10.月明かり
明美は今すぐにでも踵を返してガソリンスタンドに戻りたかった。帰りがけに行っても、その時に灯也がいなかったら困る。それとも、あるいは、すれ違ったことで灯也が寂しがっているような気がした。だが、とりあえず小鳥の森へ行った。
逸る心をこらえて、明美は小鳥の森を歩いた。ここを歩くのは三度目だ。一回目は清昭と。二回目は一人で、灯也を探しに来たときに。…三度目があるなんて思わなかった。
おみやげ屋でありふれた菓子を買った。ガソリンスタンドでまたさっきの男性が出てきたら渡そう。そして、日を変えてまた行けばいい。明日は灯也が店にいるかもしれない。
夕方4時を回る頃、明美はまたガソリンスタンドにたどり着いた。さっきのミニトラックが止めてある。灯也は中にいる…、そう思った途端、さっきの男性が飛び出してきた。灯也じゃない…そう思ったが、逃げるわけにもいかなかった。
「あの、先ほどはありがとうございました。これ、お礼です。それと…あんまりガソリン、減らなかったんですけど、一応満タンにしてください」
さりげなく装ったものの、やはりスタンドの小屋を気にしてしまう。明美がそっと目を走らせたら、小屋の扉が開いた。
「店長、電話です。そっち、かわりますよ」
帽子を目深にかぶったシルエット…灯也だ。
「あっそうー。ああ、ゴメンね、これありがとうね」
店長は重そうな足取りで小屋へ走り、灯也とすれ違いざまに「満タンね」とだけ伝えた。
かわって灯也が近づいてきて、黙ってガソリンを入れはじめた。ほとんど減っていなかったガソリンは、すぐに満タンになった。料金を告げられ、明美は慌てて財布を出した。
「…今度は、どうしたの?」
金を受け取りながら明美に聞いてくる灯也の表情は微妙にこわばっていた。しかし明美はなんだか照れくさくてまともに顔を見られず、そのことに気付かなかった。
「灯也くん、また、夜の7時よりあとなら大丈夫なの?」
ドキドキしながら明美は言った。灯也は少し黙って、それから答えた。
「前はさ、俺がここの戸締まりしてたんだよね。だから、遅い時間なら絶対俺一人だったんだけど…、今は、ちょっとね」
「ちょっとね?」
「あの人、ちょっと指とかおかしかったでしょ。…病気しちゃって、だから一緒に戸締まりして、俺があの人、車で送ってから帰ってんの。だから、遅くなっても、2人揃ってるか、もう誰もいないか、どっちか」
いささかぶっきらぼうすぎる灯也の言い方に、明美は少し戸惑った。でも灯也が店長の目を気にしているんだろうと思った。
「おーい」
店長が小屋から大声で叫んだ。灯也は顔を上げた。
「電話、切れちゃってるよー。『切れちゃった』っていう電話もかかってこないよー」
「えーっ、そうですかー?」
余計なことを、と灯也は思った。元々、電話なんて嘘だ。明美にそれがわかっては困る。
灯也はずっと明美に腹を立てていた。正しくない、自分勝手な怒りだった。練馬で明美を待ちぼうけていた長い時間と、見てしまった幸福そうな姿。そのことに自分がどれだけ傷つけられたか…。
なのに、明美らしき女性のシルエットが運転席に見える白い車がここに入ってくるのを見たら、ほんの数分の我慢の後、体が勝手に動いていた。鳴ってもいない電話の受話器を外して、店長を呼んだ。そうしてわざわざ明美の前に出てきたのに、灯也はやっぱり釈然としない気持ちを抱いて不機嫌な態度をとっていた。
「灯也くん、…じゃあ、…待っててもダメなの…?」
明美の落胆したような声に、灯也の意地が揺れる。揺れて、揺れて…そして、やっぱり崩れた。
「7時半に来て。店長送ったら、戻ってくるから」
「…うん、わかった」
