①
あにはからんや
あの世で体験した極上の甘い吐息――
「願掛けに行ってくるっ!」
意気揚々と家を出た日曜の朝、
市街地から離れた山間にある自然豊かな天蛇山不動尊へ、
私こと山上星・十六歳は一時間後にバスから降り立つ予定でいた。
同じ陸上部で、一つ年上の葦原先輩との恋愛成就のために、
はるばる一時間もかけて民家もまばらなこの地へと赴いたわけなんだけど――
「――ゲッ」
バスに乗り込んで五秒と経たない内に自分の口から漏れ出した音は、
蛙のひと鳴きみたいな中途半端な声だった。
それまで期待と希望に膨らみ、
フワフワと風船のように高く舞い上がっていた気持ちは、
山なのに海の生物ハリセンボンが飛んできてパーンと破裂し、
一気に急降下していくような衝撃を味わっていた。
「な、なんであんたが天蛇山行きのこのバスに乗っているのよ!」
クラスで相容れない犬猿の仲と断言できる憎っくき男・宇藤強菜が、
一番後ろの座席に座っていたからだ。
「天蛇山に用があるからに決まってんだろ。お前こそどこ行くつもりだよ。
まさか、俺のストーカーか?」
「フン、その言葉、そっくりあんたに返してやるわ」
小馬鹿にしたように上から目線で言い返し、
私は一番前の窓際の席に腰掛け、その後は一切の無言を貫き通した。
いつも互いの意見が正反対で、これまでも数々の勝負で対決してきたが、
つい三日前には、ヨーグルトには砂糖を入れた方が美味いか、
それとも入れない方が美味いかで戦った相手だ。
「甘味のないヨーグルトなんてヨーグルトじゃないわ!」
「バカかお前? 真のヨーグルトってもんは、
砂糖なんか入れなくても甘さを感じられるものなんだぜ。
砂糖なんて邪道だろ」
「邪道はあんた! 宇藤から無糖に改名しろ!」
犬猿――どっちが犬か猿かなんてのはどうでもいいが、
好物のヨーグルトはどうでもよくないのだ。
幸い、多くの女子が砂糖を入れた方が美味しいという意見に賛同し、
この勝負は幕を引いた……かに思えたが、
翌日、この男が作ってきた無糖のヨーグルトはクラスどころか、
隣りのクラスの女子や男子の間にも大好評だった。
それで、
「砂糖のないヨーグルトこそ本物の味よね」
という本末転倒の結末を迎えてしまったわけだが、
この男、あざとく料理も得意らしいことが判明した。
恋に落ちた女子も続出した。
あまつさえ、今度作り方を教えてあげるとまで言っちゃっている。
この女たらしめ。
どっちが邪道だ。
バスで最初に目が合った瞬間、宇藤も私を見て目を見開いていたから、
おそらく同乗するのは偶然のなりゆきだったのだろうが、
いくらマイナーな場所でも、
そこに辿り着くまでに利用する人がいてもおかしくはないはずなのに、
誰もいなかった。
途中乗車する人間も、この後も一人もいないなんて……。
そもそも天蛇山行きのバスもあったこと自体、
つい昨日知ったばかりなんだけど、
思わず運転手やこのバス自体をあやかしの類いと疑ってしまうのは、
考えすぎだろうか。
それに――、
後ろにいるというただそれだけでなぜだか妙に宇藤の視線を感じてしまう。
奴はどうせ、趣味の読書をしているに違いないのだ。
教室でも移動先でも、いつも本を読んでいる読書好きで、
愛読書は哲学書や自己啓発本と言うから笑ってしまう。
自分のなにに啓発するつもりなのか。
と、それはいいとして、その名の通り、
宇藤強菜はうっとうしい奴に他ならない。
ただでさえ茶髪のロン毛でうっとうしいってのに――。
所願成就の不動尊として、
特に有名でもない極めてマイナーな部類に入るであろう
この天蛇山不動尊は、
インターネットで検索をしてたまたま見つけた、
比較的自宅からも遠くない場所の一つだった。
それまで存在すらまったく知らなかった所だけれど、
恋愛成就という紹介文に釘づけとなって、
そこに行くことを四秒以下で決めたのだ。
私と葦原先輩の幸せのために、
この天蛇山も「祝福するからおいで」と見つけさせてくれたに違いない。
だって先輩は、いつも爽やかではにかんだ笑顔が可愛くて、
足も長くてイケてるスポーツ刈りで――
「星、愛しているよ――」
って……。
「――山上お前、
また葦原先輩との妄想コントを展開させていただろ?」
「いたっ!」
頭上に硬さのあるなにかが落とされる。
薔薇色の世界をぶった切る声が降ってきたと同時に、
私のあごを軽く持ち上げて唇を寄せる先輩の顔が、
先ほどの風船のように破裂した。
見れば片手にハードカバーの書籍を持った宇藤が、
口の端をわずかに引き上げて私を見下ろしていた。
「どこがコントよ!
