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1.傷痕

 人生は、思うようになんていかない。

 親の理想の通りに、真面目に優等生に、しっかり勉強してお利口さんにして暮らしてきても、中学生のうちからそれを思い知ることだってある。


 軒田明美、当時12歳。私立の名門中学校の1年生。

 父親の職業はケーブルテレビ局「T.V.キュービック」のプロデューサー。

 おとなしくて、勉強以外に何もしないような情熱不足な娘を心配した父親は、明美が唯一興味を持っているバンド「クロック・ロック(CLOCK’s ROCK)」のスタジオ収録の時に、明美を見学に呼んでくれた。


 広瀬灯也、当時24歳。日本を席捲するバンド「クロック・ロック(CLOCK’s ROCK)」のボーカル。童顔で可愛い系の見た目に、粗削りながら抜群に上手い歌唱力を武器にして、少女たち、女性たちの憧れを一身に受けていた。

 けれど彼は、バンドの他のメンバーの着実な進化に置いていかれる焦りと、自身の限界を感じるような不安から退廃的な気分になっていた。


 スタジオの隅に、厚ぼったい髪型をして、クソ真面目に中学校の制服を着こなしてこっそり立っている明美を見て、灯也が考えたこと。

 ――何歳からなら、犯罪にならないんだっけ?

 灯也は倦んでいた。憂さ晴らしの妄想で終わるか、あるいはお子様相手の恋愛ゴッコを楽しむか、それとも犯罪に手を染めるか…?


 灯也は明美に声をかけた。そして、使い捨てのつもりで持っていたフリーメールのアドレスを告げ、内緒で連絡を取ろうと言った。

 真面目なだけの優等生なんて、簡単なものだった。


 嵐のような1年間があった。

 それから、5年が過ぎた――


    ***


 春が来て、軒田明美は高校3年生になった。17歳…だけど、5月には18歳になる。

 あれから5年。あのころ、日本で一番と言えるくらいに人気のあったバンド「クロック・ロック」は、もう芸能界にいない。広瀬灯也が世間から姿を消した後、明美は唐突に当たり前の中学生活に引き戻された。灯也に夢中になりすぎて溝ができてしまった友人たちとはクラス替えをきっかけに離れ、新しい友人ができた。灯也に夢中になりすぎて滞っていた勉強も、中学の残り2年間で取り戻した。「優等生」な生活に戻った明美は、元通り普通に真面目な生活をして、有名進学校に進学した。

 高校三年生の今は大学受験を目指して勉強している。ごく当たり前の日常。時折蘇る広瀬灯也との思い出だけが、明美の人生の中に違和感として浮き上がっていた。


 ホームルームの時間にアンケートが配られた。

『高校生の性実態調査アンケート』

 えー、何これ、と声が上がった。担任の女性教師は優しく言った。

「このアンケートは学校でやるものではなく、実態調査を依頼されている団体が集めて集計するだけのものです。学校や先生は誰も見ません。もちろん無記名で、封筒のまま、どれが誰のものかもわからないまま回収します。できるだけ提出してください。期限は三日後までです。共学なので男女交際も多いと思いますが、あくまでも実態調査でしかないので、嘘を書いたり、見栄を張ったりしないでください」

 明美はアンケート用紙を開き、ドキリとした。

『あなたには性交渉の経験がありますか』

 慌ててアンケート用紙を閉じ、半分に折ってすぐにカバンに入れた。

 憂鬱な気持ちで家に帰り、アンケートを開いた。最初は少し無難な質問が続いていたが、まもなく単刀直入な質問がはじまった。

『あなたは何歳くらいであれば、性交渉をしてもよいと思いますか』

 明美は少し考えて、20歳と書いた。本当は…自分は、結婚まではそういうことはいけないと思っていたが、それはどうも古い考え方らしいので、妥協できる年齢を書いた。

『あなたには性交渉の経験がありますか』

 そう、この質問…。明美は悩んだ。事実から言えば、「ある」。…だが、それは非現実の世界の話だ。だって、今、20歳まではダメと書いたばかりだ。

『あると答えた方にお聞きします。それは、何歳の時のことですか』

 13歳。

 あるいは、他にもそんな人はいるのかもしれない。早熟な人たちがいるのは知っている。でも、結婚してからじゃないといけないと思っていた自分も、13歳で経験した。だから、価値観と実際の経験は、別のものなのかもしれない。

