アサリ
ちょっと聞いてくれよ。そんなに時間は取らせない。
それは一昨日、いや、昨日から始まったんだ。
俺はしくじった。昨夜、帰ってくるなり、コートも手袋もそのままで冷蔵庫を開けた。
目当てのパックはすぐに見つかった。アサリ、200円以下の特売につい買ってしまったこれは、一昨日から冷蔵庫にある。そう、砂抜きを忘れられたままで――。
「くそっ! 死んじまったか!?」
急いでラップをむしり取る。一ミリほど口をあけたアサリが目に入ったが、これは死んでいるのか、死んでいるとしたらまさに……安物買いの銭失いだ。
俺は、ゴミ箱にアサリを直行させるべきか迷う。しかし、ゴミ捨てまでは日がある。魚介の生ゴミの匂いはやばい――。
俺は、ホームセンターで以前買ったバットを取り出した。底に網を引く。
「……ちっ、また塩分濃度を忘れちまったぜ!!」
慌ててスマホでググる。クックなパッドを参照して、水500に対し塩大さじ一杯。それをバッドの中で溶かす。網が邪魔だ。
「全く胸くそわりぃぜ。何でこんなやっかいなお荷物引き受けちまったんだ」
自分で引き受けたこととはいえ、やりきれない。
俺は死体に砂抜きをしているのかもしれない。
そして、俺は疲れた身体をベッドに横たえた。
バッドの網は、アサリが塩水につかりきらないための工夫だ。上から新聞紙を重ねて置いてやる。アサリは暗くするとよく潮を吐く。これも、生きていれば、の話だ。
あとはもう待つしかない。
夜が明けた。
俺は引きこもりらしく、ネット小説を読んだり、落書きをしたりして貴重な休日を潰していく。そう、貴重な休日だというのに、俺の頭の隅から離れないアサリ。午前中は、確認できないまま時間が過ぎた。
俺は――怯えていたのかもしれない。
半日ほど経って、やっと、俺はバッドの上の新聞紙をそっと捲った。
「な、なんだって……!!」
奴らは死んでなどいなかった。調子よく二枚貝は開き、中から二本のストローが出ている。出水管と吸水管……だったかな。
「お前ら、生きてたのか……」
俺が新聞紙を捲った瞬間、びっくりしたのだろう、奴らは頭を引っ込めた。
「ふふ、たっぷり吐けよ」
俺は新聞紙を戻した。
そんなことを午後中繰り返した。
新聞紙を捲る度に、奴らは大胆に自分の殻からさらけ出してくる。
「ふっ……じゃじゃ馬どもめ」
もう新聞紙を捲ったくらいではびくともしない。この一日で、育ったのでは無いかと思うくらいだ。
「今日は……味噌汁にするか」
俺の胸が痛む。
冷蔵庫を開けたときから始まった俺達のトウェンティーフォー。その幕を下ろすのは俺なのか。いっそ、お前達を海に帰すべきなのか――。
俺は新聞紙を取り除いた。
みんな殻から顔を出している。なになに? と俺に無邪気に問うような。
俺は固く目をつぶった。
やるんだ。今しか、ない。
バッドを流しにおいた瞬間、奴らは一斉に回に引きこもった。この時、俺を襲ったのは失望だった。
何だ、結局お前らは、俺から逃げていくんじゃないか!
俺を拒絶するんじゃないか!!
水を流し出すと、それはより顕著になった。奴らはもう石と一緒だ。
「ははっ……もう、……おしまいだぜ……」
水をざんざん流して貝殻を擦り合わせて汚れを出す。
水を切って小鍋に移すと、俺は上から料理酒を振りかけた。
「うまいか? 最期の酒だ……たっぷり飲めよ」
タマネギを切った訳でもないのに、やけに目がしみるぜ。
蓋をして、小鍋を火に掛ける。
すぐに、永訣の時はやってきた。
かんかんと高い音を立てながら――これは、勢いよく開く貝と貝がぶつかる音だ――ひとつひとつ、口を開けていくアサリ達。
「……あばよ。俺を、恨むがいいさ……」
三分も蒸せばできあがりだ。
俺は蓋を開けて、アサリをひとつひとつ菜箸で取り出す。
「……こんなに、小さかったんだな」
バットではみ出していたときはあんなに大きく見えた実は、すっかり縮んで固くなっていた。
「……アサリ……!!」
取り出した後は、小鍋に適宜水を増やし、一煮立ちさせたあと、味噌を入れる。味噌を入れた後加熱すると風味が飛ぶからやめておけ。
それから、アサリを小鍋に戻して、アサリの味噌汁はできあがりだ。
「お前達の死、無駄にはしないぜ……」
これから、俺はアサリの味噌汁を飲む。
そこのあんた、俺とアサリの話を聞いてくれてありがとう。
おしまいに、いいことを教えてやるよ。
俺はな、アサリを含め、貝類が苦手だ。