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16.いまさら

 灯也の事務所の封筒で、灯也からの原稿が編集部の明美宛に束で届いた。

 この時期に新しい連載を通すなんて大いに無理がある。けれど、クロック・ロックの再デビューの時期などを考えると、できるだけ早く掲載した方がいい。広瀬灯也が再び姿を現したときに話題にならなければならない。灯也復活の尻馬に乗るだけなら、どこの編集部だってできる。

 明美は一日大学を休み、一気に企画書と原稿の構成をまとめた。そしてその書類束を持ってアルバイトに行き、まっしぐらに編集長のところへ飛んでいった。

 明美は編集長に連れられて一番小さな会議室に入った。そして、座るのももどかしいように書類の束を編集長に突きつけた。

「この企画を、もう、次号からでも入れたいんです。ご検討いただけないですか」

「…え?」

 企画書の表題に「クロック・ロック復活と連動した、広瀬灯也のエッセイ掲載(案)」とある。芸能界の現状からは、これはあまりにも酔狂な提案だ。

「ちょっと待ってよ、これ…」

「とにかく内容を見てもらえませんか。…でも、これはオフレコで手に入れた情報がたくさん入っているので、秘密厳守でお願いします。大変申し訳ないんですが、私だけの話じゃないので、念書を作りました。同意してから見てもらいたいんですが…、いいですか?」

 クロック・ロック復活の動きを世間に知られては困る。とはいえ、バイトが編集長にそんな書類をつきつけるなんて、おかしな話に違いない。

「ものものしいね」

「すみません。多分内容見てもらえばわかると思うんですけど、この中に極秘の情報が入っていて、…それは絶対に悪い使い方をされたら困るんです」

 編集長は子供だましのような念書にサインをしてから、軽い気持ちで企画書を見はじめた。その間、明美は黙って座っていた。

 編集長の手が企画書部分を過ぎ、灯也が書いた原稿にたどりついた。数枚読んだ時点で、編集長は明美を驚愕の顔で見つめた。

「…軒田さん、これ、…本物なの。どうやって手に入れたの」

「絶対、クロック・ロック復活の動きが進んでいることは誰にも言わないでください」

「わかってるよ。でも、軒田さんはどこからこれ、…情報もだけど、原稿を手に入れたの」

 灯也の原稿の入手ルートを誰もが疑問に思うであろうことはわかっていた。無駄な嘘をつくより、ある程度真実を語った方が早い。

「私、広瀬灯也の熱狂的なファンだったんで、ずっと居場所を探してたんです。それで、本当に見つけました。その時に少し関わりをもてたので、彼が復帰のために上京してきた時に、この企画を一緒に立てました」

 しばらく書類に目を落としていた編集長が、急に顔を上げた。

「もしかして、キミの採用の時のアンケート、夢は『クロック・ロックの復活』だっけ?」

「そうです。私、絶対にクロック・ロックを復活させたくて…、そういうの、バカだと思うかもしれないですけど…」

 編集長は企画書と明美を交互に見て、大きなため息をついた。

「…すごいね、…どんなにバカな夢でも、それ、できちゃったらすごいことなんだよね。だって、これ、捏造なんてことはないわけでしょ。教えたもんね、ウチの雑誌、書いた本人を見たこともないような記事は載せないよって。必ず打ち合わせするよって」

「広瀬さん本人にも言ってあります、編集長と会ってもらうことになるだろうって」

「うん、…わかった。部内には言わないで、これ、上にだけ諮って通すわ。部内には無名のミュージシャンの作品って発表して、…それでいいよね?」

「お願いします」


 一週間後には、都内のレストランの個室で明美と編集長、灯也と織部プロデューサーがテーブルを囲むことになった。

 明美と灯也は不思議な気持ちで向かい合っていた。お互いの上司(織部は「上司」ではないが、灯也にとっては同じことだった)を交えてビジネスの打ち合わせをするなんて…。

「これから広瀬さんが芸能界に戻って行くに当たって、失礼ですが…、それなりに、風当たりは強いと思うんです。だから、まずは無名のアーティストの音楽日記のような形をとって、真剣に音楽に向かっている姿勢を感じられる作品を掲載していきます。そして、ある程度読者が連載に対して評価を固めた頃、やっと広瀬さんの名前を出して、…広瀬灯也はこんなに真面目に努力していたのかと、…そういう記事を出したいんです」

