⑦
白の世界は無垢色。
この顕現界は、無垢なる世界であるという意味でもあるのだろう。
少しずつ探女に近づいている只中をひた走るバスの中で私は思う。
けれど悠長に考えていられたのは、ほんのひととき。
天井から蛇ではないが、誰もいない運転席の横に、
四、五歳ほどの着物姿でおかっぱ頭の幼女が見えたからだ。
無表情なまま私をじっと見ている。
「ゆ、ゆ、幽霊……!?」
宇藤に目配せする私は、正直ゾッとした。
今までには感じなかったほどの恐怖。
稚津彦のことを睥睨できる立場じゃない。
身体が金縛りにあったように動かない!
「気をつけろ、山上」
わ、わかってるわよ! でも身体が……!
するとその女の子は、スッと私の前の席へと瞬間移動し、
椅子越しに私が握る使えなくなったステッキをじっと見つめていた。
物欲しそうな顔で一心に眺めている。
――え……、これが欲しいの……?
率直にそう感じた。
途端、私の強張っていた顔も、
がんじがらめに身体を縛っていた恐怖心も一気に解けた気がした。
子供は嫌いではない。
そして私はステッキを持ち上げて、女の子の前に差し出した。
女の子は恐々とステッキの先をチョンチョンと突き、
やがて興味津々にペタペタとしきりに触りだす。
主に、てっぺんのハートが気になるようだ。
「……あ、そっか。
見ようによっては風車にも見えるもんね」
幼女の格好からして、このステッキが通じる時代の子供ではないだろう。
私はハートの部分にふーっと息を吹きかけてやった。
クルクルとハートが回りだす。
女の子の瞳も輝いて、喜びを露わにしていた。
「――あげる」
そう言って、ステッキを女の子の両手に持たせてやると、
女の子はとびきりの笑顔になって、
嬉しそうに息を吹きかけては何度もハートを回している。
――くすっ、可愛い……。
なんだか昔の自分を見ているようで、
私にもこんな無垢な時代があったんだろうなぁと、感極まってしまう。
そしてなんとなく、子を持つ親の気持ちにも……。
ふと両親の顔がよぎり、切なくなった。
「その子からは、うらみもつらみもねたみもそねみも一切感じられない、
純粋な心のままここにいる。多分、この辺りで命を落とした幼き魂だろう」
稚津彦がしみじみ言う。
きっと、自分が死んだことさえわからずさまよっているのだと。
でもこんな小さな子が、
そんなうらみやつらみやらをそろいもそろって持ってたら逆に怖いわ。
私はにっこりと微笑んだ。
「それがあるからもう寂しくないね。だからもう、おうちへ帰ろう?
――ホラ、見えるでしょう?
あの光のトンネルの向こうがおうちだよ」
正面に光のトンネルが現れ、指をさす私。
身体や口が勝手にそう動いていた。
私自身不思議だった。
自分がそんなことを言うなんて――。
ステッキを大事に抱えた女の子は、
うんと髪を揺らしながら縦にうなずくと、光の中へと一人で歩いていく。
やがてそのトンネルも私たちの前から静かに消えていった。
恍惚感に包まれて、私の目にも涙が溢れていた。
「……いいのか? あのステッキ、宝物だったんだろ?」
笑みを浮かべたまま宇藤が訊いてくるが、
きっと宇藤も私の行動は正しかった、よくやったと思っているに違いない。
その証拠に彼の口調まで柔らかだ。
「いいのよ。私にはもう必要ないものだし……って、別に電池切れだし、
ゴミは邪魔だからってわけじゃないのよ、言っとくけど!」
「誰も言ってねーし」
「あれ? そういえばあの子、納豆臭は平気だったのかな……?」
突如浮上した疑問だった。
すると稚津彦が間に入る。
「電池切れとともに匂いも消えていたよ」
「そうだったの? 気づかなかったー」
ほのぼのと彼とも笑い合う。
こんな光景も変だ。
恍惚感に包まれた影響だろうか。
しかし、そのほのぼのとした瞬間も長くは続かず……。
あの柔らかな口調だと思っていた宇藤が、一変していきり立ったのだ。
「気づけよ! てか、あの臭いはステッキの仕業だったってわけか?」
どこか不機嫌な声。
愛らしい熊の着ぐるみに似つかわしくない態度で、
そのまま椅子にだれたように座る。
「……あんた、なんかイラついてない?」
「……自己啓発本がないからだろ。冷静さを取り戻すために俺は寝る」
――なんなんだこいつは……。
いちいち口にするのも憚れるほどの、
投げやりな態度に唖然としてしまうが、
宇藤は目を閉じて、寝たふりモードに入っていた。
いよいよ冬眠か。
一方の稚津彦はというと、
「若いねー。青春だねー」とまた意味不明な独り言をつぶやいていた。
宇藤の不可解な行動や発言は、ますます露骨さを増幅させていた。
自分で稚津彦の袖を破いて私に足を隠すよう示唆したくせに、
今度はそれを外せと言い出す始末。
深く考えれば布はつまり、稚津彦の腕が私の腰に回され、
足にも触れているように見えなくもないが、
それでどうして宇藤が苛立つ必要があるのか、
なにがそんなに気に食わないのか私は理解に苦しんだ。
情緒不安定? 反抗期(前からだけど)?
