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13.インタビュー

 5月、明美の携帯電話に清昭から電話が入った。

「もうすぐ誕生日でしょ? …俺の勝手で、プレゼントを贈ってもいい?」

 明美は少し悩み、借りを作りたくないと答えた。清昭は食い下がった。

「悩みはまだ答えが出ないの? …俺、待ってるんだよ」

 ならばハッキリしなければならない。電話で済ませるのは不誠実な気がしたから、話があると言って大学の講義の終わる時刻に清昭と待ち合わせた。

 明美が待ち合わせ場所に着くと、清昭が先に待っていた。久しぶりに見る清昭の顔はなんだかとても懐かしくて、もう十年も二十年も昔に恋人だったような気がした。ふと灯也の顔がまぶたに浮かび、明美はそれを消すように目を伏せた。

 二人は並んで、あてもなく歩いた。次第に夕暮れが深くなり、明美は少しずつ追い詰められていった。結論を伝えなければならないが、本当のことは説明できない。

 明美が迷っていると、清昭から先に訊いてきた。

「…俺の何がいけなかったのかだけ、教えてくれない?」

 清昭はあきらめがついているようだった。明美は少し気が楽になった。

「ううん、何もいけなくないと思う」

 悪いとしたら自分の方だろう。恋に無知だったから、簡単に身近にあった恋に飛びついてしまった。「恋をしている」…ただそれだけのことが幸福だった。考えが浅かったことを、多分「不誠実」という。

 でも、どう言ったらわかってもらえるだろう。他に好きな人がいる…、多分、今はそうだ。でも清昭と別れるのはその前の段階の話だし、灯也への想いはこの世界のどこにだって漏らしてはいけないことだ。

「何もいけなくないなら、もっと、…どうして?」

 清昭の疑問はいちいちもっともだと思い、明美は、正直な気持ちの一部を削って清昭に少しだけ届けることにした。

「多分、清昭くんは私のこと、わかってないんだと思うの」

「そんなことないよ」

「…ううん、わかってないのよ、実際。…ゴメンね、清昭くんが傷つくから、黙ってたかったの。でも、私がこんなだから、言わなきゃならなくなっちゃったね…」

 明美は、灯也との初体験のことまで話すべきかどうか迷った。そして、やはり体の話まではできないと結論した。清昭には重すぎるだろう。

「私、清昭くんとのキス、初めてじゃなかったの。13歳の時に、大人の人と済ませちゃったの。それは恋じゃなかったから、清昭くんとつきあったのが初めてなのは確かだけど」

 清昭はしばらく黙ったが、普通に言葉を返してきた。

「…そのくらい、結構、あることなんじゃないの」

 多分驚いているのだろう。けれどそれ以上に、別れる驚きについていけていないのだろう。明美は清昭のそんな様子にうつむいた。

「うん、そうなのかもしれない。でもね、時々、清昭くんが見てる私と本当の私、違ってるなって思うことがあって。それから、私は少し悪い意味で大人になってしまってる部分もあってね、時々、清昭くんが語る将来のこととか、あまりに純粋すぎる理想論とか、『子供だな』って思っちゃうことがあるの」

 時折チカッ、チカッと警告信号のように光っていた「子供だな」という思い。それは価値観のズレ、住む空間の違いのようなもので、どうにも居心地が悪い気がしていた。そして、清昭が口にする言葉はあくまでも理想に基づいていて、明美の思いは決してきれいごとでは済まない現実に基づいていた。自分の感情を、価値観を、醜いもののように感じてしまうのは、決して幸福なことではない。

 清昭は話についていききれず、とりあえず思いついたことを言い返した。

「俺は俺で、本当はもっと現実的だったり見苦しかったりする部分もいろいろあるけどね。明美が思ってるほど純粋とか理想とか、そういう綺麗な人間じゃないんだけど」

 こんな話をしている時点で結局はもう終わるしかないんだと思いながら、清昭はどうしても納得できなかった。明美が全く結論を迷っていないことも理解できなかった。明美もそんな清昭の気持ちは感じ取ったが、どうしても直接的な理由は説明するわけにいかず、心の中でだけ語りかけながら黙っていた。

(清昭くんが、私との経験が初めてじゃなければあるいは言えるかもしれないけど…。心が遠かったから体がついて来なかったなんて、言ったらもっとわからないね。そして、今は初めから恋じゃなかった気がするなんて、そんな残酷なこと言えないね)