 明美は織部に向かって力説した。声は少し緊張で震えていた。

「私たちの『月刊音楽情報』は、音楽記事をきちんと取り扱っているという自負があります。読者層も、アイドル好きの女の子ではなく、音楽ファンが中心です。その雑誌の中で真剣なエッセイを連載するのはきっとメリットになると思います」

 織部は乗り出すようにして、明美の言葉をうなずきながら聞いていた。灯也は、明美の言葉が震えるたびに心配したが、すぐに次を続けていく健気な姿勢に安心した。ビジネスの話し方としては稚拙かもしれない。けれど情熱を伝えるには十分だ。織部ならちゃんと聞くべきところを聞いてくれるだろう。

「…それは、灯也ももう了承済みってことか」

 織部が灯也を振り返った。灯也は明美の援護に回る。

「そうですね、俺のメリットとしては十分だと思って、原稿を見てもらいました。月刊音楽情報さんは、俺のスキャンダルにノータッチだったところですしね。まあ、ウチは元々ゴシップなんて扱わないよ、って怒られちゃうと思いますけど」

 織部はこの打ち合わせの前に、里留に相談していた。里留は「月刊音楽情報」の名前を聞き、真っ先に「編集の企画を持ってきたのは、軒田明美って子ですか?」と言った。実際の連絡は編集長名義で事務所に行っていたが、企画を立てた人物が別にいるニュアンスが連絡のそこかしこに見られ、織部は「おまえに心当たりがあるんなら、そうなんだろう」と答えた。

「あの子、そこまでやったんですか。すごいな。で…それは、いい話なんですか? 灯也にとって」

 おそらくは、と織部は答えた。月刊音楽情報、いい雑誌だ。歌以外で灯也を支持してくれるものがほしいと思っていた。そして里留は、灯也に会えたと報告した明美との電話がごく短く終わったことを思い出し、「もしその子の企画なら、大丈夫だと思います」と答えた。だから織部は灯也とともにこの場に来た。本来はアーティストが勝手に出版社の人と計画を進めるのは事務所に対する重大なルール違反だが、灯也はまだ事務所に戻った形を取っていない。この話が決まれば、事務所には織部の企画として通せばいい。

 レストランの一室は織部の決断だけを待って静まりかえった。けれど、NOはないだろうという空気が支配していた。灯也は明美をじっと見ていた。明美は目を伏せていた。灯也の視線を感じて、とても目を上げられなかった。

「…そうですね。…私も、是非お願いしたいと思います」

 織部のOKが出た。明美は目を輝かせて、この時ばかりはやはり灯也に視線を投げた。灯也も視線を返し、二人は瞬間、微笑みでつながった。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 明美と編集長は頭を下げた。織部と灯也も頭を下げた。その後は和やかな会食になった。最後に、織部がいくつか提案をした。

「連載で灯也の名前を明かすのは半年後にしてください。短いと思われるかもしれませんが、半年後には、灯也を世に出します。…同時に、雑誌でも正体を明かしていただきたい」

「5、6回しか載らないですよ? そんな時点で、広瀬さんの意見が十分読者に伝わりますか? 広瀬さんが再デビューして、しばらくしてから正体を明かす形にしたほうが…」

「問題は、クロック・ロックが軌道に乗るかどうかです。クロック・ロックが失敗して、消えてから灯也の名前を出したんじゃ遅いんです」

 織部はクロックの将来を楽観していなかった。灯也の復活は失敗するかもしれない。最悪の場合、クロック-クロックと灯也が共倒れになるかもしれない。明美も編集長も、クロック・ロックが復活すれば、以前ほどの勢いはないまでもまた人気バンドになるだろうと軽く考えていた。しかし織部の言うことはもっともだ。灯也がまた無名になってしまったら、原稿の価値がなくなりかねない。灯也のバックアップという名目も潰えてしまう。

