15.会いたい
灯也は、「相馬ダンススクール」の入っているビルに住むことになった。相馬は、事務所直営のスクールが週に2日招いている客員講師で、織部との親交も深い。スクールのビルの3階から上はマンションになっていて、ビルの所有者が相馬本人なので、灯也が人目につかずに住むのにちょうどいい。そのスタジオに、スクールの教員たちが灯也へのレッスンをつけにくる。灯也は階を下りるだけでレッスンに行ける。
織部は灯也に、長野の家を引き払うように言った。灯也は少し待ってほしいと答えた。必要な家財だけは東京に運んだが、淋しくない程度にものは残してあった。家の裏には古ぼけた鉢植えが3つ。そのうちの一つ、土ごと木が抜けるほど干からびた状態の、造花を咲かせた鉢の底には鍵が入ったままだ。部屋の真ん中のテーブルには書き置きがある。
『明美ちゃん
東京へ出ています。いろいろ話したいことがあるので、とにかく電話をください。
灯也 090-○○○○-○○○○』
来るはずはないと思いながら、灯也は長野を完全に離れることができなかった。あの家を引き払ったら、この東京の雑踏の中に、自分も明美も埋もれてしまう。偶然めぐりあうことはないだろう。明美につながる糸は切れる。
灯也はあの長野の夜、明美に気持ちを伝えなかったことを後悔していた。あの時、クロック・ロックの広瀬灯也に戻れるとわかっていたなら、彼氏がいようがいまいが、何を遠慮する必要もなかった。
そう思って、灯也は反省した。確かにいろんなものが帰ってきているらしい。傲慢ささえも。
(明日をもしれない立場の俺と、一流大学を出て一流企業に就職する優等生の男じゃ、明美ちゃんの選ぶ相手なんて決まってるのかもしれない…)
だったら、どうするか? …灯也は思う。
(…会いたい。…それだけだよ。その後とか、未来とか、どうでもいい。会いたいんだ)
そうしたい、だからそうする。素直な自分も帰ってくる。置き去りにしていた魂が自分の中に次々と帰ってくるのを感じる。長野にいたのは抜け殻。…けれども、その抜け殻に豊かな水をくれた存在として、明美は特別な女性になっていた。
明美の暮らしは日々単調に繰り返す。大学、バイト、サークル。料理の勉強もだいぶマシになって、それなりに献立として真っ当なものくらいは作れるようになった。
灯也は里留と接触した。クロック・ロック復活の記事を探して、明美は芸能ニュースを気にしていた。まだそんな気配はかけらもない。けれど、急にというわけにはいかないのかもしれない。きっと今、準備が進んでいる…。そう思うと力がわいてくる。
最後に…と、時々明美は考えていた。灯也にもう一度会いたい。自分だけの広瀬灯也に。けれど、それがもうすでに期限切れを迎えているのだろうとも思う。芸能人に戻っていく灯也に、何度か長野を見舞っただけの一ファンが何のつもりで会おうというのか…。
何も考えたくない。だからあえて忙殺される道を選ぶ。企画書を何通か出してみた。編集長はその都度アドバイスをくれた。書き直して、「企画の内容はともかく」…企画書としてはOKをもらったものもあった。もう、クロック-クロックにインタビュー記事を書くという企画は通さなくてよくなったが、明美はまだ努力を続けていた。
(芸能界に復帰した“広瀬灯也”に、独占単独インタビューをすることができたら…)
仕事という対等な場で向かい合うことができたら、もう一度「会える」気がする。ただの古いファンではなく、あの、長野での二人のように、ただの一人と一人として。
明美が彼氏と別れたという話はすでにサークル内にニュースとして流れたし、それでいくらか微妙なアプローチのようなものも受けた。けれど、今の明美は忙しくて、男に新たな興味をもつ余裕なんてなかった。
実は、清昭からはマメにメールがくるし、明美もちゃんと返信している。もう体を重ねない関係になってだいぶたつ。そうすると清昭のこともそんなに悪くは思えない。広瀬灯也が手の届かない人である以上、やはり身近な優しい人の存在を幸福に感じてしまう。清昭と時間をかけて別れていく約束は前進していない。無理やり断ち切る必要はないのかもしれないと、微妙な友人として過ごしていこうかという気にもなっている。清昭からも、もう恋の言葉は聞かれない。それが気楽だ。
