⑨
心が納豆臭云々(うんぬん)は見えない棚に上げといて、
つまり沙羅さんがここにいる謎解きをすればここから出してくれる――
そう龍女は告げているのであろうか。
なぜに沙羅さんについてなのかが気になるところだったが、
蛇巫である彼女となにか因縁でもあるのだろうか。
そりゃあ沙羅さんの身体に憑依して神である、
龍女のお告げを村人たちに伝えていた以上、
関係がまったくないとは言い切れないけれど、
人のプライベートまではさすがの龍女も、
首を突っ込んでこないのではないか……と訝しむ反面、
実は相当首を突っ込んでいる可能性もある。
宇藤の言うように、龍女を見張る沙羅さんへの恨みもあるのかもしれないし、
第一あの慎ましく穏やかで私の腕よりも細い華奢な沙羅さんに、
この高圧的な龍なのか蛇なのか不明な巨体を、
御することなんて無理ではないか。
どうにも信じられない。
見えない力が働いているということなのか。
うーむ……頭いたっ。
やっぱり考えるのは苦手。
緩慢に宇藤に視線を転じると、彼は絶賛・思考中の体だ。
他人よりしわの多そうな『脳みそ宇宙』の只中を、
悦に浸りながら漂っていることだろう。
それでも啓示が降りることも妙案が浮かぶこともないのか、
宇藤は一向に渋面を崩そうとしなかった。
だが、代わりにその啓示は、
この私の上に突として舞い降りてきたのだった。
私はふと、
稚津彦が無遠慮かつ厚かましく述べていた天邪鬼の一件を思い出す。
あの時彼は、私と龍女の性格がそっくりだと吐露していた。
つまり素直ではないと……。
私と龍女を置き換えてみると、
なるほど、自分がよく見えた気がする……というのはウソで、
姿形からしてどこが似てんのよ!
と、青筋を立ててこの件は終了した。
龍女が割れた舌をチロチロさせながらゆっくりとうごめいた。
トグロがネチネチと納豆みたいな粘っこい音を反響させる。
極力視界に入れないよう、
私は「明日晴れるかな」と差し障りない話題投下で、
あさっての方向を向いた。
「わらわは気が短い。『みそ』を数え終わる間に答えねば出直すがよい」
「みそ?」
「三十のことだ。三十歳台の人間を三十路って呼ぶだろ」
単純に味噌を思い浮かべた私に代わって、
解説要員の宇藤が丁寧に薀蓄を垂れてくれる。
――ふーん三十ねぇ……って、みじかっ!
私の二百メートル走の速さといい勝負じゃないの!
これは確かに気が短そうだ。だけど焦ってしまっては混乱を招くだけ。
ここは落ち着いて――私も情報を整理し始めた。
宇藤の教えてくれた伝説を鑑みるに、
顕現池に棲む龍女が山の麓に住む若者に叶わぬ恋をして、
それを嘆いて水を涸らしたって言っていた。
稚津彦始め、結婚した相手や二人を祝福した村人たちを恨んで復讐した。
その伝説のとおりであるならば、
恋する龍女の気持ちもわからなくもないけど、
どんだけ自分勝手なんだろうとは思う。
けれど稚津彦が蛇巫の沙羅さんと、
立場上一緒になれなかったのは推測できる。
その役目をまっとうせんと、稚津彦の幸せや、
村人のため沙羅さんがこの顕現界で龍女を監視しているって話もわかる。
でもそれだけではない、もっと深い他の理由があるとすれば――
「とをあまりここのつ、とをあまりやっつ、とをあまりななつ……」
おそらく「十九、十八、十七……」と、
昔の数え方でカウントダウンしているのだろう。
そんな龍女を気にせず、「天邪鬼、憑依、恨み……」と、
ほぼ先輩しか占めていない、しわも少なそうな『脳みそ宇宙』の只中を、
愛の劇場を妄想する暇もないほど答えを探し続ける。
私は再びここで自分と龍女を置き換えてみることにした。
つまり私が龍女で、稚津彦が先輩だったとしたら……確かに気が狂う――、
そう期待してみたが、どういうわけかあまり気が狂わなかった。
どころか、まったく気にさえならなかった。
――え、どういうこと……?
そんな場合ではないと知りながらも、急遽、
代役に宇藤を抜擢、配置してみることにする。
すると今度は猛烈な悲しさが襲ってきた。
この世から消えてしまいたくなるほどに。
ななななんで!?