「思い出」という言葉を使ったら傲慢なのだろうか。明美は、清昭の初恋の思い出を壊したくなかった。恋愛や体の思い出に、劣等感のようなものを残してほしくなかった。

(まだ、多分、清昭くんはいい意味で子供だから。綺麗な心だから。まだ清昭くんの中に一つしかない恋を、悪いものにしてしまうのは残酷すぎるから。それを「子供扱い」って言うのかもしれないけど…)

 清昭はずっと黙っていた。明美は申し訳ない気持ちで、自分から口を開いた。

「清昭くんにも本音っていろいろあるんだろうけど、…すごく傷つけ合って別れるのは私、嫌なの。自分勝手だけど…。清昭くんと幸せだったこといろいろあるし、思い出もいろいろある。だから、これ以上、余計なこと言い合って傷ついたりしないで別れたい」

 清昭は何も言い返せずに長い長い間黙っていた。この長い沈黙の間、清昭が何を考えているのか、明美には少しもわからなかった。

 やっと清昭が口を開いた。

「わかったけど。…俺には今でもすべてが急すぎて、納得いかない。飲み込めない。頭はなんとか理解しようとしてるんだけど、もう自分の人生の中に明美がいないってことがよくわからない」

 通りの向こうに小さな児童公園が見えた。清昭は率先してそこに入っていき、空いているベンチにまっすぐに向かっていって腰掛けた。明美は隣に座る気になれなかった。清昭から少し離れたところに、清昭を向いて立った。

「俺は、どこに戻ってやり直したら明美を失わなくて済むのかな。こんなこと、今考えてもしょうがないのに。…どうしたらいいんだろう、俺…」

 この胸の痛みがせめてもの罰だと思いながら、明美はただ清昭の声を聞いていた。

「もしもハッキリした理由があるんだったら、それを言ってくれない? 俺が子供だからとか、そんな風に言われてもわからないよ。だったら、そういう子供なところが耐えられないほど嫌だとか、そういう風に言ってよ。嫌いって言われたら、それは理解できるから」

「…ゴメン…」

 だからって、「体に入られるのがどうしようもなくつらい」なんて言えない。それはきっと男性にとって、とてもショックで傷つくことだと思うから。明美以外を知らない清昭は、自分を性的に問題のある男だと思ってしまうかもしれない。

(私には灯也くんがいたけど、清昭くんにはいないから…。次の彼女と関係が進んだとき、きっと自分に自信がなくなっちゃうでしょ? だから、私は言えない)

 清昭に抱かれるのが怖い。もう、あんな思いを伴う行為に身を投じる勇気がない。灯也が好きだからじゃない。清昭と恋愛を続けられない。だから、別れる。

(体のことが直接の原因で恋が終わってくなんて、…なんだか、みじめだな…)

 恋は心の問題だからと繰り返していた少女時代。灯也とはじめての体験をした後も、恋は心の問題だと思っていられた。でも、清昭とのつき合いの中で体の神秘の扉を開けてしまった自分にとって、恋は、決して心だけのものではなかった。

「どうして何も言ってくれないんだよ…」

 清昭はベンチで頭を抱えた。明美は謝ることしかできなかった。

「ゴメン。私も上手く説明できない…」

「少しずつ、時間をかけさせてくれって…そんなことは、ダメなのかな」

「…え?」

「明日から一切の連絡を絶って他人になるなんて、俺、どうしてもできないし…今ここでじゃあわかったって言って帰るなんてできないよ。未練がましいって思われるだろうけど、…猶予がほしいんだよ。もう指一本触れない。だからしばらく、友達のエリアに残ってよ。時々メールしたり…、そのくらいさせてよ。…そのうち、他の人とか、探してみるから。明美の一方的な気持ちだけで勝手に決めないでよ。俺の気持ちにも少しは妥協してよ…」

 清昭の絞り出すような懇願に、明美の胸は苦しく喘いだ。そのまま涙がこみ上げてきた。

(…灯也くん…)

 灯也の名前は、自分を強くしてくれる呪文。強くありたい。潔くありたい。泣きたいのは清昭の方だろう。差し置いて、女だからと泣くわけにはいかない。

「清昭くん、ゴメン、そういうの…」

「ほんとお願いだから」

 断ろうとした瞬間を必死でかき消した清昭の声に、明美は負けた。

「…ゴメン…。じゃあ、清昭くんが追いつけるまで、少しだけ待つから…」

 清昭はうなずき、しばらくうなだれていたが、突然立ち上がって明美を抱きしめた。明美は、清昭の腕につかまった瞬間、胸がスーッと落ち込んでいくような気分に苛まれた。

(ああ、本当にもうダメなんだ)

