11.真実
明美は携帯電話のアラームで目覚め、冷蔵庫の中身と昨日買ってきた残りを使って、頑張って朝食を作った。水音で灯也が目を覚ました。
「ゴメンね、起こしちゃった…」
「ああ、いいよ、どうせもうすぐ目覚ましが鳴るよ」
濡れたまま寝て収拾のつかなくなった頭で灯也がはしごを下りてくる。
「何時に出るの?」
「もうすぐ。あと20分」
「えーっ! じゃあ、ごはん食べられないじゃない」
「うーん、十年来、朝飯なんて食ってないな」
「うそー。やだ、健康に悪いよ、遅刻してもいいから食べてってよー」
「着替えに5分、洗面に5分。あと10分あるから、食べるよ」
チャックのついた洋服掛けを開け、灯也はシャツを取り出す。
「こっち見ないでよ、着替えるんだから」
「男の人の着替えなんて見ないもん」
「もう、そんなものが珍しい年頃でもないか」
「えっ! 珍しいよ!」
「じゃあ、見る?」
「…なんか、こうしてると、灯也くんって12歳上なんだなってつくづく思う…」
「言ったでしょ、キミから見たらもうオヤジだよ」
明美がみそ汁をよそっていると、着替えを終えた灯也が流しを占拠した。顔を洗い、醤油やソースと一緒に立ててあるヘアムースで髪を整えて手を洗い、食卓につく。
「朝飯、何年ぶりだろ…。大塚の時も作ってなかったし…。朝収録の弁当くらいだったな」
灯也はしっかり10分で食事を終えた。
「帰るでしょ。鍵、渡しとくから。戸締まりしたら、裏の鉢植えの、造花が咲いてる奴に隠しといて。土と一緒に木が鉢からズボッと抜けるから、鉢の中にね」
靴を履くと、玄関の一段高いところにいる明美の肩に、灯也は冗談めかして軽く腕を回した。
「奥さんいるみたいで楽しかった。ありがと」
あくまでも軽いハグ、挨拶程度。そのまま明美に目を合わせることなく灯也は出ていった。明美は一人で玄関に立ち尽くした。
新幹線の切符は明日の日付だ。もう一日、いてはいけないだろうか。
ここに来た目的は…灯也に抱かれること。そして自分の体がどうなるかを見届けること。
『今おつきあいしている方に対して、あなた自身の感想が希薄ですね』
女医の淡々と話す声を思い出す。ため息とともに明美はへたりこむ。
わかっていた。でもそれは、灯也の存在が特殊だったからだと思っていた。
明美はかぶりを振る。灯也は恋の対象ではない。恋をしたいだけなら灯也の淋しさにつけこんでしまえばいいけれど、望むのはそんなことじゃない。やっぱりクロック・ロックの広瀬灯也を愛しているのだと思う。ここに暮らす一人の青年でなく。
明美は今夜も居座ることに決めた。灯也との未来はない。ならば、灯也にどう思われようと構わない。
(…考えたって、しょうがない)
預かった鍵で戸締まりをして、明美は車を出した。ゆっくり長野を走らせ、景色を楽しみながら、今夜のおかずは何にしようかと考えた。…レパートリーなんてないけれど。
昼の2時に、明美はいろいろ食料を買い込んで灯也の小屋の前へと戻ってきた。食事の支度をはじめるにはいささか早い。夜、灯也が帰ってくるまでの過ごし方を考えながら、明美は重い荷物を全部一気に腕にぶら下げて鍵を開け、それからドアを開けた。
あるはずのない人影が見えて、明美は驚いた。灯也が部屋にぼんやりと立っていた。
「灯也くん、…お仕事は?」
腕の荷物が重くて、明美は勝手に上がり込んで床に野菜をおろした。
「…帰ってきちゃった。配達終わったし」
灯也がゆっくりと言う声にドキッと胸がうずき、それを隠すように明美は声を上げた。
「えーっ、店長さんの送り迎えだってあるんでしょ?」
「俺が休みの時は、奥さんが来てくれるから平気」
明美は所在なくて、袋から野菜を一つずつ取り出しはじめた。どうしてこんなに早く帰ってきたんだろう。
(灯也くん、淋しいから…)
明美は努めて笑顔を作った。
「灯也くん、これどこに仕舞ったらいい?」
「…明美ちゃん、そんなの後でいいよ。なまものだけ仕舞えば、あとはそのままで」
灯也の声が切なくて、明美は灯也に背中を向けて袋の前にうずくまったまま、ギュッと目を閉じた。
「ドライブに行こうよ。…もう、走り慣れちゃったかもしれないけど」
ここにいてはいけないのかもしれないと感じたが、明美はそのまま、灯也と連れだって外に出た。
