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 ②



   ***



山上(やまがみ)(てぃあら)、参上!」


五穀豊穣、病魔退散、所願成就の霊場として信仰を集めている――と、

説明板にある天蛇山不動尊には滝が流れていた。

小ぶりの慎ましい不動滝だったけど、

見ていると心がこう和みゆくのはどうしてだろうか。

不要なものまでさっぱり洗い流してくれる、そんな気がする。


「宇藤も一緒に流れてくれないかしら」


独白しながら石段を(おごそ)かに上がっていくと、

滝の前の小さな社の前にさほど大きくはない『打ち出の小槌』が置いてあった。

その奥には『山神様』と刻印された石も祀られてあるが、

「私ってば神様なのね」という冗談は、あえて心の中だけにとどめておく。


「へぇ、面白いわね。この小槌を振ればいいの?」


人々がお賽銭として捧げたのであろう小銭も、

あちらこちらに積み上げられていた。


葦原竜希(あしはら たつき)先輩と結ばれますように! 

 葦原竜希先輩と結ばれますように! 

 葦原竜希先輩と結ばれますように!」

 

念を……ではなく、力を込めて小槌を上下に何度も振り続ける。

だが、おもむろに視界の端に入ってきた『熊出没注意』の看板に、

私の集中力はそがれてしまった。


「しまった。熊よけの鈴、買ってこなかった……。

 でもまぁ、いいわ。いざとなりゃ、あいつを盾に供物として捧げてやれば」


小槌を振りながら、流れ落ちる滝の水で手を清めている宇藤を見据える。

思えば初めて宇藤と顔を合わせ話をした瞬間から、反りが合わなかった。

席が近かったせいで、

ふとした拍子から話しかけざるを得ない運命を辿ったわけなんだけど、

あの時は確かマダラ模様の巨大な蛇がいいか、

唇を舐める仕草が蛇そっくりの数学の依田(いだ)がマシかで言い争った。

共通するのはどちらも気味が悪いという点。

いがみ合う発端は、そんな他愛もないものから始まったのだ。

どうでもいいことなのにどうでもよくないと、

やたらムキになってしまう自分自身も理解不能だ。

しかもあいつに対してだけ。


「ああ、もう、宇藤のことなんてどうでもいいの! 

 それより願掛けよ願掛け! 葦原先輩と~葦原先輩と~……」

「この先に『天蛇石(てんじゃいし)』っていう巨石があるみたいだぜ。

 そこで願った方が神様も、

 お前の不毛な願いを少しは叶えてくれる気になるんじゃねーの?」

 

宇藤が声をかけてきた。

腹立たしい。


「いちいち腹立つわー。でもそれマジなの? 『天蛇石』? 

 そこで願えば、葦原先輩とゴールインできるの?」

「……さぁな。どっちみち俺は石を見るためこの先を進むつもりだが、

 お前も行くのか?」

「行くに決まってんでしょ! 私と先輩の薔薇色の未来のためにね!」


即答だったのは、

どうせすぐに辿り着くだろうと高をくくっていたからに過ぎないのだが、

歩いても数分の距離だと勝手に解釈してしまっていたのが大きな間違いだった。

傾斜四十五度は軽くありそうな山道をこれから一時間も歩くことになるとは、

「う~ん、やっぱ山はいいわ~」と、

自然を悠長に賛美するこの時の私にはまだ知る由もなかった。



 

季節は紅葉の秋。

行楽のシーズンまっさかり。

……なのに人がまったくいないなんておかしすぎる。

そんな中、

サクサクと小気味よいハーモニーを奏でる落葉の急勾配を登り始めて十五分。

余裕(よゆう)綽々(しゃくしゃく)で、

宇藤よりも軽快な足取りで先へ先へと突き進んでいた私は、

次第に動きが鈍くなっていた。


「山上、急にペース落ちたんじゃねーの?」

「……うっさい。登山部じゃないのよ私は」


短距離と違って長距離の向かない私の足と体力。

もっとなだらかな道ならまだしも、

ただでさえ普段の倍はかけて歩かなければならないこの山道。

ざっと標高五、六百メートルはあるんじゃないだろうか。

いつの間にか距離を縮められていた私は、

背後に迫る宇藤がうっとうしくて不機嫌になっていた。

しかしここは運動部。

()を上げるわけにはいかない。 

だけど私の肺は既に肩を使ってまで、酸素を健気に求めるようになっていた。

これでは陸上部の名が廃る。

もっと許せないのは、非運動部の宇藤の方がまだ呼吸も乱れておらず、

圧倒的な余裕を見せつけていることだ。

私は額に汗も噴き出しているというのに、はがゆい。

休みながらでないと身が持たないのは自分が一番よく知っている。

だけど、ここで負けるわけにはいかなかった。


「無理すんな。ゆっくりでいいんだぞ」

「無理なんかしてないわよ! それよりまだなの? 