 明美は初めて終わりを実感した。そのまま、刑罰のように抱きしめられていた。

「最後に一度だけ…」

 清昭の消え入るような声がした。明美は、今度は容赦なく清昭を押し返した。

「…本当にゴメン…、もう、…そういうのは無理…」

 明美の唇が震えて、涙が流れた。半分は清昭への申し訳なさ…、だけどもう半分は、灯也を想う恋心が流した血だった。

(灯也くんに会いたい…)

 二人は黙って駅まで歩いて戻り、目を伏せたまま別れた。清昭は「またメールする」と言い残した。


 5月16日、明美は二十歳になった。その日に清昭と会わないことが両親に露呈するのが嫌だったので、硝子の家に無理やり押し掛けて祝杯をあげた。

「彼氏と別れたとか、いちいち、親に隠したりしなくたっていいじゃない。バカみたい」

 硝子はあきれ顔だった。明美は自虐的な笑顔になった。

「紹介しちゃった手前、気まずくてさ…。紹介して、たった半年で別れちゃったなんて…」

「若いうちの恋愛なんて、そんなもんよ」

 灯也と二人で選んだワインは他の誰にも飲ませたくなくて、日付がかわって二十歳になる瞬間に一人でこっそり部屋で飲み、そのままクローゼットの中に隠してきた。硝子との祝杯は、途中の酒屋で口当たりの良さそうなチューハイを買ってきた。

「誕生日、おめでとー」

「ありがとー」

 太る、と連呼しながらケーキの箱を開けた。口先ばかりだった。当然、あっという間に食べてしまった。

「…なんで別れちゃったの?」

 硝子は落ち着いてから、やっと訊いた。明美はウーンと唸ってから、

「性の不一致?」

 と答えた。硝子には、だいぶ素直に話せるようになった。

「えー」

「なんか、やになっちゃって…そういうのが。でも、それは言えなかったから、価値観の不一致って言って切り出したんだけど」

「どういうこと? 具体的に聞いてもいい? それとも、とても言えないようなこと?」

「言えないって?」

「なんかすごいプレイを求められたとか」

「…? …SMとか?」

「あっ、違うのね。そのささやかな知識じゃあ…」

「えっ、何、どういう『プレイ』があるの?」

 世に「耳年増」という言葉があるが、明美の場合はまったく逆だ。知識がなさすぎる。硝子は、どう説明しても明美にはわかるまいと思った。

「…たくさんあるのよ、そういうの。明美がこの情報化社会の中で、知らないでいられることがオドロキだわ。で…普通に、性の不一致?」

「普通にって、どういうのが普通の性の不一致なの?」

「わかってないのに、そういう単語を使ったわけ?」

「だって、性が不一致だったのは本当なんだもん。普通の性の不一致って何?」

「感じない、入らない、イカない、不快、したいサイクルが合わない…、いろいろあるんじゃない?」

「ふーん」

 明美はちょっとだけ我に返って、自分が恥ずかしい話をしているなと思った。でも、今の明美にとっては深刻な話だった。恥ずかしいと避けて通っていられた時代を、むしろ懐かしく思った。

「で、明美はどれに該当するの?」

 硝子の質問に赤面することもなく、明美は真剣に答えた。

「不快、かなあ…正確なのは。多分、彼じゃなくて私の問題。もう、そういうのがどうしてもダメになっちゃって。メンタルクリニックみたいなとこまで行っちゃった」

 硝子は目を白黒させた。

「大変だったんだね」

「うん…。私は自分の問題だからいいけど、清昭くんには本当に悪いコトしちゃった…」

「カラダのことばっかりは、どうしようもないね。…不快って…なんでだろうね?」

 多分、清昭を好きという気持ちに偽りがあったから。でもそれは答えなかった。

「わかんない。私はこの人とのそういう関係がつらいらしい、ってだけで十分」

「そうか。確かにね、十分だよね。じゃあ、失恋記念でもあるね…カンパーイ」

「カンパーイ」

 丁度その時、明美の携帯電話はカバンの中でずっと振動していた。清昭は明美の携帯電話をしばらく鳴らしてから、諦めて「誕生日おめでとう」のメールを送った。灯也は明美に思いを馳せながら、遠い長野の地で空を眺めていた。


