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14.再会

 垣口里留は、取材先で見知らぬ女の子から受け取ったメモを見ながら真剣に悩んだ。ただ芸能人に近付きたいだけの、おかしな女の子の作戦にひっかかりたくはない。そして、里留自身、灯也に対して腹を立てていないわけではない。

(この期に及んで灯也の居場所か…。まあ、出版社の人なら、何か情報をつかむこともあり得るのかもしれないな…)

 月刊音楽情報…。割と真っ当な雑誌だ。しかし、取材に便乗して、アーティストへの個人的なアクセスをするのはルール違反だろう。

(あの子がどういうつもりなのか、試してみるぐらいはいいか…)

 携帯番号を非表示にして一度電話をかけるくらい、大したことではない。それに相手は雑誌社の人だから、何かあったら会社を相手にすればどうとでもしてくれるだろう。

 長い逡巡を終え、里留は明美のメモを開いた。そして気持ちを整理してから電話をかけた。コールの長い時間…、そして、女の子の声。

「もしもし」

 一瞬、何と言おうか迷ったが、このご時勢、電話に出るときは名を名乗らないのがもはや常識だし、非表示でかけた側が名乗るしかない。

「…もしもし、…今日、メモをもらった、垣口です」

 相手が驚いて言葉を失うのを感じながら、里留は次第に緊張を感じはじめていた。女の子の声がどぎまぎした響きで届く。

「突然申し訳ありませんでした。どうしても、他に方法がなくて…」

「キミ、軒田さん?」

「…あっ! すみません、名乗るのが遅れてしまいました、軒田明美といいます。本当に、不躾なことをしてしまって…でも、どうしてもお知らせしたくて」

「キミのとこの雑誌、こういうの、いいってことになってるの?」

 里留は慎重に明美を品定めした。明美は慌てた。

「…すみません、違反です…。責任をとれと言われるのなら、明日にでも辞表を出してきます。ただ、話だけは聞いていただけませんか」

 すがりつくような必死の声。里留はすでにその声を信じる気になっていた。電話の向こうの女性は「垣口里留」に対して何の関心も示していない。「芸能人と話をしている」という浮かれた気配がまるでない。

 明美は自分の中で灯也のフルネームを再確認した。あとの三人ははっきり覚えていたのに、ずっと「灯也くん」と呼んできた灯也の名字への記憶にむしろ不安を感じた。

「広瀬さんは、長野県のガソリンスタンドで働いてます。私、顔を見て、実際に言葉を交わしてきてるから、本当に間違いないです」

 やっと大切なことを伝えられて、明美は途端に緊張の糸が切れて震えが来てしまった。

「…キミは、灯也の知り合いかなんかなの?」

 訝るような里留の声に、明美は冷や汗をかいた。

「いえ、…ただ、私の方は当然、知ってますから…」

「でもさ、灯也もうかつだよね、キミに素性がわかるように話をするなんて」

 明美は戸惑ったが、食い下がった。

「私は、ただ、ガソリンスタンドのお客として行っただけで…でも、私はファンだったから、すぐわかりました。それで…、どうしてもクロック・ロックに復活してほしいんです。非常識は何度でもお詫びします。もう、クロック・ロックはやらないんですか?」

 待ちこがれた質問をとうとうぶつけた。けれど明美はすぐに我に返った。里留の返事が、もしも冷たいものだったら…?

 里留の声はなかなか返らなかった。長い沈黙に明美の心が沈んだ頃、やっと返った。

「…それは、灯也次第だよ」

「だったら、とう…広瀬さんさえよかったら、クロック・ロックは復活するんですか?」

 明美の声は思わず弾んでいた。もう少しで「灯也くん」と言うところだった。灯也ファンなら誰もが「灯也くん」と言うだろうから、言っても問題はなかっただろうけれど。

 やはり里留は慎重だった。

「灯也次第って、それは全然楽観できないことだよ。あいつは実際、もう、5年も歌ってないんだから…。それに、他にもなにか事情があったのかもしれないし…」

 そこまで言って、里留の中にある考えが突然浮上してきた。

(…まさか、本当に、「13歳は犯罪じゃない」って…実行したのか?)

