⑧
しんと静まり返った厳かな回廊を進みゆく。
誰もいない物音一つしない静寂さが、
いっそうの不気味さを倍増させていた。
お化け屋敷に突入した時のように腰を低くして、
終始落ち着かないビクビク感に私は襲われている。
恐怖が勝ると、
些細な染みだったり不思議な形の装飾さえ化け物じみて見えてしまうのは、
誰にでもある経験だろう。
いつどこから怪しい物体が現れるやも知れず、とにかく気が気でない。
「なんでタイとかヒラメとか泳いでないのー?」
いっそ空中でも泳いでくれていた方が、
気も紛れてありがたいし和むだろうに。
「それにしても長いわねー……。
一体いつになったら主ぬしに会えるのよ」
この長ったらしい回廊の先に、
稚津彦が『鬼』と呼んで恐れる探女が待ち受けているのだろうか。
それとこんな所に一人(一匹?)でいても、
気が狂いそうねと同情もしてしまう。
極力離れないよう、
私は宇藤の背中の毛にしがみつくようにしながら進んでいく。
こんなにぴったりと寄り添って(くっついて)歩くことなんて、
今後一切ないだろう。
今は四の五の言っていられない。
いざとなったら宇藤を盾にする必要があるのだから。
「――ねぇ宇藤……。
後ろからなにかがついてきている気配を感じない……?」
なにげに口から出た言葉だった。
なにかしゃべっていないと、本当に狂ってしまいそうだったから、
そのための安全確認でもあったのだ。
言われた宇藤がおもむろに後ろを振り返った。
途端――、
「マジかよ!? 山上っ、走るぞ!」
宇藤に促され、私も「え?」と身を翻ひるがえすと、
なんと、いつの間にか私たちのわずか数メートル後ろに、
蛇や蛙や、なんかよくわからないヌメヌメネチョネチョした物体が大量発生し、
こちらに向かって猛スピードで押し寄せてくるのを目撃してしまった。
「いっやぁあああ――ッッ!!」
納豆臭がかもし出されるステッキは、もはやこの手にはない。
私は宇藤の首輪と化した 瓔珞ようらくをむんずと掴んで、
「パンツ見たら殺す!」と言いながら全力疾走で回廊を駆け抜けた。
「ぐぇっ………、手を…放せ……っ!」
「今この手を放したら鈍足のあんたなんて、
すぐ追いつかれてヌメヌメネチョネチョされるわよ!」
「この重い着ぐるみさえ脱げば……、俺の足でだって逃げ切れるっ!」
「変質者はお黙り!」
「稚津彦の引きちぎったその袖を、俺の腰に巻きつけりゃいいだろ」
「やだ、あんたそういう趣味してたの?」
「あのなぁ……変な想像すんなよな、こんな時に――んぐっ!」
「黙って走りなさい! このまま警察に連行するわよ!」
「だったらせめて首輪じゃなく腕を――はぶぅっ!」
私はそのまま宇藤の首輪を有無を言わさず引きずって、
どこまでも果てなく続くかに見えた回廊を一気に駆けた。
今一度、背後を振り返ると、
巨大な岩までもがゴロゴロと転がってくる。
その上スコールのようなどしゃぶりまで。
さらに明らかに罠っぽい美味しそうな果物が二つ、
天井からぶら下がっている。
どんな障害物競走よ!
つくづく短距離走を得意とする陸上部でよかったと、
それを選択した自分自身に感謝の意を表した。
そして幸いにもその障害物競走は、
時間にしておよそ五分ほどの短時間で終了を迎えることとなる。
これがもし十分以上の長距離の競技だったら逃げ切れなかった。
完全に遊ばれている。
龍女の仕業に違いなさそうだが、
私が得意とするものもお見通しだったんだろう。
元の世界へ戻れるのか不安になってきた……。
危機を乗り越えた私と宇藤は、
床に両手をついて全身全霊で酸素を要求していた。
顕現界であっても酸素不足で苦しんだり、
そもそも酸素もあったりするんだなと感嘆する。
だけど、そんなこと自体、ぶっちゃけ今はどうでもいい。
「はぁ、はぁ……、宇藤、大丈夫?」
「……はぁ、……ああ、お前のせいで死にかけた」
「助かったんだからいいでしょ別に。――どころでここどこよ?」
仰ぎ見ると、今までいた白の空間とは一変、今度は暗闇の中だった。
まだ目が慣れていないせいか、ただの真っ暗な空間に出てきてしまったが、
華やかな外観の龍宮城とはかけ離れた雰囲気だ。
まるで、龍の巣窟の中にでも迷い込んでしまったかのような――……。
「はっ!?」
暗闇の中に、キラッと光る二つの光源を見つけて私は身構えた。
すると、再び目の前が暗くなった。
宇藤が自ら私の前に出たからだ。
私をかばおうとしてくれているように見えたのは気のせいだろうか。
やがてその光は、ニュウゥ――ッと天高く浮上し、
私たちを監視するかのようにじっと見つめている。
でっ、出た――ッッ!
乙姫ならぬ巨大生物!
未確認動物・UMA!
ビルの十階は軽くありそうな高さから、龍女が見下ろしていた。
しかし龍とは言っても、トグロを巻いた巨大な蛇にしか見えないんですが……。
「――さ……、探女さぐるめさん……ですか?」
腰を低くして声も小さく恐々と、
私の喉から自動ビブラートつきで発される。
「……なに奴じゃ?」
うわっ、龍の声って初めて聞いたけど日本語だ!