彼にとっての精神安定剤となる啓発本がないから八つ当たり?
「いいからそれを外せ。別のをつけろ」
「別のって他にないじゃない。いいわよこれで」
私もこの地味な茶色の布キレが外せなくなっていた。
どちらかと言えば気に入っている。
だってこのフリフリのピンクのスカートに、
この地味さがとてもマッチングするのだ。
宇藤はセンスがいいなと感心しかけたほどだった。
なのにこいつは――
「イヤなら俺がひん剥くぞ」
「ちょっとー。あんた、いつからセクハラするようになったの?」
「熊になった瞬間からだ」
「ああ、中は裸だって言ってたもんねー。って、違うでしょうが!
天蛇山不動尊へきた時点で、既に私のストーカーしてたじゃない!」
「あのなぁ」
なに言ってんのよ、この変質者は。
間違えちゃ駄目じゃない!
「ストーカーの次はスカートってわけ!?」
「ダジャレかよ」
――とかなんとか言い合っていると、急に宇藤は、
自分のこれまでを後悔するかの如く、
額に手をあて悩む人のようにうなだれた。
「はぁー、俺はおかしい……。
俺を俺たらしめるエレメントが足りていない……」
よかった。
宇藤自身も自分がおかしいことにやっと気づいてくれたようだ。
いや、めでたい。
自分で気づくという行為は、実に大切なことだからね。
「でもそれは、今に始まったことじゃないから大丈夫よ。
いつもの啓発バカな宇藤だから安心して」
――と、励ましておいたけれども。
***
デデン! と、それはあった。
おとぎ話の挿絵に出てくるような赤い龍宮門や、
大きな池に取り囲まれた龍宮城チックな建物。
一瞬、蜃気楼と見紛えてしまうほどの、いかにも龍女がいるよと、
禍々(まがまが)しく無言で高らかに叫んでいるような派手派手しい御殿が、
殺風景の純白の中に威風堂々と浮かび上がっていた。
走行中のバスの中からでも異質なそれはハッキリと確認でき、
「『龍宮城バスツアー御一行様』じゃないんだから」と、
私はつぶやかずにはいられなかった。
でも実はそれ専用のバスなのかもしれないし、
バスにもそう表示されていたのかもしれない。
「そうだ、教えておこう。龍女なる鬼は、君とそっくりな性格なんだよ」
まるで海の中にいるような錯覚に陥りながら窓の外を眺めていると、
未だ片袖のないことに疑問の声すら上げない稚津彦が、
後ろから私に向かって無遠慮に言ってきた。
私は身体を傾けてサッと後ろを振り向いた。
「――どういう意味よ?」
不快なまなざしで疑問を呈する私に、
しかし稚津彦はもったいぶるような微笑を浮かべるだけで、
すぐには応じようとしない。
すると――、
「天邪鬼か……」
間を挟んで座る宇藤が、神妙な顔つきで代わりに言ってきた。
私は前に宇藤から言われた、その意味を見い出す。
――ひねくれ者、へそ曲がり、素直ではない、やさぐれた――
つまり、山上みたいな屈折した性格のことを言うんだろ――
「宇藤! まだ言う!?」
牙をむいて突っかかるが、
宇藤は私の存在などまるで気にしていない様子で、
天啓の閃きを賜ったように、
突然、後ろの間抜けな格好の男を振り返って言った。
「そうか! あの美女淵に投げ捨てられていた板の詩は、
あんたが書いたんだな? ――葦原賢治さん」
「え……っ、葦原……!?」
稚津彦が本名じゃなかったのか……。
顔だけじゃなく、苗字まで葦原竜希先輩と一緒だなんて!
――てか誰よ、葦原賢治って。
なんで宇藤がそれを知ってんのよ。
私は稚津彦よりもむしろ宇藤の方に釈然とせず、
疑念を抱かずにはいられない。
「この人、三年前に神隠しにあった、葦原先輩の従兄の葦原賢治さん。
――そうだろ、賢治さん?」
稚津彦は両目を閉じてフッと笑った。
「ご名答。よくわかったね。僕ってそんなに有名人?」
あっさり肯定する彼に私も納得。
そうか、どうりで似てるわけだ……じゃないっ!
