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2.恋

 明美は滞りなく大学生になった。高校の時のような、「文芸部」などという渋いサークルはなかったが、映画サークルが「原作、シナリオを書ける人も募集」という看板を出していたのに惹かれた。自分の書いた小説が映像化されたらおもしろいかもしれない。迷った末、明美はその映画サークルに入った。

 入ってみたら、映画の画面に登場しようというだけあってか、美男美女が多かった。監督をやりたい人、監督と役者を兼ねたい人、役者だけやりたい人…そして、書きもの担当の人。「人種」のように、価値観が異なった人たちが集まっていた。

 まずは4月、新歓コンパからサークル活動がはじまった。

「軒田さんも飲みなよ」

「…私は、未成年なんで…」

「平気だよ、ハイ!」

 誰かが頼んだ甘いカクテルを勝手に横取りして、一人の先輩が勧めてきた。明美はぶんぶん首を振って断った。

「やめなよ、無理強いは禁止だよ!」

 たしなめる先輩もいて、明美はホッとした。

「こんなのもあるけど」

 ワイングラスを差し出された瞬間、明美の胸がドキンと音を立てた。

「私、成人するまで飲まないって決めてるんで!」

 必死に顔の前で手を振っていたら、「まじめ~」と茶化され、放免された。

(…灯也くんの、あのワインは…)

 ささいなことで思い出してしまう。灯也がクリスマスに「ちょっとだけ」とワインを用意して、けれど明美は結局飲むのを断ってしまった。あのときのロゼワインの綺麗なピンクを覚えている。

 明美は、卒業旅行で見かけたガソリンスタンドの店員がずっと気になっていた。

「軒田さん、彼氏は?」

「え、はいっ?」

「宴会部長」というたすきをかけた男の先輩が、携帯電話をマイクに見立てて明美に突き出していた。サークルの人々の目が集中している。

「軒田さんには、彼氏がいますかという質問です」

 明美は目を白黒させながら、正直に答えた。

「いません」

 清昭は、まだそういう相手ではない。それでも「恋の相手は」と聞かれたら、清昭を思い浮かべて「いる」と答えたのだろう。

 男性一同から大拍手が起こり、明美は面食らった。

(…やっぱり、大学のサークルって、にぎやかだな…)

 にぎやかなのはちょっと苦手。だけど新鮮だと、明美は感じた。


 清昭は明美を作家の講演会に誘った。「名作文学の伏線」という講演を聴き、帰りに一緒に夕食をとった。

「映画のサークルって、どう?」

 どんなサークルに入ったかはメールで軽くやりとりしていた。清昭が早速訊くと、明美はいつになく笑顔で、積極的に答えた。

「監督やる人と、俳優やる人と、書く人がいるの。俳優やる人は男女とも結構美形揃いで、びっくりしちゃった。出ようっていう人は出ようって思うだけあるなって思った。私も映画出たらって言われたけど、あの中に入るのは絶対無理」

 ふーん、と清昭は微妙な返事をした。

「GWには、2泊3日で合宿に行くんだって。おみやげ買ってくるね」

「…楽しそうだね」

 清昭の口調は全然楽しそうではなく、そのままじっと黙っていた。

「…どうしたの?」

「別に、なんでもないよ。それで?」

 清昭の明るく装った声が不自然に響いた。明美は気後れして、

「…うん、それだけなんだけどね…。合宿やるよって、…それだけ…」

 と言って、場つなぎに食べかけのグラタンを少し掘り返した。

 なんだか清昭の様子が少し不穏なまま、2人は店を出て駅に向かった。駅前は緑地になっていて、噴水や花壇、ベンチがあった。

「軒田さん、話があるんだけど」

 低くたれ下がった桜の枝の下で清昭は言った。桜はもうすっかり若葉に変わっている。

「え、何?」

 明美は何気なく返事をしたが、清昭はしばらく何も言わなかった。

「…何?」

 その間の長さに気まずくなった明美がもう一度訊くと、清昭はやっと口を開いた。

「僕は、男女交際とか…まだよくわからない方で、うまい言い方がわからないんだけど」

 一気に空気が張りつめた。桜の木の下は少し暗くて、清昭の顔はよく見えなかった。

「もしかして、軒田さんは全然そんなつもりはなくて、僕のこと友達だとしか思ってないかもしれない。でも僕はずっと軒田さんを女の子として、可愛いと思ってた」

 突然展開した恋に驚き、明美は清昭の次の言葉を待つことしかできなかった。

「…正直、なんだかカッコイイ男がたくさんいるサークルにキミが入ったっていうのが、僕のことをすごく焦らせてる。ホントは、今みたいに、普通に会えればいいと思ってた…。でも、もしかしたら、それじゃ後悔することになるかもしれない」