それだけ言い残して明美は走り去った。灯也はがっくりと膝をつきたい心境だった。「もう、会ってもしょうがない」と言って帰したかったのに…。
(俺も、長野暮らしで落ちぶれたかな…)
明美の現実を見て、みじめな気持ちで長野に帰ってきて、ここからいなくなってしまおうと求人情報を集めはじめた。人目をはばかる気もなくなり、いくらか市街に近いところでもいいと思って仕事を探していたが、その矢先、店長が倒れた。幸い軽かったが、脳溢血で、小さな後遺症が残った。配達の積み込みや車の運転が難しくなった。だから、灯也はまだここにいた。
このガソリンスタンドにいると思い出してしまう。そして、どこかで期待してしまう。また明美が小さな車に乗ってやってくるのを。でも明美は待っても来なかった。当たり前だと灯也は思った。もう大切な人がいるのだから、過去の気まずい記憶なんか一刻も早く忘れ去りたいだろう。そして、だから明美は会いに来たのだと灯也は気づいた。灯也でも明美自身でもなく、他の男のために思い出を清算しに来たのだ。灯也は傷つき、明美に対して屈折した思いをずっと抱いていた。
灯也は時計を見た。なぜ7時半なんて言ってしまったのだろう。明美の相手は店長に任せて、伝票の整理を続けていればよかったのに…。
「広瀬くん、今の女の子がねー、道教えたお礼だってー」
灯也が小屋に戻ると、店長がお茶をいれてくれた。珍しくもない戸隠の温泉饅頭が箱ごとテーブルに置かれた。
一人でここまでやってきて、店長しかいなかった時の明美の心境を思った。ふと、微笑が漏れていた。この饅頭で口実を作って、ここに戻ってきたのだろう。
(今日は、どうしたんだろう)
灯也はもう一度時計を見た。まだ、夜の7時半まで、あと3時間近くあった。
明美は地元の農産物即売所にいた。
(灯也くんって、料理するかなあ。道具とかあるかなあ。…でも、もう一人暮らしも長いんだもん、あるよね)
灯也の家で夕食を作ろうと材料を物色していて、明美はふと思った。勝手に「一人暮らし」と決めつけているが、一体どうなのだろうか。
(そうか…。灯也くんに彼女がいたら、泊めてくれなんて言えないんだ…)
半年と少し前、淋しいと言っていた…、だからって、まだ淋しいとは限らない。
それでも、明美は2人分には多すぎる野菜を買い、車に乗せた。それから、米。炊飯器がなかった場合を考えて、温めるだけのごはんのパックも買った。
周辺の店は、夜にはみんな閉まってしまうだろう。買い忘れがあったら大変だ。念のためにあれもこれも買い込んだ。車の中に積み込まれたものを見て、灯也の家に泊まれなかったらどうするんだろう…と思い、明美は苦笑した。
夜、7時半よりも少し前に、明美はガソリンスタンドにやってきた。敷地には車が入れないようにロープが張ってあったので、少し先の路肩に停めて灯也を待った。それにしても、長野の4月は寒い。東京はとっくに春で、もう桜も散ってしまったのに。
しばらくすると、対向車がハザードを出しながら路肩に停まり、運転席から見覚えのあるシルエットが降りてきた。明美も運転席を出た。
「ゴメン、もう戸締まりしちゃったから。入れなかったでしょ」
シルエットから灯也の声がした。
「あっ、待って、灯也くん」
まっすぐガソリンスタンドに向かおうとした灯也を、明美は呼び止めた。振り返る灯也に小走りでたどり着き、そばに立つと、独特の感情がこみ上げてきた。憧れと、奇跡の感触。灯也の背の高さが、そこにいるという気配が、夢のようだった。
明美はできるだけ重くならないように言った。
「実はね、私ね、…宿がないの」
何気なくて、でも勇気が必要な言葉。
「なんかね、手違いで、ホテルが取れてなかったの。…それでね、今日帰る新幹線も、他のホテルも、みんなとれなくて…」
