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12.月の窓

 さらに夜が更けた頃、灯也はロフトから乗り出し、明美に声をかけた。

「明美ちゃん…起きてる?」

 明美の返事はなかった。もう眠ったかもしれないと思いながら、灯也は優しく続けた。

「すごく、月が綺麗だよ。…上がってこない?」

 しばらく時間がかかったが、やがて明美はもぞもぞと動き、上体を起こした。

「灯也くん…起きてたの?」

「今…ふと起きたら、いい月出てたから。一人じゃもったいなくて」

 明美はベッドを下りた。月を見に来いなんて、それを言葉通りの意味と思うのはあまりに子供じみている。それでも、もしかしたらそのままの意味なのかもしれないと思いながら、明美は歩いていった。

「立入禁止じゃなかったの? ここ」

「暗いから、何にも見えないと思って。甘いかな」

 さっきはあんなに遠かったロフトのハシゴを、明美はそろそろと上った。灯也の影が見え、小さく胸が鳴る。もう一段上ったら小さな窓からさえざえとした満月が見えた。

「ここ、窓があったんだ。下にいたら全然わかんないね」

 明美は「おじゃまします」とつぶやいてロフトに上陸し、窓のそばに寄った。木立の向こうに遠くて近い山が黒く起伏して、明るい月が絵のようにバランス良く浮いている。

「うん、ほんとに綺麗。…いい窓だね」

 灯也が近付く気配を背中に感じ、明美は気付かないふりをして待った。想いがあふれ、呼吸が止まる。

 灯也は背中から優しく明美を抱きしめた。明美は静かに背中を預けた。首筋に灯也の唇が触れ、明美の体を電気が走る。灯也の掌が肩を強く撫で、明美は自分の体を縦に駆け上ってくる火傷しそうな熱さに戸惑った。

 火の回りが早すぎる…消さなければ…。

 自分の変化に気を取られていたら、服がロフトの下に放り出される音がした。絶望感までが甘美だった。理性が霞んでいく。

 灯也は明美の様子を少し冷静に見つめていた。13歳の時とはちがう、大人の女の反応。誰かに開発されたのなら、「受け入れられない」という言葉の意味は?

(考えるのはよそう。俺は、求められた責任だけ全うすればいいんだ)

 明美は拒む様子など微塵もみせていない。迷いは必要なかった。

 19歳の明美の体には、かつての痛々しいような細さはどこにも残っていなかった。何もわかっていなかったあの日の、何も知らない安らかな表情を思い出す。対して、今の切ない表情がとても不思議だ。明美はもう、あの日のいたいけな少女ではない。

 明美はふっと我に返り、目を開けた。そして絶望に身を任せるように目をつぶった。またきっと、あの感覚が訪れてしまう…。きっと、いつものように…。


 明美は苦しい息の下で灯也の背中に腕を回し、強く抱きしめた。

 不思議な感覚に大きく息を吸った。ゆっくり、自分の状況を理解する。自分の心の中の、空洞だった一番深いところを埋めてくれる優しい抱擁。体の奥底まで満ち足りた気持ちに溢れているこの瞬間。むしろ、知ってはいけなかったのかもしれない。幸福感が照らし出すのは、それまでの自分が不幸だったという事実――

 灯也は背中に感じる明美の腕の力にホッとした。拒まれてはいない。「受け入れられなくなった」と言っていたのは、明美の誤解でしかないのだろう。

 けれど、もしかして…と灯也は思う。…他の男ではダメなのかもしれない。…だとしたら。だったらいいのに。…東京へ帰したくない。

 ゆっくりと甘い時間が流れるその夜、明美ははじめて本当の快感を知った。


 朝を迎えた狭いロフトで、明美はぼんやりと隣に眠る灯也を見ていた。

(脅迫になっちゃったね。やっぱり寝てなくて、聞いてたんだね。本当は、私と他人でいたかったんでしょう? ゴメンね…。…灯也くん、優しいから…)

 思わず涙が溢れそうになり、明美は必死で奥歯を噛みしめた。けれど一粒だけこぼれてしまった。指先でぬぐって、まばたきをして、こらえた。

 そのままぼんやりと見つめていると、灯也が目を覚ました。明美は何を言っていいかわからなくて、とりあえず小さな声でありきたりの挨拶をした。

「おはよう…」

 灯也は返事もせずにしばらく明美を見つめ、それから強く引き寄せた。

「…灯也く、…」

 言葉が濃密なキスにかき消される。灯也は体を起こし、明美を組み敷いた。一瞬、灯也の顔が淋しさにゆがんだ。明美は帰ってしまう…、東京へ、…多分彼氏の元へ。

(帰れば、彼氏とも上手く抱き合えるのかもしれない…)

