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17.終われるなら

 クロック-クロックの「時計店」プロジェクトは、「広瀬時計店」までのカウントダウンに入った。灯也が『月刊音楽情報』に載せたエッセイは6編。もう、次の掲載分からは本名を入れる。明美はアルバイトとしての雑用をこなしつつ、編集長の指導を受けながら灯也のエッセイを担当していた。

 清昭からはぱったりメールが入らなくなった。悪いことをしたとは思っているが、後悔はなかった。清昭との関係は、清く正しく美しい幻想が前提。体の関係が上手くいかなければ、明美は灯也に抱かれに行き、清昭は金を握って店に行く。…二人とも、それで解消できれば、黙って元のさやに収まろうと思っていた。そこに純粋な本音はなかったのだと、もう明美は気づいていた。

 明美は漠然と考え事をしながら書類を仕上げ、それから、そばで鳴った電話をとった。

「はい、音楽情報編集部です」

「その声、軒田さん?」

「はい」

「…明美ちゃん」

 灯也の声に、明美は胸をつまらせた。ビジネスレターやゲラのやりとりは灯也の直筆の文字を見るだけで嬉しかった。でも、声はつらい。会社だから泣けない。声が震えてしまわないように、唇に力をこめる。

「明日、時間取れない? …バイト?」

 灯也はそれでいいだろうけど、と明美は思う。明美はビジネスの話として電話を取らなければならない。それに、そんなふうに簡単に予定を聞くが、織部と編集長を交えて四人で会って以来、一度も顔を合わせていない。会うって…、それは、編集者と書き手として? …それともプライベートに?

「すみません、明日はお休みを取らせていただいていまして…出社しないんです」

 周囲の耳がある中で、灯也に「どういう意味か」と問うこともできず、明美は正直に答えるしかなかった。明日は空いている、それはこう言うしかない。伝わるだろうか。

「じゃあ、明日だったら大学が終わった後、夕方空くってことだよね。…大学何時に終わるの? 4時とか、5時?」

「その日でしたら、夕方4時以降なら大丈夫ですが…」

「だったら4時に、この前の練馬の喫茶店で待ってるよ。…渡したいものがあるんだ」

「はい、わかりました。そのようにいたしますので、よろしくお願いします」

 しらじらしく電話を切ったが、胸はドキドキしてどうにかなってしまいそうだ。やっぱり清昭と恋人を続けていた方が良かったのかもしれないと明美は思った。


 翌日、講義がひとつ休講になったので、明美は家に帰って着替え、めいっぱいおしゃれをしてから灯也との待ち合わせに出掛けた。まだあまり上手ではないお化粧…、だけど、綺麗になったと思われたい。走り出したいような、体をめぐるエネルギー。気分は複雑なのに、やっぱり会いたい。

(灯也くん、私のこと、どう思ってるの?)

 自分が止めてしまった言葉。『…俺、本当に明美ちゃんのこと…』…何て言おうとしたんだろう。明美は首を振る。灯也は手の届かない人。妄想をどんなにふくらませても、いつかシャボン玉は割れる。

