていた…、それが、今回の訪問の最大の収穫であり、誤算だった。13歳の過ちは、単なる被害として整理されるべきだった。ろくでもない大人に食い物にされただけだと…。それならば、怒りや恨みはあっても、悩むには値しない。被害にあったことを、自分の「男性経験」に数えることなんかない。
なのに、灯也の淋しい瞳がちらつく。いい男では、意味がない。まして…。
明美はため息をつく。灯也との再会に流れる穏やかで優しい雰囲気、それはとても美しくて…。
今、初めての男女交際に戸惑いながら足を踏み出したばかりの自分。なのに映像が勝手に流れる。灯也に押し倒されて、唇が触れる…、それは初めてのことじゃない。
(…灯也くんのバカ…最低だ…)
明美は頭を抱えた。13歳の頃の灯也との記憶が、恋の思い出として整理されてしまいそうだ。長野での出来事は、昔の恋人との甘く切ない再会と、述懐のキス。灯也の腕が、唇が、心地よかった自分を知っている。
(清昭くん)
恋人の名前を呼んでも、記憶があいまいになっている。…まずい。
明美は灯也との記憶を整理するのをやめた。一刻も早く、清昭に会わなければと思った。
清昭の顔を待ち合わせ場所で久しぶりに見たとき、明美は胸にグサリと何かが刺さるような気がした。裏切ったことになるのだろう。一方的にキスをされただけ――だけど、昔関係があった男に会いに行ったからそういう事故が起こる。
「どうしたの? 急に今日なんて」
清昭の笑顔が明美を責める。明美はうつむいて、
「夏休み終わっちゃうし…会いたいと思っただけ」
と言った。会いたい理由は言えないけれど…。
「ありがとう、…そういう風に思ってくれる人がいるのって、本当に嬉しい」
自然に手を握られ、明美も恐る恐る応じて握り返した。一昨日の夜は、他の男とキスをしていたけれど…。
(…まずい、こんな気持ちは、まずいよ…灯也くんのバカ)
明美は強引に気持ちを切り替えた。「去る者は日々に疎し」…。これから、たくさん清昭と過ごすことだ。今日は、だから、リハビリだ。4月からつきあい始めて、来月で半年になる。まだ半年…、清昭との時間はまだまだ作っていける。
「明美って、来月の予定は?」
「え? 普通に土曜日はサークルだけど…あとは別に」
「来月で半年になるよね、俺たち…」
明美は弾かれたように清昭を見た。
「ちょうど、おんなじこと考えてた…」
清昭が笑顔になった。
「そうなんだ、…なんか、こんなことでも、嬉しいね」
「そうだね…」
明美も笑顔になった。ギュッと、お互いの手が握られた。
「何かお祝いしようよ。おいしいもの食べに行く?」
「えーっ、でも、お金がなーい」
(だって…教習所と、あと残りはレンタカーとか新幹線とかに使っちゃったもん…)
明美は冷や汗をかいた。
「記念日だから、俺のオゴリっていうのは?」
「記念日だから、私の分は清昭くんのオゴリで、清昭くんの分は私のオゴリ」
「だってお金ないんでしょ?」
「…うん、今…ちょっと一身上の都合で…」
明美の心中は穏やかでなかった。大学生からは小遣いはもらわないことになっている。稼ぐしかない。貯金は教習所に使ってしまった。親に借りたお金も返さないといけない。
「たまにはいいカッコさせてよ。デートはワリカンて言うと、友達にバカにされるんだよ」
「そんなの男女差別だよ。私、一緒にいてあげてるわけじゃないもん…」
自分のセリフにドキドキしながら、明美はうつむいて続きを言った。
「…一緒にいてもらってるんだもん…」
清昭は明美が愛しくて、思わず抱きしめたくなった。でも、そういうプロセスは丁寧に、ゆっくりと進めなければと思っている。特に、相手が清純派でおとなしい明美だから…。
急に会うことにしたから、二人は行き先を決めていなかった。まずは、大きな本屋へ向かって本を物色した。タウン情報誌を見ると、『ラブホ特集』の文字が目についた。それを避けて、もっと「恥ずかしくない」方を手に取って行き先を決めた。
本屋を出ると、清昭が不愉快そうに言った。
「どうしてああやって、公衆の面前に堂々とラブホテルなんて記事を出せるんだろうね」
「うん、…そうだね。もし他にいい記事載ってたとしても、手に取れないな…」
明美もあまりいい印象をもっていないが、控えめに言った。清昭は容赦がなかった。
「世の中のカップルって、そんなに…そういうことばっかりしてるのかな?」