呼吸器をひたしていくような、苦しい灯也への想い。それに気付かずにいるために、明美はたくさんのものに溺れるように毎日を多忙に暮らしていた。
灯也は極力家を出ないように指示されていた。事前にニュースが出てしまったら復活のプロデュースが台無しだ。食料すら、階下のスクールに届けられる状態。おそろしく面倒だが、それも迷惑をかけてしまった結果だ。
もうすぐクロック-クロックの夏のツアーがはじまる。ライブ会場は、かつての武道館やドーム球場といった華々しい施設ではない。もう、“クロック”と呼ばれるバンドは、ドームをいっぱいにできるアーティストではない。
ツアーの前に、里留、周、孝司の三人が相馬ビルの灯也の部屋を訪ねてきた。換気扇を全開にして、男の焼き肉大会。灯也の部屋は物が少なくて殺風景だ。そこを肉の焼けるにおいが満たしていく。
「あっ、それでさあ、里留に訊こうと思ってたことがあったんだけど」
孝司がぽつりと言う。孝司の話し方は、活字にするととてもフレンドリーでフランクだが、実際はどことなく暗くて、微妙にシュールだ。雑誌に対談が載ったりすると、ひとりで明るくフレンドリーな印象を振りまいている風に見えるが、実際は文字で見た言い回しほど明るくはない。孝司はうつろな声で、何気なく続けた。
「どうやって灯也探してきたの? 俺、聞きそびれてたんだけど」
「ああ」
里留はとりあえず返事をして、口の中のものを飲み込んでから答えた。
「元ファンの子かな…、雑誌の記者やってる子が、教えてくれたんだよ」
ドキンと灯也の胸が打った。灯也は、里留がなぜ自分を見つけたかを聞いていなかった。誰かしらが見つけて、それが悪いルートを通ればマスコミが来るだろうし、いいルートを通れば里留が来るだろう程度に思っていた。雑誌の記者…、たしか明美は、バイトでそんなことをやっていると言っていなかったか。
灯也は気にしていない風を装うつもりだったが、胸がつかえ、箸が止まってしまった。
「灯也、知ってる子?」
孝司は気軽に聞いてきた。深く物事を考えないヤツだなと灯也は感心した。
「…さあ? …誰にも気付かれてないつもりだったし…」
それだけ口にしたら、胸がギュッとひきしぼられて、のどがつかえた。灯也はお茶でごまかした。
その日の帰りがけ、灯也は里留だけを呼び止めた。
「里留、…俺の居場所をおまえに教えたのって、誰」
灯也はさりげなさを装いながら、必死で訊いた。
「誰って…俺たちが雑誌の取材受けた時に会っただけで、名前も忘れちゃったよ」
里留はもう、女に関しては灯也を信用しないことに決めていた。灯也と長野で接触があったかもしれない女性の雑誌記者なんて、危険きわまりない。
「…どんな子だったか、それだけでも…。雑誌の名前だけでも…」
熱心に聞く灯也の態度に、里留は暗澹たる気持ちになった。灯也にはどうやら心当たりがあるらしい。興味のある相手なのだろうか。だとしたらなおさら教えられない。
「聞いてどーするつもりよ。おかしなファンだったら、困るのは俺たち4人だろ。…ファンの子に個人的に連絡とって、おまえは、また問題を起こすつもりなのか?」
非難めいた口調に、灯也は口をつぐんだ。里留の気持ちはよくわかる。
「悪かったよ。…ただ、…俺を呼び戻してくれた恩人のこと、少し興味があっただけだよ。…記者のことはいい、雑誌の名前くらい教えてもらえないかな。それで満足するよ」
雑誌がわかったら編集部に電話をかけよう。アルバイトと言っていた。明美の性格なら、バイト先をコロコロかえることはしないだろう。きっと、まだいる…。
「灯也、雑誌社に電話するようなことは、本当にやめてくれよ」
里留は真剣に灯也をにらむ。灯也は大真面目に言い返す。
「…その記者の人の名前もわからないのに、どうしようもないっしょ?」
スマン、と灯也は内心で謝った。里留にまた嘘をついてしまった。
里留は渋ったが、雑誌名だけならと、「月刊音楽情報」の名を伝えた。
「軒田さん、電話。どっかのスタジオの人から」
普段、バイトである明美に電話がかかってくることはまずないので、周りが不思議に思ってそれとなく聞き耳を立てた。明美も訝ったが、とりあえず電話に出た。電話の取り方はちゃんと教わっているし、習わぬ経も読める。
「はい、お電話かわりました。軒田です」
「先日、当スタジオで取材をなさったかと思うんですが、そのスタジオの係の者です。お世話になります」