せめて、めくるめく愛の劇場と言ってほしいわね!」
頭を押さえながら睨み返すが、
「なにが違うんだか」と、せせら笑う彼は、
涼しげな顔をして整理券と料金を投入すると、
颯爽とバスを降りていく。
「え、もう着いたの!?」
移動中ずっと妄想に浸っていたせいか、
視線は外を向いてても不動尊に近づいていることや、
宇藤が近づいてくることさえまったく気づかなかった。
慌てて立ち上がると、
ウェストポーチから財布を取り出してお金を取り出そうとするが、
料金表を見間違えて運転手さんに正しい料金を教えられ、
あたふたしているうちに、畳み掛けるように整理券もどこへやら……。
まったく、田舎のバスはローカル過ぎて、ほんと厄介。
***
「――言っとくけど無駄な妄想なんかじゃないわよ。
近々現実となることだし、
その時にはお礼参りとして先輩とまたここにくるんだからね」
前を行く宇藤に向かって、私は道を歩きながら胸を張って言い放つ。
山奥の不動尊とあって空気は街で嗅いだことのない濃厚さで、
辺りは新鮮な山の香りに満ち満ちていた。
秋の色にすっかり染まった葉も、赤、橙、黄色、黄緑……と、
そのコントラストが文句なしに綺麗で、
自然大好きな私の心も燃えていた。
足元も次第にアスファルトから舗装されていない砂利道へとさしかかっている。
「宇藤あんた、天蛇山に用があるって言ってたけど、
まさかあんたも不動尊に願掛け?」
「んなわけねーよ。
脳に先輩しか住んでいない能天気なお前とはわけが違うんだよ」
「あら、そう。違っててよかったわ。目的まで一緒だったらたまんないもの」
かすかに鼻で笑う声が聞こえた気がしたが、
宇藤はそれ以上なにも言ってこなかった。
そしていずれは宇藤とも、どこかで別れることとなるのだろう。
願掛けは神聖なものだから誰にも邪魔はされたくない。
せいせいする。
「それにしてもどんだけマイナーな地なのかしら。
車どころか観光客や参拝者の影すら見当たらないわ」
「ああ、そうだな。いるのはどこかに潜む獣くらいか」
ゾッとした。
「……あんた、私を襲ったりでもしたら、今日生きて帰れないからね」
「お前よりスタミナのねぇ俺が、んなことでき」
「それもそうね」
言い終わる前の即答でこの話は終了。
私は陸上部の短距離走者で、宇藤は……ええと、何部なんだろう?
文芸部? 読書部? 自己啓発部?