「じゃあ、稚津彦って名前はなんなのよっ!?」
「伝説の龍女が恋したという葦原家のご先祖様だ。
どういうわけかその名を拝借しているようだが――」
間髪入れず宇藤が説明する。
「へぇー、宇藤君、よく知ってるねぇ」
そこで途切れる。
葦原賢治なる者は、彼はそれ以上詳しく話さない。
だからなんで稚津彦なのよ!?
「一応、郷土史研究部所属だしな。それより俺は、あの詩に感動した」
思い出しながら陶酔するその瞳は、まるで恋する瞳……じゃなく、
今まで稚津彦に気を許さなかった様子と一変する。
ちょっとちょっとー!
なに二人だけの世界へ入っちゃってんのよ。
私だけ置いてけぼり。
入る気もしないけどね。
それに、『葦原賢治』と、
今さら本名で呼ぶのも照れくさいので(葦原という名が許されるのは先輩だけ)、
今後も私は稚津彦と呼ぶことにする。
「あれは……呪文だよ。顕現界へ飛び込む数日前に書いた、
自分が怖がらないよう鼓舞するためのね。
ついでにその後、あの板を引っこ抜いたのも僕さ」
「なんで? 素晴らしく心震える詩だったのに」
「――寒気がして」
ほうらやっぱり。
あの詩をキモいと感じたのは私だけじゃなかったんだ。
ざまぁ、宇藤。
……でも、引っこ抜いたのも本人って。
そして宇藤は、次なる聞き慣れない言葉も継ぐ。
「沙羅さんも蛇巫なんだろ?」
――へびふ?
初めて聞く名称だ。
なんだろう、気になる。
だから私は宇藤に訊ねた。
「前に伝説を語った時に教えたぞ。どうせ頭素通りのお前のことだ。
もう一度教えておくが――」
へ? 言ったっけ?
確かに全然憶えてないや。
頭素通りって失敬な。
「巫女だよ。
龍女の探女が人間の巫女である沙羅さんに憑依し託宣する――
つまり神のお告げってとこだ」
「沙羅さんって巫女さんだったんだ……」
だから装身具とか、
あの昔ながらの着物(小袖?)を身につけていたのだろうか。
巫女装束ではなかったのがちょっと惜しい
(別に巫女萌えっていうわけでもないんだけど)。
そう言われてみれば普通の人ではない、
人間離れした雰囲気をまとっていた。
ただ綺麗な人ってだけじゃなかったんだな。
それはそうと宇藤もいろいろ知っているなと感心する反面、
知っていたのならなんでもっとはやく言わない!?
龍宮城チックな楼門の前でバスが律儀に停車すると、
私たち三人は否応もなく下車した。
ここにきて急に緊張で足が震え出す。
だけどここまできた以上は逃げ出したくもないし、
そうしないと元の世界にも戻れないので、
勇気を振り絞って龍女・探女に会いにゆこう!
「いざ、出陣!」
私は大きく息を吸って邁進する――お供の熊を先に押しやりながら。
この背中のモフモフ感がまた絶妙!
しかしその直後に私と宇藤は、
信じ難い薄情な言葉を耳にすることとなった。
「僕の案内はここでおしまい。ここから先は二人だけで行ってね」
稚津彦が逃げたー!
「ちょ、ちょっと、なんでこんなところで! 最後まで案内しなさいよ!」
「だって……鬼が怖いから」
このへタレめ!
「わかった、あれでしょ。龍女ってくらいだから、
見た目的に蛇とか爬虫類っぽい姿をしているからじゃないの?」
「……まぁ、そういうことにしておこうか。
実は龍女の姿を一回だけ見たことあるんだけど、
それはもう恐ろしいのなんのって。
――と、いうことで宇藤君、星ちゃんをよろしく頼んだよ。
女性より先に逃げるなんて情けない真似はしないでくれたまえね」
お前が言うな!
きっと今、宇藤の心の声とも異口同音したに違いない。
「じゃ!」
そう言うや否や、
ドアが閉まる寸前にシュタッと逃げるように飛び乗った稚津彦を乗せて、
バスは元きた道を引き返していった。
残された私と宇藤は絶句したまま……。
どうやら奴は、この顕現界から出る気はなさそうだ。
放っておこう。
ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
「宇藤、行くわよ!」
私は、「お前なぁ……」と、
呆れ果てる宇藤のモフモフした背中を両手で押しながら、
楼門を潜り抜けていった。