少し風が冷たいけれど、窓を開けて走る長野の道。景色が開けて道路より標高の低い街が見えると、桜のピンクが所々に見える。東京では散り終えている花が、ここではまだ咲き始めだ。
「私、灯也くんの車に乗るの、これが初めてなんだよね」
「そうだね…東京の頃は、そういうの、難しかったしね」
『東京の頃』…それはクロック・ロックの広瀬灯也だった頃。あれから、本当にいろんなことが変わった。
あてもなく走り回った後、少しお茶を飲み、それから灯也は訊いた。
「善光寺、行った?」
「ううん。そのままレンタカーで走ってきちゃった」
「じゃあ、行こうよ。明美ちゃんと、人のいっぱいいるところを歩きたい。昔みたいに」
「人…、やじゃないの?」
「もう、誰も気付かないよ」
灯也の胸をちくりと痛みが走る。練馬で1時間以上…、眼鏡はかけていたけれど、誰も気付かなかった。でももうそんなのは嘆いても仕方ない。
善光寺は、普通の「大きな寺」のさらに倍くらい大きい。立地のいい観光名所なので人がたくさんいる。どこまで歩いても人だらけだし、どこも善光寺だ。旅行会社の小さな旗を立てたバスガイドさんと、連れられた団体も目立つ。ここからは外かなと、明美が小走りで道の角に行って外側を覗き込むと、その先は別のお堂になっていた。
「広いねー」
「…俺も、こんなに広いとは思ってなかった」
見物だけじゃ失礼だからと、本堂でお参りをした。明美は勇気を出してお賽銭に千円札を引っ張り出した。灯也が月明かりで見ていた財布が気になるけれど、さりげなく出して、さりげなく仕舞った。灯也もしらばっくれていた。
「えいっ」
声を出して気合いを入れて、明美は千円札を賽銭箱に放った。
「うわっ、札入れてる! すごい、俺、明美ちゃんを拝もうかな」
「もー、拝んでるんだから邪魔しないで!」
灯也が投げたのは百円玉。階段を下りながら、灯也は訊いた。
「千円も入れるほど、お願い事があるんだ?」
「うん、それなりにね」
祈ったのは…、灯也がまた、クロック・ロックで歌えますように。
「彼氏とうまくいきますように、とか?」
灯也はわざと、からかうように言った。
「女の子のお願い事がそんなのばっかりだと思わないで。でも、そんなに遠くもないけど」
憧れの人が、好きな仕事でうまくいきますように…。そう遠くない、多分。
「それで千円?」
「…私には、とっても大事なことなの」
灯也の方を見ずに答えた明美の横顔が苦しくて、灯也は目をそらした。彼氏と…別れていないのかもしれない。ケンカをしたとか、それでやけになったとか…。だったら、やっぱり夜、何もしなかったのは正しかったのだろう。
「明美ちゃん、ちょっと疲れちゃった。お茶にして。…午前中、配達頑張っちゃったからさ。…決してトシのせいじゃないんだよ」
「言い訳する方が変だから、普通にお茶にしようって言えばいいのに」
外に縁台が出ている茶屋で、2人は甘酒を飲んだ。
「飲酒、しないんじゃなかったっけ?」
「だって甘酒でしょう?」
「もうアルコールバージンは卒業だ」
「ほんと、なんか、こんなにオヤジだったかなあ…灯也くんって」
「一気に枯れちゃったからね。精神的には、オヤジどころかもう老人。隠居だもん」
明美はそんな灯也を断固スポットライトの中に連れ戻そうと思った。
「ねえ、灯也くん、それで思い出したんだけど。ずっと前、私と一緒に飲もうって選んでくれたワインあったじゃない。私、来月の誕生日にはじめて飲むの、それにしたい。あれはなんていうワインだったの? 教えて」
「えーっ! 別に有名な銘柄とかじゃないから、覚えてないよ。日本の、普通の酒造メーカーが出してる、甘いやつだから」
「じゃあ、選んで。私、せっかく憧れの“クロック・ロックの広瀬灯也さん”にお酒選んでもらって、蹴っちゃったの勿体なかったなあと思ってるの」
「誕生日に一人で手酌で飲むの? …あ、ゴメン。お年頃だもん、一人なんかじゃないか」
「一人で飲む。男の人に選んでもらったの、他の男の人と飲むなんて、悪趣味でしょ」
彼氏はいるのかと、どうしたのかと、遠回しに探りを入れる灯也の言葉を明美はさらりとかわしていく。大人になったな…と灯也は思う。13歳の明美だったら、何を考えているかなんて、ちゃんとした答えがなくたって簡単に見通せたのに。