息苦しくて、明美は息を継ぐ。灯也は立ち尽くしていた。
(何、言ってんの? …意味わからないわけないでしょ? …ちゃんと俺が教えたんだから、子供の頃に)
ここまで来たのに、明美はやっぱり「泊めて」という決定的な言葉は言えなかった。
「あの、灯也くんの住んでる横に車停めさせてもらえれば、それでもいいんだけど…」
それで「も」いいんだけど…そのニュアンスがわからないような子供じゃない。灯也は明美の隠している気持ちが読み取れないまま、一応答えた。
「ここ、山だから冷えるよ。物陰でアイドリングして暖房かけて寝たら、排ガス中毒」
「…うん…、そうなんだけど…」
「俺、ロフトで寝るからいいよ。部屋、全然片付いてないけど…」
やがて、2台の車が縦列になって走りだした。暗い森の脇を抜けると、淋しい木立にまぎれて小さな小屋があった。
「車、そこ停めて」
灯也が運転席から指を出して伝えた。2台の車が横に並んで停まり、同時にサイドブレーキの音がした。
灯也が車を降りると、明美が車の窓を開けて声をかけた。
「…灯也くん、…訊いてもいい?」
「何?」
「一緒に住んでるひととか、いないの?」
その「ひと」に人という字を当てるのか、女という字を当てるのか…。
「全然」
灯也は自虐的な気分で即答した。それを聞いて、明美は運転席を降り、後部座席のドアを開けた。
「運ぶの手伝ってもらってもいい?」
米とじゃがいも、玉ねぎ、にんじんの入った袋をぶらさげたら、明美の手はいっぱいになってしまった。灯也はびっくりして駆け寄った。
「何やってんの?」
「え…、ばんごはん、つくろうと思って…」
灯也は明美の車に潜って荷物を担ぎ出した。笑みが漏れてくるのを止められなかった。味噌、レタス、キャベツ、トマト、ブイヨン、カレールー、ティーバッグの煎茶、ドレッシング、割り箸…。
「…買いすぎじゃないの」
「う、うん…もしもなかったら大変だって思って…」
(車だけ停めさせてなんて、まるっきり嘘じゃん)
じゃあ、お応えしなきゃいけないかな…と思った途端、灯也の胸を記憶がえぐった。
(彼氏はどうしたの?)
以前会いに来たのが彼氏のためだとしたら、今回は? 明美が、彼氏のいる立場で男の部屋に泊まりに来るとはあまり思えない。だったら別れたのだろうか…。
(淋しいから? …そして、多分俺も淋しいから?)
恋が潰えたから、きっと同じく淋しいであろう「昔の男」に会いに来たのか…。
(俺にもプライドがあるけどね…)
据え膳を食わないのも恥かもしれないが、他の男の代替品になるのはまっぴらだ。
じゃあ、明美を無傷で帰してやろう…。灯也はそう思った。
実際、明美の料理の腕はひどいものだった。灯也は途中で明美から包丁を取り上げた。
「明美ちゃんさあ、それでよくばんごはん作るとか、言えたよね?」
「…ごめんなさい…、がんばれば、できないことはないと思って…」
「そのペースで作られたら、俺、飢え死にしちゃうよ。これでも重いものとか配達してるんだからさ。座ってて、俺やるから」
「そんなつもりじゃ…」
「どんなつもりか知らないけど、それじゃ、手伝われたって迷惑だよ」
灯也が手際よく野菜の皮をむいていくのを、明美は背後からぼうっと見ていた。
「上手いね、灯也くん…。料理とか、するんだ…」
台所にはたいがいのものが揃っていた。冷蔵庫にはちゃんと味噌もあったし、米も計量器のついた米びつに入っていた。
「一人暮らし、長いんだよね、これでも。不本意ながら」
灯也は自嘲気味に言った。明美は部屋を見回した。
「部屋…散らかってるね。昔、モデルルームみたいな部屋に住んでたのにね」
