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19.今夜だけ

 控え室で私服に着替えていた灯也に、織部から「俺の車で帰ろう」という電話が入った。灯也は素直に従った。地下の駐車場で織部の車を探すと、軽いクラクションが灯也を呼んだ。運転席で手を振る中年の男に駆け寄って、灯也は助手席を開けた。

「後ろに乗れ。フロントからフラッシュたかれると見える」

「ああ、そうですね」

 灯也が乗り込むと、織部はかかってきた携帯電話をすぐにとった。灯也は所在なく後部座席に身を投げた。

「…うん、…そうか、…近くまで行ってみる。そっちが移動したら、また伝えてくれ」

 織部はそれだけ言うと電話を切り、灯也に「行くぞ」と言った。

「なんか、俺だけVIP待遇ですみませんね」

 灯也は照れたように言った。織部はそれには答えず、バックミラーで一瞬灯也の顔を見て、アクセルを踏んだ。

「『音楽情報』の担当の子。両親ともう一人だけ、おまえが呼んだの、彼女だよな」

「…そうですよ。恩人だしね」

 灯也はそれだけ言うのが精一杯だった。

 会話は途絶え、灯也は死んだようにシートに低く身を投げていた。特にここでは身をひそめなければならない。駐車場を出ると出待ちの女の子たちの群れがある。彼女たちは、車の中にいるのが中年男一人らしいと見て取ると、次の車をチェックしはじめた。織部の車は無事、出待ちたちから遠ざかった。

「せっかくの復活ライブが終わって、そんな顔はないだろう? これからの長い芸能生活、そんな顔でやってく気か?」

 織部は小さな声で諭すように言って、ほどなく車を止めた。まだほとんど走っていない。そこは、ライブ会場からそう離れていない、日比谷公園の入口だった。

「…どうしたんですか?」

 灯也は顔を上げた。織部は灯也を無視して携帯電話を取り出した。

「うん、…わかった、ここを入ったところだな。ありがとう、今、すぐ近くの角に止めてるから。もういいよ、戻って。ごくろうさん」

 誰かと話をして、織部は灯也を振り返った。

「ここから入るとすぐに心字池っていう池があるから、その先の花壇に行け」

「…何かあるんですか」

「音楽情報の…彼女がいるから。スタッフひとり、帰りがけ張り付けといた。…女の子一人でこんなところにいたら危ないし…、おまえが送ってやれ」

 灯也は礼もそこそこに織部の車を飛び出した。

織部は、ライブで灯也が座席の明美を見て動揺している様子をモニターで見ていた。そして、一度明美に広瀬灯也との関係を聞かなければならないと思った。かといって、明美の職場にそんな用件で電話をかけるわけにはいかない。信頼できるスタッフの一人に明美の席番号と特徴を伝え、後をつけてもらって、都合のいいところで声をかけて足止めしてもらい、自分が話をするつもりでいた。だが、ライブ後の灯也の様子を見て考えを変えた。

 織部は、灯也の恋愛問題を信用してはいなかったが、里留とは考え方が逆だった。里留は灯也に女をって音楽に専念してほしかったが、織部は経験から、それではいられない人がいることを知っていた。だから灯也に本当に大切な人がいれば、そのたった一人に灯也を任せるのも方法だと思った。仕事の席で話をした軒田明美は、まだ若いが灯也をしっかり支えてくれる女性に見えた。

 灯也は公園に入り、周りを見回しながら走った。すると、たくさんの花が咲いている正面に、ぼんやりとたたずんでいる後ろ姿を見つけた。

「…明美ちゃん」

 息を切らせた灯也の声に、明美はゆっくりと振り返った。灯也の姿を見ても明美はぼうっとしていた。

(そんなバカなこと。…私、ほんとにバカだな…)

 幻だと思おうとした。けれど、灯也の姿はいつまでたっても消えなかった。

「明美ちゃん…、夜、こんなところに一人でいたら危ないから…」

 灯也は、明美が逃げてしまわないようにゆっくりと近づき、囁くような声で告げた。

「…お願いがあるんだ、…今日のお祝い、…してくれないかな?」

 明美は夢心地で聞いていた。新しい広瀬灯也は素晴らしかった。嬉しくて、本当に感激して…、その分淋しかった。ステージの上は別世界。もう明美には手が届かない。

(明日からわがままは言わない。…今日までは…、今夜だけは、お願い…)

 明美は神様に祈った。もう、目の前にいる灯也を振り切る勇気はなかった。

(お願い、一度だけ。もう、…今後はもう会わないから)