 その長野では、少しばかり事情が変わろうとしていた。灯也が朝、いつも通りに店長を迎えに行き、ガソリンスタンドまで車を走らせている途中に話が始まった。

「…広瀬くんにさあ、いつまでもこんな風に迷惑かけちゃ、申し訳ないしね?」

 灯也は、店長の普段の「迷惑かけてすまないね」という話だと思って、

「いや、ついでですから。ガソリン、その分、もらっちゃってるし」

 と答えた。店長は助手席で首を振った。

「ううん、そういう話じゃなくてね。…閉めようと思ってるんだ、スタンド」

「えっ」

 真っ先に明美の顔が浮かんだ。けれど、家を教えてあるから大丈夫だ。真っ先に明美との再会のことを確かめている自分に灯也は苦笑した。

「広瀬くん、東京で何があったか知らないけど、隠れて、腐ってたらダメだよ。今、三十…いくつだっけ?」

 店長が立ち入ったことを言うのは初めてだった。灯也は話の進む先を考えながらも、素直に答えた。

「三十一です」

「安心できる仕事について、嫁さんでももらってさ。…まあ、田舎者の感覚だと思われるかもしれないけど…普通にさ。…今、普通なんて、結構難しいのかもしれないけど」

「いえ、…普通がいいんだってことはわかってますよ。でも、ガソリンスタンドで普通に生きるんじゃダメですかね?」

「大手の大型のスタンドも進出してるし、もう灯油なんて使う家も減ってるし、…何より肉体労働はつらいよね。若い人雇って自分は経営だけならいいけど。それで、こうやって若い人に迷惑までかけるようになっちゃうと」

 店長はわずかに痺れる方の指を、開いたり閉じたりしながら見ていた。

「俺は、別に、今の暮らしでもいいんですけど」

 いや、本当は…もうとっくに潮時は来ている。この止まり木から飛び立たなければならない。けれど言い訳をして、怠けていた。灯也は静かに店長の声を聞いていた。

「俺ね、弟が近くでビニールハウスのトマト作ってるのね。弟も体力しんどくなってきたし、それを手伝いに行こうかなって。広瀬くんを失業させちゃうのもナンだから、次の就職決まるまでは延ばすけど…。でも、俺がもう、スタンドは無理だろうなって思って」

「…そうですか…」

 13歳の少女は大人になった。過去の罪が消えるわけではないが、罪悪感に縛られる必要はもうない。それに…自分を不幸だと言って可能性を閉ざして生きる毎日は、前向きに結果を出し続けなければならないかつての暮らしよりも楽だった。「俺はこんな状況だから仕方がない」――その言い訳で、ずっと、何もしないことを正当化してきた。

 明美の訪れは、何かもっと大きなものの意思なのかもしれない。いつも、それをきっかけに都会に出ようと思わせてくれる。長野の市街へ、あるいは…東京へ出てもいいかもしれない。

 けれど今の家を引き払いたくない。次に明美が来たとき、ガソリンスタンドがなくなっていたら、あの家が会うための最後の砦になる。

 灯也は明美の連絡先を訊くなり調べるなりしておかなかったことを後悔した。


 月刊音楽情報の編集部は、またいささか忙しいシーズンに近付いてきた。首からカメラを下げた写真部の元木という女性があわてて駆け込んできて、余った紙に質問を書き殴ってコピーして、配って回った。

『クロック-クロックメンバーの名前をフルネームで書いてください』

 クロック・ロック時代は漢字のフルネームだった垣口里留、小淵沢周、青森孝司は、クロック-クロックとしては「Satoru」など、主に名前だけで出ている。フルネームは微妙に忘れられ気味だった。明美は当然のように、答えを一瞬にして書いた。

「キーボード 垣口里留  ドラム 青森孝司  ギター 小淵沢周」

 ドタバタと音を立てながら元木が戻ってきて、明美の解答を眺めて「アー!」と叫んだ。

「取材ついてきて! 名前も認識してない奴らじゃ失礼になるし…」

 そう言うと、元木は本棚からバックナンバーを持ってきた。表紙はクロック-クロックの3人だ。

「ハイ、順番に、名前。名字で」

 明美はあ然としながらも、一人一人指さして、

「青森さん、垣口さん、小淵沢さん」

 と答えた。元木は「合格」と言った。

「一緒に取材に行くはずだった編集が熱出したのよ。でも、メインのカメラとジュラルミン持っていっぱいいっぱいだから、どうしても二人要るの! 編集長の許可はとったから、よろしく! じゃあ、行きましょう」