 昔は、いわゆる「優等生」な友人たちと一緒になって、「世の中の若者はバカだから、恋愛するとすぐにそういう関係になる」と言って軽蔑していた。だけど、人それぞれ、何か理由や、事情や、状況があるのかもしれない。みんながみんな性にだらしないわけではない…、そんな気がする。自分がそうだったから。

『相手はそのとき何歳の人で、その人とあなたとの関係はどういうものでしたか』

 25歳の人で、関係は…多分、芸能人と一ファン…

 手が迷いに迷って宙を舞う。そして、明美は性交渉の経験「なし」に丸をつけ、具体的な質問は飛ばして先に進んだ。

 それから、援助交際はいけない、周りにそういう人がいたら良くないと思いつつも何も言えない、自分はお金をいくら積まれてもそんなことはしない、将来自分は結婚を前提にして性交渉を行う…明美のアンケートにはそんな回答が書き込まれた。

 アンケートは封筒に入れてきちんと封をして提出するようになっていた。だから本当のことを書いても何ら問題はないはずだった。でも、明美はどうしても、自分がすでに男性と関係をもったことがある事実を飲み込めずにいた。

 すべて覚えている。優しいキスも、温かい重なり合いも、そのあとのことも。灯也のしたこと、自分の感じたいろんな衝撃や驚愕、何もかも。そしてその後、ずっと後ろめたい気持ちを抱きながら生きてきたことも…。

 でも、今も明美の中では「男女交際」なんて特別なことだ。まして、恋が進んで訪れるキスなんて、その先なんて、とんでもないこと。18歳になろうという今になっても恋はまだ憧れにすぎないし、男の子とつきあうどころか、話すのだってあまり得意ではない。

 心は子どものまま、恋愛には処女のまま、体だけがその先の経験を知っていた。事実は事実…、だが灯也との経験は、歴史書で読んだ歴史のように、事実ではあるが何かで読んだだけの出来事のように感じていた。


 明美は文芸部に所属している。一人で創作活動をするのがメインなので、部活と称して集まってもただ遊んだり、しゃべったりするだけだ。そして、夕方には解散する。部員それぞれが帰宅の流れの中で群れからパラパラと散って、人数が減っていく。

「今日は早く帰る?」

 この秋で文芸部の部長を退いた保井清昭が明美に声をかけた。清昭は眼鏡の似合う地味で真面目で温厚な少年で、決してカッコイイと言われる顔ではないが、誰もが好感を持つ優しい顔立ちをしていた。女性から「ここがちょっと」と言われるところがもしあるとしたら、いささか背が低めなことくらいだろう。文芸部の帰りがけ、このターミナル駅まで乗ってくるのは、いつも清昭と明美の2人だけだった。

「ううん、別に、急がないけど…」

 明美は答えた。学園祭の後から、清昭はこうして部活の後、明美に声をかけるようになった。その声に微妙な響きがあることも、それに答える自分の声に同じ響きがあることも、明美は自覚している。

「軒田さんは、いつ引退する?」

「どうしようかな…」

 とりあえず、2人は近くの喫茶店に入った。そうして1時間から2時間話をしてから帰る。なんとなく、暗黙の約束…部活の後はこうして過ごす、という。

「僕は引退するのやめようかな~」

 清昭は、普段自分を「俺」と言っているのに、明美と2人のこの時間だけ一人称が「僕」になる。明美はそんな清昭の不自然な態度に予感めいたものを感じている。けれどそれが「恋愛感情」とよべるほど特別なものなのかどうかは確信がもてない。

 明美が返事をしなかったので、清昭がまた言葉を継いだ。

「引退とかっていちいち、騒ぐほどの部活じゃないもんね。休むのは勝手だし」

「…うん、そうだね…」

 明美は元々口数の少ないおとなしい子だったが、中学の3年間でその度合いは増した。抱いた秘密、そのせいで友達との間にできた溝。そして、誰にも言えない広瀬灯也との思い出が、明美をささやかなことですら人に話せない女の子にしてしまった。

