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3.ガソリンスタンド

 それは、とても長い道のりだった。まずは夏休みに短期のアルバイトをしてお金を貯め、足りない分を貸してもらうために親を説得した。それから短期集中合宿とやらに申し込み、9月にやっとキャンセルの隙間に入れてもらった。その合宿とやらも過密スケジュールが組まれ、さらには明美にとって苦手なことの連続だったため、本当に苦しかった。けれど、必死の努力の甲斐あって、軒田明美は普通乗用車の運転免許証を手に入れた。

 9月、夏休みも残り3日というタイミングで、明美は長野新幹線に乗った。

(…あのガソリンスタンドの人は、灯也くんだったのかな…)

 もう半年過ぎてしまった。まだそこにいるかどうかもわからない。

(もし違ったって、それはそれであきらめがつく…)

 長野駅で「駅レンタカー」の受付を探し、軽自動車を借りた。

 手がかりは、戸隠という地名、それと卒業旅行で泊まった宿の名前。宿のそばに停まるバスは一つしかなかったから、途中までのルートは調べられるだろう。あの日、落石事故で迂回したルートまでわかるかどうか…。

 明美はカバンから若葉マークを出し、レンタカーに貼った。そして、長野の街へと走り出した。短期集中合宿コースで無理やり運転免許を取ってすぐに、勝手のわからない土地での長距離運転…。自分でも無茶だと思ったが、そうせずにはいられなかった。

 市街を出ると、一気に自然が広がった。起伏に富んだアスファルトの道路の周りを林が囲む風景が続く。明美は国道の表示や標識を必死になって追い、「戸隠」の文字を目指した。宿はとっていない。正直、あまりお金がない。車で寝ようかと思っている。あるいは目的が空振りして、早く帰ることになるかもしれない。親に「2泊3日で一人旅に出る」と言って出てきたが、レンタカーを借りるとは言っていない。一人でドライブ旅行なんて言ったら心配をかける。携帯電話を手に入れたから、それで連絡がつくのを免罪符にしてもらった。親は明美に彼氏ができたことを知らないから、「男の子と一緒じゃないの?」という疑いは受けなかった。

 カーナビはついていたが、「戸隠」という広いエリアを指定しても意味はない。バスのルートをカーナビで追えるわけでもないし、さまざまなことが明美の記憶の中に、風景としてだけ入っていた。だから明美は時折路肩に車を止め、観光ガイドのムックで地図を見た。

 明美はふと我に返った。ガソリンスタンドの店員が灯也じゃなかったらあきらめて帰ればいい。じゃあ、灯也本人だったら…?

 何て声をかければいいんだろう。呼び名からして、どう言えばいいかわからない。

「『広瀬さん』……?」

 明美は運転席でつぶやいてみたが、やはり違う気がした。13歳になる頃から19歳の今まで、5年間も「灯也くん」のままきてしまった。でも「灯也くん」と呼んで嫌な顔をされたら、それはとてもつらい。それに、いつまでも親しいつもりでいる思い上がったファンのつもりもないし…。

(ファン、か)

 明美は自分で繰り返した。自分は今、広瀬灯也の何なんだろう。

 ファン…確かに、また歌ってほしいと思う。だけど、あんな形で芸能界を出た人に、ファンだとか、歌ってほしいとか、そんな言葉は迷惑ではないだろうか。それとも、ファンでないとしたら何なんだろう。昔関係があったから他人じゃないとでもいうのだろうか。

 明美はしばらく悩んで、それから、悩むのをやめた。

(…清昭くん…)

 灯也とは正反対の人。真面目で、不器用で、誠実な恋人。今大切なのは、灯也に会うことではなく、何らかの形で灯也を忘れること。見かけた姿が別人で、そこにはいないと思い知るのでもいい。会いに来るなと罵られて落胆するのもいい。とにかく、子どもすぎた自分の過ちに、19歳の今、それなりの決着をつけたいと思うだけ…。

 戸隠の文字が、行く先を示す案内板でなく、店の看板に現れるようになった。どうやら戸隠に着いたらしい。あの日、灯也を見かけたのは、小鳥の森に行った帰りだった。明美は一軒の喫茶店に入り、お茶を飲んで、小鳥の森への道のりを聞いた。

 卒業旅行の思い出が蘇る。清昭と歩いた森。あの時は恋を告げてくれなかった。

(私が言う、っていう選択肢はなかったのかな?)

