絹と木綿
『私のこと、絹って言って……』
『木綿、僕には好きな奴がいるんだ……』
ふいに脳裏に響いた会話に、私はあたりを見回した。
手元を見ると、丁度夕飯の準備中であった、鍋にはたっぷりの白菜と肉、それから春雨がぐつぐつと煮えていた。
確かに、ごめんと木綿は似ている。
しかし、好きと絹はあまり似ていない。
だが――と私は思う。
豆腐。あの四角くてやわらかい、一度毀れたらもとには戻らない食べ物。
陶磁器よりも生クリームでナッペしたスポンジケーキよりも、濡れ濡れとしてつやつや輝きぷるんぷるん、ぷるるるるん……。
私は火加減を弱くして、冷蔵庫を開けた。
目的はただ一つ、豆腐を探すためである。
しかし、豆腐料理というのは季節を問わず豊富であって、夏はゴーヤーチャンプルーや冷や奴、寒くなってくれば湯豆腐やら鍋料理、いつでもご飯が山盛り食べられる麻婆豆腐、味噌汁の具だって豆腐はレギュラーメンバーだ。
しかしゴーヤーチャンプルーは木綿、麻婆豆腐は絹、そう、似ているようで相容れぬ溝がそこにはある。
木綿の荒々しく、ざらついた白い肌。ところどころ散った茶色いシミは、中年女の弛んだ腹みたいな魅力がある。
都会の女ではない。田舎のよく働く女の手、日焼けの後が濃い後ろ首、対照的に隠された部分の白さ。白と言ってもやはり手入れはずさんで、孕んで膨張した腹に肉割れの残っている様子などが、大変趣がある。
そういう中年女の、肉欲に躊躇ないところや、逞しく生活していくところ、ふとした折に見せる恥じらい……そんなものが、木綿豆腐には詰まっている。
だから、絹はごめんって言われてもしょうがない。
いやいや、そう結論づけるのはまだ早かろう。豆腐の美しさというのは前述の通り、豆腐と言えば十中八九絹を思い浮かべるだろうから、絹の素晴らしさはあげつらうことでもなく、当然のことなのだ。
包丁を入れて切れば、あんなにも柔らかいのに、角はつんとして一分の隙もない。
砂で四角を作れば端から崩れる。ましてや切ったりすれば、全体が形を失う。けれど、あの絹というのは、何度切られても、あの瑞々しい頑なさを失わない。
繊細で脆いはずなのに、絹は毅然とした頑なさと、凜とした美しさを失わない。それはまるで殉教者のような、清らかなまま時をさ迷う少女のような――。
絹と言って、そう懇願する気持ちもよくわかる。
おお、絹! お前を呼ぼう! 世界の果てまで聞こえる大声で!
木綿! お前を求め私は旅立とう! 未来へ!
『私のこと、好きって言って……』
私は声なき声に応える。絹、木綿、私は……。
『ごめん、僕には……』
「好きだよ、春雨……」
鍋はぐつぐつ煮えている。
冷蔵庫に豆腐は、絹も木綿もなかった。