 今後の段取りを確認して、明美と編集長は丁重に織部と灯也を送り出した。明美はアルバイトなので表向きは灯也の担当者にするわけにはいかないが、編集長が担当になって、実際の編集作業は明美がいろいろと教わりながらやることになった。


 織部と灯也を交えた打ち合わせ記録を添付して、「月間音楽情報」の社内の稟議が通った。無理やりねじ込むような形で、早速次の号から連載コラム「カウントダウン・カウントアップ?~デビューを待つボーカルの日記~」がスタートした。ペンネームは「佐久間明」。佐久間はガソリンスタンドで着けていたネームプレート、「明」は明美の「明」だ。明美は強固に断ったが、感謝の気持ちをこめてと灯也が一歩も退かず、明美も渋々あきらめた。

 第一回の内容は、灯也が今受けているボイス・トレーニングの奮闘記にした。

『長年、自分は歌が上手いと思っていた。でも、プロになることがこんなに厳しいものだとは思わなかった。講師が「筒になれ」と言う。声帯を震わすのではなく、筒になって空気を流すのだという。イメージはわかるが、筋肉をどう使えばいいのかが全くわからない』

『さらには、筋トレなどという、芸能人らしからぬ泥臭い基礎トレーニングが課された。俺は、芸能人というものは才能が評価されればそれで済むと思っていた』

 一見、デビューだけが決まっている新進のアマチュアのコラムだが、広瀬灯也の作であると公表すれば確かに灯也のことだ。クロック・ロックの広瀬灯也がボーカリストとしての基礎トレーニングをろくに受けていないのは有名な話だった。「我流でこれだけ上手い」というのがプロデュース上の「売り」でもあったし、灯也には知らされていなかったが、演奏側の3人の演奏の正確さと技術の高さが作り上げる無機質すぎる完成形に幾分不安定な「ゆらぎ」の魅力を付加するのが灯也というボーカルの役割だった。だから、「芸能人というものは才能が評価されれば」…それで済んでいたのが広瀬灯也だった。

 明美が灯也から最初にまとまった形で原稿を手に入れてしまったので、編集上のやりとりは校正紙の行き来だけになる。二人はビジネスライクなやりとりに淋しさを感じながら、けれども何かしらの形でつながっていられることを嬉しいとも思っていた。


『23歳のキミを同じように口説いたら、本気にしてくれる?』

 明美は何度でも、あの日の言葉を再生する。淋しさが募る。灯也の言葉が本気だったらどんなにいいだろう。

『信じればいいじゃない、…俺、本当に明美ちゃんのこと…』

 …どうだというのだろう。その次に続く言葉はそうたくさんはない気がする。明美は一人の部屋で耳を塞ぐ。そんなはずはないから。

 何かしら、特別な感情が灯也にあるかもしれない。けれど、それは長野が淋しかったから。灯也の言葉を、眼差しを信じたい。けれど信じたら傷つくだけだと思う。

 気を紛らわすためにパソコンをつけ、メールをチェックすると、「Kiyoaki Yasui」の文字が目に入った。清昭からだ。

『このたび、一念発起してクルマを買いました。

 軽なんだけど、思いがけずパワーもあって、いい奴です。

 コイツを紹介したいんだけど、ドライブなんてどうかな?