別の意味で一時的に気が狂いかけた。
「この世から消えたくなる……? ――あっ!」
宇藤に対する脳の間違えた認識は丸ごと押しやって、
突然降り注いだ閃きにパッと視界が開けた気がした。
自分の思考空間から帰還した宇藤が驚いて私の方を見るが、
龍女もまばたきしない目玉でギョロリと私を注視した。
それでもカウントダウンは止まらない。
「よぉ、みぃ、ふぅ……」
「――もしかしてあなた、沙羅さん!?」
「なっ……!?」
口をパッカリ開けた宇藤が言葉にならない声を上げた。
刹那、龍女は、口角を吊り上げてニタリと笑ってみせる。
ぶ、不気味……。
カウントもギリギリ一秒前に停止した。
「山上、本気で言ってんのかよ? こいつが沙羅さんだって?」
信じられないのは私も一緒だ。
だけど、その方が沙羅さんがここにとどまる理由もしっくりくるのだ。
「龍女と蛇巫の入れ物の交換よ。
多分、龍女が沙羅さんの肉体に憑依した時、
なんらかのアクシデントが起きて、
そのまま入れ替わってしまったんだと思うの。
戻ろうにも戻れなくなってしまった……」
「……つまり、沙羅さんの身体に入っているのが、
本当の龍女・探女ってことか?」
凛と佇む私は宇藤に向かって首肯する。
いつもと立場が逆転しているこの状況に、私の心は晴れがましい。
「どう? 合ってる!?」
私は勝ち誇ったように堂々たる面持ちで、龍女を見上げている。
「――フン、ではその証拠はどこにある?」
え……、証拠!?
そんなの聞いてないよ――っ!
慌てふためく様子もなく、
落ち着き払ったままの龍女がさらに追求してくるが、
つまりそれは「是」を意味するも同然だと、
受け取ってもいいということだろうか。
せめてここに蛇巫・沙羅さんの身体の中に入った、
龍女・探女さんがいれば問い質すこともできるけど……万事休す!!
そう思ったその時、
「しょ、証拠ならここにある!」
聞き覚えのあるその声に、私と宇藤が咄嗟に振り返った。
稚津彦こと葦原賢治がそこにいる。
「稚津彦!? 帰ったんじゃなかったの!?」
「ああ、帰ったさ。そして説得して連れてきた。
なかなかこようとしないこの人を――」
稚津彦の背後から、まさに証拠となる沙羅さんが出現する。
「沙羅……じゃなくて探女さん! ナイスタイミング!」
探女さんも稚津彦も驚愕のまなざしで私を見ている。
「なぜそれを……」とつぶやいている。
やっぱり稚津彦も彼女が探女さんだって知ってたんじゃない。
私が探女さんの名は呼んでも、葦原賢治とは呼んでやらないのは、
単純に先輩へ対する私のいじらしい愛ゆえだけど。
(葦原姓を名乗っていいのは愛する先輩だけ)
そもそもその名を探女さん自身が呼んでいたんだけども、
彼女もまさか本当に稚津彦だと思い込んじゃっているんだろうか。
それにしても稚津彦は、彼女を呼びに戻っただけだったのか。
怖くて逃げ出したんじゃなかったんだ。
いや、でも、目が完全に泳いでいて巨大蛇と目を合わせていないし、
登場の時だってどもっていた。
だから彼が、『鬼』と呼ぶ目の前の巨大生物に怯えているのは真実なのだろう。
探女さんもなかなかこようとしないって、
それほど沙羅さんを嫌煙していたってことなんだろうか。
いや、かつては何度も足を運んでいたけど、
きっとその度に追い払われ続けて、
ここにくることをあきらめかけていたのだろう。
蛇巫・沙羅に、龍女の身体を返す気など、さらさらないのだと知り……。
「稚津彦――」
龍女の身体を乗っ取った沙羅が低く唸った。
明らかに私たちとは異なる憎しみが露わに滲む。
今にも飛びかからんばかりの形相で。
この人も稚津彦だと思い込んじゃってる?
教えてあげた方がいいのだろうか。
でも、私よりも遥かに賢そうな彼女たちなのに、
どうして気づかないのかが不思議だった。
もしかしたら気づいていてわざとそう呼んでいるのかもしれない。
探女さんは、自分の身体に入る沙羅を睥睨する。
「沙羅! 今度こそ、その身体返してもらう!」
やっぱりそうだったんだ。
私は身震いを覚えた。
私の勘も捨てたもんじゃないと。
「あなたたちならもしかしたら突破口を開いてくれるかもしれないと、
稚津彦にそう諭されて久しぶりに赴いたけれど……」
そうだったのか。
期待されていたとは露知らず。
私たちの一体どこに希望を見出したのかわかんないけれど。
「私の身体を奇怪な言霊で呪縛し、乗っ取るとは浅はかな」
「そちと交信を断絶して久しいこの身体は、よもやわらわのものじゃ」
口調からして沙羅の方が気位の高い神っぽいが、
沙羅は元々人間の巫女だ。
むしろ本物の龍である探女さんの方が、
より人間っぽく優しいお姉さんといった感じだ。
けれどそんな彼女もやはり誇りが許さないのだろう。
「そんなに永遠の命を手放したくないか、人の子よ。
――いや、稚津彦への憎しみが消えないと言った方が正しいか」
龍の身体って永遠の命だったんだ……。
そりゃ手放したくないかも。
なにを言われても意に介さない様子で沙羅は笑みを浮かべている。
探女さんは継いだ。
「――五百有余年の時間を経ても尚、愛し続けたいか」
昔の人だろうとは思っていたけど、
五百年以上前に生きていた人たちだったのか……。
なんとも強烈で濃厚な憎しみと愛だ。
私にはとても真似できそうにない。
おそらく。
「当然よ! 結ばれぬと知っていながら、
あんなに愛し合っていたのも偽りと申すか!