営業用の、かしこまった男性の声がする。明美は「スタジオ?」と思ったが、常套句には常套句を返さなければならない。
「お世話になっております」
明美の声を聞いて、電話の声は続けた。
「あなたの名刺が落とし物で出てきたんですが、軒田明美様で間違いないですか?」
バイトも長くなってきたので、明美の名刺も作ってもらった。しかし、まだ外に出すような機会はなかった。明美は不審な電話に戸惑い、答えを返せなかった。
「明美ちゃん」
微妙な間に負けて、突然、電話の向こうが名前を呼んだ。この呼び方をする人は、母親の他に一人しかいない。…そう、確かにそうだ。懐かしい、電話越しの灯也の声。
「明美ちゃん、広瀬灯也です。今、仕事中でしょ。…そのまま話を聞いて」
明美は、やりとりを周りが気にしていることに気付き、気を取り直した。
「…あっ、すみません。…どうしたらいいでしょうか?」
唇の震えは声色に出さずに済んだ。とにかく編集部に怪しまれないことだけを考えた。
「どこかで会えないかな。俺の住んでるそばはまずいから、練馬まで行くよ。…会えないかな」
話を長引かせるわけにいかないし、ここでいきなり切るなんてわけにもいかない。明美は対処としてとりあえずOKするしかなかった。
「あの、わかりました。…いつならよろしいでしょうか?」
灯也相手にビジネスを装う。心臓が破裂しそうだが、顔には一切出せない。
「…今日、バイトが終わるのは?」
「夜の9時をまわってしまうんですけれど、…それじゃ困りますよね」
「いや、いいよ。9時半くらいなら練馬に着けるのかな?」
「ここを出て、そちらに着くのは10時近くになると思います」
そして、お定まりの挨拶で電話を切ったら、途端に社員から明美に声が飛んだ。
「電話なんて、珍しいね。どうしたの?」
明美は言い訳の機会を与えられてホッとした。
「撮影に同行したときに落とし物しちゃったらしくて…。仕事の後、取りに行きます」
満面の笑顔でお芝居をして、詮索されることなく会話を終えた。ホッとしながら、同時に心臓が壊れそうなほど鼓動しているのに気付いた。
(どうしよう。…里留さんから、私のこと聞いたのかな…)
きっとそうだろう。何ヶ月ぶりだろうか、灯也の声は…。
(でも、会おうなんて…。どうなったのかな、クロック・ロック。「俺の住んでるそば」って言った…。もう、長野にはいないんだ。じゃあ、復活へのめどがついたんだ、きっと)
胸が熱くなる。けれど、灯也がもう長野にいない事実が胸を締めつける。
苦しくて辛いけれど、仕事が優先だ。明美は古い資料のポジをライトボックスで見ながら指定されたものを拾い出し、はさみで切って番号をつけ、担当者の所に持っていった。
改札を抜けて階段を下りきった正面、だなんて。明美は灯也の練馬駅での待ち合わせの指定が妙に具体的だったことを不思議に思った。改札を抜け、階段を下りると、正面に人待ち顔がいくつか見える。灯也はさすがに真っ正面にはいなかった。
「明美ちゃん」
灯也の方が見つけるのが早かった。明美は全身に驚きをたたえて振り返った。そこに立っていたのは、犬の散歩に近所に出てきたみたいな、本当に気楽な格好の眼鏡の青年。けれどよくよく見ると、目鼻立ちの整った魅力のある男性だ。
「…灯也くん、…とにかく、人目につかないところに行こう?」
明美は冷たいくらいにそそくさと歩きだした。駅の雑踏からはすぐに逃げきった。
「人目につきたくないでしょ? どうしようか?」
「お勧めの喫茶店とか、ある? …落ち着いて話せるとこ」
「なくはないけど、あまりキレイじゃない…。あと、禁煙なの。灯也くん、タバコ吸いたいでしょ?」
「やめてるよ。知ってるじゃない、長野で吸ってなかったの」
「ずっと吸ってないとは思ってなかった。じゃあ、そこでいい?」
「いいよ。俺はこの辺わかんないし」
明美は複雑な気分で灯也を案内した。清昭と何度も行った喫茶店に他の男を連れて行くのは趣味が悪い気がしたが、タバコの煙が苦手な明美には助かる、お気に入りの店だ。そこは古くて小さくて、禁煙にこだわっているせいかいつもすいていて、灯也が人目につかないためにはちょうどよかった。