 所詮は責任をとっただけだ。“治療”が終わればもうただの他人…。

 灯也はこの数分後の自分のありようを決めかねて、明美をただ見つめていた。明美はしばらく戸惑った後、目を閉じた。昨夜の幸福感をもう一度味わってから帰りたかった。

 穏やかな朝の光の中、少し早起きしてしまった時間を使って、二人はもう一度抱き合った。昨夜の感覚は幻ではなかった。明美は灯也に満たされた。

 灯也はロフトを下り、明美の服を拾ってそっと上に戻した。

「明美ちゃん、…余計なことかもしれないけど」

 灯也は、明美がしたように、ロフトの下から小さく声をかけた。

「俺はこういうの、遊んでた方なんだからさ…。比べたら、彼氏が可哀想だよ」

 そしてすぐに流しに行き、不必要なくらい元気な水音をたてて顔を洗った。

 明美は淋しさをかみしめながら目を閉じた。きっと灯也にはわからない。慣れているとか、慣れていないとか…、上手いとか、下手だとか…、そういうことじゃない。恍惚から現実に一瞬で戻ってしまうあの感覚。闇にすうっと落ちてしまうような絶望感。灯也と結ばれる瞬間とはあまりにも違って…。

(男の人には、多分永遠にわからない)

 東京に帰ったら清昭と本当にちゃんと別れるしかない。気付いてしまったから。恋をしていた相手は清昭でなく、「普通の恋」だったことに。

 明美はのろのろと服を着てロフトを下りた。それから、残ったカレーを温めて朝食の用意をした。着替えを終えた灯也がごく自然に食卓についた。

「お店、間に合う?」

「大丈夫、俺が迎えに行くまで店長出勤できないから。遅刻はない、開店遅れるだけ」

「昨日はちゃんと時間守ったのに…」

 カレーを一口食べて、灯也はすぐにスプーンを置いた。

「明美ちゃん、中の方あったまってない」

「えー!!」

「…レンジで3分…じゃ、足りないかな…。ま、いいや、ラップしてね」

 慌ててレンジに飛びつく明美の背中を、灯也は苦笑しながら見つめた。

(まだまだ、嫁さんにもらうには早いみたいだな…)

 そう思ってからふと淋しくなった。明美は今日、彼氏の元へ帰るのに。練馬の光景を思い出す。多分彼と明美は同じ生き物だ。真面目な優等生。親の望むとおり問題なく大学生になった平和な人種。そういう者同士で交際していれば、誰に後ろ指さされることもない。

 レンジの音がした途端、明美が中の皿を無造作に触ろうとするのを見て、灯也は慌てて叫んだ。

「明美ちゃん、そのまま触ると熱いから!」

 明美はビクッと手を引っ込め、なべつかみがわりに台ふきを使って、そろそろとカレーをレンジから取り出した。台ふき越しでも皿はとても熱かった。

「火傷しなかった?」

「うん、…平気、…ごめんなさい」

「今日び、電子レンジ使えない女の子なんていないよ? いくらなんでも、お勉強が足りないんじゃない? …いや、逆か、お勉強のしすぎじゃないの?」

 つい、言い方が皮肉っぽくなってしまった。真面目な男と真面目なつきあいをしている大学生。生きていくための知恵には、こんなにも疎くていい。

(ものっすごい災害でも起こったら、俺が彼氏を押しのけて明美ちゃんを救うかな)

 東京に災害が起こったって、長野の淋しい集落のはずれに住んでいて救うも何もあったものか。灯也は自分の中のバカげた思いを放り出し、カレーをかき混ぜて温度を均してからなんとか食べはじめた。

「明美ちゃんも食べなよ」

「灯也くんが出ていったら、落ち着いて食べるから」

 明美は目を伏せたまま、普通のふりをして言った。胸がつかえてとても食べられなかった。帰りたくなかった。でも翌日からはもう大学が始まる。

「何時に帰るの?」

「うん、…新幹線を夕方の5時にしたから…レンタカーも返さなきゃいけないし、3時にはここ、出ようかなって思ってる…」

「…そっか。気をつけてね」

 灯也は無理に繕って言った。明美も黙ってうなずいた。

「さて、俺も早く行かなきゃ…。昨日、早退しちゃってるしな…」

 カレーを食べ終えて、灯也は食卓を離れた。明美は黙って食卓の上を眺めていた。

(灯也くんがここに帰ってきて…私が毎日おかえりなさいって迎えられたら…)

