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18.復活ライブ

 時計店プロジェクト。クロック-クロックが次々にゲストボーカルを迎えて展開するコラボレーションユニットは、世間から大きな支持を得ていた。ボーカルたちはクロックの特徴的なデジタルサウンドに彩られて新しい顔を見せ、クロック-クロックは独特の響きを堅持しながらもそれぞれのボーカルの雰囲気を意識した新しい音を創った。

『次の作品で、「時計店プロジェクト」は最後となります』

 これだけで音楽界の大きなニュースだ。注目が集まる。

『テーマは、原点への回帰。3人のアマチュア時代のサウンドを、現在のクロックの音で磨き上げて再現する、思い出と成長の集大成となる作品。クロック-クロック自身が最も待ちこがれていたボーカルを迎えてのコラボレーションです』

 いつもは、まず何よりボーカルの名前からの発表だったが、今回は様子が違った。次に続くリリースの文字は、

『次回ユニットは、「広瀬時計店」。』

 のみ。「広瀬誰」なのかは、何も触れられていなかった。

 しかし「時計店」ユニットが名だたる一流ボーカルを迎えてここまで展開してきた以上、この「広瀬」がマイナーなボーカルのはずがない。冷静な対応をしたメディアも多かったが、ゴシップメディアはさっそく動きだした。スタッフも、メンバーも、ただ黙って見守りながら待つしかなかった。

 1週間後、唐突に『クロック・ロック復活ライブ決定!』の報が流れた。「広瀬時計店」についてのニュースも解禁となり、同時に、「月刊音楽情報」が店頭に並んだ。

 灯也に関連して悪意のあるニュースもいくらか飛び交った。すでに引退して一般人となっていた榊(旧姓蓮井)まどかにも悪質な取材の矛先が向けられ、事務所は一部マスコミへの抗議文を出した。

 当然、「月刊音楽情報」にも「灯也をどこでどう見つけ、どうやって記事を取ったのか」という取材が多数入った。「取材の努力と、結局は誠意です」という回答だけで乗り切ったが、唯一、「コラムにある広瀬灯也の恩人の『明』というのは、御社の関係者ですか」という質問には肝を冷やした。「当編集部ではそこまで把握していません」でなんとか流した。一部マスコミは社員名簿まで手に入れて調査したようだが、該当しそうな経歴の社員はいなかった。明美はアルバイトなので、当然、載っていなかった。


 明美は編集長に「少しいいでしょうか」と声をかけ、ミーティングルームに移って静かに切り出した。

「編集長、…あの、…担当者を下ろしてほしいんです。広瀬灯也のコラムの」

「えっ、どうしたの? あの記事は、いわばキミの信用で書いてもらってるわけだし…」

 編集長はただ目を丸くした。明美は静かに微笑みを作った。

「…広瀬さんは、私じゃなきゃ書かないとは言わないと思います」

「なんで? 誰か、編集部の人間が嫌なことでも言った?」

「いえ、そうじゃありません。今、世間の動向を見ていて、…やっぱり広瀬灯也を悪く書きたい人って、女性問題に結びつけたいみたいですよね。広瀬さんの担当編集者が女子大生だなんて、…何か、書かれることになるんじゃないでしょうか?」

 身を隠していた灯也からミラクルな記事を取ってくる…なぜ、アルバイトの女子大生がそれをなし得たのか。下世話な想像はたやすい。そして、実際に明美は灯也のところに泊まっている。結果として、否定できる要素は一つもない。

 編集長自身も、明美がゴシップのタネになることを恐れる気持ちはずっとあった。だから黙っていることしかできなかった。明美は頭を下げた。

「最後まで全うするべきなのはわかってます。こんなお願いは心苦しいです。でも、編集長、この記事のことでご褒美をくれるっておっしゃってましたよね。その『ご褒美』…、担当を外れるという形で、もらうことはできませんか。担当には、私じゃなくて、ちゃんとした社員の人をつけてください…もちろん、男性で…。お願いします」