 明美は思う。でも、なかったような気がする。家では一人っ子。外では、みんなの後を黙ってついていくような子。いつもいい子。思春期だって、男の子には興味ないのと母に訊かれ、そういう歳でもないでしょと答えた。なんとなく。そうしたいとか、こうしたいとか、何もなく。自分が決めなくても周りが「普通はこうするんだよ」というルートを示してくれて、それに乗るだけの人生。

 そんな自分が、親に嘘をついた。夜中に家を抜け出した。大人の男性の部屋に泊まったりもした。そして、結局は自分の年齢には不相応な経験をしてしまった…。

 憧れの芸能人と知り合いになれたのが嬉しかったから浮かれていただけ。けれど、明美に明美らしからぬ行動をさせたのは、今も広瀬灯也ただ一人しかいない。

(なんでこんなところまで一人で来たんだろう。車の免許まで取って。すごく、バカだ…)

 だけどそのバカさ加減を自分で愛することができる気がする。人に迷惑をかける種類の「バカ」はやっぱり嫌いだけれど、自分に迷惑をかけるバカな子はこんなにも可愛い…。

 しばらく小鳥の森を歩き、それから付近を通るバスを調べた。本数は余り多くなかった。確信がもてなかったので、案内所の人に宿の名前を告げ、そこに行くバスを聞いた。そして、期待せずにもう一つ訊いた。

「…春に落石事故があったっていうのは、どこですか?」

 案内所のおばさんはバスの案内パンフレットの地図を眺めてしばらく眉をしかめ、それから隅っこを掃除していたおじいさんを呼んだ。

「落石したの、どこだっけ」

「この辺だろ」

 おじいさんは黄色で示されたバス通りの、終点から3分の2くらいのところを指した。

(…そこだ…)

 明美の鼓動が速くなった。肢道は大幅に略してある。観光客には不要な道なのだろう。おそらく、その略された付近にガソリンスタンドがある。

「ありがとうございます」

 明美は礼を言った。おばさんと、おじいさんは、ともに首をかしげた。明美は笑顔でもう一度、「ありがとうございました」と言って案内所を出た。


 とはいえ、略した地図ではわかりづらかったし、カーナビは見慣れていないせいか上手く頭に入らない。だいたい、カーナビには落石の場所や当時の迂回路が示されるわけではない。明美は途中で何度か車を降りて、通る人に落石事故があった場所を訊いた。半年前のささいな出来事の捜査は難航したが、なんとかだいたいの場所を突き止めた。補修されたらしき金網の前に停車して時間を過ごし、20分も待つと、一台のバスが通り過ぎていった。明美はバスが来た道をさかのぼった。すぐに、バスが通れそうな肢道を見つけた。多分ここだ、と思った。

 少しずつ曲がるような角度で一本道が続く。周りにはぽつぽつと民家があり、肢道のように見えるのはすべて各戸の駐車場へ続く行き止まりだ。不便な道。でも生活には必要な道。地元の人しかいないならば、灯也がそっと暮らすことも不可能ではなさそうだ。

 一軒の家の植え込みを越えると、唐突にガソリンスタンドが見えた。軽乗用車とバスとでは視点の位置が違って、覚えていた光景とは少し違ったが、場所は間違いないだろう。

(灯也くん…)