店に入り、座って、二人はコーヒーを注文した。店主とおぼしき初老の男性がニコニコと接客してくれる。カウンターの中に小さなテレビがあるのだろう、店内を流れている音楽の片隅にわずかにニュースのナレーションが混じっている。
「…やっと会えた…」
灯也が心の底からの思いを吐露した。その、想いのこもった視線に明美は戸惑った。
「ねえ、里留に俺のこと教えたの、明美ちゃんなんでしょ?」
言いようのない気まずさを感じて、明美は下を向いた。
「ごめんなさい…。私の気持ちだけで、勝手なことして…」
「ううん、感謝してる。俺からはクロックに連絡できなかったから。それに丁度、ガソリンスタンドも閉めることになって…、何もかもうまくいきすぎだよ。ありがとう」
明美は急に、6年前に戻ったような気がした。相手は芸能人、自分はただの子供。灯也はもうクロック・ロックのボーカル。ただのファンは、恐縮するだけ…。
(…遠い…。長野ではあんなに近くにいたのに。もう、キスもしてもらえない…)
淋しさが涙腺をゆるませそうになり、明美は慌てて顔を上げた。何か話さなければと思って、思いついただけのどうでもいい質問を向けてみた。
「灯也くん、長野で、夜とかすっごいヒマじゃなかった? 何年も何して過ごしてたの?」
「んー…」
何となく面映ゆくて、灯也は口ごもった。
「ちょっとね、書き物を…」
「どんなの?」
「何でも。小説みたいなものも書いてみたし…、でも、なかなか完成しないね。他にもね、クロック・ロックと俺のこととか、長野での暮らしの何でもないこととか…」
「えーっ、だったら、世に出したらいいのに。広瀬灯也って名前があれば、売れるよ」
明美は単純にはしゃいだが、灯也は苦笑した。
「今、広瀬灯也の名前で売るのは情けない気がするな。特にクロックのこと書いた部分なんて、スキャンダル男の暴露エッセイみたいに見られたんじゃ…ね」
「そう? …でも、私みたいに、ずっとクロックのこと待ってた人って日本全国にすごくたくさんいると思うし…、そうしたら、真剣に書いた灯也くんのエッセイとかだったらすごく読みたい。灯也くんの名前が作品に先入観を与えるなら、覆面作家にしておいて、きっかけがあれば公表することにしたら? 後で名前出すの、実は俺でした…って」
灯也は熱心に語る明美を優しく見据えて笑った。
「編集方針まで考えてくれて、ありがとう。さすが雑誌記者さんだね」
明美は灯也を見つめてしばらくそのままでいた。視線が宙を泳いだあとテーブルに落ち、おもむろに口を開いた。
「…そうか、…私がやればいいんだ。月刊音楽情報に、連載すればいいんだよ。覆面で。灯也くんのこと、まだ誤解してる人も、きっと読んでわかってくれるし」
もう一度、明美の目が灯也をまっすぐとらえた。
「灯也くん、原稿見せて。…やろうよ、連載。私、企画書通すから。ね、これ…」
明美は誰にも渡したことのない名刺を一枚取り出した。
「ここに送って。私、絶対なんとかするから。…お願い」
灯也は名刺を受け取った。月刊音楽情報、アシスタント、軒田明美。まだ20歳、ちゃんと社会に出たわけでもないのに、そのへんの遊びほうけている大学生とは違う。この6年の間に二人の間をそれぞれ流れた年月の濃さの違いを、灯也は思い知った。
「…明美ちゃん、キミは…本当に素敵な女性になったんだね…」
「灯也くん、なんかそういう外国映画の社交辞令みたいなの、恥ずかしいよ」
「えー、俺、本気で言ったんだよ。明美ちゃんは綺麗になったし、それに強くてしっかりした素敵な女性になったと思うよ。…キミと知り合えたことがうれしいよ、俺」
明美に気持ちを伝えたくて、灯也は言葉のきっかけをさがした。真剣な想いを伝えることは、こんなにも重大で、難しい…。
ふと、明美が微妙な笑顔になっていることに気付き、灯也は戸惑った。
「…やっぱり外国映画の社交辞令と思った?」
本気の本音なのに、と灯也は少し憮然とした。明美はコーヒーに目を落として笑った。
「ゴメン、…あのね、…灯也くんって恋多き男なんだなって、今、実感しちゃったの」
普通の男性が言ったら恥ずかしい言葉も、灯也には似合っているし、信じてしまいそうになる。目の前にいるのは傷ついた青年ではなく、いっぱしの芸能人。…遠い。長野にいた「灯也くん」ではなく、もう「クロック・ロックの広瀬灯也」…。
「明美ちゃん、“恋多き”は俺、もう卒業したんだ。…女性は、人生で、あと一人でいいと思ってる」