ただそれだけでわらわは心が引き裂かれそうじゃ!
その恨みも薄まるどころか増すばかりじゃった!
稚津彦が幸せそうに過ごす俗世になどいたくなかった。
消えたかったんじゃ! だからこの龍の身体、奪ってやった!
人の身を捨てたくてな!」
轟然と声を張り上げる沙羅の悲痛な叫びが、
私の心にも深く突き刺さった。
蛇巫である前に、ただ一人の女の悲しみ――……。
「人の身を捨てても、気持ちが晴れることはないと知らなかったのか?」
「知らいでか! わらわは俗世から消えられたらそれでいいと……っ!」
探女と沙羅の問答に、私たちの入る隙はなかった。
ただ茫と見守る他はない。
憐憫のまなざしで。
そんな中、得心した宇藤がポツリと告げる。
「そうか……。あの龍女が若者に恋したという伝説は、
龍となった人間のことを言っていたのか。
そうすれば『龍女』という名にも合点がいく」
「え、宇藤も矛盾を感じてたの?」
「ああ。伝説ってのは、後世の人間が考えた話のつぎはぎで、
どこかしらおかしな点があるものだ。
だからこの伝説だって鵜呑みにはしていなかったが……元々、
探女は『龍神』だったはずだ。
なのにいつしか『龍女』という龍と、
人間の混合を示唆する名で呼ばれる点がずっと不可解だったんだ」
私にはそこまで頭が回らなかった。
呼び方もバカにならない、真実を含んでいることがあるんだなと私は学んだ。
うーむ……。
確かに『うっとうしいな』も真実だし。
その宇藤強菜が続けた。
「――そして、水を操る龍女となった沙羅は、
報復のために龍神の神力を駆使して麓の村まで水が届かぬようにした。
その後、身体を奪われ人の身体に入る羽目となった探女は、
沙羅がこれ以上人々を苦しめぬよう天蛇石を置いて、
龍神の住処の顕現界に封じ込めて自由を奪った。
そこでようやく美女淵や不動滝の水が戻るも、顕現池だけは戻らない。
沙羅の悪あがきだ。龍神のいる顕現界には、本来人は入れなかった。
だけど龍神だった探女には他に入る方法を知っていた。
そこでさらに天蛇石を増やして界とを繋ぐ橋渡しの扉を作って、
顕現界に入り込めた探女は、
檻である龍宮城みたいなここに閉じ込められていた沙羅と、
身体の返還の取引を行なったが願いは聞き入れられず、
仕方なく封印が解かれぬよう監視するだけにとどまり、
機会を狙いながら今に至っている……、そういう筋書きだろう」
――長っ! 長いけどスゴイ!
一気にベラベラとよどみなくまくし立てる宇藤の長口上。
すると拍手が鳴り響いた。
しばらく聞き役に徹していた稚津彦からだった。
「な、怖い女だろ? 鬼以上だ」
と、つけ加えながら代弁するが、
あんた、なにもかも知ってたんなら最初から言いなさいよ!
それと稚津彦と名乗ったり呼ばれたりする所以も教えなさいよ!
探女さんも最初から自分のことを「私は沙羅よ」と紹介してくれちゃってたし、
もうややこしすぎるわ。
それで本当の沙羅を『鬼』と呼ぶ所以が判明したわけだが、
なんだか探女さんの執着もスゴイ気がしないでもない。
まぁ、天邪鬼が神になったらなにをしでかすかわからないから、
そういう意味で探女さんも絶対に沙羅みたいな身勝手な人間に、
その神力を手渡すわけにもいかなかったのだろう。
稚津彦に裏切られ、うらみつらみねたみそねみの塊となった沙羅。
その彼女が、開き直ったかのように淡々と告げた。
「――じゃがな、この檻の中にいるのも悪くはない。
この身がここから動くことは叶わぬが、探女を始め、
そちたちのような時に迷い込むウサギを弄ぶことはできる」
って、私らはウサギですか?