 急に心臓が暴れだした。いるんだろうか、ここに。ずっと、いつも探していた灯也が。

 ウインカーを出し、ガソリンスタンドに車を入れると、店員が飛び出してきた。

 そして、…時間が止まった、と明美は思った。帽子を目深にかぶって顔は見えない。でも、広瀬灯也だ…それはもう、絶対に間違いなく。

「いらっしゃいませー」

 ぶっきらぼうな言い方、ぶっきらぼうに作った声。でも、この声も明美は知っている。

 店員は、運転席の人と自分の目をフレームで断ち切る位置に立つ。運転席に座る人から、顔を確かめられることがないように。

「灯也くん」

 明美は小さく声に出したが、運転席の窓が閉まったままで声は届かなかった。他には店員の姿も客の姿もない。他に車は入ってこない。明美は窓を開け、少し大きな声で言った。

「灯也くん」

 店員がビクッとこわばるのが見えた。間違いないと明美は思い、のぞき込むようにして店員の顔を見る。眼鏡、厚く下ろした前髪、…でも、これも知っている。

 店員が後ずさりするのに合わせ、明美はドアを開けた。初秋の長野の空気を隔てて、明美と灯也は再会した。


 ややこしいのは困るから、と灯也は言った。ガソリンスタンドは夜7時に閉めてしまうらしい。「それからなら」と言うので、明美はその時刻にもう一度車でやってきた。

 明美が恐る恐るスタンドの奥の小屋をノックすると、「開いてるよ」と声がした。そっと入ると、灯也は流しでコーヒーを2つ作っていた。明美はホッとした。罵声を浴びせられ、追い返される場面を何度も考えていたから…。

「鍵、かけてくれる? …それとも、もう鍵かけるのはこりごり?」

 思ったよりずっと優しい声。昼間の「いらっしゃいませ」じゃない。明美がよく知っている、「広瀬灯也」の声だ。

「ううん、ちゃんとかける」

 明美は鍵をかけた。灯也は、誰かに明美と会っているのを見られるのを避けたいだろう。

「あんまり懲りてないのな」

 灯也が軽い口調で微妙な冗談を言う。背中から表情は読めない。灯也が振り向き、歩いてきた。明美は、なんだか灯也のことを正視できなかった。

「男と2人の時は、どんな状況であっても密室にしない方がいいと思うけど」

おそらく洗車などの客がここで待つのだろう。古びた応接セットがあり、灯也は明美をそこへ促した。

「…灯也くんが、嫌だろうと思って」

 明美はそう言って、自分がごく自然に「灯也くん」と言っているのに気がついた。灯也が紙コップのコーヒーを置いた位置に合わせて、明美は座った。灯也はしばらく立っていたが、意を決したように、あきらめたように、明美の正面に座った。

 帽子と眼鏡がテーブルに置かれた。明美は、それが懐かしい「厚手の素通し眼鏡」だとすぐに気付いた。胸には「佐久間」という名札がついていた。カムフラージュだろう。

「偶然?」

 灯也は訊いた。明美は首を振った。

「途中までは偶然だったけど…」

「途中?」

「春にね、落石事故があったでしょ。バスが迂回して、ここを通ったの」

 灯也はしばらく考え込んだ。

「それだけ?」

「それだけ」

 灯也は難しい顔をする。そして、ウーンとうなってから言った。

「それだけか。…そしたら、割と俺って、もういろんな人に見つかってるのかな?」

「わかんない。でも、私はそういう変装気味の灯也くん、見慣れちゃってたから」

「…そりゃそうだ」

 灯也の話し方から茶目っ気や愛嬌が抜けた…と明美は思った。ごく普通の青年…自分の魅力にそう自信があるわけでもない、それなりにコンプレックスを抱えてもいる、ありきたりの青年。顔立ちは整っているけれど、ただそれだけの青年。