灯也は胸の高鳴りを抑え、真剣に口にした。明美はその空気の変化に気付いて戸惑った。
「俺、キミと知り合えて良かったと思ってる。こうして、また会えたってことも…」
灯也が想いを伝える決定的な言葉を選ぼうとした途端、明美がその言葉をさらった。
「灯也くん。今、大事な時期なのに、…変な感傷とかにひたってちゃダメだよ」
目を上げると、明美は真剣すぎる表情で灯也を見据えていた。
「灯也くんはまたこれから芸能界に戻ってくんだよ。大学生相手に遊んでる場合じゃないでしょう。…今の言葉、そういうつもりはないんだろうけど…、口説こうとしてるみたいに聞こえちゃうよ。…灯也くん、もう、うかつなことはしないで。もう、つまらないことで芸能界から消えたりしないで」
どう言えば信じてもらえるのかをしばらく考えたが、灯也はあきらめた。これが広瀬灯也の、男としての信用だ。
次に口にするはずだった恋の言葉は、別の言葉に置き換わった。
「多分、俺が今何を言ったって、キミも、それから世間も、信用してくれないっていうことなんだろうね。…信じてもらえるまで頑張るしかないか」
灯也はため息をついた。切ないけれど…仕方ない。きっと明美は、広瀬灯也に真剣に愛されていることに気付いていない。伝えても、信じてもらえない。それは自分の責任で覆していくしかない。
「…明美ちゃん。…一つだけ、聞いていい?」
「何?」
「俺がひとつのスキャンダルもなく芸能界でこれから3年頑張って、23歳のキミを同じように口説いたら、本気にしてくれる?」
明美の胸を、灯也の魅力的すぎる瞳が貫いた。そして、そんなことを言える灯也は、やっぱりもう長野の灯也とは違うんだと感じた。
「…そういう言い方がやっぱり、灯也くんって、もてる男なんだなって思うの。…そういうの、多分、普通の男の人は言えないと思う。私は普通の女の子だから、からかわないで」
「からかってなんかないよ」
「私、ついうっかり、言われたとおり信じちゃうから…」
「信じればいいじゃない、…俺、本当に明美ちゃんのこと…」
危険領域に達しそうになり、明美が灯也の言葉を止めた。
「違う。今どんなこと灯也くんが考えてても、それは結果的に嘘になると思う。今、本気で言ってくれてても、いろいろなことがあったから感傷的になって、すごく一時的に自分を見失ってるんだろうなって感じる。灯也くんがどういうつもりで言ってるかはどっちでもいいの。…これから灯也くんの環境が変わっていって、元どおりの灯也くんに戻っていったら、全部夢になっちゃうと思うから。…本当に可愛げなくてゴメン。…でも、私も、同じ人に2回騙されるのは哀しいから…」
これが現実だ。明美も、事務所も、クロックのメンバーも、もう灯也を本当の意味で信用はしていないだろう。ファンだって、マスコミだってそうだ。それが逃げた代償。これから信用を取り戻して、あの頃よりももっと上っていかなければならない。芸能界に戻るというのはそういうことだ。
「じゃあ、別のことをもう一つ、聞いてもいい?」
「何?」
「…明美ちゃんは、俺に、まだ歌ってほしいと思う?」
明美は揺れていた心を落ち着けて、笑顔になった。
「ずっと、歌ってほしいと思ってる…。それが灯也くんだと思うから」
その答えは、灯也を遠い世界に連れて行ってしまうことを意味している。それでも、歌っていてほしい。ステージの上で輝いてほしい。その思いだけは揺るぎない…。
「わかった、頑張るよ。…それから、連載も…やってみたい。お願いします」
「うん。…私も企画書通すし、灯也くんに編集長に会ってもらうことになるかもしれない」
「俺の方も多分、プロデューサーの許可とかいろいろあると思う。普通は事務所から話が来るのに、先に出版社が原稿持ってて、手続きが逆になるから」
「大丈夫、…頑張るし、絶対実現する」
強さ、それは中学生の明美にはなかった美しさ。20歳、12歳年下の明美は、もう十分に一人前の人として、女性として輝いていると灯也は思った。
(明美ちゃんにふさわしい男に、俺の方がならないといけないんだな…)
進む先は決まっている。スポットライトの中央、芸能界の中心、音楽界のてっぺん。明美が求めてくれる姿。
2人は「ビジネスパートナー」として練馬駅で握手を交わして別れた。胸の奥には秘めた恋心、そして新しい夢を抱いて…。