 喫茶店に飛び込んだが、灯也はまだ来ていなかった。明美は奥を選んで、壁を背にして座った。そうすれば、向かいに座る灯也の顔は壁を向き、人目を避けられる。

 少しして、喫茶店のドアが開いた。ドキンと胸が鳴ったが別の人だった。もうしばらく待つと、次は灯也だった。

「ゴメン、お待たせ」

 灯也はサングラスをかけていた。もう眼鏡では不安なのだろう。

「…灯也くん、会社で、私…電話の対応するの、大変なんだよ。灯也くん…とか、言っちゃったらどうするの?」

 明美は少しふてくされてみせた。眩しくて、灯也の顔が見られない。

「怒らないでよ。ニュースがあるんだよ。早く伝えたかった俺の気持ちもわかってよ」

 灯也はいつもとかわらない。それがさらにつらい。

「復活コンサートが決まったよ。クロック・ロックの」

 灯也はもったいぶらずに告げた。明美は目を輝かせた。

「えっ! …そっか、もう、…本当に、もうすぐなんだね…」

「うん、チケットはまだ印刷できてないから持ってこられなかったけど…、そのうち、できたら送るから。一番前の、真っ正面」

「…おめでとう…。本当に、…ホントにクロック・ロックが復活するんだ…」

 明美は涙ぐんだ。でも、喜びの涙にわずかに惜別の気持ちが混じった。ステージの上に立ったらもう他人だ。客席からは永遠に届かない。

「うん、…チャンスを与えてくれて、ありがとう…、何て言ったらいいんだろう…」

「やめて。灯也くんのためじゃないから。…灯也くんなんてどうでもいいの。私が聴きたかったの、灯也くんの歌声を」

 こらえきれずに涙がこぼれた。明美はじっとハンカチに顔を埋めた。せっかく、お化粧を頑張ってきたのに…台無しだ。

「明美ちゃんは…、いつも俺の大切なときに、そばにいて泣いてくれるね…」

 テーブルの上で灯也の手が優しく明美の腕に触れた。そして、いたわるように力を込めた。触れ合うほんの少しの面積から、たくさんの気持ちがお互いの間を流れていく。しばらくは、会話もなく、そのままコーヒーの香りだけに包まれて過ごした。


 清昭はその様子を店の外から呆然と眺めていた。軒田家に電話をかけたら「ちょっと駅前に行くと言って出ていった」と言われ、明美の最寄り駅まで来て、多分ここだと思って喫茶店をのぞいたら、ショーケースの隙間からわずかに見える店内に、男と手を取り合うように見つめ合っている明美を見つけた。

『あら、オシャレして出掛けたから、清昭くんと待ち合わせだと思ってたわ』

 明美の母親の言葉が胸に刺さる。…おしゃれをして出かけていき、清昭との思い出の喫茶店で、誰か知らない男と会っている。

(それなら、そう言えばいいじゃないか。…もう、他に好きな人がいるって…)

 時間をかけたら修復できるかもしれないと思っていた。けれど、明美との関係はどんどん壊れていく。明美に対する憤りのような感情が増えていく。

 清昭はしばらく汚れたガラス越しに明美を見つめていた。向かいに座る男の手は、いつまでも明美の腕から離れなかった。


「…ゴメン。顔、直してくる…」

 明美は喫茶店のトイレに逃げ込んだ。アイラインもマスカラも使わないナチュラルメイクの泣き顔は、そんなに崩れていなかった。軽くファンデーションを直して、明美は店内に戻った。灯也は笑顔で待っていた。

「ありがと。…自分のために泣いてくれる女の子がいるのって、嬉しいね」

 明美は渋い顔をした。本当に、長野とは別人だ。

「じゃあきっと、ステージに上がったらびっくりするよ。客席、たぶんみんな泣いてるから」

 そんな明美の言葉に、灯也は目を伏せて笑った。

「でもね…、ファンがどんなにたくさんいたって、俺を呼びに来てくれたのは、明美ちゃんだけだったんだよ」

 一瞬、微妙な間ができた。明美がその間を嫌った。

「ねえ、灯也くん、ナイチンゲール症候群って知ってる?」

「…知ってるよ」

「だったらいいけど…」

 雪崩をうって惹かれていく自分が怖くて、明美はくさびをうった。ナイチンゲール症候群…自分を助けてくれた人、看病してくれた人を好きになる精神依存的な傾向のこと。灯也が向けてくる特別な感情が怖い。灯也の声が甘くなると、逃げ出したくなる。

「それって、…明美ちゃん、…俺の気持ちに気付いてるってことじゃないの」

 灯也の低い声に、明美は「しまった」と思った。用心がすぎてしまった。

「何のこと…」

「まじめに考えてくれないかな」

 明美の息が止まった。次のセリフは、絶対に言わせちゃいけない…。

「灯也くん、…早めに帰ろう? 私、お母さんに夕飯食べるって言っちゃったし…、灯也くんもあんまりウロウロして人目につくわけにいかないんだし…」

 灯也はしばらく黙り、それから立ち上がった。明美はホッとしながらも、密かに悲しくなった。こんなに熱のこもったまなざしが向けられている状態で、何かに気付かない方が難しい。灯也が何を言いたいかはわかっている。問題は、それがどれだけ真実かということだ。明美は目の前の灯也の背中に見とれ、それから目を伏せた。

 二人は黙って駅に向かった。明美はハッとして、目の前の灯也の背中に声をかけた。

「灯也くん、ダメだよ。もう、二人で駅前なんか歩けない」

 灯也は明美を振り返った。サングラスの奥の表情は見えなかった。

「なんで。…仕事の関係って、言えばいいじゃん」

「ダメ。絶対ダメ。灯也くんは、里留さんとか、織部さんとか、いろいろ支えてくれてる人たちのこと忘れないで。私だって、自分でここまで頑張ったのに、灯也くんの足を引っ張りたくない。…ここで別れよう?」