 もうずっと会ってないけど、たまには、顔を見て話をしたいな。

 単純に俺の車を自慢させてよ。都合いい日があったら連絡ください』

 ポロッ、と頬を伝ったものに明美は驚いた。またしばらくしたら次がこぼれていった。

(…淋しいよ、清昭くん…)

 灯也を想ってもどうにもならない。灯也がいつまでも長野の頃の淋しさに惑っているはずはない。このまま関わっていくのはつらい。幸せの所在は本当に灯也だったのだろうか。本当は、見失ってはいけないのは清昭の方だったのではないのか…。

(体のことって、そんなに重大だったのかな…。それが原因で別れなきゃならないほど)

 灯也との出会いから今に至るまで、すべてが夢なのかもしれないと明美は思った。そして、清昭が今も想ってくれているなら、本当に大切なのは、深い愛情を注いでくれる人の方なのではないかとも思った。

『清昭くん、クルマ買ったんだ。おめでとう。

 クルマ見てみたいです。今週末の日曜日なんてどうですか?』


 明美は別れてから初めて、清昭の家の呼び鈴を押した。清昭の母親が出てきて、

「このごろ軒田さん見えないから、ウチのバカ息子がふられたんだと思ってたわ」

 と笑った。明美は胸が痛んだが、二人揃って両親に別れた話をできずにいるのが可笑しかった。やっぱり清昭とは「同じ人種」のような気がして、明美の心が揺れた。

「相変わらず、余計なこと言ってんなよ…」

 清昭が階段の上から顔を出した。本当はものすごく気まずい瞬間だったが、二人で普通のふりをした。

「明美、もうちょっと待ってて。ドライブルート決めたの、今プリントアウトしてるから」

「いいよ、適当に都内を流すだけだって…」

「えー、渋滞を紹介したいわけじゃないんだから、いい道走らせてよ」

 清昭が地図を刷った紙を手にして下りてきて、二人は連れだって清昭の新車に向かった。

 車を走らせて、やっと二人の空間ができた。

「…久しぶりだね…」

 清昭が感慨深げに言った。明美は少し後ろめたさを感じながら、おかしな空気に支配されないように明るく振る舞った。

「うん、…久しぶりだね、ホント。…私も、結構忙しかったし」

「今日はさ、海沿いに横浜の方まで行ってみようよ。それでお茶でも飲んで」

「うん」

 清昭の優しい声に明美はホッとした。身の丈…という言葉が頭をよぎった。広瀬灯也じゃない。ここに、ちゃんといてくれる。そばにいて、愛してくれる人が。

「何してた? ここのとこ。…会わない間」

「主には、バイトかな…」

 明美は答えて胸がつかえた。ずっと、灯也の原稿を何度も繰り返し読んでいた。灯也の文章はさして上手いわけではないが、体験記としては十分読めるし、業界のことを素直に書いていて興味深い。灯也の再デビューが決まって長野から出てくるときの不安…、それはまさに明日をもしれない新人がデビューする心境と同じだった。作品だけ見たらどう見たって無名の人のエッセイ。なのに、実は灯也のことを克明に書いている。正体を明かしたときが十分期待できる。

「明美のバイトでさ、…頭悪いこと聞いてもいい? …芸能人とか、会えるの?」

「会えるっていうか…、確かに生で見ることもあるけど、会うっていうほど顔を合わせるわけじゃないから。編集さんはいろいろあるみたいだけど」

 他愛ない話をしながら車は進んでいく。横浜でお茶を飲み、少し散策してからまた車に乗り込んだ。最初は少しぎこちなかった会話も、だんだんかつてのようになってきた。

「ちょっと、景色のいいところ調べたんだ。明美って、乗り物酔いする方?」

「ううん、だったらドライブ賛同しないよ」

「そっか、じゃあちょっと高台へ」

 明美は単純に、港の見える丘公園とか、そういうスポットを考えていた。けれど、清昭の運転する車は少し淋しい県道を登っていく。

「ここから、歩いて登るんだけど」

 おかしなところに車を止めるな、と明美は思った。路肩よりずっと林に分け入った先の道。こんなところ、入ってきていいのだろうか。けれど、確かに斜面に階段状に木が組んであり、登るルートになっていた。