そこは、男性の一人暮らしにしてはまあまあだろうが、かつて明美が見ていた「灯也の部屋」に比べたらかなりの散らかり具合だった。
「…ああ、…」
灯也は無表情な背中で言った。明美が振り向くと同時に、灯也は告白した。
「明美ちゃんを呼んでたの、ウイークリーマンションだから。自宅教えたくないでしょ。だからね、キミを引っ張り込むための蜘蛛の巣、あれは」
明美は一生懸命かつての部屋の様子を思い出してみた。言われてみれば、あまりにもものがなすぎたかもしれない。
「怒らないで。カレー美味しく作るから」
冗談を言っているようには聞こえない、静かな声。明美は静かにうつむいた。
「そっか。…特別なことでも、なんでもなかったんだね…」
「謝ったら、また泣いちゃうかもしれないから、謝らないけど」
その言葉に優しさを感じて、明美は顔を上げた。
「ううん、いい。本当にあの頃の私って、バカだったなあって思っただけ」
「13歳はそれが当たり前だよ。俺が汚い大人だったってこと」
明美は灯也の背中を見つめてしばらく立ち尽くしていた。懐かしい…、なぜだろう、とても懐かしい気がする。優しい背中。背中なんて、見つめていた記憶がないのに。なぜか懐かしくて、優しくて、愛しい背中。なんて安らかな時間だろう。
灯也も背後の明美に同じような気配を感じていた。二人の空間が、こんなに心地よい。今までもこんな風に過ごしたことがあったような…。
(彼氏とは、どうしたの? こんなところに来て…)
心の中で訊いて、胸を痛みが刺す。とても口に出しては訊けそうにない。
灯也の包丁の音だけがしばらく二人の間に流れた。そして、それもやがて止み、野菜を煮込むいい匂いがしてきた。
「キャベツ切るから、あとは、サラダ作ってよ」
「私、少しはがんばるから…キャベツも切るよ。サラダくらい全部作るよ」
「やだよ、千切りは細くないとマズイから」
キャベツを刻む軽快な音。
「灯也くん、料理上手いんだね…」
「だから、そうやって、いちいち一人暮らしの身の上を思い知らせないでよ」
「全部、ここで覚えたの?」
「ん、このキャベツの千切りは違うな。以前、トンカツ屋でバイトしてたことがあるから」
「えーっ、いつ、どこで?」
「大学生の頃だよ。町田に住んでたんだ、そこの駅前」
「…灯也くんがトンカツ屋…」
明美は想像して吹き出す。灯也は淡々と応酬する。
「人生経験豊富なのよ、キミよりね」
「あっ、でも! 私ね、今、すっごいハードなアルバイトしてるのよ」
「ハード? おフロ屋さんとか?」
「…お風呂屋さん? …ハードなの?」
「お嬢ちゃん、ハードなおフロ屋は、別名、ソープランドっていうんだよ」
「…灯也くん…」
「おっと、明美ちゃんは下品なのも、オトナのジョークも、苦手だったね」
「…オトナのジョークっていうか…セクハラオヤジだよ…」
「三十だからね、立派なオヤジだよ」
「バイトの話は聞いてくれないの?」
「ちょっとからかっただけだよ。明美ちゃんがバイトなんて、すっごく不思議な気がする。お勉強一辺倒の真面目なお嬢ちゃんだったのに」
「もうそんなの卒業しちゃったもん。雑誌の編集アシスタントやってるんだ、今」
何の雑誌かは言わなかった。クロック-クロックと出会う幸運にはまだ巡り合えそうにない。
「へー、編集! やっぱ知的職業なんだね、優等生」
「…ねえ、その、『優等生』…もう片鱗もないんだから、やめて。だって灯也くんってそれ、絶対、私を愚弄するときにしか使わないんだもん」
「はい、はい。…愚弄ときましたか。さすが知的職業」
キャベツの千切りは見事な細さに仕上がっていて、明美はレタスをちぎってトマトを切り、キャベツと一緒に皿に盛った。明美の役目はそれで終わった。