 明美は慌てて自分の荷物を手に元木の後を追った。ちゃんと説明は受けていないが、ことのなりゆきから、どうやら自分が向かっているのはクロック-クロックの取材のようだ。

「あの、私で大丈夫でしょうか?」

「打ち合わせは事前に済んでるし、取材の内容は向こうもわかってるから。それに、クロックは私、割と付き合い長いから。でも、物理的に、どうしても荷物持ちが足りないの」

「…フルネーム知らない人でも大丈夫だったんじゃないですか? クロックの人たち、今、名字つけてないし…。バイトよりは、まだ…」

 車に機材を積み込みながら明美は戸惑いを隠せなかった。自分で企画書を通して、いつか…と思っていたのに。

「クロック・ロック時代からの付き合いだから、私、名字で呼んでるのよ。前に、私が『垣口さんに写真渡して』って言ったら、編集が青森さんに渡しちゃったことがあって…。今から私が急に名前で呼ぶのはおかしいから、名字はわかっててくれないと」

 元木はそう言いながらトランクを閉めて前に回り、さっさと運転席に乗った。明美も慌てて助手席に乗った。

 あまりに急で、クロック-クロックのメンバーに灯也のことを知らせるための準備ができない。せいぜい心の準備だけだ。灯也のことを、どう伝えよう…。

(ダメもとで、携帯の番号だけ、なんとか渡せないかな…)

 しかし、芸能誌の取材で、バイトがアーティストにプライベートな電話番号を渡すなんて、非常識きわまりない。

「あの、すみません、一応…念のため、取材の内容をざっと教えてもらえませんか」

 とっさにウソが口をついた。そうしてメモ帳とボールペンを構えた明美に、元木は、ハンドルを握ったまま答えてくれた。

「今回のは、こないだまで出してた『時計店』プロジェクトのパート2についてのインタビューなのね。質問する事項はもう先方に行ってるから、回答はみんな決めてきてくれると思うよ。質問の内容は…、1と2で違ったところだとか、今後組みたいアーティストは誰だとか…、そんな話を聞きに行くの」

 メモをとるふりをしながら、明美はこんなメモを書いた。

『クロック-クロックの皆様へ。

 広瀬灯也の居場所を知っています。

 詳しいことをお知らせしたいのでお電話下さい。

 私は怪しい者ではありません。○○社の芸能編集部で働いています。

 090-○○○-○○○○ 軒田明美のきたあけみ

(しまった、怪しい者ではありませんっていうところが、ものすごく怪しい…)

 書き方が気になったが、書き直しているヒマはない。明美はそのメモを、カンニングペーパーに使うかのようにごく自然に上着のポケットに入れた。

 そのまま元木の運転する車に乗っていくと、しばらくして最近できたばかりの有名なホテルの駐車場に入った。同じ会社の他誌も便乗するらしく、見慣れた社員証を首から下げた人たちがセッティングをしている。撮影はホテルの各所を借りて行われるようだった。

 明美は先にトイレに行っておこうと現場を離れた。帰りに道に迷い、ホテルマンに訊いていると、見たことのある男性が廊下を歩いてきた。

(…さ、里留さんだ!)

 明美は自分の運の良さに驚き、それから、天の意思のようなものを感じた。そして、あわてふためいて、でも間違いなくポケットから紙片を取り出した。迷っているヒマはない。いつなんどき、妨害が入るかわからない。

 明美は報道のIDと会社の身分証がことさら目立つように胸を張り、里留に近付いていった。里留が少しだけ身構えるのがわかった。

「…あの、すみません、『月刊音楽情報』の者ですが…」

 とにかく怪しまれないようにと、明美は必死で平静な芝居をした。

「あの、…私、『クロック・ロック』のファンだったんです」

 里留の表情がさっと凍り、明美は「しまった」と思った。「クロック・ロック」という言葉はNGだったのか、それとも非常識な人だと思われたか。

「だから、これ…」

 明美は紙片を半ば強引に里留に渡し、そのまま走り去った。

 それから十分もしないうちに、明美はクロックの3人と再会した。雑誌のバイトとアーティストという、厚い壁を隔てて。明美は里留が自分をチラチラと見ているのに気がついた。しかし、撮影用のライトを構えたり、元木の指示で動き回ったりしているだけの明美は、クロック-クロックの3人に近寄ることすらできなかった。

 インタビューが終わると、明美はそのままあっさりと元木の車で会社に連れ帰られた。あんなに待ちこがれていたクロック-クロックとの邂逅は、全く何の実感もわかないまま瞬く間に消え果てていった。明美は里留が自分を信用してくれるようにとひたすら祈った。

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