恋人同士にとっては微妙な話題に、明美は口を閉ざした。だからまた清昭が話した。
「俺はさ…心のつながりの方が絶対大事だと思うんだよね。なんか、今時の人って、すぐにそういう方にばっかり走ってるみたいに見えるのが、俺はすごく嫌だな。それに、もしもそういう関係になるんだとしても、それはすごく神聖なことだし、ああやって汚いホテルの特集とかで世間にさらすものじゃないと思う」
清昭の口調に、明美は聞き覚えがあった。中学の時、みんなで「合コンなんてエロ集会」と罵っていたとき、こんな憤りを言葉にこめていた気がする。男と女が恋愛のためだけに品定めの集会を開くなんていかがわしいし、数時間の印象、すなわち「大半、顔で」選ぶなんて軽薄で残酷だと思っていた。だから、明美も憎しみをこめて合コンを罵った。
『恋愛は、お互いをよく知る機会があるところでちゃんと知り合って、見定めた上で、この人だって選んだ人と、順序を守って節度ある交際をするべきだ』
そうだよね、そうだよねとみんなが言う。その時の気持ちは…、偏ってはいるけれど、とても若い純粋さにあふれていたような気もする。
あの頃抱いていた理想は決して間違いではないと思う。ただ、そういう理想がきちんとあって、それでもなお、現実は割とそうではなかったりする…それだけの話。
理想を持つことは自分を律するいい物差しになる。だけど…。
(理想から何かの理由で外れてしまった人を、徹底的に悪いものにしてしまう…だから、理想は怖い…)
13歳で男と関係するなんて「不道徳の極み」だ。しかも恋人同士という明白な関係じゃないなんて、「とんでもないこと」だ。きっと、仲間たちと残酷な純粋さで理想ばかりを唱えていられた頃の自分は、軒田明美というこれまでの人生を軽蔑するだろう。深夜に男の家に行ったり、泊まったり…。まして体を許すなんて…。“ありえない”。
そしてあの頃の潔癖な価値観と同じものを、清昭が持っているならば。
「あのね、明美…」
清昭の声で明美は我に返った。また、自分の世界に入ってしまっていた。
「俺は、そういう体のつきあいとかよりも、心のつながりを大事にしたいと思ってるよ。…その辺の男とは絶対違うから。明美の気持ちを考えないで先に進もうとしたりは絶対にしない。大切にするからね」
清昭は真剣に宣言したが、明美は清昭の目を見られず下を向いた。
「ゴメン、なんか、かえって意識させちゃった? でも、とにかく俺、男の欲望とかそういうのってすごく汚いって思ってて…それは結婚してからでもいいと思ってるし、ああいう…デートのあとは当然ホテル、みたいな恋愛は絶対にしたくない。わかってくれる?」
「うん、わかってる…」
明美は小さな声で言った。清昭の感覚はすごくよくわかる。ずっとずっと前…本当に純粋に理屈だけで生きられた頃、自分も体の触れ合いを伴う恋愛を蔑視していた。その理想のまま生きたかったと、今も思っている。だから清昭が言ってくれたことはとても嬉しい。キスなんかしなくても、抱き合わなくても、心を満たしながら一緒に過ごせれば…。
「ゴメン、変な話、して。やめよう」
清昭が話を逸らした。その横顔を盗み見て、明美は清昭をうらやましいと思った。
(知らないっていうことは、綺麗だね…。理想を疑わないでいられる。うらやましい…)
体のことはよくわからないし、やっぱりまだ考えたくないと思う。でも、長野のガソリンスタンドの小屋で、灯也と折り重なって熱いキスを交わしたあの時間を何度も思い描いて、甘いため息をつく自分がいるのはどうしても事実で…。
男の人に抱きしめられること、キスをすること…それは、とても心地よい。明美はそれを知っている。だからそういう時間を求める人を非難する気持ちをもてない。
怖いと思う。こういう時、清昭を「子どもだな」と思ってしまう自分が。
明美はアルバイト情報誌を買って家に帰ってきた。もう、断然、お金がない。確かに教習所にお金をかけたかいはあったけれど…代償はあまりに大きかった。
教習所のお金を貯めるのには、ティッシュ配りをやった。でも、どうせなら何か技術が身につくとか、そういうアルバイトはないだろうか。