……そんな部があるとは思えないが、運動部でないことだけは確かだろう。
それを踏まえて彼は論じているのだ。
そんなこんなで、入り口を指し示す看板が目と鼻の先に見えてきた。
急に気持ちが昂ぶって落ち着かなくなってきた。
はやく願いを叶えてもらおうと高揚しながら奥へと駆けていく。
私は自慢の足を活かしてダッシュで宇藤を追い抜き、
ウェストポーチからスマホではなくデジカメを取り出すと、
まずはその看板を記念に撮影した。
追い抜いたのは、目の前に宇藤がいたら一緒に写り込んでしまうからだ。
それを阻止するために。
宇藤はだるそうに歩いていたが、
願掛けじゃなければこいつは一体なにをしにきたんだ?
トレッキングにしては、ウェストポーチと帽子装備の私よりも軽装すぎる。
ジーンズにジッパーつきのジャケットの、
そのまま街でもぶらつきそうな普段着だ。
「ま、そんなことはどうでもいいのよ。願掛け願掛け~」
帰りのバス到着時刻までには半日も余裕がある。
その間ずっと願い続けていれば問題はない。
疲れたらその辺を散策でもしていればいい。
そのためにデジカメを持ってきたのだから。
実は私山ガールならぬ、山登りが目的ではないただの、
自然大好き少女 (ネイチャー・ガール)なのだ。
「ちょっと、ついてこないでよ」
「それは俺の台詞だ」
不運にもどうやら行き先は同じようで、私はがっくりした。
不動尊の前に『美女淵』という湧き水の湧いている淵があって、
その名の由来が記された説明板も立ってあるんだけど、
透明に澄んだ水面は、鏡のように周りの木々や空を映し出している。
その美しさによって見る者の身も心も綺麗に洗われていくような感じがした。
鳥のさえずり声や風のさやぎ、清浄な空気、
それらすべてが穢れを払い落としてくれる、そんな雰囲気に包まれていた。
ああ、やっぱり自然はいいなぁ。
偉大だなぁと感じざるを得ない。
「ちょっと宇藤! 美女淵を写すんだからそこどきなさいよ」
「水を眺めることも許されねーのかよ」
「美女淵なのよ。眺めても写り込んでもいいのは美女限定!」
私はシッシと右手をうっとうしげに振って、水面をのぞきこむ宇藤を追い払う。
宇藤はさげすみの眼を一瞥くれるが、
「へぇへぇ」とぼやきながら水辺を離れた。
代わりに私自身が美女淵の湧水が湧く手前に近づいて、
そのコポコポと湧き上がる神秘的な姿をカメラに収める。
もちろん、淵をバックにしての自分撮り(セルフィー)も忘れない。
「こうして近くで見るとさらに綺麗ね~。ふふっ。
私の先輩に対するひたむきな愛みたいに綺麗」
自然と顔が歪んでしまった。
湧き水が湧くポイントなので、
決して水面に映る自分の顔が歪んでいるせいだけではないだろう。
と、油断していたその時――
「!」
突如、誰かに頭ごと水中に沈められた。
必死に私は上体を起こそうともがくが、相手はそれを簡単には許さない。
く、苦しい……! 息が――っ!
「ぷはぁっ! ゲホゲホッ! なっ、なにすんのっ! この人殺し!」
三十秒ほどしてから解放されると、そこにはもちろん宇藤しかいなかった。
「さては日頃のうらみつらみを晴らすためにここへきたのね!
殺人未遂で訴えてやる!」
「この水はお前の心だ。水の中でなにが見えた?
すなわち、己の深淵を見つめることだ。
息を求めたのと同じくらい先輩が好きだと強く認めた時こそ、
ようやくお前の告白をする準備が整うんだぜ」
「はぁっ!? いきなり水中に沈められて、己の深淵が見えるわけないじゃない!
この空気読めな啓発バカ! 本に埋もれて死ね!」
こいつはなにを言っているんだ?
私が先輩を好きな気持ちが偽りだとでも思っているの!?
好きで好きで仕方がないのにバカバカしい!