 タクシーを降り、誰にも見つからないように別々に、二人は灯也の住むビルに入った。明美の手には、以前灯也のポケットからわずかに見えた、キーホルダーつきの鍵が握られていた。階段を上って、灯也が待っている305号室の鍵を開け、静かにすべりこんで鍵を閉める。ロックを2つ、チェーン…ふと昔を思い出し、明美は複雑な気持ちになった。

 玄関を抜けて居間に入ると灯也がお湯を沸かしていた。

「いらっしゃい」

 灯也は明美を振り返り、優しく言った。明美は灯也が眩しくてもじもじと下を向いた。まるで13歳の時のように…。

「もう大人だから、何かお酒買っておけばよかったね」

「…ううん、…いいよ、お茶で…」

 明美は立っていた。いいと言われるまで座ってはいけないような気がしていた。

「…座ってよ」

「うん、…ゴメン」

 座ってすぐ、明美は灯也に鍵を返した。灯也は少し何か言いたそうにしたが、そのまま受け取った。

 しばらく黙ってお茶を飲み、灯也がゆっくりと切り出した。

「里留の方の席に行ったんだね」

「…ゴメン、…仕事で、来るの遅れちゃったから…」

「それ、ウソだよね」

 強い声に明美はうなだれた。最初から里留のチケットでライブを見るつもりだった。

「雑誌では俺の担当外れて、他の席でライブ見て、…それが答えなの?」

「答えって…」

「俺が一緒に暮らそうって言ってから、逃げてる。俺を避けてる」

「だって」

 明美は下を向いた。言葉は続かない。灯也は静かに明美を糾弾した。

「だって、何」

「灯也くんの足手まといになりたくないから…」

「そういう話じゃないだろ?」

 灯也は明美の手をつかまえた。明美はそっと手を引いて逃れようとしたが、灯也は離さなかった。

「明美ちゃん、…わかってるはずだよ。俺、キミが好きだよ…本気で」

 とうとう聞いてしまった。明美は呆然と、テーブルの上の何もないところを見ていた。

「キミの答えは?」

 言えるはずがない。覚悟を決める長い長い黙秘のあと、明美は静かに首を振った。

「どうして?」

 灯也はもう一歩、明美ににじり寄った。明美はそっと距離を元に戻した。そして、言葉にできない想いをこめてまた首を振った。灯也はどうしても納得できなかった。

「答えてよ。自分の言葉で、声で。今、他に誰かいるなら、けじめがつくまで待つよ。好きな人がいるならそう言ってよ」

 明美はか細い声で言い返した。

「…お祝い、しに来たの…。今日は、私の夢がかなったお祝いをさせて。そしてそのまま帰して。私、灯也くんと同じ世界には生きられないから…」

 灯也は明美の手を離した。

「俺のうぬぼれだったってこと? …俺、キミもきっと、一緒にいて幸福だと思ってくれてるだろうって思ってた」

 明美は胸の中で叫んだ。ずっと一緒にいたい。でも、好きだから、夢を叶えていてほしいから、そばにいられない。

「灯也くんと一緒にいるのは、楽しいし…だから私もそういう意味じゃないけど、…でも…違うの。灯也くんは私にとって大切な人で、…だから、私のせいで悪い記事を書かれたり、灯也くんの歌声が濁ったりね、そういうのは嫌なの。だからね、多分…灯也くんに対して責任を負う覚悟がないの。それだけ」

 灯也は愕然とした。ここまできて、片想いだなんて…。

「…バカだな、俺。13歳の時に言ってくれた『愛してる』って言葉、まだ信じてた…」

 そうじゃない、と明美の心が叫ぶ。13歳の時の言葉なんてあまりにも軽すぎた。今は本気で愛している。だからもう会えない。今日、今夜、ここを出たらもう灯也と一切会わないと決めていた。胸のつかえが大きくなる。灯也が好きだと言ってくれたのに。何も考えずに飛び込めればいいのに。明美の瞳が潤んで、揺れた。

「灯也くん、ゴメンね…」

 少し姿勢を崩し、灯也の方へと乗り出す。

(今夜だけ…。お願い、今夜だけ私の気持ちも…)

 勇気は要らなかった。吸い寄せられるように、明美は灯也の胸に倒れ込んだ。涙がこぼれ、細い腕が強い力で灯也を抱いた。

 二人はそのままカーペットの上に倒れ込んだ。難しいことは何もない。ただ、愛情を形にするだけ。優しく、強く抱き合って、すべてを結びつけるだけ。

 果てしなく長い間、抱き合っていたような気がした。気付くと終電の時刻を過ぎていた。明美は家に電話をかけ、母親に烈火のごとく怒られた。「取材で遅くなった」と言い訳をして、カプセルホテルに泊まると適当な嘘をつき、携帯電話の電源を切った。