 里留は灯也がスタジオ見学に来ていた中学生に声をかけたことを咎めたとき、冗談めかして「13歳は犯罪じゃない」と言ったのを聞いていた。そしてそれから数か月後、灯也が自宅に比較的近い場所で中高生くらいの少女と会っていたのを目撃していた。

 突然黙ってしまった里留に明美は戸惑った。そして、局面を打開しようと口を開いた。

「…垣口さん、…じゃあ、広瀬さんの居場所とか、わかっても…?」

 里留は我に返った。

「ああ、…いや、…俺は灯也に会いに行きたいから、できれば教えてほしいんだ」

「本当ですか!」

 明美の声は再び弾んだ。

「長野の、どこ?」

「えっと、まずは長野駅から戸隠に向かって…」

 明美は普段のドライブルートを説明した。風景で記憶しているので細部が曖昧だが、目印のバス停の名前さえわかっていれば大丈夫だろう。

「あの、垣口さん…、その私の電話番号のメモは、捨てないで、持って行ってください。道に迷ったり、それ以外の困ったことが起きたりしたら、またその場から電話ください。もう少し、何か、お役に立てることを言えるかもしれないから…」

 ガソリンスタンドに灯也がいなかったら、里留に灯也の住んでいるところを教えるしかない。なぜ知っているかなんてことは後でどうにでも説明する。とにかく、里留と灯也を会わせなければならない。

「軒田さん、…ありがとう。灯也に会えたら、お礼の電話入れるよ」

 里留は優しく言った。必死に道の説明をする明美の態度で、灯也と会ったのは事実なのだろうと思えたし、善意のファンだということも伝わった。

「…どうぞよろしくお願いします」

 明美のいささか真剣すぎる声を聞いてから、里留は電話を切った。


 次のオフ、垣口里留は長野駅に降り立った。手元に灯也の居場所への行き先を殴り書きしたメモがある。そしてもう一枚、明美の連絡先の書かれたメモもある。里留は駅前でレンタカーを借り、車を飛ばした。そして、おそらくここと思える場所で右折した。軒田明美という女の子の語ったとおりの景色が見え、視界が突然開けて民家、そして…。

 ガソリンスタンドだ。

 里留は高鳴る鼓動を抑えて車をスタンドに入れた。しかし、そこは妙に静まり返っていた。戸惑っていると、建物の裏からつなぎを着た人が一人、出てきた。

「すみません、実は、ここ…」

 彼は、それを言い終わらないうちに言葉を失った。運転席を出る里留が声をかけた。

「…灯也、ここにいたのか…」

 呆然と灯也は立ち尽くした。そして、里留のお洒落ないでたちに対して、灰色の作業着姿の自分はどう見えるだろうと思った。長い年月は、2人の人種さえ変えてしまったように思えた。

「仕事中だろ? …夜まで待った方がいいか?」

 里留は淡々と言った。灯也はまだ呆然としていた。それでも、言葉だけは返した。

「いや、…実は、ここ、先週いっぱいで閉めたんだ。片付けがあって…」

 ガソリンスタンドはすでに廃業し、挨拶の貼り紙がしてある。普段はロープが張ってあって入れない。この日はたまたま、灯也の作業のために取り払っていた。

 里留が来る日に、たまたまスタンドで作業をしているなんて…。

(やっぱり、俺はもう…戻らなきゃいけないのかな、人混みの中に)

 女神が呼んでいる。明美の顔かたちをした幸福の女神が。

「話、できないか?」

 里留は灯也の心情を測りかね、わずかな不安を抱えながら言った。でも、灯也の方には、わざわざ会いに来た里留の心情が善意だという確信があった。灯也は少し迷って、

「ここでいい? コーヒーなら出せるけど」

 とスタンドの小屋を指した。まだガスも水道も電気もきていたし、コーヒーメーカーも置きっぱなしだった。

「ああ、どこでもいいよ」

 2人は小屋に入っていった。

 そのまま、とても長い間、小屋のドアは開かなかった。


 明美の元には里留から「確かに灯也に会えたよ、ありがとう」という電話が入った。多くを語ろうとしなかった里留に、明美はお礼だけ言った。

「…このご連絡で十分嬉しいです。私はそれだけで満足ですから」

 明美は電話を切った。途端、大学帰りの往来だというのに、大粒の涙がどっとこぼれ落ちて止まらなくなった。その日明美はアルバイトを休んだ。

 里留と接触したことで、広瀬灯也は再び手の届かない人になってしまった。長野での5年ぶりの再会、泊まり込んだ3日間、そんな思い出が溢れて明美の胸を締め上げた。長野の淋しい暮らしを続けていてくれたなら、またレンタカーで訪ねれば、2人きりの時間を過ごせたはずだった。それはしないと自分で決めていたのに、実際に失われると思ったらたまらなかった。