「嫌だな、別れるって言葉…」

 灯也の表情はわからなかったが、明美の頭はガンガン警告を出していた。何も言わせてはいけない…。

「ねえ明美ちゃん、俺、電話で、今日…キミに渡したいものがあるって言ったよね」

「えっ…うん」

 そういえばそうだった。「報告したい」ではなく、「渡したい」という話だった。クロックの復活報告でなく、何の用事だろう。話が逸れたと思って明美は油断した。灯也は片手をポケットに入れた。

「…一緒に暮らさないか?」

 灯也のポケットからキーホルダーがこぼれ、かすかに鈴の音が鳴った。明美は慌てて下を向いた。何かの間違いだ、きっと。

「あの長野の小さな部屋みたいに…毎日、一緒にいられないかな。…今は無理でも、いつか。鍵は渡しておくから」

 明美はその場にへたりこみそうになった。言わせてはいけないとわかっていたのに。このまま灯也の胸に倒れ込みたい。何も考えずに、鍵を受け取ってしまいたい。

「どうして、わかってくれないの…」

 意地でも泣かないと必死になって、明美は灯也を糾弾した。

「今、灯也くんは大事な時期なんだよ。待ってる人、たくさんいるんだよ。何やってるの。やる気あるの。…正念場なのに、そんなの、私、嫌いだよ。そんなの認められない…」

 もう保たない。涙も、恋心も灯也に見せてはいけない。明美は踵を返した。

「明美ちゃん」

 背後の声を自分の足音でかき消して、明美は走り去った。


 夜、明美の携帯電話が鳴った。清昭の名前が表示されているのをぼうっと眺め、いつかこの番号を消さなきゃなあと思いながら、明美は電話を取った。

「明美、この前はゴメン」

 清昭の声に明美はやっぱり安心した。もう恋愛関係にはなれないのに、不思議だった。

「ううん、…いい」

 自分の声に、明美は驚いた。涙声が直っていなかった。

「…どうしたの?」

 清昭の心配そうな声に、明美はしらばっくれた。

「え、どうもしないよ? なんか変?」

 少しだけ迷った間のあと、清昭は優しく言った。

「泣いてたの? 今日、何があったの? …今日のあの彼は、次の人?」

 明美は凍りついた。

「夕方、あの喫茶店のそばに行ったら、丁度、見ちゃったんだ。明美が男と一緒にいるの。…だからって、別に今俺に何か権利があるわけじゃないし、口出しする気はないけど」

 清昭は自分の割り切った口調に辟易した。本当は明美を失いたくないのに、もう、こんな言い方しかできない。

「清昭くん、違うよ、あれは仕事の関係者だから。ただ打ち合わせをしてただけ」

「…そういう風には見えなかったけど…」

「どう見えたって、仕事は仕事だよ。いろんな事情があるし、いろんな相手がいるんだよ」

 明美はイライラが募ってたたみかけるように言った。実際は、清昭が見て感じたとおりだ。でも、本来は仕事の関係だけのはず。それ以上じゃいけないはず。

「お願い、…仕事の邪魔はしないで。私の勝手で別れた分は話につきあうけど、仕事の邪魔だけはしないで」

 灯也の言葉に動揺していた分も、口調に強さを乗せてしまった。八つ当たりなんて自分らしくないと思いながら、止められなかった。

「純粋に心配してるだけなんだけど…、…」

 清昭は何も言えない自分が嫌になった。「仕事」…明美にとってはもうアルバイトじゃない。昔はおとなしい文学少女だった明美が、今は一人で車も運転できるし、大学の傍ら仕事もこなす。仕事だからと、男と2人で会うこともある。そんな明美を、清昭は自分の周囲の女の子たちと比べてみた。そして、明美がとても強い女性だと気付いた。

「…明美、…なんだか、やっと、俺もたどり着いたような気がする」

 静かな清昭の声が、電話越しに明美に届いた。

「たどりついたって…どこへ?」

「明美が感じていたこと。俺たちの関係のずれっていうか、合わない場所のこと」

 ああ、と明美は思った。清昭が、やっと同じものを感じとったことを悟った。

「明美から俺がどう『子供』に見えてるか、今わかったよ。でも俺はまだ明美みたいに大人になれない。この年で強くなれるなんて、ホントに少しの人だけだよ」

 明美は反論したくなった。大人じゃない。…ただ強いだけ。強くなれただけ。昔好きだったバンドを復活させたいなんて理由でバイト先を選んでしまったり、性的な関係につまずいて彼氏を傷つけてしまったり、好きな人の言葉を信じたり、信じられなかったり…、まだ不安定な子供。けれど、灯也のためには強くなれる。