やっぱり遊ばれていたんだと落胆する。
しかも本気で殺されかねない遊び。
でも私は見抜く。
彼女は退屈で苦しんでいると。
ここへきた時点でそれは感じていた。
素直ではない天邪鬼。
素直に本心を認めようとしない似た者同士なのでよくわかる……。
私は不意に宇藤を尻目に見た。
右手でうっとうしいそのロン毛をかき上げるその男を。
いつしか私の心の中に潜む割合が、
先輩よりも多くなっていたことに気づいて……。
――なんてこと……。私の心が一番信じられない……。
これも顕現界のなせる業?
私が純になっている証拠?
それでも、しっくりこないのは稚津彦の件。
今の今まで伸ばしてきた疑問を訊くには、いいタイミングだろう。
時はきたれり。
「――で、だからってなんであんたが稚津彦の名を騙るのよ?」
お茶を濁すかに思えたが、本人は案外詳細に語ってくれた。
「話せば長くなるけど……、今から遡ること十年ほど前、
ある古文書を僕の部屋の天井裏から発見し、僕の祖父に見せたんだ。
古文にある程度精通している祖父は、
顕現界のことが記された文献であることを見抜き、
その古文書が五百年ほど昔に書かれた書物であることも判明した。
そしてそれを記したのが、ご先祖様の稚津彦というわけなんだ。
僕はその後大学へ進学し、祖父が読めなかった部分の解読にも成功し、
やがて先祖が愛した女性が顕現界にいることも知った。
きっと彼女を、蛇巫の沙羅を救いたかったのかもしれない……」
目を細める沙羅が、稚津彦の子孫を値踏みするように直視していた。
真摯に耳をそばだてている。
宇藤も探女さんも同様に。
「行かずにはいられなかった。
三年前、たまたま滑落した僕は、
ようやくこの世界へ降りる方法を見つけた。
そこで稚津彦の名を借りて、
どうしても龍神と蛇巫を救ってやりたかった。
その方が彼女たちとも打ち解けやすいだろうし、
それが子孫たる僕の役目だと思ったんだ」
だから当時の人が着ていたような着物姿なのか。
ただのコスプレじゃなかったんだ。
私と宇藤が昔憧れていた格好で顕現したように、
彼もまたその格好で顕現したのだろう。
より純粋な願いが形となって。
「でも三年もどこに住んでたの? 沙……探女さんの家?」
ついでとばかり矢継ぎ早に訊く。
同居だろうか。
恋人同士でないとすれば、今流でいうシェアハウス?
明らかに洋館部分はこの人の発想で継ぎ足されたものっぽいけど。
「まぁ基本、野宿かな。たまにその人のうちに厄介になってたけど」
ただの居候か。
まだまだこの世界は謎だらけだけど、
その間彼が知ったことも沢山あったのだろう。
そして沙羅の魂がこもる龍女とも対面したのだ。
稚津彦を憎む沙羅自身に。
蛇の目のような沙羅の双眸が、憎悪を増してギラギラした剣を放っている。
「だけど――、古文書を紐解いているうちに確信したことがある。
稚津彦は決して沙羅を裏切ったわけではないと……」
「え……」
全員が、稚津彦の身なりに似せた風合いの葦原賢治を見た。
当の沙羅も探女も驚愕の色を隠せずにいる。
「すべては沙羅を守るためだった。
村長の勧める女と祝言を挙げなければ、
天蛇山もろとも焼き尽くして破壊すると脅されていたから」
「!」
「人が自然や神をどうこうするなんてのは到底無理な話だ。
畏れ多いことだよ。しかし村長らは本気だった。
蛇巫と一緒になれば、
村に災いが襲いかかると固く信じられていたのだから。
稚津彦は沙羅との愛を壊されたくなかったから、
彼女を守るため愛してもいない他の女との結婚を呑んだんだ、仕方なく……」
そんなことまで古文書に記されていたのであろうか。
今の言い方だとまるで――
「確信したと言うのはつまり、思い出したと言うことね」
「――思い出した……?」
私は謎な発言を口にする探女さんを見た。
宇藤とも顔を見合わせる。
探女さんはいつ見ても神秘的な美しさだが、
今は慎ましさよりも妖艶さを秘めていた。
龍神元来の神々しさがにじみ出ている錯覚であろうか。
そしてそれはまた、本来であれば沙羅の身体――。
沙羅はどうしてこんなに綺麗な身を捨て去ることができたのか、
不思議でならない。
やがては衰え消える運命の美よりも、
永遠の命の醜悪な姿を選び取ったということか。
そして私の抱いた思惑もやがては確信に。
「稚津彦というのは僕の前世さ」
「え、ええ――っっ!? 」