「…軒田さんってさ、…なんでそんなにおとなしいの?」

「え?」

 明美自身は人に壁をつくっている自覚はなかった。ただ、「話したいこと」がないだけだ。

「それとも、僕がつまらないから?」

「そういうんじゃなくて、私、…暗いから」

 わかってはいるものの、人から言われるとやっぱりショックだった。若さも明るさもない自分の性格。でも、もっと前…そう、みんなと「クロック・ロック」に熱中していた頃は、もっともっと、みんなと明るくはしゃいでいたような気がする。

 清昭が明美を気遣った。

「あ、ゴメン、…そうじゃないけど、僕ばっかりしゃべってるなって、いつも思ってるから…。おしゃべり野郎とかって思われてないかなって」

「それは、全然。いろいろ話題があって、すごいなって思ってる…」

 語尾が消えそうになる。これは秘密を持ってしまって以降、明美に染みついたクセだった。話の続きを促されないように、なんとなくフェードアウトできるように。

「だいたい、文芸部の奴なんてみんな基本的に暗いんだから。小説書くのって、部屋にこもって妄想ばっかりしてるわけじゃない? 僕も軒田さんも、ほかの連中も一緒だよ」

 笑顔で、清昭は言ってくれた。

(優しい人だよね…)

 部活の後のこの時間を楽しみにしている…そんな自分を明美は知っている。だけど、その自分の気持ちも、恋心なのかどうか確信がもてない。

「…今の僕らって、どう見えるのかなー」

 清昭の声が少しだけ微妙な響きをたたえて、明美は目を上げた。

「別に、単なる部活の後なのにね。今、変な目で見られたから…でも別に、だからどうだってわけじゃないけど」

 逃げた…と、明美は思った。

「そういえばさ、軒田さんって私立なの、国立なの?」

 清昭の目が不自然に手元に落ちていて、無理に話題を変えたような気がした。少しずつ、降り積もってゆく証拠…多分、もう恋ははじまっている。

「私ね…高校に入ってから、数学がついていけなくなっちゃったの。物理も…。だから、国立は、ダメもと。基本的には私立文系…」

「志望校とか、訊いてもいい?」

「みんなと同じ。ただ、東大は目指さないけど。早稲田、慶応、明治、立教…」

「そんなに、目的はないんだ。志望は学部とかじゃないんだね」

「…あんまり違いがないような気がして…」

 目的は『大学に入りたい』それだけ。きっと普通に就職して、そこそこ勤めたら結婚して、出産とともに退職…そんな人生だろう。熱心に子どもを産みたいわけじゃないけれど、産まなかったらきっと後悔する。だから、出産から逆算するとそんなところ。ものすごいキャリアがほしいわけでもない。普通の家庭で普通に幸せに暮らせばいい…。

 時々、自分で「普通」を連呼しすぎると、灯也のことを思い出す。

『歌って踊れる小説家になりたい、小説の挿絵も自分で描いて、それを舞台にして自分が演出やりたい、主演も自分がやるんだ…とか言って、スクールで歌とダンスやって、文学勉強しながら小説書いて、絵も勉強してスケッチ旅行とか行って、舞台見に行って、劇団入って、全部やる』

 昔小説家になりたかった、という話をしてくれた時の灯也の声がこだまする。5つやってみたら2つできるかもしれない――懐かしい記憶の中で憧れの笑顔が揺れる。

「軒田さん、あのね、気を悪くしないで」

 清昭の声に、明美は現実へ引き戻された。

「時々、軒田さんの意識って、どこかに行っちゃうよね? みんなでいる時も、いつの間にか外を見てたりして…」

 ああ、この人は、私を見ているんだ…と明美は思った。灯也のことを思い出すのは、そんなにしょっちゅうではない。でも清昭は気づいている。

「いつも、そういう瞬間って、キミが何を考えてるんだろうって思うんだ。それに、そういう、進路のこととかも学部選びとか消極的で…あっ、ゴメン、どことなく消極的に見えるってだけなんだけど…」

 少し気を遣うようにして、清昭は続けた。

「なんか、軒田さんって、植物、みたいだよね」

 明美はぼんやりと聞いていた。植物…なるほど、そんなものかもしれない。ささやかに咲いて生き延びていればいい。動き回る気もないし、何かになりたいわけでもない。ここにいて、予定どおりの花を咲かせて、寿命が来たら枯れる…。