 けれども、清昭にそう言い返して理解し合う必要はなかった。今は波風を立てずにいたかった。

 清昭が話し続ける。

「今は、遠いね。…距離を、ホントに実感する。明美は大学ですごく変わったと思う。だから明美が俺についてこられないのも仕方ないし、俺も、今の明美に追いつけるほど、成長できるとは思えないから…」

 明美は静かにその先の結論を待った。少し長い間があって、それから…。

「俺も、終わらなきゃね。…時間がかかってゴメン。もう連絡しない。それでいいよね」

 簡単にYesと言えないわずかな淋しさを感じて、明美は黙り込んだ。清昭はいつまでも返事を待った。即座に「そうだね」と言われるよりも、少しぐらい迷ってほしかった。

 やがて、明美も口を開かずに時間だけ過ごすことが無意味だと理解しはじめた。灯也とは無関係に、清昭とのことはとっくに結論が出ていたはずだ。

「うん、…そうしよう。私も…ゴメン。いろいろ…」

「いいよ。謝るのはお互いにやめよう」

 静かな終末。明美は、ささやかに残されていた安心が失われていくような気がした。想ってくれる人が消える。もしかしたら恋人に戻れるかもしれない人が消える。清昭を断ち切ることは、灯也を選ぶことのような気がした。

 明美の初めての交際は電話の切れる機械音で終わった。灯也の存在がまた重くなった。


「月刊音楽情報」編集部で、明美は上がってきたゲラを読んでいた。

『まさか、26歳から突然バイト人生になるとは思わなかった。雇ってくれた店長に感謝しながら、長野の地元密着型ガソリンスタンドで働いた。住みかは、蔵だか倉庫だかを改良してロフトつきの一軒家に仕立てた貸家。ほとんど小屋だった。』

 二人で過ごした長野の小さな部屋のことが書かれている。どうしても切なくなるけれど、雑念にとらわれているヒマはない。校了したら、そろそろ時計店プロジェクトの発表だ。広瀬灯也復活。そのニュースに乗せて、クロック・ロックの復活宣言。その情報に世間が騒然とする頃、「月刊音楽情報」は書店の棚に並ぶ。

『どうして音楽を捨てて隠れ住むことになったか、それは、一言では言い表せないたくさんの要素があった。その頃、昔つきあってた彼女が俺の子供を妊娠して、流産してしまった。責任から逃げたつもりはなかったけど、結果的に、彼女が妊娠に気付いて不安になっている時に俺は音信不通だった。最低だと思う。だけど、彼女を支えてくれる優しい人は別にいた。彼女は幸せな結婚をした。』

 灯也自身の口から蓮井まどかとの顛末が語られるのは初めてだ。この箇所は、編集長と二人で赴き、まどか夫妻の了解をとりつけてきた。まどかは灯也の復帰を喜んでくれた。

『きっと、だから逃げたとバンドの仲間は思っているだろう。それが関係なかったわけじゃない。でも、俺はその頃、自分の実力に嫌気がさしていた。バンドの連中はどんどん上手くなって、いろんなテクニックを覚えて、曲も詞も書いているのに、俺だけが置き去りになっている気がした。悩んでいたが、それを表に出すことはできなかった。』

 明美は胸が熱くなった。そんな灯也の不安や不満を、中学生の頃の明美は直接聞いていた。才能への焦り、自分への憤り…。灯也はやっと、世間に向けて語ることができる。

『5年後、10年後の俺はどうなるんだろう、そんな不安に押しつぶされそうになりながら歌っていた。バンドのメンバーにも申し訳なかったし、そのとき腹いせにひっかけた女の子なんかもいて、自分の不安定に巻き込んでしまったすべての人に申し訳なかった。』

 多分、この「女の子」は明美のこと。でも気にせず先を急ぐ。

『俺は、実際には、バンドのメンバーがデビューするところに横やりを入れてすべりこんでボーカルにおさまっただけのコバンザメだ。彼らはデビューの話が進んでいて、学園祭に事務所の担当者を招待する予定だったが、メインステージの抽選に漏れてしまった。彼らの実力が勿体ないという純粋な気持ちもあったが、あわよくば俺も売り込めないかと思いながら、一緒にステージに立とうと誘った。これで彼らは事務所にステージ演奏を披露できるし、俺も便乗して夢が見られる。ギブアンドテイクだ、と思った。』