 遠回しだな、と明美は思った。でも多分、簡単に言えることではないんだろう。

「つきあってほしいとは言わないけど、…会うときに、僕がキミを好きだってことは、わかって、会ってくれないかな」

 待っていた告白の言葉。でも明美は返事に困ってしまった。「つきあってくれ」とか、「キミは?」とか言ってくれた方が楽だった。これでは返事が難しい。…どうしよう。

「それとも、僕の気持ちがそういうよこしまなものだってわかったら、もう会えない?」

 明美は空回りする頭の回路をなんとか使って、なんとか返すことができた。

「よこしまって、ことはない…嬉しい」

 それから迷って、「適切かはわからないが、多分間違いではない」と思いながら言った。

「…あの、私も、…好きだから…」

 たどたどしい空気が周囲を支配した。戸惑いと戸惑いが重なって、空気が揺れた。

「…よかった…」

 清昭の声。顔は桜の木の影が隠していた。明美は所在なくてうつむいた。この瞬間をずっと待っていた。ずっと、気持ちなんか知っていたから…。

 しばらく2人は黙り、それから清昭の「帰ろうか」という声に促され、駅へと向かった。


 お互いに好きだと言ったら、それは「つきあう」ということになるんだろうか。

 明美は戸惑っていた。気持ちは伝え合ったが…それと「つきあう」「恋人」ということは、また別の手続きや、確認がいるのだろうか。また会うし、お互いの気持ちは知っている…それは、「つきあう」と定義していいのだろうか?

 2人が次に顔を合わせたのは、明美が合宿から帰ってきた後だった。

「これ、つまんないものだけど…」

 河口湖で売っていた小物と、菓子。おみやげを渡すと言って、明美の方が近場の公園に呼び出した。

「…うん、ありがとう…」

 清昭も言葉が少なかった。普段は清昭の方が熱心にしゃべっていたので、清昭が黙り込むと静かになりすぎてしまう。でも、この関係に戸惑って、清昭はなかなか言葉がまとまらなかった。

「…ゴメン、あんまりしゃべらなくて」

 自分自身でも困り果て、清昭はとにかく謝った。明美もうつむき気味に、

「あの、…私も、元々、しゃべらなくて迷惑かけてるから」

 と言った。それからまた、沈黙が流れた。

「…難しいね、こういう関係」

 清昭が言ったのを受け、明美は、

「それなんだけど」

 と切り出した。

「こういう関係って、…私、…どういう関係って思ったらいいんだろうって、実は、ずっと…あの日から、悩んでるの…」

 一瞬の間、そして、明美が真下を向いて、

「ゴメンなさい。おかしなこと考えてて」

 と言う。清昭が首を横に振るような仕草をして、言い返す。

「…ううん、実は、俺も考えてたの。俺の気持ちも言ったし、…キミの気持ちも聞いたし、…それで、お互いに好きだった場合、それは自動的に『彼氏』とか『彼女』とか、そういう風になるものなのかなって…」

「うん、そう、…それ」

 明美は前髪を引っ張って顔を隠した。彼氏とか、彼女とか、そんな言葉が照れくさい。

「そう思っていい?」

 清昭が訊く。明美は顔を隠したままうなずいた。また、気恥ずかしい沈黙が流れた。

 それから2人で公園を散歩した。ただ並んで、黙って歩いているだけ…。

「ほんとにゴメン、しゃべんなくて。俺が『しゃべり係』なのに」

「…ううん、いい。…これで」

 清昭の一人称が「俺」になった。それまでの「僕」は、特別な感情を伝えるために使っていたのかな…と明美は思った。だったら、その「僕」だけで、告白だったわけだ…。

 黙って、並んで、ただ歩く。相手が自分を想っていることを知っている。ただそれだけのことがこんなに幸せだということを、その日2人ははじめて経験した。


 GW明けのサークルで、明美は先輩のひとりからアプローチをかけられて驚いた。けれど、明美と一緒に入部した女の子が「先手必勝だよ」と言ってサークルに「軒田さんに彼氏ができた」と流してくれた。途端、アプローチがあっさりと止んだので、明美は再度驚いた。「先手必勝」の彼女は、

「そーいうものよ。彼女がほしい…っていうだけなんだから」

 とあっさり言った。

「誰でもいいの? そういうものなんだ…」

 明美が少しガッカリして言うと、驚きの答えが返ってきた。

「男の子なんて、デキれば誰でもいいんだから」

 明美はショックを受け、しばらく悩んでいた。大学生ってそんなものなんだろうか。恋愛って、そんなに軽いものなのだろうか。それとも、自分がそんな風に、簡単に「デキる」ような女性に見えたのだろうか…?