「ゴメン、気を悪くした?」

「あ、ううん…うまいこと言うんだなって」

「でもさ、そういう人ってなんだか気になるよね、不思議だなって…物静かで、控えめで、自分の世界があるんだなって思うけど、そういう中に僕は入れないのかなって…ちょっとね、思ったりもするよね」

 あるいは、これは思いを伝える言葉なのかもしれない。でも確信を持つことができない。もしもそうなら、ハッキリと好きだと言ってほしい。明美はじっと待っていた。

「…あ、なんか、変なこと言う奴だって思われたね。時々、僕、女の子に変なこと言っちゃうんだよね」

 妙に明るく世間話にして、また、逃げた。明美は少し失望した。

「でも、私が植物っぽいっていうのは、そうだと思う。全体的に、ぼうっとしてるから」

 清昭は、自分の投げたアプローチに明美が気付かなかったと思い、ちょっと残念に思いながらも安堵した。

 そのまま、穏やかに明美の高校3年生も過ぎていった。清昭とは、部活で顔を合わせることが減った代わりに、時折2人で出掛けるようになった。けれど、それが恋なのかそうじゃないのかという定義はずっと保留のままだった。


 明美も清昭もそれなりの大学に合格して、3月の末に、文芸部卒業生は卒業旅行に出掛けた。行き先は長野県・戸隠だった。

 明美は、宿の女子部員の部屋で仲間たちにつつかれた。

「保井くんとは、どうなったの?」

 誰にも清昭のことを言っていなかったので、明美は驚いた。

「どうしてそんなこと訊くの?」

「何言ってんの、みんな気付いてるよ」

 態度を見ていれば、誰でもわかるという。

「どっちの態度で? 私、変だった?」

「ううん、あっち」

 それでどうよ、と訊かれても明美は答えられなかった。どうなんだろう。

「時々、2人で出掛けたりはするけど…それだけ」

「でも、それって特別な関係じゃん」

「それは、そうかもしれないけど…」

「じゃあさ、質問を変えるけど、明美って保井くんのことはどうなの?」

 どうなんだろう。

 多分、とても好意をもっている…と明美は思った。だけど、それは恋なんだろうか。

「やばい、悩んでる」

「保井の片想いか、これは?」

 文芸部の卒業生仲間の女子4人は顔を見合わせた。明美は慎重に否定した。

「…ううん、好意はもってる、すごく。…でも、わかんない、このぐらいの『好き』って、恋愛感情なのかな?」

 明美はまた、灯也のことを思い出してしまった。灯也と過ごした時の自分はもっと情熱的だった。会いたくて、切なくて、淋しくて、何を失ってもいいと思っていた。その感覚がふと蘇り、清昭への想いとつい比較していた。

「好きって言ったら、確かに好きなのかもしれないけど…」

 明美は首をかしげながら言った。仲間たちも、首をかしげながら聞いていた。


 翌日明美は、物陰で、彼女たちと当の清昭がひそひそ話をしている場面を見かけた。前日の質問は多分、明美の気持ちを聞いてくれるように、清昭が頼んだのだろう。

(…私の気持ちを伝えてくれるなら、それはそれで…いいのかもしれない)

 好意はある。一緒にいて楽しいと思う。恋になってもいいと思う。灯也への特殊な情熱を基準にしていたら、永遠に恋ができなくなってしまう。灯也は、出会うことすら奇跡のような、天の上の憧れの人だったのだから…。

 皆で「小鳥の森」へ行った時、清昭が明美に声をかけてきた。どうやら周りはすでに二人の状況を把握しているらしく、そそくさと去っていった。明美も、卒業をきっかけに清昭が何か言ってくれるのを待っていた。だから周りのお膳立ても悪い気はしなかった。