 しばらく沈黙が流れた。明美には灯也に訊きたいことがたくさんあった。あれからどうしていたのか、もう歌は歌わないのか、それから…。

「…ホッとした…」

 灯也は目を伏せて言った。明美は意味がわからなくて顔を上げた。

「明美ちゃんが、元気で、生きてて、よかったよ」

「どうして? 普通に生きてるけど…」

 明美がわずかに首をかしげると、灯也は一瞬だけ明美の目を見てすぐに目を伏せた。

「13の時、……ちゃったでしょ。それで、キミが後悔して…いや、いいって言ってくれたわけじゃないから後悔とも違うか、…ショックで自殺しちゃったら…とか、考えた」

 言葉を濁しつつもストレートに過去を照らすそんな言い方にも、明美はちゃんと返事をした。

「…死ぬとかは、考えなかったけど。それは、もちろん、やっぱり、ショックだったし…、今まで引きずってきたこととかも、いろいろある」

「うん…真面目な子だもんね。それに…その、当のご本人が女引っかけまくったとかって裁判でしょ。こんな最悪な話もないよなって」

 気遣ってくれる灯也の言葉が温かい。こんなはずじゃなかった…と、明美は思った。きっとそこにはすさんだ灯也がいて、おまえとは関係ない、顔も見たくないと…そんな風に言われるような気がしていた。でも、灯也は心配してくれていた。きっと、ずっと、今日まで。

 明美の心の中でつかえていたものが解けていく。

「ああ、騙されてたんだ…って、やっと最近飲み込めたの。それまでは、遊びでも少しは愛情があったよねとか、いろいろ、必死で繕ってたけど…」

「そうでもないって、言ったと思うけど」

「そうでもない要素も多少あったけど、私のこと、騙してただけ…。そうだよね」

 穏やかな詰問。灯也は返答を少しだけ悩み、静かな明美の態度に、繕うのはやめた。

「…大人になったね、明美ちゃん。多分俺も、そういう解釈が正しいかなって、思う」

 大人になったのは灯也の方だと明美は思った。13歳だったあの頃の自分には、灯也は大人に見えたけれど、今になって思い返すと、自分の魅力に傲慢なだけの幼い青年でしかないように感じる。そして、今目の前にいるのは、自分の姿も他人の姿も見えている大人の男性だ。

「…ゴメンって、今謝ったら…逆に残酷かな?」

 灯也の静かな声。明美は返事をしようとして、声が出なくなっているのに気がついた。直後、涙がボロボロとこぼれた。冷静なつもりだったので、自分でも驚いた。

「ゴメン。…謝った方が残酷なことがあるっていうのは知ってたし、キミとのことはまさにそれじゃないのかなって思ってたんだけど…」

 灯也は途方に暮れた。謝って済むことでもないし、謝らなくて済まされることでもない。どっちにしても、明美の心に傷はついただろうし、今後も残るだろう。

「多分、違うの」

 明美のくぐもった声が漏れた。

「騙されただけとか…それを謝られたとか…そういうのが悲しいんじゃないの」

 灯也は黙って明美を見ていた。

「灯也くんが今も優しい…それが、嬉しかった…」

 おまえなんか知らないとか、覚えていないとか、関係ないとか…、明美の中で、灯也との再会はきっとそんな冷たいものになるはずだった。灯也に切り捨てられれば、自分も思い出を捨てられるような気がした。明美は、この長野の地に傷つきに来たつもりだった。でも、灯也の声は優しかった。

 明美が泣きやむまで、灯也はただ黙っていた。

 少し落ち着いて明美が顔を上げた。

「…ゴメンなさい。…なんだか、…いろいろあったから…」

 そう言って、努めて明美は笑った。その笑顔に灯也は胸を痛めた。

「ねえ灯也くん、もう…歌は歌わないの?」

 明美はできるだけさりげなく訊いた。そして、深刻になりすぎないようにティッシュボックスから勝手にティッシュを取って涙をふいてみせた。

 灯也の目がテーブルの一番隅に斜めに落ち、

「…芸能界は、もういいよ…」

 と言った。明美は、その声に、灯也は多分まだ歌いたいんだろうと感じた。

「だって、クロック-クロック…里留さんたち、がんばってるよ?」

「うん、それは知ってるし、応援してる。最初は、クロック-クロックやるけどこういうことだから気にするなとか…俺の実家に色々手紙とか送ってくれてたんだ」

「実家の方々は、灯也くんがここにいるの知ってるんだ」

「まあね。それで、俺が返事しないから、クロックの奴らからそういう手紙も来なくなっちゃったけど。あいつらには迷惑かけたから、ホントは謝りたいけどね…、単なるガソリンスタンド店員が、天下のクロック-クロックにメッセージなんて、送ったところで埋もれるだけだと思ってね」