(…でもちがう、私は、私の灯也くんでいてほしかったんじゃなくて、灯也くんに灯也くんらしく輝いていてほしかっただけだから…)

 それはそう思う、強い信念として。けれど、灯也に恋をしている自分の半面がどうしても抑えきれず、明美はずっと泣いていた。


 灯也は翌週、長野新幹線で東京へと向かった。2日間の滞在を予定している。1日目はクロック・ロックのメンバーで集まって話をするため、2日目は織部重信のオファーをとってある。すべて里留が手配してくれた。それの意味するところは…。

 東京で明美が呼んでいる、そんな気がした。おそらく、クロック・ロックは復活に向けて動いている。里留がそうと決めたら、そう進むだろう。

 新幹線を降り、灯也は地下鉄を乗り継いで指定されたホテルに向かった。まもなく見えてきたホテルに入り、正面からフロントにエグゼクティブフロアの部屋番号を告げる。案内されてたどりついた部屋のドアを、ボーイが恭しく開けた。

 灯也の背後でドアの閉まる音がして、部屋の中から懐かしい声が聞こえた。明るい室内に懐かしいシルエットが見えた。かつてのクロック・ロックが、6年ぶりに全員そろった。

「…ゴメン…」

 それだけ言ったら言葉が続かなかった。灯也は、自分の人生で誰かに泣き顔を見せる瞬間が来るなんて、思ったこともなかった。

 その日灯也はホテルに泊まり、翌日里留に伴われて織部と会った。織部はしばらく何も言わず、それから声色を決めかねたようにくぐもった声で「おかえり」と言った。

「灯也、でも、芸能人としてより普通の社会人として、おまえは最低だ」

「わかってます」

「歌えるのか、こんなに間があいていて」

「…正直、わかりません。ローディ(荷物運び)でもいいんですけど」

「そんな目立つローディ、つけられるか」

 冗談を言いながらも、織部は難しい顔を崩さなかった。灯也との再会は素直に喜びたかったが、里留がこういう場を作ったのは、「クロック・ロックを復活させたい」という意思表示だ。広瀬灯也の復活がプラスなのか、マイナスなのか…。採算の問題もあるし、社内の了解を取りつけなければならない。おそらく反対する連中は多いだろう。

 灯也は織部の顔色を読んで、里留に言った。

「…里留、…でも俺はもう他の仕事を当たってみたっていいんだゼ。織部さんだって、もう常務なんかやってるんだろ。こんな厄介ごとにかかわってられないんじゃないの」

「灯也…卑屈になるなよ」

 里留のとりなしに、灯也は首を振った。

「卑屈じゃないよ、真面目に言ってるんだよ。客観的に見て、ここで俺が戻るってことは、クロック-クロックが混乱するってことじゃないの。マスコミも、しばらくはくだらないこと書くんじゃないの。それに、クロックのコラボ・ユニットだってやりにくくなるでしょ。俺の存在が厄介だってことくらい、わかるよ」

 里留は平然とそう語る灯也に驚いた。いつからこんなに聞き分けが良くなったんだろう。本心ではそう思っていたとしても、灯也は自分がダメだとか、迷惑になるとか、そういう言葉は意地でも言わないヤツだった。

「…半年、かけてみよう」

 織部がつぶやいた。里留と灯也は慌てて織部を見た。

「灯也、今日の深夜、空いてたら、新人が今ライブやってる会場を少し借りよう。公演は夜の9時とか半とかには終わるし…。人目につくわけにいかないから遅くなるけど、そこは仕方ないと思ってくれ。今、話通すよ」

 織部は携帯電話を持って窓の方へ行った。里留と灯也は顔を見合わせた。

 そのあと織部は会社へ戻り、灯也はまた里留と二人きりになった。二人きりは、ちょっと気恥ずかしい。灯也は所在なく空の胸ポケットを漁り、そして気付いた。

(…俺、タバコやめたのに…今、すっごい自然だったな)