テレビのリモコンが目の前にあっても、二人とも、使おうとはしなかった。直角に座って、他愛ない話をしながら食事をする。妙な落ち着きが部屋を支配していた。
明美は灯也のあとに風呂を借り、持ってきたパジャマを着た。今夜、脱ぐつもりのパジャマ…。
「ねえ灯也くん、私がロフトでいいよ。ベッドは自分で使ってよ」
「ダメなの、ここには俺の秘密のグッズとか、やばい本とか、不思議なアイテムが満載だから。明美ちゃんは、そのハシゴから上は立入禁止ね」
明美は戸惑った。立入禁止なら、どうやって灯也に迫ったらいいんだろう。
「ゴメン、俺、肉体労働者だから、とっとと寝させてもらうね。下、電気つけて何かやってていいよ。ここは暗いから普通に寝られるし。暖房も一晩中かけるし。加湿器つきで」
明美は持ってきた本を少しだけ読んで、結局は早々に電気を消した。立入禁止と言われたロフト…、でも、上がっていかなければならない。
薄明かりの中、明美は逡巡した。再会してからの灯也との心地よい時間、それが自分がこれからする行為で穢されるような気がする。でも、ここまで来てしまったら迷ってもしようがない。
とにかく立ち上がってハシゴを上る…、そのはずが、シナリオはできたのに体が動かない。ベッドから出られない。初めてじゃないのに…灯也とだって。
途方もなく長い間明美は悩んで、迷って、必死で自分にムチ打って、行動に移そうとした。そして、迷い続けて疲れ果てた。
(…できないよ…)
自分からなんて。しかも、Hがうまくいかないから、他の男を試しに来ただけなんて…。
(無理だ…)
あきらめが増していくにつれ、むなしさがこみ上げてきた。
(灯也くんのせいかもしれないのに…だから、責任とってもらってもいいはずなのに…)
でも、自分から男に体の関係を求めるなんて、プライドがどうしても許さなかった。
やがてかすかに響いたカタンという音に、明美は耳をそばだてた。ロフトのハシゴがきしむ音。灯也だ。明美の心臓が急に焦りだした。灯也の足音が近づいてきた。
(どうしよう…)
でも、それならその方がいい。自分からはどうしても無理だ。灯也の方から…。
灯也の足音は明美のそばを通り過ぎた。
(トイレかな?)
気配はもっと手前で止まった。明美は灯也に気付かれないように、その方向にそろそろと頭を向けた。
隙間のあいたカーテンから月明かりが差し込んでいた。灯也は、その光を頼りにうずくまり、明美のバッグに手を入れた。明美は一瞬、何かを盗むのかと思ったが、すぐに「そんな人じゃない」と思い直した。
じゃあ、何をしようとしているんだろう…、こんな夜中に、月明かりの中で。
明美は息を殺したまま灯也を見つめていた。
灯也が何かを探し当て、そっと抜き出すと月明かりにかざした。
(…お財布だ、…灯也くんにもらった…)
場面がフラッシュバックする。ガソリン代を払うとき、灯也の目の前でこの財布を出した。灯也はそれを、かつての自分のプレゼントではないかと気づいたのだろう。それをそっと確かめに来た…。
灯也はすぐに明美の財布をバッグに戻し、その場でずっと座っていた。明美は、月明かりに浮かび上がる灯也のその背中を抱きしめたいと思った。今、放心したように座っている背中は、何を考えているんだろう…。明美は灯也の孤独を思った。
明美がこの日まで一度も、財布を取り替えようとしなかった理由…。
(だって、…灯也くんはいろんなことを教えてくれた、大切な人だから…)
気付いてはいけないこと。瞬間、清昭を拒んだ本当の理由を感じ取る。
灯也が立ち上がり、また歩いて戻ってきた。明美は寝ているふりをした。
「…ありがとう…」
灯也は明美の枕元に向かって小さな声でつぶやき、またハシゴを上っていった。