 ありきたりな夢だ。きっと、灯也に「女の子」だと笑われるのだろう…。

 財布と携帯電話をポケットに入れ、灯也は玄関とも呼べない狭い出入口に向かった。明美も追った。真っ正面から向かい合ったら切なすぎるから、灯也は顔だけ明美の方を向け、笑顔を見せた。オン・ステージ…、ただし、歌ではなくお芝居の。

「ここでのことは、…忘れなよ。俺は忘れないけどね、そういう必要ないから」

 明美はただ立ち尽くしていた。灯也は清昭の存在を意識して言っている。もう別れると、ここに来るときに別れてきたと、明美は言い返したかった。でも黙っていた。

(灯也くんにとって、私にそういう人がいてもいなくても関係ないもんね…)

 切なさをこらえたら、あとは言わなければいけない言葉が一つだけ。

「灯也くん、あのね、…ありがとう、いろんなこと…」

 灯也の中でもたくさんの言葉が沈められていく。言えるのはやっぱり一つだけ。

「俺の方こそ、ありがとう…」

 思いをこめた次の言葉を探すことなく、灯也は明るく言った。

「それじゃ、俺、行くわ。鍵は、どこに仕舞うか覚えてる?」

「裏の、造花の咲いてる鉢の中。木を抜いて底に入れるの」

「よくできました。…それじゃあ」

 二人とも目を上げられないまま、口元と口調だけ笑った。

「いってらっしゃい」

「うん、行ってくる」

 灯也はドアの向こうに消えた。明美の背中が淋しく残った。


 灯也のガソリンスタンドに寄りたい気持ちを抑えて、明美は長野の駅前まで下りてきた。レンタカーを返し、長野の街を歩いて時間を過ごし、予定の新幹線に乗った。

(帰ったら、清昭くんと…)

 別れ話は必要なのだろうか。中途半端ではあるが、ちゃんと「別れる」と言い渡してきた。

(灯也くんとのこの3日で結論が出ちゃったなんて、かえって「こんな重大なことを3日で決めたのか」って思われそう)

 清昭との別れ話は、何か言われてからはじめればいいだろう。

 明美は車窓を飛び去っていく風景を見つめながら考える。本当は、わかっていたのかもしれない。清昭のために自分の何を変えようとしただろう。灯也に近付く道であれば、何にでも情熱を燃やすことができるのに…。

(次に、もしも灯也くんのために台所に立てる日が来たら…、もう絶対にないけど、でも…その時は、びっくりするくらい料理がうまくなっていたい…)

 灯也に会いに行くことはもうない。でも料理は覚えていたい。できなかったことが本当に悲しい。日曜日、もう清昭とのデートがなくなる。料理の勉強でもしようか。

(灯也くんとは、住む世界が違うから…)

 明美には、もう一つ考えていることがあった。その方法を考えながら、明美は新幹線の席に深くもたれてゆっくりと目を閉じ、そのまま眠りに落ちていった。


 アルバイト先の出版社で、明美は先輩の女性社員に相談した。

「企画書って、どうやって作るんですか?」

 訊かれた女性はびっくりした。

「…え、軒田さん、企画書出すつもりなの?」

「いえ、今は無理でも…せめて、半年後、1年後には出せるようになりたいから…」

 待っていても仕方がない。企画書を勉強して、5本企画を通したら、自分の手で「クロック-クロックインタビュー記事」の企画を通す。もちろん、担当は自分だ。アルバイトの身分でインタビューを担当するのは不可と言われたら、取材者に同行させてもらえるよう、頼んでみるつもりだ。

 明美は、その先輩社員に連れられ、編集長の所へ行った。編集長は、四十代半ばだがもっと若く見える、割合いい男だ。企画書を教えてほしいという明美の希望を聞き、編集長は微妙な笑みを浮かべた。