 明美は、灯也のためという顔をしながら男性を後任に推す自分を醜いと思った。女性編集者と噂になるのを避けるためでなく、ただ、灯也を他の女性に渡したくなかった。

 2日後、明美が灯也の担当を外れることが決定した。そして、卒業後の入社をにらんで他の雑誌も経験させようということで、明美のアルバイト先はペット情報誌になった。


「軒田さ~ん、郵便」

 数日後、「月刊音楽情報」の編集部員が「月刊猫じゃらし」の編集部にいる明美に封書を届けに来た。クロックと広瀬灯也が共に所属する事務所の封筒が2通。差出人の名前がないのはいつものことだ。明美は開けたい誘惑に必死で耐え、さりげなく荷物に忍ばせて持ち帰り、家に帰って部屋で急いで封を開けた。間違いなく、どちらかは灯也からだろう。

 先に開けた方が灯也だった。復活ライブのチケットが真っ先に見えた。「1階1列」――本当に、一番前だ。明美はチケットを抱きしめた。席順なんてどうでもよかった。「クロック・ロック」の文字が入ったこのチケットが世の中に出たことがなによりのご褒美だった。

(灯也くん、やったね…。ホントによかった…)

 静かに涙が流れてくる。今日と、あとライブの当日は、泣いてもいいだろう。

 けれど、しばらくして不安がわいてきた。その素晴らしい席を手に入れた人物は、何かしら人の興味を引かないだろうか…。

 封筒には手紙も入っていた。明美はとりあえず不安を保留して手紙を開いた。

『明美ちゃん

 キミのおかげでほんとうに復帰が実現しました。何て感謝したらいいのかわかりません。出会ったときには、キミが俺の人生にとってこんなに重要な人になるなんて思っていませんでした。あらためて、ありがとう。

 でも、連載の担当者がかわったっていう連絡も来ました。女性問題と誤解されるのが心配という理由も聞きました。仕方がないとは思うけれど、それだけとは思えなくて、いろいろ複雑な気持ちでいます。

 この前、電話ちょうだいって言ったのも、結局くれなかったね。ずっと待ってたんだよ。本当に本音でキミと話がしたい。連絡ください。いつまでも待ってます。

 広瀬灯也(090-○○○○-○○○○)』

(ダメだよ、灯也くん…、私は…)

 本音で向かい合ったらきっと負けてしまう。今は灯也も復帰できたことに感傷的になっていられるだろうけど、夢はきっとすぐに醒めていく。「遠い」…清昭と別れた理由がそれならば、灯也はもっと遠い人だ。

 明美はもう一通の手紙に手を伸ばした。これは誰からだろうか?

 三つ折りにした便箋の一片を開くと『軒田明美様』の文字が見えた。もう一片を開くと、クロック・ロックの復活ライブのチケットが入っていた。差出人の名前は、『垣口里留』。手紙は、便箋に5枚もあった。明美は何度も読み返した。

 2枚のチケット。灯也からと、里留から。いつの間にか、こんなにも幸福な立場になっていた。けれど一枚は無駄になる。空席を作ってしまう。仕方ない、他の誰かにあげるなんていうわけにはいかない大切なもの。

 明美の意志は決まった。あとは、当日を待つだけだった。


「広瀬時計店」のシングル『プラネット・クロック』が発売された。誰もがそれを「クロック・ロック」の再来になるのだろうと思って聴いたが、それは間違いなく「クロック-クロック」のサウンドだった。地味で静かだが心地よいリズム、そこに乗る灯也の声。それは確かに広瀬灯也の声なのだが、かつての歌い方とは違っていた。

 かつての灯也は、アドリブや自己流のビブラートなどの飾りが多く、歌詞の日本語が聞き取りにくかった。そしてクロック・ロックの小気味よくて上手い伴奏に乗って響く歌声は、個性ある「音」として魅力的だった。だが、今回の「時計店」ではハッキリ「声」として機能している。囁くような、語るような、味わい深い声。言葉の発音は明瞭になり、声の出し方は力強く、美しかった。

『プラネット・クロック』は、クロック-クロックのファンや灯也のファンはもちろん、大した期待をせずにCDを買った野次馬たちをも真剣にうならせた。この「広瀬時計店」をもって、時計店プロジェクトはグランドフィナーレを迎えた。