 登っていくと突然景色が開けて、遠くに海が、手前に丘のふもとと小さな街が見えた。

「一枚の絵みたいだね」

 明美は清昭に微笑みかけた。清昭は少し微笑んでみせたが、どことなく不自然にも見えた。明美の心を一瞬、不安がよぎった。

「向こうにも、景色のいいところがあるよ」

 そう言って清昭が明美をいざなったのは林の奥だった。誰もいない山の中で、清昭は不意打ちで明美を抱きすくめた。逃げようとしてよろめいて、明美は背中から木にぶつかった。清昭が明美を木ごとつかまえた。強い抱擁…。明美は抵抗するしぐさをしながらも、安らぎを感じていた。

(懐かしいな…。このまま、私を、灯也くんから奪い返してほしい…)

 明美の胸を切なさが締め上げた。灯也から逃げてしまいたかった。清昭と一歩一歩を確かめながら近付いていった日々が懐かしかった。

 清昭の手が明美の体を探った。スカートのすそをたくしあげ、脚に触れる。

「ダメ、清昭くん」

 声に力が入らない。押し返そうとする手にも力がこもらない。

(大丈夫かもしれない…。それなら、私は、この人と幸せになれるのかな…)

 灯也の姿を、消しゴムでこするみたいに消していく。きっと消える。このまま…。

「こんなとこ、やだ…。人が来るから…」

 明美の声は行為そのものを拒んでいなかった。清昭は一度手を離し、無言のまま明美の手を強く握って車に引き返した。

 清昭は車の鍵を開け、明美に後部座席を促した。明美は戸惑ったが、幾分強引に清昭が背中を押した。明美はドキドキしつつ、よろけるようなふりをして座り込んだ。即座に清昭が乗り込んできてロックをかけ、そのままの勢いで明美は後部座席に押し倒された。

「明美、…好きなんだよ、…どうしても…」

 清昭の囁きに明美はゾクゾクした。愛されることは心地よい。服の上からの愛撫も、ちっとも嫌じゃない…大丈夫。明美は目を閉じた。

 清昭は明美の服を奪わずに、自分のズボンに手を掛けた。明美は絶望感に身を浸した。…これがどういう意味でもいい、どうなっても構わない。今はただ、抱かれたい…。

 チャリン、という金属音が明美のそばの床で鳴った。多分、清昭の胸ポケットから落ちた車のキーだ。拾えば今すぐ帰れる…そう思ったが、拾う気はしなかった。

「…つらかった…、今日まで…」

 清昭の手が明美の脚をもどかしく探っていく。客観的に自分の今の状況を思い描いて、明美は酔いしれた。なんてみっともないんだろう。このままダメになってしまいたい――

「大丈夫だよ…」

 吐息に溶けそうな清昭の声。どういう意味だろう…、そう思ったとき、次の言葉が明美の頭を鈍い痛みのように過ぎていった。

「痛くしないから…もう大丈夫だよ」

 清昭の中で変わったものを感じ取った。そんなはずはないと否定しながらも、じわじわと確信が染みわたってきた。

(…清昭くん、そういうところ、…お商売のところとかに行ったの?)

 なぜだろう。きっとそうだと感じる。きっと明美が別れを告げた理由をなんとなく感じ取り、彼なりに悩んだのだろう。けれど…。

(…嫌だ、そんなの)

 清昭を「穢れた」と感じた。お金を握って、どこの誰とも知らない人に。あんなに嫌っていたのに。大学生なのに。真面目な「清昭くん」なのに。考え違いだと思いたい。自分の発想が卑猥なのだと思いたい。けれど…“同じ人種”だから伝わる声の中の真相。「もう大丈夫、なぜなら勉強してきたから」…だから明美とだって大丈夫…そういうニュアンス。

「ゴメン、清昭くん、ちょっと待って…」

 明美はかすれる声で言った。

「あのね、靴が、すごく痛いの…。ちょっと、直させて…」

 起き上がって座席の足元に手を伸ばした。さっき金属の音がした場所…見つけた、車のキー。起き上がった明美は丁度後部座席の真ん中に座っていた。そこから運転席まではすぐに乗り出すことができた。清昭に止められないようにさっと運転席に乗り移り、キーを刺して、回した。