 悩んだ挙げ句、「先手必勝」の彼女におそるおそる、

「私って、なんだか、簡単にそういうことをさせてくれそう…とか、見える?」

 と訊いた。「先手必勝」さんは大爆笑した。

「多分、世界中の誰が見ても、軒田さんって処女だと思う。そういうの、めんどくさそう」

 マジメそうだという意味のことを言われたのは理解できたが、単純にホッとできなかった。実際の自分は、結局のところどうなのか…。

(…灯也くん)

 どうしても存在が消えない。考え始めると、大きな存在感で明美を圧倒してしまう。体を重ねた事実は消えない。だからもう、灯也の存在は永遠に消えない。過去だと割り切るしかないが、ささいな出来事のたびに灯也が蘇る。

(…こんなんじゃダメだ…私、このままじゃずっと、灯也くんの思い出から出られない…)

 清昭とは会って、並んで歩くだけの関係が続いた。明美は、灯也の存在にけりをつけたいと思うようになっていった。


 3か月、あまりにもあっさりと過ぎた。夏休みに入ってすぐ、明美は久しぶりに清昭に呼び出された。

「…試験の時期がずれちゃって、結構長く会えなかったね」

「うん、そうだね…」

 その日二人が会った場所は、高校のすぐそばの庭園だった。清昭と明美は、映画や遊園地など人工のものがたくさんある場所より、水辺や公園など、何もないところを選んで会った。人が多くて、何かをして遊ばなければならない雰囲気のところは好きではなかった。

 のんびりと散策しながら、時々話をするだけ。会話は少ない。庭園の池は、錦鯉もいたが、亀の方が多かった。2人はそれをのぞきこみながら歩いて、時々ベンチで休んだ。閉園時刻までぼうっと過ごし、それから近くの食堂に入って夕飯を食べた。

 帰る駅に向かう道のりで、清昭は厳かに切り出した。

「…すごく悩んでたことがあるんだけど」

 明美は隣を歩く清昭をわずかに見上げ、また前を見た。

「何?」

「…悩んで、答えが出なくて、すごく迷って、結局、直接訊くことにした」

 でも、質問はなかなか来なかった。そのうち、駅に着いてしまった。

「…待って」

 改札に向かう明美を、清昭は呼び止めた。二人は通る人の邪魔にならない隅に移った。

「軒田さんの感覚だと、…あのね、…どのくらい、つきあったら…手を握ってもいいかな」

 明美は思わず息を呑んだ。清昭がそんなことを考えていたなんて、全然思っていなかった。それに、いつ頃、どこに触れていい…なんて、全然計算していなかった。

 立ちすくむ明美に、清昭は焦った。

「ゴメン。…嫌なら、いいから」

 明美は「何か言わなきゃ」と思ったが、何も出てこなかった。それは、今だっていいような気がするけれど…それは、男の人が決めてほしい。自分の方から「いつ頃になったらどこまでしてもいい」なんてことはとても考えられない。

 結局明美は呆然とし続けて、

「…ホントにゴメン、今の、忘れて」

 と清昭を帰らせてしまった。

 清昭の背中を見送ってからのろのろと動き出した明美は、真剣に考えた。

(…保井くんは、そんなことをずっと悩んでたんだ…。ずっとって、今日一日? それとも、もっと前からなのかな…。一体、いつからなら、手を握ってもいいんだろう…。どうなんだろう、3か月経ったんだから、今日とか、…ダメってことはなかったのかな…)

 無断で触れた灯也の手を思い出す。今更ドキリとして、明美は暗澹たる気分になった。

(大人の男の人の遊びと、私たちの真剣な恋愛は違うのに)

 違うとわかっているけれど、過去のそんな記憶は、灯也とのことしかない。自然、比べてしまう。

(こうして恋をして、何人か、相手が変わったら…灯也くんのことも薄れていくのかな…)