 そんな中、ついに、クロック・ロック復活ライブの日となった。有楽町にある大きなライブ会場に朝一番で会場入りした「クロック・ロック」の4人は、少し休憩をとってから、リハーサル用のシャツに着替えた。

「灯也」

 里留が灯也に声をかけた。灯也が振り返ると、里留は小さな紙を灯也に渡してそのまま去っていった。灯也はいくらか隠れるようにして紙片を開いた。

『灯也くん、とてもいい席をありがとう。でも仕事で遅れてしまいそうです。通路の奥で見るかもしれません。席が空いていても気にしないでください。きっと見に行きます。今日のライブの成功を、心からお祈りします。  明美』

 読み終えて、灯也は慌てて里留の消えたドアを振り返り、後を追った。里留は灯也の姿を見るなり、すぐに小声で、

「昨日、『音楽情報』から事務所に来た封筒に入ってたらしいよ」

 と言い、「リハ、始まるぜ」と階段を上っていった。

(…むき出しのまま事務所に俺宛のメッセージを? いや、それはありえないだろう。じゃあ、里留に宛てて…? でも、封筒にくらいは入れるだろう?)

 不可解な気持ち。けれど、この日ばかりはさすがにそれどころではなかった。長いブランクがある。実際にステージに上がって、やっていけるだろうか。湧き上がる不安を振り払い、灯也も里留を追ってリハーサルへ向かう階段を上った。

(そうか、明美ちゃん、最初からは見られないんだ…)

 灯也は幾分消沈している自分に気付いた。だが、以前明美が言っていたとおり、他にも灯也の復帰をずっと祈っていてくれたファンがきっとたくさんいるはずだ。

 リハーサル開始の円陣の中央にいるのは、3人の「クロック-クロック」ではなく、4人の「クロック・ロック」。灯也は、最後まで顔を上げずに最敬礼していた。

「灯也、頭に血が上って変な顔になるぞ」

 メンバーの軽い冗談。自由に歌えるのど。自然に軽やかなステップが乗る足。すべてが帰ってきた。すべてが愛おしい…。


 スタンバイの合図に足が震えるなんて、何年ぶりだろう。

 灯也は夢見心地でその時を迎えた。チケットは瞬間的に蒸発するように売れたと聞いている。満員の客席が待っている。

 カチ、カチ、カチ…、時計の音。ギギ…という歯車の擬音のあと、1、2、3のタイミングでイントロが入る。幕が開く。ピンスポットに照らされて、クロック・ロックのボーカルに戻った灯也が踊る。何か事件でも起こったかのような、ものすごい歓声。スポットライトの明かりも、ファンからの声も、灯也の体に温かく染みてくる。

 歌い出しが近づき、マイクを口元に持っていく。「クロック・ロック」復活の第一声。喜びの歓声が一段と大きくなる。

 1曲歌ったあと、灯也へのピンスポットと、客席に降り注ぐ眩いライト。客席のたくさんの顔が見えるように…、そして、灯也が語り出す。

「今日は、ここに来てくれて本当にありがとう…」

 そして灯也は言葉を失った。明美が言ったとおり、客席の女の子がたくさん泣いている。呆然としていると、客席から声がわき起こった。

「灯也くん、おかえりなさーい!」

「帰ってきてくれて、ありがとー!」

 そして、拍手が広がっていく。灯也は感動に取り込まれ、何も言えなくなった。

 拍手が静かになり、灯也はなんとか話を続けた。

「俺は、クロックの仲間も、ファンのみんなも、放り出して逃げてしまいました。言い訳をするつもりはありません。すべて、何もかも、俺の責任です。本当にすみませんでした」

 深々と客席に頭を下げる。灯也は気付いていなかったが、背後のクロックのメンバー全員も深く頭を下げていた。「灯也は悪くないよー」「もういいよー」という声が響く。

「でも、逃げたことをよかったとは言わないけど、その間にたくさんのことに気付いて、やっぱり歌を歌おう、一生歌おうと思うことができました。いなくなったからこそ成長できた広瀬灯也を聴いてください。タイトルだけもう発表になってますが、ここが初公開になります。再来週発売のクロック・ロックのニューシングル、『0 or 1』…聴いてください」