「ちょっと待って、明美!」

 清昭が後部座席から運転席にとりついたが、やや細身の明美にはするりと抜けられた座席の間は、清昭にとって身軽に越えられる幅ではない。エンジンをかける明美の肩をつかむのが精一杯だった。明美はそのままアクセルを踏んだ。急な踏み込みに過剰反応して勢いよく車が飛び出す。慌ててブレーキを踏むと、清昭は一旦前のめりに飛び出して、反動で後部座席に倒れ込んだ。明美はシートベルトを締めながらエンジンが温まるのを待った。

「危ないから、…」

 清昭が服を直しながら必死で明美を止めた。明美は落ち着いた声で返した。

「大丈夫だから、心配しないで」

 車が走りだし、清昭は後部座席で呆然としていた。

「ゴメンね清昭くん。…やっぱり、私、…ダメみたい…」

 本当にいましがたまで、抱かれたいと思っていた。車の中なんて刺激的だと、甘い戸惑いに溶けそうだった。なのに…。

「…明美、…免許もってるの? …車の運転できるの?」

「どうして? 大学1年の時にはもう取ってたよ。…そんなに意外?」

 明美はふっと冷静になった。

(そういうイメージなんだね、清昭くんにとって、私って…)

 灯也を追いかけて、「私らしくない」と思いながら手に入れていった強い自分。清昭の中に、そんな風に強くて逞しい明美はいない。

(清昭くんの中で、私って、きっといつまでも「植物みたい」な人なんだね)

 可憐な花のような、ただ黙ってそこに咲いているような…。黙って助手席に座っているのが、清昭の中では明美の“しかるべき”姿なのだろう。

「ねえ、清昭くん、…正直に答えて」

 明美はハンドルを切った。手が震える。今しがたまでの興奮と、逃げた時の緊張と、それから…少しだけ、怒り。

「…“練習”、したの?」

 幸い、静かな声で訊けた。糾弾するつもりはない。ただ自分の勘を確かめたいだけ。

 清昭の声が張りつめ、ため息になり、震えた。

「俺がどんなに悩んだかわかるの? 明美の様子が変になったの、そういうとこからだったじゃない。だから、なんでだろうって、…自分がおかしくないんだってことを確かめただけだよ。それを、そんな言い方するのかよ…。それに、今日だってOKしておいて…俺がどんなに惨めな思いしてるかわかってんのかよ…」

 ああ、同じことをしただけなんだ…と明美は思った。自分は灯也に、清昭はそういう店に助けを求めた。お互い様だ。明美に責める権利はない。

 清昭のプライドを踏みにじった自覚もあった。でも、明美にも言いたいことはたくさんあった。

(心の恋がしたいっていうのも、望まないことはしないっていうのも嘘だった…。多分、清昭くんは悪気がなかったんだろうけど…。でも、キスだって体の関係だって、結局は、待ってくれるって言ったの、嘘だったよね。全部だまし討ちだった。それは、卑怯だよ。今日のドライブだって、はじめからこうするつもりだったんでしょう?

 …きっと、本当に悪気はなくて…、初めての恋愛で何もわかんなくて、…そういうの、責めちゃいけないんだろうね。…でも、だったら私の気持ちはかわいそうじゃないの? 「ゴメン」の一言で無理やりされちゃったこと、本当は、初めてだったら許せなかったと思う。その後も、関係するのつらいって言えなくてすごく悩んで、「今日は嫌」って言ったときだって絶対やめてくれなかった…)

 果てしなく続くけれど、一言も口に出せない思い。明美は今さら、清昭にこんなにも鬱屈を溜めていたことに驚いた。

 それから少し走って落ち着いた頃、清昭は明美と運転をかわった。明美は助手席に座り、気まずさを通り越したやるせなさを抱えて2人は家路を急いだ。

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