「…なんか、みんな、行っちゃったね」

 清昭はややわざとらしく気まずそうに言った。明美は、一応話を合わせた。

「はぐれちゃって、まずいかな?」

 案の定、清昭はそう困ってはいなかった。

「集合の時間と場所はわかってるし…。大丈夫じゃない?」

 二人は並んで歩きだした。

「あのさあ、軒田さん」

 雰囲気を砕氷する清昭の言葉に、明美はドキッと息を止めた。

「卒業しても、時間があるとき、一緒にどこか出掛けたりしない?」

 声が緊張を隠しきれなかった。明美は、このまま清昭が、好きだと、つきあおうと言ってくれれば、OKしようと思った。

 でも、結局、清昭は決定的なことを言わなかった。言い訳がましく、大学生になったから高校の仲間と切れてしまうのは淋しい…などと繰り返した。

「電話とか、するかもしれないけど…軒田さんも、時々誘ってよ」

 それならそれでいいのかもしれない。微妙な関係も、くすぐったくて気持ちいい。

「…うん、それは、いいよ。…私でつまんなくなければ」

 明美がそう答えると、清昭は、

「ありがとう、これからも、よろしくね」

 と言って明美の背中に一瞬、触れた。肩を抱こうとしたような、それが途中で止まって肩甲骨の間を軽く触れただけの掌。明美の顔色が一瞬変わったのを清昭は読みとったようだった。

「あ、ゴメン、僕、『よろしくね』って言うとき、ついこうやっちゃうんだよね…クセで。変な意味じゃないんだよ、ホント」

 清昭が誰かにそんな風にするのを見たことはない。多分言い訳だと思いながら、でも明美は笑顔でそれをさっと流した。

(今日は驚いちゃったけど…でも、あのまま肩を抱かれたとして、他の部員のいないところだったら、構わなかったかもしれない)

 ドキドキしながら、こんな風に一歩ずつ恋になっていくなんて、明美には初めての経験だった。


 帰りのバスにたどりつくと、先に戻った女子部員4人はもう座っていた。

「明美、補助席来なよ」

「あ、いいよ、一人で」

 なんとなく考え事をしたくて、明美は一人で座って窓の外に目をやった。

 18歳は、多分、恋のひとつくらいしていてしかるべき年頃…と明美は思った。好きだと思える人と、こうして近づきながら過ごしていくのは心地よい。さっきだって、好きだと言ってほしかった。つきあってほしいと言ってほしかった。

 ただ…これは、多分、忘れてしまえばいいんだろうけれど。

 好きな人の肩に触れるのすら大変な清昭と、13歳で初体験を済ませてしまった自分…。もちろん、明美自身も男の子に肩(の近く)に触れられただけで大変なことだと思っている。だから、「まだ恋に無知で未熟な2人」なのだと、自分でも思えばいい。だけど…。

 事実は消えない。もしかしたら、いつか、自分にとっくに男性経験があるということがお互いを傷つけることになるんじゃないだろうか…。

 でも、それを気にしても仕方がない。成り行きに任せるしかない。

(…灯也くん、…あなたが私に残した刻印は、私にとっては重すぎるものなんだよ…)

 バスの窓の夕日に向かって呼びかけた。でも、灯也のせいでは決してないのだとも、明美は思っていた。「帰れ」と言われたのに、逃げなかったのは自分だ。灯也を恨んではいない。極力目をそむけていたけれど、灯也が別れた女優を妊娠させて、そこから広がった訴訟の騒動の中で、灯也の女性関係が裁判で多数あげつらわれたこともちゃんと知っている。だから自分もその「遊び」の一環だったんだろうと、明美ももう、今は思っている。でも「それだけじゃなかった」と言った灯也の言葉を、心のどこかで信じてもいた。

 灯也が時折吐く、怒りを底に隠したような言葉がたくさん記憶に残っていた。仕事について、きっと誰にも言えない本音を言ってくれたことがあった。中学生にはどうせわからないと、明美が灯也と会っていることを誰にも言えるわけがないと、閉ざされた二人だけの空間だからと安心して、本気で接してくれたこともたくさんあったと思う。

 今でも耳に残る切ない声。言葉。

『10年か…。そのくらい、俺も、いろんな恋愛したり…いろんな無茶やったりして、幼稚に生きていたかったな…』

 結婚しなければ社会が許さないと、自分を必死で納得させようとしていた灯也。だが運命は灯也の結婚を阻んだ。マネージャーともみ合って倒れた女優が流産して、結果、責任を取ったのは灯也でなくマネージャーだった。でも、あの日の後のことはマスコミの報道でしか知らない。灯也がどう思い、何を考えて姿を消したのか、わからない。