 苦笑する。タバコをやめて何年もたつのに、つい胸ポケットをあさってしまった。そんなミスは初めてだ。灯也は自分が元通りの広瀬灯也に戻っていくのを実感した。

「なあ、灯也」

 灯也が目を上げると、里留は真剣な顔をしていた。

「灯也、どうしても聞いておきたいことがあるんだけど…」

「何、マジメな顔して」

「おまえが逃げ出したのって、蓮井の事務所との裁判とか、マスコミとかじゃなくて…何か、もっとまずいこと…ってのがあったんじゃないの」

 里留が回りくどい言い方をしたので、理解するのに時間がかかった。灯也はしばらくしてから「ああ」と言い、それからさらにしばらく考えて、白状することにした。

「さすが、俺の面倒を長年見てきただけはあるね」

「やっぱり、何かあるのか」

「何か、確信をもってそうな言い方してたじゃない? …想像ついてんじゃないの?」

 里留はできるだけ糾弾にならないように訊いた。

「あの頃…13歳は犯罪じゃない、って言ってたよな。もしかして…、犯罪になる年齢の子と遊んじゃったんじゃないのか」

「当たらずとも遠からず…かな」

 灯也は苦笑する。里留は実にいいリーダーだ。メンバー全員にきちんと気を配って。

「笑い事じゃないだろう」

「間違いが2つある。1つは、犯罪になるから逃げたわけじゃないってこと。相手はもう13にはなってたし、法には触れない。…と、思ってたら、どうも勉強不足だったみたいだけどね。ナントカ青少年健全育成条例云々ってのに、ひっかかるんだったかな。ずっと後で知ったんだけど…。でも、知らなかったから、あのとき逃げた理由は犯罪じゃない」

「間違いの2つめは?」

「遊び…ってところがね。…当時は遊びだったんだけどね」

 灯也は素直に本音を吐いた。

「今、もう一度会いたいのは、その子だけなんだよね…」

 くぐもった笑いを浮かべる灯也に、里留は複雑な焦りに苛まれた。

「今からだって、その子が『子供のとき、広瀬灯也に関係を強要された』とか騒げば、いろいろ問題は起こるだろ?」

 何て説明しよう、と灯也は思った。再会して…それからもう一度会って、抱いたから平気だとでも? …そんな説明をすることも確かにナンセンスだが、それ以上に灯也は、19歳の明美を抱いた話を他の男にしたくはなかった。

「それは大丈夫だよ」

 根拠は…それはあの3日間、一緒にいてわかったから。けれどそれは説明のしようがない。だから仕方なく何か根拠を作ることにした。

「実はさ、…俺、一度東京に出てきたんだ。その時に、本当に偶然だけど…その子とバッタリ会って。彼氏もいてね、昔のことは気にしてないって言ってもらったよ。平穏に暮らしてるんだし、どっちかっていうとおとなしい子だから、蒸し返すとか、騒ぐとか、する気なんてないよ。彼女はもう俺のことなんか忘れてただろうし、今だって忘れてるよ」

「忘れてる」という言葉に少し灯也の胸が痛んだが、多分それは事実だろう。

 あと、里留に説明できることといったら、何があるだろう。灯也は考えていたが、里留がそれを制した。

「わかったよ。…当時13歳の子なら、もう今、…18歳か…」

「19だよ、もう」

 ふと、里留の脳裏を「軒田明美」という女の子の電話越しの声がよぎった。

(いや、それはないな。大卒で雑誌社に入ってれば、若くたって22歳だ。年齢が合わない)

 里留は明美を出版社の何年目かくらいの新人社員だと思っていた。明美が正しい言葉の使い方を知らず、アルバイトなのに「辞表を出す」という言い方をしたせいもあった。

「13歳から19歳じゃ、…俺たちのこの5年間の何倍も長いよな。普通に彼氏ができて、普通に幸せにしてれば、昔の男なんて忘れるよな」

 里留は灯也を安心させるつもりで、無理に前向きに言ってみた。けれど、灯也の胸にいくつも棘が打ち込まれた。

(…幸せにして、忘れて…、そうだよな。この前会いに来たのだって、別に…俺に会いたかったわけじゃない。もう、俺じゃない誰かに抱かれて…)