 それでは今の恋はどうなるんだろう。いつか最後に出会うべき恋があって…結局は、今の恋は一つの過程にすぎないのだろうか…。

 清昭から、長いメールが入っていた。

『今日は、急にとんでもないことを言い出して、本当にゴメン。

 僕は恋愛が初めてで、何もかもが手探りです。いつも不安です。

 今回のことで嫌われたらどうしようと思って、心底悩んでいます。

 これに懲りずに、これからも一緒にいてください。

 でも、メールだから正直なことを言うと、今まで何度も

 手をつないで歩きたいと思って、すごく迷ってました。

 僕の方がイニシアチブをとった方がいいのか、やっぱり軒田さんと

 ちゃんと話をしながらつきあっていくべきなのか、

 できればちゃんと話し合いたいと思います。

 それと、あと、本当は「軒田さん」ではなくて、名前で呼びたい。

 これもずっと言えなかった。腹が立たなければ考えておいてください』


 明美は友人一同に「つきあい始めて、どのくらいたったら手を握るものなのか?」と訊いて爆笑された。「中学生じゃあるまいし」「いや、幼稚園児だ」「考えて実行するほどのことじゃない」…。

 明美は困り果てた。周囲に聞いたとおり「悩むほどのことじゃないって」と清昭に言ったら、「いつでもOK」という返答になってしまう。自分自身はまだ答えは出せない。

(灯也くんは…会うようになって、何回目だったかな…)

 デートの回数で言ったら、清昭と会った回数は灯也を軽く超えているが、灯也と会うのは月に一度がせいぜいだったから、「特別」だった期間は灯也のほうが長い。比較が難しい。比較の対象が灯也しかいないから、何でも灯也と比べてしまう。そのことは明美の気分を重くする。清昭のことは、灯也とは関係ない。

 今、清昭に手を握られたらどう思うだろう? …多分、嬉しい。だったら、それでいいのかもしれない。

『この前のことは、少しもとんでもないとか思ってないので大丈夫です。

 それに、会っているとき、嫌な思いも、退屈もしていません。

 むしろ私があんまりしゃべらなくてつまらない奴でごめんなさい。

 実は、友達にリサーチしてみたのですが、本当に人それぞれみたいです。

 私は、そういうことは、言ってもらわないとわかりません。

 何も言われなかったら多分、私は一生男性と手をつながないと思います。

 あと、名前は、なんだかものすごく恥ずかしいです。

 それは次に会ったときに話し合いをさせてもらっていいですか?』


 清昭が意を決して「明美ちゃん」と呼んだ瞬間、明美の胸を鋭い刃物に突かれたような衝撃が襲った。けれどそれは、初めて恋人に名前で呼ばれたショックではなかった。

「…ちゃんづけも、しなくていいよ…」

 思わずそう言って逃げていた。清昭が驚いたように、

「いいの?」

 と訊いた。明美は、

「いいよ、もう大学生だし…」

 と答えた。

「照れくさいな…」

「呼ばれるほうだって恥ずかしいもん」

 清昭がもう一度深呼吸をして、明美を呼ぶ。

「…明美」

 ものすごく恥ずかしい。2人は冷や汗をかいた。

「明美もさ、俺のこと名前で呼んでよ」

「…清昭くん、でいい?」

 一瞬、明美の胸を痛みがかすめる。でも、大丈夫。

「…そっちはくん付けなの?」

「…いいでしょ? …なんだか、女の子の方から呼び捨てって、私…苦手なの」

 代々木公園を歩きながら、2人はお互いの呼び名を変えた。でも、明美はこの儀式に少なからず淋しさを覚えた。

 清昭が「明美ちゃん」と言ったとき、胸が痛んだ。灯也にはずっと「明美ちゃん」と呼ばれていた。その響きで灯也の声を思い出してしまうから、慌てて呼び捨てに変えてもらった。本当は、「いつしか呼び捨てになる」なんていうのもロマンだと思っていたのに…。清昭となにか起こるたびに灯也のことを思い出す。