善光寺を出て、地元の名産品から輸入ものまでそろえている大きな酒屋に向かった。
「二十歳の記念に飲むんだから、酒造メーカーの大衆向けのじゃなくて、ちゃんとしたいいワインにしなよ。明美ちゃんの成人祝いにちょっとフンパツするから」
二人とも、一瞬、一緒に明美の二十歳を祝う姿を思い浮かべた。そして同時に打ち消した。来月のその日に、会っていることはないだろう。
迷ったあげく、店の人にアドバイスしてもらい、二人は綺麗なボトルに入ったロゼワインを選んだ。
灯也の家に帰ると、もう暗くなっていた。
「灯也くん、晩ご飯、どうしようか」
放り出していった野菜のそばに明美はうずくまった。灯也は迷った末、訊いた。
「…帰るの…、大丈夫なの?」
「迷惑だったら帰るよ」
明美は何でもないことのように言った。
「でも、電車とか」
「明日だから。切符」
灯也の気持ちが揺れる。2泊…、その間、何もないと明美が思っていたはずはない。彼氏と手をつないで歩いていた幸福そうな光景から半年、一体何があったのだろう。今すぐにでも抱きしめたい気持ちと、彼氏とはどうしたのと訊きたい気持ちと、このまま明日までを平穏に過ごそうと思う気持ちと…灯也は少年のような迷いに放り込まれた。もっと若い25歳の頃ならば、簡単なことだったはずなのに。
「ねえ、ごはんどうしようか。…昨日のカレー、悪くなっちゃうかな」
明美は平然として見えた。必死で装っているのかもしれないが、一目で嘘だとわかった子供のころとは違う。大人になったと、あらためて灯也は感じた。
「何か食べに行く?」
「勿体ないよ、カレーも、野菜もあるのに」
「明日食べるよ。まだ気温低いから、当分大丈夫。桜も咲き終わってないんだから」
灯也は、知った範囲にあるいくつかの飲食店から、なんとか「東京者」の明美に恥ずかしくないくらいにお洒落なロッジ風のイタリア料理屋を選んだ。そこで本当に“とりあえず”の風情で食事を済ませ、急ぐように帰宅した。
灯也の住む小屋でお茶にすると、二人とも妙にホッとした。
夜の9時半、テレビを見るくらいしかすることがなくなった。明美は昼間買ってきた野菜を下ゆでして、灯也が使いやすいように切って、皿に分けて冷蔵庫に入れた。灯也はロフトに上がってパソコンで書き物をしていた。灯也がこの淋しい長野の小屋で黙々と何年も暮らすことができたのは、書くことをはじめたからだった。クロック・ロック時代のこと、生い立ち、恋愛について、何でも書いた。小説もいくつか書きかけていた。
「灯也くん、お風呂たいちゃってもいい?」
「ああ、うん、…でも、わかる?」
「うちのとほとんど同じだから」
ボタンを押すだけの給湯システムで、お風呂が簡単に沸く。水道水の温度が低いから時間は少しかかるけれど、それでも、割合すぐに。
灯也に声をかけたら、先に入っていいと言われ、明美は戸惑った。お湯を汚さないかととても気を遣うし、このあと灯也が入ると思うとすごく恥ずかしい気がした。それでも「後でいい」と必死で言うのもなんだか恥ずかしくて、気を遣いながら綺麗に風呂に入った。
脱衣所がないのでそろそろと戸を開けて床に置いてあった着替えをつかみ、風呂場でこっそり着替える。明美は自分の恥じらいを滑稽だと思った。自分が今夜、どうするつもりなのか。それを考えると絶望的な気分になるが、この悩みを抱えたまま生きていくのはつらい。
「灯也くん、お風呂ありがとう。入って」
明美が声をかけると、灯也がハシゴを下りてきた。そのシルエットにぼうっとみとれている自分に気付き、明美は、まずい…と思った。
「それじゃ、昨日と同じように、灯也くん出てくるまで茶碗洗ったりして向こう向いてるから」
「興味あったら見てもいいよ。そんなまだるっこしいことしなくても」
「もーほんと最低。お断りです」
明美は慌てて灯也に背中を向けた。灯也が服を脱ぐ衣ずれの音がわずかに部屋に響く。明美の気分としては、すごく気まずい。
湯船の中で灯也は苦笑した。そんなに照れたところで、元々、他人じゃないのに…。
(ねえ、明美ちゃん、キミは一体何しに来たの?)