「…軒田さん、真面目にやってれば2年で内定は出すよ。背伸びしなくてもいいんだよ」

 明美は食い下がった。

「別に、私は無理も背伸びもしていません。必ずしも就職先がこことは限らないですし。できることは全部身につけておきたいだけです」

 普段は唯々諾々と下働きをしている明美が思いのほか強情だったので、編集長は驚いた。

「じゃあ、前にヒットした企画書を5、6件選んでコピーして、持ってくよ」

「ありがとうございます!」

 明美は席に戻り、それから会議用の資料のコピーを始めた。いつもの下働き。それで構わない。たった一つだけ夢がある。それさえかなえばいい…。

 資料を会議室に運んで並べ、戻ってくると、明美の机の上に見本の企画書が載っていた。見るとどうやら、企画書に決まった「書き方」はないらしかった。

 まずは、勉強代わりの「企画」をいくつか考えなければならない。その日の帰り、明美は大きな本屋に寄って、芸能雑誌を片っ端から買い込んだ。


 芸能雑誌を読み、音楽番組の特集を見ながらいくつかメモを取り、明美は企画の芽のようなものを2つ3つ選び出した。けれど、具体的なことがわからない。

(どのくらいの人気のアーティストなら応じてもらえるんだろう…? どのレベルの人なら、どのくらいの待遇にしないといけないんだろう? 特に、クロック-クロックに特別ロングインタビューをするとなったら、いくらかまとまった時間をとってもらわないといけないし…、どういうところでインタビューしてるんだろう?)

 手配しなければならないもの、こと、予算、その他、様子がちっとも浮かんでこない。さんざん頭を悩ませた後、明美は質問事項をメモにまとめ、編集長に持っていった。「月刊音楽情報」6月号の校了後、個人教授を受けることができた。編集長の話はちょっとばかり長かったが、横道に逸れる話もすべて、勉強だと思えばおもしろかった。

 編集長は最後に言った。

「企画は、何ができる、できない、って考えたらダメなんだよ。何でも、できないことなんてないんだよ。スタートとゴールはもう固定、そこは妥協しない。ゴールにたどり着く道のりをどう可能なものにつくっていくか、それが企画だよ」

 明美は目からうろこが落ちる気がした。できること、できないことという区別はどうしたって存在するのだと思っていたが、「できないことはない」のであれば、必ずクロック-クロックとの接点を持つことができる。

 編集室の隅の打ち合わせブースで延々と編集長の講義を聞く明美の姿を、社員は皆「かわいそうに、つかまってるよ」とささやき合い、終わると明美に「お疲れさん」と声をかけてくれた。明美は笑顔を作ってそれに応えながら、心の中では言い返していた。

(違うの、つかまってるんでもないし、無駄話でもないの。とても大切な話なの)

 ロフトに上ると初めて気付く、小さな窓から見た風景。灯也との甘い時間。すべてが愛しい。自分の手でもう一度灯也にスポットライトを当てたい。愛する方法がいくつもあるのならば、それが自分の灯也への愛の形だと思う。

(ガソリンスタンドで病気の店長さんの面倒を見ながら配達をするのは、灯也くんじゃなくてもいい。でも、クロック-クロックの3人がいて、その真ん中で歌っているのは、灯也くんじゃなくちゃいけない。灯也くんが歌いたくないなら仕方がない。でも、きっかけもチャンスもないまま、ただ隠れて生きていてほしくない…)

 明美は毎週日曜日に母親に料理を教わることにした。母親は含み笑いを浮かべて明美をからかった。

「やっぱり、彼氏なんかできると、違うわね」

 明美は「そういうわけじゃないもん」とごまかした。母親は、毎日忙しく過ごす明美が家を空けるうちのいくつかをデートだと思っていた。

 一生懸命慣れない包丁をあやつりながら、明美は自分の行動を矛盾していると思い、淋しさに目を伏せた。

(灯也くんがスポットライトを浴びられる日が来たら、私の手料理なんて、本当に関係のない世界の人になっちゃうのにね…)

 けれど、企画の勉強も料理の修業も、どちらも大切なことだからやめられない。情熱…と、明美は自分で思う。胸の中からわいてくる力の源。いつだってそうだった。広瀬灯也のためなら、自分はどこまでだって変わっていける。そして、その結果もたらされるたくさんのことは、必ず自分を成長させてくれる。黙って机に向かって優等生に生きてきたら手に入らなかったであろう、たくさんのこと。

 灯也がピンクの財布を月明かりにかざしていた景色を思い出す。灯也にもらってからもう6年がたつが、財布はまだどこも傷んでいない。むしろ落ち着いた色合いになり、微妙なつやが加わって美しくなった気がする。

 長野での時間がたまらなく愛しくて、その分だけつらいこともある。けれどその胸の痛みは、明美の中でエネルギーにかわる。

 …広瀬灯也をもう一度クロック・ロックのボーカルとして成功させたい。

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