明美がページを繰っていくと、クリエイティブ系のところに「芸能人と知り合えるかも!?」という見出しを見つけ、明美は苦笑した。あるいは幼稚な夢なのかもしれないが、そういう空想を抱かずにいるのは難しいものだ。その記事は、音楽アーティストを中心にした芸能雑誌の編集アシスタント募集だった。
『はじめは編集アシスタントから開始です。だんだん仕事のレベルを上げて、スキルが十分になったら「編集」の仕事へ! いずれは芸能人へのインタビューもおまかせします』
過去にインタビューをした芸能人の名が並んでいる。明美は微笑しながら字を追った。
『クロック-クロック』
ハッとした。クロック-クロック…。
(…クロックの人たちに、灯也くんのことを伝えたい…)
クロック-クロックのメンバーは、灯也が消えた後もしばらくは灯也に手紙を出していたと灯也が言っていた。関係がこじれたわけではないのだとしたら…。
(クロック-クロックの人たちだって、灯也くんを待っているんじゃないかな…)
アシスタントから始めることを考えたら途方もなく長い道なのかもしれないが、クロックに近づくことができれば可能性は生まれる。クロック・ロックを復活させるなんて、途方もない夢…。だけど、灯也の居場所を知っているのだから、クロック-クロック側に近づくことができれば、双方をつなぐことは不可能じゃないかもしれない。
明美はがぜんやる気になった。早速履歴書を買ってきて、その雑誌に応募した。
面接に行ってみると、自分と同じように地味な風貌の人が多くて明美は驚いた。音楽通とか、アーティスト風とか、芸能人に近そうな人が来ると思っていた。芸能人に会いたいという思いを抱いて集まるのは、結局自分のように「出会って、恋をしたら…」なんて夢想を抱くような内気な子ばかりなのだろうかと、明美は苦笑した。
いくつかの班に分けられ、まずアンケートに答えた。映画製作研究会に所属していて、得意科目は国語で、趣味は…とくにないから読書と書いた。
『あなたの野望は何ですか。突拍子もなくて結構です』という質問には、「クロック・ロックを自分の手で復活させること」と素直に書いた。
次に国語のテストがあり、最後に面接があった。面接官は3人、明美は1人だった。
「雑誌記者になったらやってみたいことは何ですか? 具体的でもいいですし、漠然とこういう心意気で働きたいっていう精神論でもいいですよ」
明美はすっかりあがってしまい、浮かんだことをそのまま答えた。
「芸能人の人が、スランプとか、作業みたいに仕事こなしてるなとか、そういう気分になったときに、ファンが待ってるよっていう期待を届けられるような取材をしたいです」
灯也が会社員のように働いていると言ったことがとても印象に残っていた。仕事は趣味じゃない。灯也と話していたときは、そんなこともわかってあげられなかった。アーティストは好き放題やっているわけじゃない。売上げのために不本意な要求をのんで動くこともあるのだと、今は知っていた。あの時、明美が投げた「アーティストはすごい」という的外れな尊敬の言葉は、きっと灯也をガッカリさせただろう。
「今、好きなアーティストに会わせてあげると言われたら、誰と会いたいですか?」
こんな次の質問に、明美は悩んでしまった。広瀬灯也…は先日会ったばかりだ。クロック-クロックも、広瀬灯也の話をしたいだけで、単に顔を合わせたいわけではない。
「…えーと、お手伝いさせていただける日までに、考えておきます」
言ってから明美は後悔した。やる気がないか、芸能界に興味がないみたいだ。
「アンケートに映画製作研究会とありますが、これは、何をやっているんですか?」
「映画を撮るサークルですが、私はシナリオが担当です…。でも、チョイ役やエキストラで画面に映ったりくらいはします」
「セリフのある役は?」
「…重要な通行人A、っていうのを…」
「重要な通行人? どういう役なの?」
「何度も主人公の落とすものを拾う役で、セリフは全部『落としましたよ』だけなんです」
あとは、テニスの映画で「黄色い声援を張り上げるギャラリー」というのがあるくらいで、セリフは「キャー、せんぱーい、カッコイイ~、等適宜」だった。その話に、面接官3人は笑った。明美は肩をすくめて小さくなった。
それからしばらく話したあと、面接官は急にフランクな雰囲気になって、訊いた。
「チャンスがあったら、芸能人と恋愛できたらいいなあ…なんて、思ったりします?」