「大丈夫?」

 灯也の心配そうな声に、明美はわずかな笑みをたたえて「うん」と答えた。

「…灯也くん…」

 それだけで誘っているような、明美の切ないため息がこぼれる。灯也の腕が応えるように明美を抱き寄せ、一生分を求めつくすように抱き合った。明美の目からは時折涙がこぼれていった。誰のための、何の涙なのか、灯也は知りたかった。

 熱い抱擁に理性は薄れ、明美は最後に一言、「灯也くん、愛してる」と叫んだ。


 明美はそっと支度をして灯也の部屋を出た。幸い、ドアのロックのひとつは鍵がなくてもかけられるもので、灯也に迷惑をかけずに出ていくことができた。

 部屋のテーブルの上に最後の書き置きを残した。

『灯也くん

 今までの7年近く、本当にありがとう。

 たくさんの幸せをくれたこと、感謝しています。

 私は今日から、灯也くんに会ったこともない、ひとりのファンに戻ります。

 ずっと、ずっと応援しているので、歌い続けてください。

                       軒田明美』

 灯也はベッドでよく眠っていた。ライブで相当疲れていたはずだ。

(…ねえ、…やっぱり私は、灯也くんに迷惑をかけてしまうでしょう?)

 一刻も早く灯也を休ませなければならなかったのに。目覚まし時計のアラームは午前7時30分。この時刻に起きたらまた、午前のうちから会場入りするのだろうか。

 階段に靴音を響かせてしまわないよう、明美はエレベーターでビルを出た。そして、振り返らずに歩いた。駅の場所は灯也に教わっていた。本当は、昨夜帰るはずだった道…。

 明美が家にたどり着いたのは朝の7時だった。物音を聞きつけた母親が飛び出してきた。そこで明美はまたもさんざん叱られた。

「ゴメン、取材でライブに行ったら、スタッフの人とかの打ち上げに連れ出されちゃって」

 灯也と会ったらいつも言い訳が伴う。でも、これも最後の言い訳だ。明美は明るく「まいったな」という顔をしてみせた。

「お父さんと一緒。マスコミなんだから仕方ないって、そんなことばっかり」

「ゴメン、でも今後は気をつけるよ」

 今日び、つきあい酒で取材先と徹夜なんてことはまずない。ましてやアルバイトの身であれば絶対ない。けれど両親の世代では時折ある話で、明美の父もよくそれで徹夜になった。今回は、それをちょっと使わせてもらった。

「明美ちゃん、学校でしょ?」

「うん、これからちょっとシャワー浴びて、すぐ支度する」

 急に日程を取ったせいか、クロック・ロックの復活ライブは平日の夜だった。だから、夢のようなステージの翌日でも、灯也と過ごした数時間後でも、もう明美の普通の暮らしははじまっている。灯也はまたステージに立つのに、明美は単なる大学生だった。

 自分の部屋を目指して階段を上ると、明美の耳に小さな鈴の音が聞こえた。慌てて足を止めると、音も止まった。また足を踏み出すと、鈴の音…。外では周りの物音でまったく気付かなかった。部屋のドアを開け、飛び込んで、ドアを閉めて、電気をつけて、カバンを慌てて開けた。奥の方に、見覚えのない白い封筒があった。

 恐る恐る取り出してそっと振ると、チャリンと鈴の音がした。封を切ると、青いガラスのキーホルダーのついた、灯也の部屋の鍵が転がり出た。手紙が入っていた。

『明美ちゃん

 きっと君が朝起きてこっそり出ていく頃、俺は気付かないくらい寝込んでいると思う。今、君の寝顔を見ながら手紙を書いてます。文章とかめちゃくちゃだと思うけど、そこは手直しでも入れて読んでください。

 何から書いたらいいんだろう。何もかもを書くことは無理だけど、一つどうしても伝えたいのが、長野のことです。人は環境によってかわります。芸能人の俺を君が遠くに感じてしまうのは仕方のないことかもしれません。でも、長野にいた頃みたいな環境で暮らしていればああいう人にもなる、それが俺です。そういういろんな俺を知っている君、そのどちらの俺に対しても心地よい関係を築いてくれた君だったら、俺がどんな環境になったとしてもそばにいてくれると信じられる気がします。君にはあっさりと「ナイチンゲール症候群」で片付けられてしまったけど、俺には、年をとって芸能界を離れた俺が普通に暮らしていて、その横に君がいるのがきっと幸福なのだろうと思えるんです。