 本当は、明美にこの曲を聴かせたかった。贈った席は空いている。通路の奥にもまだ来ていないかもしれない。仕事では仕方がない。明美の責任感の強さは知っている。…明美のことはたくさん知っている。そして、広瀬灯也を受け入れない理由がつまらない不安だろうということもわかっている。

『デジタルな時代 未来を決めなければと 13歳の君が言う

 要は今から一つ選んでおこうと そうでなければ間に合わないと

 学校で言われてきたらしい

 早すぎないか? 0 or 1 ひとつに決めてしまったら

 それを失った瞬間何も残らないのに

 まだ間に合うよ 3 more 5 人生はデジタルじゃない

 すべて試したあと 選んだっていいはず』

 客席は灯也の迫力に圧倒された。胸にグイグイと食い込むような声。最大に張り上げるのはサビの少しの部分だけなのに、全体が強くアピールをかけてくる。

『不安定な時代 片っ端から手に入れなきゃと 二十歳すぎた君が笑う

 要は滑り止めを作っておこうと そうでなければ安心じゃないと

 どこかで言われてきたらしい

 自分って何だ? 0 or 1 すべてを賭ける何かがなくちゃ

 全部できたって自分見えなくなる

 できた方がいい 3 more 5 けれど結局のところ

 最後に選ぶのは1つのものらしい

 いくつも失敗したから ひとつだけ大切なものに気付いた』

 13歳の明美に25歳の自分が言ったこと…「1つに決めちゃったら、ゼロか1か、どっちかしかない」それは一つの事実。だけど31歳の今、その先がわかる。

『たくさんのもの手に入れたあと たったひとつの大切なものに気付く

 これが自分と言えるたったひとつのもの 賭けよう “0 or 1”』

 いろいろやることもいいだろう。けれど、歌をやめたら広瀬灯也じゃない。それに気付くのに長い時間がかかってしまった。会場のボルテージが上がる。歌うごとにどんどん上がっていく。快感だ。

 最前列の中央、明美に贈った一番いい席は、やはりまだ空いたままだ。けれど灯也はそれを気にしないように歌いつづけた。きっと、もう来てくれている。通路の奥にでも…。

 次のMC、里留がリーダーとしてあらためてクロック・ロックの長期活動休止を客席に詫びた。そしてクロック4人揃ってのMC…、これも久しぶりだ。笑いが起こる。客席も、メンバーも、みんなが笑った。会場が幸福に包まれた。

 ライブが後半にさしかかり、ステージと客席を交互に照らすライティングの演出が入った時、ステージを左右に走り回っていた灯也は息を呑み、歌の出だしが遅れてしまった。

(明美ちゃん!)

 明美は比較的前方の、けれど少し隅の方の席にいた。灯也は混乱した。何度かステージの隅に行くたびに明美を探した。気を取られ、歌詞を1回間違えた。

(…里留?)

 明美の隣には里留の妹が立っていた。里留が呼んだのだろうか。里留が明美にチケットを送る…、あり得ないことではない。雑誌社経由で明美に行き着くことはできるだろう。朝受け取った明美からのメモは、里留宛の返信に同封されていたのだろうか。

 灯也はそれから2曲分くらい動揺していたが、ラスト前のMCの間に気持ちを切り替えた。明美が導いてくれた復活のチャンスを無駄にしたくなかった。

 アンコールの大合唱が響き渡る中、クロック・ロックの4人は3分だけ休憩に入った。灯也は急いで水を飲み、一瞬だって惜しいという風情で里留のそばに行った。

「…明美ちゃんを呼んだの、里留か…」

 里留は一瞬何のことかわからず、一瞬おいてから答えた。

「明美ちゃんて、あの音楽情報の子か」

「おまえは彼女の連絡先を知ってるのか?」

「知らないよ、音楽情報の編集部宛に送ったんだ」

 互いの腹を探り合う間が流れる。そこに、女性スタッフの甲高い声が割り込んだ。

「スタンバイお願いしまーす、残り1分」

 里留が立ち上がった。

「灯也、今はそんなこと話してる場合じゃない、行くぞ」

 灯也は焦った。アンコールが始まってしまう。連絡先がわからない。明美が連載の担当を外れてしまった今、じかに連絡を取る手段がない。音楽情報編集部に、担当でもない明美に宛てて手紙を出すのは不自然だ。もしかしたら、これを最後に、もう会えないのかもしれない。