ちゃんと女の人の声にも聴こえる!
うわーうわーと感激するのはこの辺でいいとして、
ヌメヌメーズやネチョネチョーズやゴロゴローズを差し向けておいて、
この期に及んでしらばっくれるとはいい度胸!
誰が名乗ってなんかやるものか!
「――わたくし、こういうものでありまして……」
なんて早速、名刺交換じゃないぞ、私!
「私は山上やまがみ星てぃあら!
そしてこっちがペットの宇藤! ……でございます」
敬語を使わずにはいられない空気の中、
「誰がペットだ」と反論する宇藤の苦言は、サラッと華麗に聞き流す。
「して……、わらわになんの用じゃ?」
どこか冷たい、しかし楽しげな声音で龍女は聞き返してきた。
「はい、私たち、天蛇山へ訪れたはいいものの、
天蛇石の所から誤って落っこちてしまったんですが、
気がついたらこのような世界へきてしまった次第です。それで――」
「――元の世界へ戻させろと?」
語尾に「フンッ」という鼻息なんだかバカにする態度なのか、
強い語気も伝わってきた。
むむっ、こいつは手ごわそうだ。
こういう場合はご機嫌取りに従事するべきだと、心の声が私に訴える。
「いやぁ、お目が高くて話もはやい!
さすがは龍女様! いよっ、顕現界一!」
外見も中身も上から目線の居丈高な龍女の機嫌を損ねないよう、
賞賛の嵐を送り続ける。
「……ホラッ、宇藤もさっさとなにか言って、ご機嫌取りしなさいよ!」
私は宇藤の耳元でヒソヒソとささやいた。
だが、
「……俺、そういうの苦手。パス」
後は任せたという意思表示の片手を上げて、頼りない男は言う。
得意の啓発本の受け売りでもウソでもなんでもいいから、
適当になにか言えばいいものを!
私は舌打ちした。
いざという時にバカ正直なんだから。
ほんっとバカだわ。
使えないバカ。
私は冷酷なまなざしを、
番犬ならぬ番熊にすらなりそうにもない宇藤に突き刺した。
だが、目が慣れてきたのだろう、
再び龍女の方へと視線を転じて、私はさらに驚愕する。
――あのマダラ模様!
見覚えがあった。天蛇石の上でいたマムシと同じ模様をしていたのだ。
でも今自分が対峙しているのはそれの何千倍……否、何万倍という大きさだ。
この世界へ導いたのは、あのマムシであるこの龍女だったってこと?
――絶対遊ばれている……。
私はそう確信した。
龍女は、もたげていた太くて長い首(?)を、
私の目と鼻の先までニュウッと下ろして、
血のような真紅の舌を忙せわしなくチロチロと出し入れさせながら、
ニタリとほくそ笑んだ。
「――そちは、
あの女がなぜこの界に長い間とどまっているのか知っているか?」
さながらスキャンするかのように人の心を読み取った挙句、
達観した余裕の笑みを見せつける。
「――あの女って沙羅さんのこと?」
てっきり龍女のせいでここから出られず、
不本意のままここの住人と化してしまっているとばかり思ってたけど、
違うのだろうか。
しかしそれを口に出す前に、あにはからんや、宇藤が先手を打って出た。
「龍女のあんたがことごとく水を涸れさせちまったから、
蛇巫へびふの彼女が、
これ以上好き勝手しないよう天蛇石で封印したっていう伝説がある。
その伝説のとおりならば、つまりはこの顕現界の中に蛇巫もとどまって、
より強力にあんたが悪さしないよう監視しているってことじゃねーのか?」
おお!
それはそれでなんか説得力を感じる!
真実のほどはわからないけれど。
やればできるじゃないか宇藤!
さすがは学年一の秀才!
いよっ、賢い熊!
見直した!
鈍くウロコを光らせる龍女も感心したのか、
まばたきしない開きっぱなしの眼球をかすかに眇すがめて、
高速で出入りしていた二手に分かれた舌先も静まり返る。
「ほぉ、聡さといな。熊にしておくのがもったいない。
じゃが、それだけでは足りぬ。
ゆえにここから出すわけにはゆかぬな」
このひねくれ者!
天邪鬼!
……って、既にもう、
顕現界の主を納得させなきゃいけない試験が始まってたんですか。
及第点に届かねばイコール出られないってことだろう。
かの【ほう・れん・そう】もどこで活用したらいいんだろう?
そもそも使うことなんてあるのかも不明。
要は、暇だから構ってほしいだけの、
わがまま娘(と言っても年齢不詳)なんじゃないのと勘繰る私。
そんな私を見据えて、不意に龍女が告げた。
「――てぃあら、と言ったか……そち、
あの棒の如き持ち物から発された臭いは、
そちの素直ではない心の臭いでもあるぞ。
消えたとはいえ、今度は心の真の脱皮をせねばな」
脱皮って蛇じゃありませんから。
やっぱりこの人、心を読んでいるんだ……。
そして宇藤は、啓発する探女の言葉にいたく感動したのか陶酔している。
感動も陶酔もすなっ!
一方の探女は、意味深に私を見、
それから茫然と立ち尽くす宇藤の方を見ていた。
宇藤の心まで読んじゃっているんだろうか。
別に宇藤の本心なんてどうでもいいんだけど……。
それにしても、納豆の臭いが私の心の臭いって……どんだけ腐れてんの!




