『人の心の内を見ることができます』作・壁訴訟
校舎の最上階の隅っこに秘境のように臨在している音楽室から、ピアノのきれいな音色が聞こえてきて、自分が歩みを進めるに連れて音がだんだん近づいてきて、そのピアノが奏でるメロディがラヴァース・コンチェルトであるとわかった。
貴之は筆箱だけ片手に持って、ピアノの穏やかなメロディが流れる音楽室に入った。
4月の中旬、新しい学年に移りクラス替えしたばかりのこの時期は、ちょうど季節の変わり目に重なって、教室が浮ついたような、どっちつかずの雰囲気になっている気がする。高校2年になった貴之は、去年から同じ部活動で仲の良かった生徒と同じクラスだったので、ひとまずその生徒たちとつるんでここ数日を過ごしている。
音楽室の重厚なピアノの前の椅子に腰を据えていた人物が、ちょうど貴之たちが音楽室に足を入れた頃、既に多くの生徒が授業の準備を整えていることを確認して鍵盤を叩く手を止めた。
彼が今年の音楽の先生か。去年までの先生は異動になったのだな。などと生徒たちはそれぞれ思った。
始業を報せるチャイムが鳴った。今日の最終講義、6限目の始まりだ。
この新しい先生の出方を待つようにして、生徒たちは私語を交わすのをやめ、席に着いた。
「号令係はいますね。号令をお願いします。」と新しい先生は言った。号令係の生徒が号令をかけた。
始業の礼をして席に座ると、新しい先生が話し始めた。
「はい。みなさん、こんにちは。私が新しくこの学校の音楽の授業を受け持つことになりました、白川です。はい。よろしくお願いします。」
そつのない話し方だ。無駄な空白のない、間延びしたような感じのないテキパキとした口調だが、急いでいる感じや威圧感は受けない。
生徒たちが、よろしくお願いしますと返した。それぞれの小さな声が全員分集まってようやく教壇まで届くくらいの音量だ。
白川先生は生徒たちのそんな反応に、恐らく困ったなあという意味で、軽く微笑んだ。少し端の上がった細い眉毛と、その下に二本平行に引かれた線の様な細い目は、だが動きを見せない。軽いパーマがきれいに当てられた肩まで伸びる髪の毛はセンターで分けられ、その眉と目にはかかっていない。
白川先生は続けた。
「はい、簡単な自己紹介をします。私の専門の楽器はピアノです。音楽科の教員として他の楽器もそれなりに演奏することはできますが、皆さんに披露できるできるほどの腕はありません。ピアノでは、はい、若い時はピアニストを目指していた時期もありましたから、ショパン国際ピアノコンクールというコンクールで賞を獲得したこともあります。そんなこと言ってもわかりませんよね。はい、帰ったら是非調べてみてください。」
生徒たちが軽く笑った。白川先生は続けた。
「そうですね、あと一つ、私についてのおもしろい情報を伝えておきます。」と言って白川先生は唇をなめた。
「私は、人の心の内を見ることができます。」
静かな音楽室は一転、生徒たちの騒めきと、笑いに包まれた。
白川先生はまた、唇だけで笑った。少し端の上がった眉と、その下に引かれた二本の平行な目は動かない。
騒ついた教室の中で手持ちぶたさに白川先生を眺めていた貴之に、横の席に座っている生徒が話しかけてきた。
「めっちゃおもしろいなあの先生」
「そうだね。」と貴之は笑って返したが、白川先生が醸し出すそれらしい雰囲気に関心していた。それらしい雰囲気というのは、あたかも本当に人の心の内を読むことができる能力者のような雰囲気に見えるということだ。
貴之は教壇に視線を戻した。
それから再び視線を動かし、窓際の神田理依子を見た。彼女は机に肘を置き、両手で頬杖をつくような格好で白川先生を眺めていた。
白川先生が再び話し出した。
「ですから皆さん、私は今例えば、はい、あなたの考えていることがわかりますよ。」
そう言って白川先生は、生徒たちを舐めるように見回した。
生徒たちは目を逸らしたり、周りの生徒とはしゃぎ合ったりした。
貴之は神田理依子を見ていた。神田理依子は、クリスマスの朝に枕元に置かれていた、自分が希望していたものとは違うプレゼントを眺めている子供のような、不満そうな目で白川先生を眺めていた。
貴之が神田理依子を見つめている間に、白川先生の自己紹介が終わったらしい。白川先生は、生徒たちに音楽の教科書を配り始めた。貴之も神田理依子も、配られた教科書に名前を書いた。