「広瀬さん! スタンバイ!」

 立ちすくんでいた灯也は慌てて飛び出した。その様子を、織部が黙って見ていた。


 アンコールが終われば静かに舞台の袖に退散するしかない。客席から人が退いていくざわめきが伝わってくる控え室で、紙コップのスポーツドリンクが配られた。

「カンパーイ!」

 スタッフ一同がクロック・ロックを囲んでコップをかかげた。

「広瀬さん、おめでとー!」

「ほんとよかったよ、一皮むけた、って感じ」

 灯也は愛想笑いを振りまきながら、いてもたってもいられない心境で輪の中にいた。

(明美ちゃんは、もう、帰った…よな、きっと)

 長野と東京でまったく別々に生きていたあの頃よりも、今の方が遠くなった気がする。東京の何千万人の中に埋もれて、つながっているものがすべて消えてしまう。距離はそんなに遠くないはずなのに。

 スタッフから大きな声がかかった。

「明日もあるから、あとは明日にしましょう~!」

 灯也を早く帰そうと示し合わせてあった。クロック-クロックの3人はいいが、灯也は6年ものブランクがある。

「里留」

 解散のあと、灯也は着替えに戻る廊下で里留を呼び止めた。里留は怪訝な顔をした。

「灯也、…おまえ少し変だぞ」

 灯也の用件はとっくにわかっていた。だが里留だって、無断で女性の連絡先を教えるような真似をする気はないし、当人の許可があったって灯也に教えるつもりはなかった。

 里留は周りをうかがった。廊下には前を行く周と孝司しかいない。片付けに走り回るスタッフは遠い。大丈夫なのを確認して、そのまま灯也の言葉を待った。

「…軒田明美、彼女の連絡先とか、…何か、何でもいい、知ってたら…教えてくれ」

 灯也は絞り出すように言った。

「長野で、2回来てくれて…、おまえに無理して連絡とってくれて、今日を迎えられたんだ。今日のこと、ありがとうって言いたいんだ。…でも、連絡先がわからない…。『音楽情報』のバイトを辞めたら、もう、多分、二度と会えない」

「バイト? …あの子、アルバイトなの? 新入社員だと思ってた。落ち着いてるね…いくつなの?」

「まだハタチだよ。大学生」

 長野に「来てくれた」という響きにこめられた気配。そして今は20歳、つまり灯也の消えた6年と何か月か前は――多分13歳。簡単な計算だ。13歳のときに灯也と何らかの関係があった女の子。里留はすべてを理解した。

「…灯也、…もう面倒なことはやめてくれ」

 灯也の気持ちが本気でも、本気でなくても、おそらく灯也にとって、軒田明美という存在は決定的なウィークポイントになる。里留は哀しい目で灯也を見た。

 灯也は「やっぱり」と思った。真剣な気持ちはわかってもらえない。誰にも。きっと、明美自身にも。

「何年か、我慢してくれよ。…真剣なら、待てるだろ?」

「待てないよ…。彼女は、俺から逃げようとしてるから…」

「だったら追うなよ。俺たちは今、これでも瀬戸際だ。余裕はないんだよ。忘れるしかないだろ? おまえの一方的な想いなら…」

「一方的じゃない。…彼女も、きっと…」

「なら、彼女はどうして逃げるんだ? 好意はあっても、芸能人とはおいそれと恋愛なんかできないと思うのが普通の子だろう? …そういう感覚は、俺、わかるよ。追うなよ。追われることだって、彼女にはつらいことかもしれないのに」

 長い長い沈黙のあと、灯也は目を伏せてつぶやいた。

「…たぶんおまえが正しいんだろうな。いつだって」

 明美はもう家に帰る電車の中だろう。今日の想いを分かち合うことはできない。何か方法があれば、どうにかして会いたいのに…。

(何か、…何か…。…何もないんだな、本当に)

 幸福なはずの復活ライブ。すべては順調に、初日のステージは終わった。けれど灯也は、重苦しい心をもてあました暗い表情で控え室に向かった。

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