 あまり長く書いている気力はないので、早々に結論になりますが、明美ちゃん、3年かけてくれないでしょうか。ずっと一緒にいてくれてもいいし、全く会わずに過ごしてもいい。3年間、俺を見ていてほしい。ゴシップ誌が何を書くかわからないから、噂の一つや二つ出ないとも限りませんが、そういうつまらないことではなくて、俺が3年間クロック・ロックを頑張って芸能活動をやっていく、その結果を見てもう一回考えてくれませんか。

 鍵を同封します。返すなら、できれば3年後に返してください。今すぐ要らないと言われてしまえばそれまでだけれど、3年間、君の手元に置いてほしい。

 明日のライブも頑張るよ。君を失望させるようなことはしない。もう担当は君じゃなくなっちゃったけど、連載もできるだけ続けられるようにいいものを書きます。君のために…とは言いません。すべてのファンの人たちのために。けれど、それを約束する相手は、君でもいいでしょ?

 君と出会って過ごしてきた今日までの時間すべてに感謝して、君に、心からありがとう。次に会えるのは3年後かもしれないけれど(もちろん明日でもいいけど)、これからの3年間、君を勝ち取ることができるように頑張るつもりです。

 いつか、一緒に暮らせる日が来ることを(いささか一方的に)信じて…。

                             広瀬灯也』

 明美は手紙を伏せて机の引き出しに隠し、着替えを抱えて風呂場へ急いだ。飛び込んで、すぐにシャワーを全開にした。水音に隠れ、明美は声を上げて泣いた。頭の中で、愛しているという言葉がガンガン響いた。それは灯也の声、そしてその倍以上、自分の声。広瀬灯也を愛している。つらく、苦しい想いが明美の心を切り裂く。会いたい。このまま灯也の部屋に行ってしまいたい。身の回りの荷物を小さくまとめて。けれど、それはできない。

 部屋に戻って灯也の手紙を封筒に戻し、机を開けて、もう一通の手紙を出した。里留がチケットを送ってきたときの手紙。読み返しすぎて、折り目が柔らかくなってしまった。

『軒田明美様

前略 君に灯也の居所を教わることができたおかげで、すべてを乗り越えて、やっとクロック・ロックが復活できます。本当にありがとう。心からの感謝をこめて、復活ライブのチケットを送ります。是非、なにをおいても来てください。

 本来ならそれだけをお伝えして終わるのですが、もう一つ立ち入ったお願いをさせてほしくて手紙を書き始めました。恩人である君にこんなことを伝えるのは僕も本当に心苦しいのですが、クロック・ロックのことを本当に思ってくれる君の気持ちを信じて、クロック・ロックのリーダーとしてお願いをさせてください。

 広瀬灯也は魅力的な男です。君は間違いなくクロックでは「灯也派」だと思うし、この並々ならぬ情熱は、ファン以上の強い気持ちなのだろうと思います。

 一方で、灯也自身もおそらくは君に特別な感情を持っているのだろうという気配を感じます。灯也は、この復帰ライブのチケットを個人的に3枚押さえていました。2枚はご両親、そしてもう1枚は、俺のこの手紙と前後して君のところに届いていることでしょう。

 最前列の中央の席が特別なものだということは、会場に招待で来ているすべての関係者にわかります。そこに灯也の両親が来ることは構わない、けれど、君がいるというのはいささか微妙な状況になりかねないのです。

 灯也の気持ちが何なのかは僕にはわかりません。ですが、灯也の感情は、そういう形で周りを考えずに発露してしまうところがあります。慎重さが足りない、という言い方では少し冷たすぎる気がしますが、つまりはそういうことです。今は灯也の連載の「明」という恩人が誰なのかわからない状態ですが、ライブの最前列中央に「月刊音楽情報」の関係者である君が来ていて、その名前が「軒田明美」であることがわかったら、君はクロックを復活させた編集者として名前が売れるかもしれませんが、きっとそれ以上に、君を深く傷つける記事がいくつも出ることになるでしょう。

 現在のクロック・ロックは、かつてのファンもかなりの数離れてしまい、どこまで以前の水準にたどりつけるかという状態です。灯也に恋をしている女性が多かったクロックのファンを、女性問題で裏切ってしまったツケはとても大きいです。復帰早々に女性の影が見えたら、灯也のファンを再び遠ざけてしまう結果になると思います。