 その後ろに、明美の追加した文章が続く。

『彼らのバンドの名前は、「クロック-クロック」。不思議な時計の響きを持つ実力派だ。』

 そこからはまた、灯也の文章。

『結果、まんまと俺は彼らにくっついて芸能界に入ることができた。ここまで来るのに努力したのはバンドの3人だけで、俺はデモひとつ事務所に送ったことがない。彼らはプロになってからも努力を続けた。俺は、彼らと俺の差に気づいていたのに、そこから努力をはじめるわけでもなくて、ただ不安をごまかしながら自分を無理やり肯定して歌っていた。そのギリギリのバランスが崩れて、俺は芸能界を逃げ出してしまった。』

 ここからは、別の原稿に書かれていた部分を抜き出し、灯也に補筆してもらったところ。

『そして、長野の静かなガソリンスタンドでバイトとして働くことになった。俺は名前を隠すために「佐久間」という名札をつけていた。昔の従業員のものがあったので、そのまま拝借した。俺はここ数年間、お客に「佐久間」という人間だと思われていただろう。』

 ここまでが元の原稿で、灯也の補筆が入る。

『だから、この連載をはじめるとき、ペンネームは「佐久間」にした。「明」というのは、隠れ住んでいた時に世話になった人の名前からもらった。』

 最後、灯也が世間に語りたい心からの誓い…。

『でも、もう、俺は逃げないでやり直そうと思う。単純に「やり直す」なんて言葉ではすまないこともわかっている。それでも、もう一度自分の可能性を試したい。ボイス・トレーニングも筋トレも、ダンス・レッスンも、ギターの練習も、作詞の勉強も、本当にいろんなことをやった。これからもそういう地道な努力を続けながら、本当に好きだという思いをこめて歌っていきたいと思う。長い回り道を経て、俺にはやっぱり歌が必要だってわかったから。命が枯れるまで歌っていたいから。』

 最後の一文は、明美と灯也が唯一、電話で話し合って決めた。

『だから、次からは本名で連載を続けます。広瀬灯也、これが俺の本名です。』

 この内容で、灯也の事務所の担当者からOKの返事が来た。

 翌日、明美は午後の授業のあと、いつもどおりに編集部に出勤した。着くとすぐ、編集長が黙ってメモを渡してくれた。電話番号と「ヒロセ氏」の文字。明美は一瞬躊躇したが、個人的な感情のために「電話をしない」という対処ができるはずもない。

(…仕事だと、どうしても、連絡を取らざるを得ないんだな…)

 連載をはじめようと言ったのは自分だが、なんだかクモの巣にでもかかっているような気がした。昔はウィークリーマンション、今は仕事。真ん中には、やっぱり灯也がいる。

 個人的に電話するよりは、担当者の顔をして編集部から電話した方がいい。もう一度「一緒に暮らさないか」なんて言われたら、自分がどうなってしまうかわからない。灯也はこれからが正念場だ。世間的には女性問題で消えたわけだから、再デビュー直後にまた女性問題が出てくるなんて絶対にダメだ。灯也とのこんな関係を、終われるなら終わりたい。片想いでいられるならまだよかったのに…。

 明美はさりげないふりで机の電話を手にし、灯也の携帯電話に電話をかけた。待っていたのか、灯也はすぐに電話に出た。

「音楽情報の軒田です。最終稿、校了のご連絡ありがとうございました」

 お願いだから、と明美は思う。仕事以上の話はしないでほしい。発信元が編集部なのはわかっているはずだ。

「うん、よくできてたと思う。明美ちゃんには不本意なとこもあったかもしれないけど」

「いえ、問題ないですよ、そんなの…」

 ビジネスライクな言葉がつらい。「灯也くん」と叫んで本当の言葉で話がしたい。仕事だけの会話で終わりたいと思いながら、言いたいことがありすぎて明美は苦しくなる。

「…個人的に話がしたいんだ、編集部からじゃなくて、個人的に電話ちょうだい。バイト終わってから…。待ってるね」

 電話を切った後、明美は逃げるように灯也の電話番号のメモをシュレッダーにかけた。

 来週には「広瀬時計店」が発表になる。広瀬灯也が、この期に及んで女と暮らしていて、いいわけがない。

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