 全然それらしき巨石なんて見えないじゃない」  

 

宇藤に励まされたこと自体許せなくて、

直視しないよう咄嗟に話題をそらす。


「あれから十五分経過か……。

 まぁ、あと四十五分は最低でもかかるんじゃねーの?」

「よっ、四十五分――!? 駄目……無理……」

 

途端に力が抜けてしぼんでしまう。


「だから無理すんなって。ちょっと休むか?」

「……」


絶対心の中ではバカにしている。

その優しさも笑顔も全部ウソだろう。

私にはお見通しなのだ。

だって宇藤だもの。

宇藤のくせして私より優位に立つなんて!


「というか、別にあんたと一緒に登ってるわけじゃないのよ。

 なのに、なにあんたまで休もうとしてんのよ。

 この先どこに熊が潜んでいるのかもわかんないんだから、

 さっさと行きなさいよ!」

「俺は熊よけの鈴か」

「なに言ってんの当たり前でしょ! 

 熊が現れたら私の盾となって、

 潔く餌食になるのがあんたがここにいる存在意義なんだから!」

「どういう存在意義なんだか、ったく……」   

 

言いつつも、狭い一本道の中、身体を横にしながら私を追い越し、

先頭に立って進み始める宇藤の背中を私は目で追った。


「……」


不思議と頼もしく見えてしまったその背中は、

おそらく酸素が足りないせいで起こった一時的な錯覚だろう。

あり得ないのだ。

あいつの背中が広く感じてしまうことなんて。

身長だってあまり変わらないのに、私よりスタミナもあっては困るのだ。

だけど今、目の前を歩いているクラスメイトは意外にも――


「生意気だわ」


釈然としなかった。

これはたんに抗いようのない、

歴然とした男女の筋力の差というものなのだろうか。

でも宇藤にそれがあてはまるとは思わなかった。

ただ一つの例外――常に学年トップの成績の宇藤に、

私は負けるどころか勝負さえしていないけれど、

その他は認めたくなかったので、

今度は腕相撲で真っ向勝負をしてみようと思い立つ。

(手を握り合うのは我慢するとして)

どうせ勝つのは私だろうけれど。

私は似合っていない茶髪の、時に風になびくそのロン毛を、

後ろからざっくり切ってやりたい気持ちに突き動かされていた。

体力の面では負けたくない。

負けたくはないのだが――


「はぁはぁはぁ……」  


あやまたず、私はその場に座り込んでしまった。

急斜面なので、反対を向いて両手を後ろにつきながら座り込む。

最初に感極まっていたせっかくの清々しい空気や風景が、

苦しくてどうでもいい、

見るのも憂鬱なものに変わってしまっていた。

ショートヘアーなのに、汗だくで髪が邪魔に感じる。


「はぁはぁ、坊主……になりたい……、出家……したい……」


私は流れる額の汗を腕の部分で拭った。

まさか汗をかくことになろうとは思ってもみなかったのでタオルはおろか、

ハンカチや水さえ持参してこなかった。

そうして休んでいると、

カサカサ葉っぱを踏みつけながら宇藤が戻ってくる音がして、

私も前を振り向いた。


「――ホラ、飲め」


眼前に飛び込んできたのはミネラルウォーターの入ったミニボトル。

ジャケットのポケットに潜ませていたそれを宇藤は差し出してくれたのだ。

しかもハンカチつきときた。

几帳面で用意周到な男だ。

私はしばらくボトルをじっと見つめていたが(格闘していた)、

「いらない」と言って身体ごとプイッと背を向けた。


「まだ口はつけてねーから飲めって」


宇藤が持つボトルが私の目の高さの真横の位置で静止するが、

私は「いい」と払いのける仕草をしてみせる。

するとため息をついた宇藤は、

無言で私の近くの斜地にボトルを置いて、再び山道を黙々と歩き始めた。


「……なんなのよもう。急に優しくなって気持ち悪いったら――」


宇藤がいる方を見上げれば、彼は既にだいぶ遠ざかり小さくなっていた。

不意に私はボトルを横目で見やる。


「……フン、ゴミは持ち帰るのがルールってもんでしょ」


少し休んで、だいぶ落ち着きを取り戻した私はようやく立ち上がった。

宇藤が置いていったものは、なんとも可愛らしげな黄色いハンカチーフ。

隅っこに熊さんの絵までプリントされている。


「ぷっ。少女趣味。変態なの?」 


私は無造作に上着のポケットへそれらを押し込めると、

斜面を這いながら宇藤の後を追った。

運動によるものとは原因が別の、

不可解な動悸に眉をひそめてしまったけれど――。






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