 僕たちにまた灯也と一緒に音楽ができるチャンスをくれた君は、恩人として、クロックに対していくらか権利がある立場かもしれません。でも、君が本当にクロック・ロックを思ってくれる真のファンであることを信じて、わがままなお願いをさせてください。

 広瀬灯也から手を引いてください。とても野蛮で、思いやりのない言い方になってすみません。でも、君ならきっと僕のクロックを思う気持ちもわかってくれるだろうと、願いをこめて伝えさせてもらいます。僕と、君と、そして灯也の「クロック・ロック」がいい音楽を創れるように、灯也と距離をおく形で見守っていてくれないでしょうか。

 僕は広瀬灯也が好きです。友人としても、才能あるボーカルとしても。だから、もう灯也を女性問題で失いたくないのです。僕はきっと、君の何倍も、何十倍も、広瀬灯也を待っていました。だから、灯也を取り戻してくれた君への感謝は本当に言い尽くせないくらい大きいのです。けれど、僕は今後、灯也とこの音楽を守るために努力をしていこうと思います。それが誰かを傷つけることであっても、灯也を怒らせることであってもかまいません。僕はずっとクロック・ロックを続けていきたいのです。

 広瀬灯也から手を引いて、遠くから見守ってやってください。灯也のチケットは使わないで、僕の送ったチケットでライブに来てください。席が空いていることで灯也も何かしらあきらめがつくだろうし、周囲の関係者も空席の主を深く追求することはしないでしょう。あいにく僕のチケットは、席が少し端の方なのが心苦しいのですが…。

 でも、誤解しないでください。僕は本当に君に感謝しています。灯也のいない3人の「クロック-クロック」のサウンドは、完成度が高すぎました。1曲、2曲と聴く分には「すごい」と思ってもらえるかもしれません。でも、3曲、4曲と聴いているうちに、その精密さや正確さに慣れてしまい、あるいは飽きても来るのです。そこを補っていたのが灯也の歌声でした。灯也の歌声は、技術は感じられないのに、何とも言えないパワーがありました。灯也のそんな「未完成」という魅力、次を期待させる力は、クロック・ロックを輝かせてくれていました。クロックには灯也が必要です。だから、君が僕たちに灯也を取り戻してくれたことを、心の底から感謝しています。

 だからこそのお願いです。これからのクロック・ロックを、「一緒に」支えてください。

 いずれは灯也にも生涯をともにする女性が必要になる時期が来るでしょう。でも、それは決して今ではないはずです。何年かたって、灯也と君が生涯をともにするという結論を出す日が来るならば、僕は必ず祝福できるでしょう。今は灯也を信じて、灯也をクロック・ロックに任せてください。

 長くなりましたが、クロック・ロックのリーダーとして、灯也の友人として、できる限り本当の気持ちを書いたつもりです。たくさん失礼なこと、無神経なこと、書いてしまいました。お詫びします。

 君がいつまでもクロック・ロックの恩人であり、僕たちの大切な人でいてくれることを祈ります。最後にもう一度、ありがとうと言わせてください。

 ライブ当日、僕の席に君の姿を見ることを楽しみにしています。その日に、少し遠いですがステージと客席でお会いしましょう。   草々

     クロック・ロック リーダー 垣口里留』

 美しい手紙だと明美は思う。里留の本音としてはきっともっと言いたいことがあるのだろうけれど、綺麗な言葉で包んで、明美の恋心を戒め、押しとどめてくれる。

 慎重さが足りないと里留は灯也のことを書いた。その表現するところはよくわかる。思えば、復活ライブのあとに女の子と帰宅するなんて、なんて軽率なんだろう。

 そして明美は、里留がこの文字の背後に秘めていることもうっすらと見えていた。

「何年かたって」…その頃には、灯也はきっと新しく何人もの女性と出会っているだろう。運命の出会いであるなら待てるはずだ…けれど、きっとそうではなくて、時間の波に流されて消えていく恋だろう。里留はそう言っている。

 明美は里留の手紙を何度も読み返し、次第に落ち着きを取り戻した。灯也からの手紙はもう開くまい。迷ってしまうだけだから…。

(鍵を、返さなきゃ…)

 だが、ものが家の鍵だけに、慎重にしなければならない。明美はしばらく考え、机の引き出しを開けて、大切にしていた「織部重信」の名刺を取り出した。織部を通して灯也に鍵を返せばいい。

 思い出はもう十分にもらった。明美はもう泣かないことを自分に誓い、灯也との別れを決意した。

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