 広瀬灯也と名乗れば簡単に届くだろう。でも、名乗ってはいけない。自分のためにも、クロックのためにも。灯也はマスコミに、そしてそれを通じて世間を相手にすることに疲れていた。もしかしたら、明美に退廃的な興味を抱きながらどことなく暗い気分に苛まれていた頃から…。

「灯也くん…ずっと、ここで暮らすの?」

「わかんないな。明美ちゃんが東京に帰って、広瀬灯也はここにいますって言いふらして、マスコミが押し寄せてきたら引っ越すしかないし」

 久しぶりに…実に何年ぶりに、灯也の瞳が明美に向かっていたずらっぽく笑った。明美は懐かしい瞳を嬉しいと思った。灯也は紙コップを手に席を立った。

「これまで人目につかないでいられたから、このままできるだけこのへんに住んでたいな、とは思ってるんだけどね」

「ここに住んでるの?」

「ああ、この小屋に住んでるわけじゃないけど。でも、…そこは追及しないでよ。俺の隠れ家だから」

 灯也は流しまで行き、コーヒーをおかわりした。

「明美ちゃんは、コーヒーは?」

「ううん、たくさんはいらない。十分」

 ガソリンスタンドの小屋は静かになった。灯也は黙ってコーヒーを持ってソファに戻り、明美は自分の手元に残った少しのコーヒーをぼんやり眺めていた。

 昔の恋人、と明美は思った。かつての灯也との関係が、こうして時間をおいて向かい合ってみると、心地よいもののような気がする。

「…ねえ灯也くん」

 31歳の男性に対して、19歳の自分がくん付けをしているのも変な話だ…と明美は思った。「13歳が25歳に」だって変だったけれど、でも、もう分別がつく年齢なのに。

「淋しくないの?」

 明美はコーヒーを見ながら言った。灯也はゆっくりとコーヒーをテーブルに置いた。

「どういう意味?」

「え、どういうって?」

 紙コップを離した灯也の手が、明美の手首をつかんだ。そして明美の紙コップを取り上げ、テーブルに置いた。灯也の片膝がテーブルに乗った。

「淋しかったら…どうにかしてくれるの?」

 そうか、と明美は思った。自分はよく知らないが、男女間にはいくつかのキーワードがあるらしい。13歳なら「知らない」で済むが、19歳の今は、そうもいかないのだろう。

「…そういうつもりはなかったの、ゴメン…」

 明美は真っ当に対処した。灯也が身動きしなかったので、明美はそっと顔を見た。

 泣き出しそうな少年の顔…。

 明美がそう思った瞬間、灯也が覆いかぶさってきた。あっ、と思ったときにはソファに倒れ込み、唇が重なっていた。長い間、唇は離れなかった。

「灯也くん、…ゴメン…」

 唇が離れ、やっと明美はもう一度意思表示をすることができた。心臓がドキドキしすぎて…、でも、なぜか焦りはなかった。灯也はこれ以上何もしないと思った。

「…ゴメン、俺も、そっちにそういうつもりがないの、わかってた」

 落ち着いた灯也の声に、やっぱり、と思った。だから明美はそのままじっとしていた。

「本当は…こんな暮らしは淋しい…」

 灯也は明美を抱きしめたままつぶやき、腕に力をこめた。哀しいと、明美は思った。かつての灯也を間近に見ていたから、今の灯也からあふれて落ちる孤独はあまりに哀しかった。