ドカンと灯也の顔が大写しになり、慌てて振り払って、平静を装って明美は答えた。
「どうでしょうか…。それは、実現したとしても、幸せなんでしょうか? あまり現実的じゃない気がします」
「はい、面接は以上です」
明美は面接会場のドアを閉めた。自分がおかしな回答ばかりしたような気がした。
(…私ってバカ…。やっぱり、クロック・ロックとか、灯也くんとか、邪念ばっかり抱えて受けるからそうなるんだ…)
明美はひとしきり落ち込んだ。その日は、それで解散だった。
数日後、最後の面接の通知が明美に届いた。
明美は「なぜ自分が受かったのだろう」ということばかり考えていた。一対一の最終面接の際、質問を許可されたので単刀直入に訊いてみた。試験官は、他の人の面接の際には「もう結構です」と話を止めたくなったが、明美のときには「もっとしゃべらせよう」と思ってついいろいろ話してしまったと笑った。
「あなたは、あんまり話はうまくないんですよ。でも、もっと話してあげようという気にさせたりする。相手に話を促すときに、重要なことです」
「はあ…」
明美自身にはよくわからなかった。自分がしゃべらないせいで周りが一生懸命しゃべってくれることは確かに多いけれど、そんなのはむしろ欠点だろうと思った。
「それと、憧れの芸能人に会いたいというのは大いに結構ですが、あわよくば恋愛できたらいいな、という浮かれた気持ちはお断りなんですね。そこは見ました」
明美は深々とお辞儀をして面接会場を出た。
(ある意味、灯也くんに助けられたんだな…。おかしな話だけど)
確かに、漠然とアーティストに出会いたいとか恋したいとかいう感覚は、もはや持ち合わせていない。灯也に出会わなければ今も芸能人に本気で恋をする妄想少女だったかもしれない。でも多分、少女というのはそういう夢が持てる方が幸福なのだろうと思った。
夜になって、アルバイトの採用の電話が来た。週3~4日くらいの勤務で、土日は休み。単なるアルバイトではなく、インターンシップと考えてほしいということだった。
「大学生のアルバイトは、正式採用を前提としたお仕事をお願いしたいんです。軒田さんはまだ1年生ですから、2年間…3年生の夏にまだこのアルバイトを続けていて、お互いに合意できれば内々定を出します。就職活動と思って、是非頑張ってください」
就職なんてまだ遠い話だと思っていた。進路も、3年生になって就職活動をすれば、「なんかどこかの会社」に入れるだろうと思っていた。なのに、このアルバイトは、クロック・ロック復活の夢だけでなく、将来の進路への希望も連れてきた。なんて贅沢なんだろう。もし内定が取れなくても、編集アシスタントのスキルが身につくかもしれない。
「5つやってみたら2つできるかもしれない…そうだね、灯也くん」
明美はつぶやいていた。編集の勉強をさせてもらいながら、クロック-クロックに近づくチャンスを作り、あわよくば就職活動にもする…世の中には、そんな風にたくさんの実がなる木だってある。全部は実らないかもしれないが、努力すればたくさんの実をつけてくれる可能性がある。
『歌って踊れる小説家になりたい、小説の挿絵も自分で描いて、それを舞台にして自分が演出やりたい、主演も自分がやるんだ…とか言って、スクールで歌とダンスやって、文学勉強しながら小説書いて、絵も勉強してスケッチ旅行とか行って、舞台見に行って、劇団入って、全部やる』
『1つに決めたら、ゼロか1しかないんだよ』
明美の中に灯也の声がする。編集のアルバイトをしていても、進路をそれに決めてしまう必要はない。他のチャンスも探していけばいい。他の企業への就職活動もすればいい。全部やればいい。サークルも、清昭との交際も。全部できるだろう。
涙が出た。灯也に出会うのが早すぎて…大切なことをたくさん言われたのに気付かなかった。13歳には意味がなくて、聞き流してしまったこともたくさんあった気がする。
(長野まで会いに行ってよかった。そして、…出会ってよかった。いろいろなことがあったし、喪ったものもあったけれど…)
体の中をめぐる血液のように、思い出が自分を作り、生かしている。灯也と出会って、変わってきた自分のすべてが軒田明美だ。
思い出としての灯也を取り除くことはできないけれど、明美は、今の自分でこれからを生きようと思った。灯也の淋しい瞳は時折まぶたに浮かぶけれど…でも、彼は大人だ。明美より12歳上だ。明美が守る必要はない。明美が守るべき愛しい人は別にいる。