 急に手がつかまれ、明美は驚いた。清昭が明美の手を握っていた。

「明美は時々そんな風にぼうっとするけど、何を考えてるのかな…」

 まずい、と明美は思った。清昭がそう言うのは灯也のことを思い出している時だ。

「…ゴメン、私、いろいろとのろいから…」

 明美は言い訳をした。それよりも、と明美は思った。手をつないでいる。結論は出たのだろうか。自分自身でイニシアチブをとるという…。

 しばらくはその手の所在を追及するでもなく代々木公園を歩いていた。そして、清昭が耐えられなくなって口を開いた。

「…ゴメン、手…嫌だったら、ほどいて」

 明美はしばらく黙り、下を向いて首を横に振った。…嫌じゃない。

「俺もリサーチしたんだよ。そしたら、…そんなこと幼稚園で済ませろとか…いつでもいいだろとか…悩む方がバカだよって言われて…」

 似たような結果に明美は失笑した。

「3か月、手も握らなかったなんて…おかしな奴だって言われた。それに流されるわけじゃないけど…。やっぱり、事前に、言わないと横暴と思う?」

「ううん、あのね、私…清昭くんに、何をしてほしいとか…そういうの全然なくて、あ、それは悪い意味じゃなくて、男の子とどんな風につきあいたいとか、そういうの全然わかんないの。でも…今、…あのね、…嬉しい、のね。考えると、私、わかんなくなっちゃうから。嫌だったら、嫌だって、ちゃんと言う。清昭くんだったら、私の気持ち無視したりしなそうだから。信じてるから。だから…その時考える」

 息が詰まるような緊張の中を、明美はなんとか泳ぎきった。自分の正直な気持ちを相手に伝えるのはこんなにも大変なこと。だけど、それをしっかりと言える関係になれたのは嬉しい。触れる掌から、エネルギーがわき上がるのがわかる。ドキドキしている。心を揺り動かす大きな力がここから発生している。

「あのさ…俺の手、汗かいてて、気持ち悪いでしょ…一回離して。拭くから」

「そんなこと、ないけど…」

「今、俺が気まずいの。こんな手じゃ絶対やだから、離して」

 手がそっと離れると、明美の掌がすっと涼しくなった。確かに、汗をかいていたのかもしれない。でもそんなことは気にしなくてもいいのに…と明美は思った。

 水道の蛇口を見つけ、慌てて走っていく清昭の後ろ姿。晴れた空、濃い緑、優しい風。明美は溶けるような気分になった。

(…ささやかな、幸せ…)

 たぶん、どこにでもある、つまらない普通の幸せ。だけど、明美は、それが自分には丁度いいと思った。きっと、ずっとずっと小さい頃から、こんな何気ない光景に憧れていた。

 灯也の存在が邪魔だと感じた。怒りを伴うような、少し激しい感情で。

(私は、本当は、灯也くんに出会うことなく今日までを生きてきて、清昭くんに出会って、とても、とても当たり前で普通でありきたりの幸せを手に入れてるはずだった…)

 中学1年生なんて、大人の男にかなうはずはない。罠を張られたらひとたまりもない。結局は遊ばれただけだ。本当は何事もなく、普通の中学生でいられるはずだったのに…。

(そして、綺麗な体でいられたのに…)

 未熟だった明美の体は痛み以外を知ることはなく、自分自身が思っているほど女として変わってはいなかった。けれど、そんなことすら知らない明美にとっては、単純に「男性経験がある、ない」というだけの問題でしかなかった。

(手を握ってもいいか…なんてことでもこんなに大きな出来事なのに、私にはもう、「男性経験」があるんだ…)

 不意に、泣きたいほど悲しくなった。とりかえしがつかない。もう清い体には戻れない。

 清昭を大切にしたいと、明美は思った。これから一歩一歩、恋愛という初めての道を歩いていきたい。ささやかなことでも、話し合って、丁寧に解決していける…。

 カバンの中の財布は、あのとき灯也にもらった、スモーキーピンクの有名ブランド品のままだ。少し色あせたはしけれど、5年も使っているとは思えないほど、作りも光沢もしっかりしている。

(…わかってるよ、灯也くんが言ってたこと、たくさん本当のことがあるって)

 明美が「ブランド物を崇拝する人たちはバカだ」という意味のことを言ったから、灯也がわざとプレゼントしてきた高級ブランド品。灯也が言いたかったことも今ならわかる。「短絡的なブランド批判もそれはそれでバカだよ」とお説教するのは簡単だ。でも、口で言われたのでは自分はそれを理解し得なかっただろう。

 灯也と出会ったことが全て無意味だとは思わない。奇跡のような思い出だとも思う。

 だけど、今、恋をしている明美には、灯也との思い出が苦痛だった。

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