 ずっとこうしていたいと灯也は思った。毎日毎日、ただ顔を見られないようにガソリンスタンドの客をさばく。もう一人、店長がいるが、たいがい灯油やオイルなどの配達に出ている。仕事が終わると、自分だけの城…、金持ちが納屋を改造して貸しつけているロフト付の小屋に帰る。店でも、家でも、一人きりだ。

女も、結局明美との事件が最後になっている。顔を見られるから風俗にも行けない。縁がなすぎて、今、女の子を抱いて横たわっているだけで嬉しいくらいだ。

しばらくじっとそのまま時間を過ごし、灯也はもう一度「ゴメン」と言って明美を離れた。明美はおそるおそる座り直した。

「変わってねーな、と思った?」

 灯也は元通りソファに座り、もう一度コーヒーを手にして明るく言った。

「…ううん、…変わったよ」

 明美も重くなりすぎないように答えた。「変わってないね」と笑えればよかったけれど、やっぱり、嘘は言えなかった。

「明美ちゃんはお勉強したんだね。迫っても、真っ当にお断りできるようになった」

 目を伏せたまま、灯也が冗談を言う。その向こうにある感情が見えるような気がして苦しくなったが、明美も少しは明るく言った。

「…お勉強なんて…全然。でも、灯也くんには少し冷静に対応できるようになったと思う」

「俺、なめられてるってこと?」

「ううん、…多分、優しい人だから。大丈夫だって思ってる」

 灯也はいぶかしい顔をした。

「…以前、大丈夫じゃないこと、したけど」

「でもきっと、ひどいことはできない人だよ」

 あの日だってきっと、拒んでいたら止まっていただろう…と明美は思っていた。

「ひどいこと…したじゃん、実際に。…恨まれてるだろうなって、俺、思ってるよ」

 灯也の視線に、明美はまっすぐに答えた。

「ううん、元々、恨んではないの。ひどいことだったかどうかは…今日までは悩んでた。だけど…今日灯也くんに会えて、いろいろ話ができて、…割り切れたような気がする。ひどいことじゃないし、それも私の人生経験の一部なんだなって」

(…そうか、今日限りなんだ…)

 灯也は言葉を失った。なんだか、また、明美と会えるような気になりかかっていた。また会いに来てくれるような気がしていた。でも、今のこの言葉は決別を意味している。また誰もいない暮らしがはじまる。

 けれどそれは自分が招いてしまったことだ。嫌なら世間に戻るしかない。あるいは自分一人なら、もう世間も忘れてくれたかもしれない。けれど、クロック-クロックが活躍している限り、広瀬灯也は記事になる。自分が書かれることもうんざりだが、残った3人の足を引っ張るような真似をしたくない。

 静かに時間が流れた。けれど、明美がそれを断ち切った。

「もう、帰らなきゃ…」

 レンタカーも3日借りてあるし、家族にも2泊3日と言った。本当はもっと長野にいてもいい。灯也ともっと話していてもいい。でも、帰らなければ…。

 明美が立ち上がると、灯也も立ち上がった。

「…仕方ないよね」

 その言葉が灯也の精一杯だった。

「来てくれてありがとう…。明美ちゃんが、生きてて、元気で、…そして俺を恨んでなかったことがわかって、すごく嬉しかったよ」

 灯也は微笑んでみせた。明美は、その表情に子どものような淋しさが浮かんでいることに気付いていた。だからって…もう会いに来るつもりはなかった。

「灯也くん、元気でね。…あのね…こんな風に言ったら、灯也くんのこと追いつめちゃうのかなって思うけど…でも、私、やっぱり灯也くんの歌が好き。いつかまた、…うまく、世の中の歯車がかみ合うっていうか…そういう時が来たら、ステージに立ってね。ソロでもいいけど…もう一度、できればクロック・ロックで…」

 灯也は明美を抱きしめて泣きたい思いに駆られたが、必死で踏みとどまった。

「…そうだね、そういう機会があったらいいな…。その時は、明美ちゃんを招待するよ」

 明美が車のエンジンをかけてゆっくりと走り去るまで、灯也は小屋のドアのところに立ってずっと見送っていた。

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