明美は清昭に電話をかけた。
「アルバイト、面接合格したよ。でも、日曜日はちゃんと空けてあるから大丈夫」
クロック-クロックだって、ここまで順風満帆にきたわけではない。
「…いつまでも灯也にこだわってても、仕方ないだろう」
元クロック・ロックプロデューサーであり、現クロック-クロックのプロデューサーを務める織部重信は、どうしてもクロック-クロックをいろいろなボーカルと組ませたいらしかった。いい加減、里留もそれを拒否するのがつらくなっていた。
クロック-クロックの売り上げが落ちているのは確かだった。元々地味なアーティストだ。曲調も、緻密で正確な特性がかえって飽きられる可能性をはらんでいる。そろそろインストゥルメンタルだけでやっていくのは限界なのかもしれない。
「…クロック-クロックは、クロック・ロックとは違うんだから、ユニットくらい組んでもいいのかな…」
里留はつぶやいた。灯也は1年もすれば戻ってくると思っていた。もう5年が過ぎた。十分すぎるほど待ったのかもしれない。
「周、孝司、…もう、灯也のことはあきらめるべきなのかな?」
里留は初めて2人に相談した。それまでは嫌だの一点張りで、誰の意見も聞かなかった。
「俺は、クロック-クロックを灯也と結びつけてないんだ、最初から」
周は抑揚のない声で言った。驚いた顔をする里留に向かって、周はさらに語った。
「灯也が帰ってきた時点で、俺たちはクロック・ロックになるわけで…クロック-クロックなら、別に誰と組んでも、灯也に対して決別を宣言したわけじゃないと思う。里留が灯也を好きで好きでしょうがないから、無理強いはしたくないと思って黙ってただけで…いいんじゃないか、他のボーカルも。灯也をあきらめるとか、そういうのじゃなくて」
孝司もあっさりと、別のボーカルを迎えることを肯定した。
「しょうがないよ。もう5年、操は立てたよ。それより、俺たちだっていつまでも安穏としていられるわけじゃないと思う」
里留は2人の割り切ったような答えにショックを受けた。
「…灯也、俺たちが他のボーカルと組んだら、…ものすごく淋しくなるんじゃないか?」
絞り出すような里留の言葉に、孝司が答えた。
「すごく淋しがり屋だから、そうだろうね。…でも、だったら、…そうやってつつくことで、逆に帰ってくるかもしれないんじゃない?」
灯也が置き去りにして、里留が預かっているものがある。灯也が詞を殴り書きしていたノートだ。そこに、曲がひとつ書いてある。詞はついていない。タイトルに「振り子」とだけ書いてある。稚拙だが、プロは並べない旋律の運びがどこか新鮮だ。すでに3人で編曲を済ませている。カッチ、カッチ、とゆっくり二拍子を刻む振り子の音が印象的な曲…。
3人で編曲しながら、いつか灯也の詞とボーカルでこの曲をやろうと約束した。だから、3人は灯也を待っている。
里留はしばらく考え込んでいた。そして、その場で電話を取り出し、織部にかけた。
「…クロック・ロックと、クロック-クロックは違うってこと…やっとあきらめがつきました。コラボユニットの話、…これから、進めてください」
周と孝司が心配そうに里留を見ていた。里留は2人にふっきれた笑顔を見せた。
「だってさ、売れなくなってクロック-クロックが消えてたら、それこそ灯也ともう一回やるなんて絶対できなくなるもんな」
周も、孝司も、ホッとした顔になった。
「待つんだったらそれなりにカッコイイとこにいて、偉そうに迎えてやろうぜ」
孝司の言葉に里留がうなずいた。周もうなずく。
「場末のいかがわしい音楽バーの、うす汚いステージで、お帰り灯也…もないよな」
彼らも、もう結成から10年という長い年月を過ごしていた。3人にとって、灯也を待つという切ない思いの共有がなければ、音楽性の違いにもめたり、人間関係のもつれが出てきたりしたかもしれない。でも、クロック-クロックは、「灯也をいつか迎えるために」と自分たちに言い聞かせることで、必死に芸能界を生き抜いていた。
翌月、クロック-クロックがさまざまなボーカルを迎えて次々にシングルを繰り出す計画が音楽ニュースの片隅を飾った。発表された3人のゲストボーカルは、日本音楽界を代表するそうそうたるメンバーが揃っていた。