もう男の思惑もわかっていて、恋人もいて、それで泊まりに来るなんて…。
明美と歩いた午後の時間で、迷いの果てに気持ちは決まっていた。他の男とのもめ事の力になんかなってやれない。去年の9月の再会は、明美にとっては思い出を捨てるための儀式でしかなかった。懐かしいと思った自分が今も滑稽だ。あれから彼氏となにがあったかは知らないが、抱かれるつもりで来たというなら、指一本触れずに帰すまでだ。
灯也の小屋の明かりはすべて消えて、月明かりがわずかに小屋に差し込んでいた。明美はまた、勇気が出ないままベッドに転がっていた。
(…灯也くんに、変な女と思われちゃうんだろうな…。恥知らずなヤツになったって…)
灯也のほうから手を出してくれればと思っていたが、そういう気配はまるでない。ロフトからは何の物音も聞こえてこない。灯也はもう寝ているのだろうと思い、明美は少なからずガッカリした。そして、自分が灯也の行動を当てにしていたことに気がついた。
明美は勇気を振り絞ってベッドを出た。その気配は眠れずにいた灯也の耳に届いた。足音を立てないようにロフトのハシゴのそばに行く気配も、わずかな衣ずれで灯也に届いた。
灯也の心臓が早鐘を打ちはじめた。明美の気配をすぐそばに感じ、灯也は少女のように戸惑いに揺れていた。
明美はロフトをしばらく見上げていたが、やがて、そのままその場に座り込んだ。
(…やっぱりできない…自分からなんて…)
もしかしたら、もう誰とも体を重ねられないのかもしれない。恋をしても、体の関係にたどり着いた瞬間にすべてが終わってしまうのかもしれない。自分の中に問題があるのか、清昭との間に何かがあるのか…真実を知りたい。
でも。…だからって、灯也だったらこんな風に試してもいいのだろうか?
心は揺れても、体はまるで動かなかった。灯也のもとへはどうしてもたどり着けない気がした。悔しいような、悲しいような気持ちで涙があふれ、膝を抱えてうずくまった。
明美の気配が消え、灯也は耳をそばだてた。必死で意識を研ぎすまして明美を探した。かすかにしゃくり上げる音を暗闇の中に見つけた。灯也は掌をギュッと握った。明美の涙の理由を知りたかった。
聞こえないくらい小さな声が、鈴の音のように響いた。
「…灯也くん…」
灯也はハッとした。
「あのね、私ね…男の人、受け入れられないようになっちゃったかもしれない…」
聞こえたけれど、意味がよくわからない。灯也は必死で明美のもとに意識を送り込む。
「できないの。…男の人と、そういうことが。…灯也くんのせいだって言いたいわけじゃないの。…でもね。理由はわかんないの。体が、拒んじゃうの…」
灯也の頭から血の気が引いた。だから明美はここまで来たのだと急速に理解した。
「それでね。…灯也くんと……たらね、…なにか、…わかるかな…って。でも、…いい。明日、帰ります…」
明美は静かに言い終えて、しばらくして立ち上がった。
ベッドが明美の体重できしむ音がした。灯也は死んだように目を開けたままその音を聞いた。朝を迎えたら、明美は何でもない顔をして東京へ帰るのだろう。
灯也は落下するような絶望感に身を任せ、そのまましばらくじっとしていた。そして迷った。明美が望むなら応えたい。けれど、かつての加害者が触れるなんて、許されることなのだろうか。それとも、よく聞こえなかった『灯也くんと……たらね』は、「会ったら」「話をしたら」「過ごしたら」という、他愛のないことなのかもしれない。
ベッドから一瞬だけ、明美の押し殺した声が響いた。
まだ泣いている…。灯也は自分を照らす月の光を掌でさえぎり、目を閉じた。
昨夜、明美はどんな気持ちで眠ったのだろう。2日間の笑顔の裏にどんな苦しみを隠していたんだろう。何もわかっていなかった。他の男とのもめ事だなんて…、その程度のことで、明美がこんなふうに会いに来ると思っていたなんて。
灯也は、そのまま静かに、明美の嗚咽が聞こえなくなるのを待った。