 灯也は今どこにいるのだろう。芸能界から消えて…それからしばらくは、マスコミも行方を探していたけれど、次第に騒動も下火になっていった。

 残されたバンドのメンバーは3人。リーダーでキーボードの垣口里留は几帳面で面倒見のいい好青年。ドラムの青森孝司はエキセントリックでミステリアスな色白の無表情が不思議な魅力を放つ。ギターの小淵沢周はメガネに黒髪、知的な風貌で、清潔そうな真っ白なシャツが似合う。灯也が消えた後、彼らは元々大学時代から結成していたインストゥルメンタルのバンド「クロック-クロック」として芸能界に残った。

 彼らは灯也についてどんなに問われても「ノーコメント」を通した。彼らの態度に、灯也への怒りや恨みはどこにも見えなかった。

 彼ら「クロック-クロック」の曲は、「クロック・ロック」のときにも発表していたインストゥルメンタルの曲とは明らかに作風が違う。明美には、彼らがまだ灯也を待っているように見えた。

(灯也くん)

 明美は、時々心の中で灯也を呼んでしまう。恋愛じゃなかった…だけど、だったらどういう関係だったんだろう。手の届かないはずだった憧れの人と過ごせた時間。そして、残ったものは…キス、そして、体の刻印。

 自分が子供すぎて、何もわからず突っ走って、無茶をしすぎたとは思う。無我夢中で、灯也以外のものはすべてどうでもよかった。両親も、友人も、自分自身も…。

(灯也くんは今、どこにいるんだろう…)

 最後に会った日、まだ歌いたいと言っていた。灯也にとってステージで歌うことは何より大切だったはずだ。でも、今、灯也は芸能界にいない。

 明美は12歳の歳の差を計算した。自分は18歳。だとしたら、灯也は30歳。どこにいるんだろう。何をやっているんだろう。

 灯也が消えてから、明美が変わったところが一つ、ハッキリとある。

 それまで明美はすれ違う人や雑踏を行き交う人々の顔なんか見なかった。でも、今は、一人一人の顔を見る。それが広瀬灯也だったら、決して見つけ損なうことのないように…。


 明美が物思いにふけっていると、笛の音がして、バスが止まった。

(…ああ、まだ、卒業旅行の最中だったっけ…)

 外はもう暗くなり始めている。宿に着いたらすぐに食事だろう。明美は背もたれにあずけていた体を起こした。しかし、到着ではなさそうだった。

「落石だって」と、前の方に座っている別の客たちが言い合う声が聞こえる。運転手と警察がやりとりする声が聞こえて、後方の客も耳をそばだてた。

 バスの運転手がマイクを通してぼそりと言った。

「落石事故のため、迂回します。到着は20分遅れます」

 明美はまた浅く腰掛け、ゆったりと座り直した。バスが少しバックして、別の道へと逸れた。迂回路はバスには少し狭く、しかも信号が少なくて不便だった。地元の警察が交通整理に立っていた。明美たちの乗ったバスは、路地を抜けた先の小さな交差点でしばらく足止めされた。

 少し先に、小さくて汚いガソリンスタンドが見えた。バスの前の5台がまず通され、一度止められた。明美は見るともなしにガソリンスタンドを見ていた。バスの後ろにつけていた車が、ついでと思ったのか、道をそれて空き地に乗り上げてガソリンスタンドに入っていった。小さな小屋の中から従業員が飛び出してきた。

 明美は目を疑った。灰色のつなぎを着て、帽子をかぶった眼鏡の男性…。

(灯也くん…)

 そんなはずはない。でも、野暮ったい前髪に眼鏡…そんな灯也の姿を、明美は見慣れている。必死に凝視したが、夕暮れの光と薄暗い蛍光灯だけではわからない。

(だって、こんなところのガソリンスタンドなんて…)

 普段は地元の人しか使わないような道だ。一部の人さえ広瀬灯也と気付かなければ、静かに暮らしていられるんじゃないか…。

 必死に身を乗り出して目をこらす明美を乗せたまま、無情にもバスは発車した。そしてそのままはるか先の宿へと去っていった。

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