 肌で男を感じることを覚えていた明美を思い出す。自分以外の男の影…。灯也は明美の遠さを思った。

 里留は、灯也の明美への想いを軽く聞き流していた。今は多少感傷的になっていても、芸能界に戻ればまた恋多き男に戻るのだろう。…多少は懲りておとなしくなるだろうが。

 おかしな沈黙が支配してしまい、里留がそれを嫌った。

「じゃあ、灯也、カラオケ行こうぜ」

「…へ? なんで?」

「織部がライブ会場とるとかなんとか言ってたのは、テストだろ。声出し、やるんじゃないか。だったら、今からのどをあっためておかないと」

「それで、本番になった頃にのどがかれてたりしてね」

「いいから、行くぞ。おまえはマスクを着けろよ、俺は普段着だとほとんどバレないけど」

 里留に引きずられるようにして、灯也は無理やりカラオケボックスに閉じこめられた。


 ガランと果てしなく広い空間。数時間前まで熱狂が支配していたらしい不思議な湿気が残っている。真っ暗で空っぽの客席…、けれど、里留と織部が座っている。

 不思議な光景だと灯也は思った。広いステージには他のアーティストのためのセットが組まれ、客席には男が2人。非常口の緑のランプが異様に目立つ気がする。

「この状態で、アカペラなわけ?」

 何の音もない静寂の中で、自分の声だけが響く。灯也は気恥ずかしさを感じた。

「楽器は全部、片付けられてるからなあ」

 織部の声がか細い反響でなんとか聞こえる。ギターの一本もあればいいのに…と灯也は思った。

「大丈夫だよ、歌えよ」

 里留の声が広さに吸い込まれて薄れる。灯也は不安になった。里留の話し声はこんなに消えてしまう。自分の声が通用するのかどうか…。しかし、やるしかない。

 灯也は目を閉じてイメージを思い描いた。かつて、自分が歌っていた頃のこと。もっともっと大きな会場…ドーム球場だって満員だった。また、ここに帰ってきた。歌える。

(…帰ってきたよ、明美ちゃん…)

 今、客席に明美がいたらどんなにいいだろう。こみ上げてくる熱い思いは、自然に灯也の声を押し出した。広い、広い客席に広瀬灯也の声が輪を描いて広がっていく。里留の曲を歌った。感謝の意味もあったが、やはり自分の声を活かしてくれるのは里留の曲だから。

 自分の中だけで鳴っていた伴奏が、最後の和音を決めて、終了した。我に返った灯也は、なんとなく恥ずかしくなって、ふてたような声を出した。

「もう商売にはならないかな?」

 2人は黙っていた。歌詞を書いて、評価を待っていたときの緊張が帰ってきた。いろんなものが帰ってくる…。

「あんまり、かわんないな」

 里留が笑い、灯也は取りあえずホッとした。でも、メインは織部の方だ。

「…灯也」

 織部の第一声に灯也の顔がこわばった。織部の難しい顔が、この時ほど怖く見えたことはなかった。

「ボイス・トレーニング…やろう。基礎を固めよう。今から」

 灯也だけでなく、里留の表情もこわばった。不合格か…。

「元々のおまえとしては、十分なんだ。そもそも技術も基礎もない状態で歌手やってきたんだから。――でも、クロック・ロックを復活させるのに、もとのまんまのクロックがただ帰ってくるだけじゃダメだ。クロック-クロックの3人はおまえがいない間にまた実力をつけた。そのバランスをとるためにも、昔の灯也が単純に真ん中に座っただけっていう復活は避けたい。…なにか、空白の年月を裏打ちするっていうか…、前向きなイメージをつけたい。いない間にこんなに上手くなってたんだ、っていうような…」

 織部の判断に里留は苦笑した。さすがは名プロデューサー、かつてとかわらない「クロック・ロック」では満足できない、それは客も同じだというのだろう。

 灯也は、冷静になるにつれて興奮がわき上がってきた。条件つきだが、織部はOKを出している。

「…やりますよ、何でも。元々、俺は何を言える立場でもないし」

 ちょびっとすねたような言い方。…そういえば、織部にはいつもこんなしゃべり方をしていたっけ。

 灯也がステージを降りてきて、里留と織部も立ち上がり、照明を消して退散した。

「スクールに手配を入れて…、半年、だろうな。次の『時計店』の企画、最後は、『広瀬時計店』だ。そのあとクロック・ロック再結成。…時計店の企画はそろそろ打ち止めだと思ってたから、ちょうどいいよ。最後のゲストボーカルは、誰もが驚きの隠し球、ってやつだな。…灯也がスクールに来ると、嗅ぎつけられるから…、何か、考えないと」

 薄暗い通路で織部がぶつぶつ言っている。半分は里留に聞かせるため。里留さえ把握していれば万事そつなく進めていける。里留と織部の蜜月も相変わらずらしい。すでに常務取締役であるこのプロデューサーの力がなければ、クロック・ロックもここまで来られなかっただろうし、灯也が抜けた後のダメージを緩衝することもできなかっただろう。そして、このあと灯也が――クロック・ロックが復活するなんてことも不可能だったに違いない。

「織部さん」

 灯也は神妙に織部を呼んだ。

「何」

「…ありがとう」

「気持ち悪いよ」

 織部は迷いの消えた大声で笑った。その声は静かな通路で反響して、遥か遠くまで響き渡っていった。灯也はその残響音に、これから広がっていく自分の未来を感じたような気がした。

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