私は息巻いた。
こうした宇藤の説教じみた数々は、唐突に始まる。
ゆえに「宇藤強菜=うっとうしいな」という名前はあながち間違っちゃいない。
理にかなっている。
この男なら例えこの先、熊に出くわしても説法するかもしれない。
熊だって「うわっ、うぜっ」と、逃げ出すことだろう。
「そんな妄言ばっか言ってたら、
世の中のカップル全員、死にかけなきゃなんないじゃない!」
「なにが妄言なものか。
心の深奥まで染み渡るような震えを山上も感じただろ?」
「ええ! 寒気と憎悪が何百倍にも膨れ上がったわよ!」
私は吠え、殺意を持って目を吊り上げたが、
「!?」
突然宇藤は、天啓に打たれた芸術家のような反応を窺わせ、
とある方角に向かって歩き出した。
「――凪いだ風が森を駆け抜けた時、
舞う木の葉が着水した波紋……おお! それは奇跡のエレメント!」
天啓のポエムとも呼ぶべき言の葉を感情を込めて格調高く紡ぎ出す宇藤を、
私は生ぬるい目で見やった。
「なにが『おお!』よ。あんた、詩人にでもなるつもり!?」
哲学者も詩人も似たり寄ったりであまり区別はつかないけれど、
私は皮肉を込めて言ってやるが、
宇藤は説明板とは逆方向に立ち、うっとりと神妙につぶやいている。
気が触れたとしか思えない。
しかし、彼の目線はなにかを注視して下を向いたままだった。
「……そこになにかあるの?」
宇藤の後ろからその視線の先をのぞきこむと、
草の中に埋もれるように、一枚の板が横倒しになっていた。
その表面に黒の油性マジックで誰かが書いたのだろうか、
薄ら寒い詩が並んでいる。
「おそらく最初は誰かが書いて立てたものを、
別の誰かが引っこ抜いて捨てたんだろうな」
「こんな手作り感たっぷりの気持ち悪いもの、投げ捨てたくもなるわよ」
「どこが気持ち悪いんだ。ちゃんと最後まで読んでみろ。
――透き通る心の奥、そこに潜む天邪鬼。
彼女が優美にひっそりと微笑んでいる……実に感慨深い情熱的な愛の詩だ」
「……きもっ!」
宇藤がうっとりと陶酔している。
この詩の作者と顔を合わせたら、すぐにでも意気投合しそうだ。
私は震える両腕を交互させて、抱きしめるようにさすった。
「念がこもってるわ。大体、天邪鬼ってなによ」
「ひねくれ者、へそ曲がり、素直ではない、やさぐれた――
つまり、山上みたいな屈折した性格のことを言うんだろ。
この板の状態から見て、五年以内ってとこか」
「ちょっとー、あんたが言う?
でも私は先輩の前では素直ないい子ちゃんだから、
宇藤になにを言われようと問題――」
「そういやこの奥にもでかい窪みがあるって、
以前読んだ郷土史には書いてあったな」
私の話を聞いちゃいないと誇示するように、途中でぶった切られた。
さっきの反撃なの?
私は先輩の話をするとつぶらになる瞳を眇めさせた。
「窪み? いつの間にそんなものまで読んでいたのよ。
はっはーん、あんたの目的はそれね。
探検ごっこをするつもりでここにきたってわけね。
ところでその窪みは、干からびた池かなにかなの?」
「ああ、昔は水の溜まるでかい池みたいだったが、
今ではすっかり涸れているらしい。底なし沼だって話だ。
しかも龍女も棲むという伝説つきの、その名も顕現池」
「顕現池……? って、なんなのそれ?」
「顕現ってのは、はっきりと姿を現すっていう意味だ。
元々、池というだけあってすり鉢状に凹んでいるんだが、
植物の垂直分布も窪みにいくほど、
高山植物が生い茂るというあべこべな現象まで起きている」
「へぇー、詳しいわね。さしづめ歩くガイドブック? その窪みまでは遠いの?」
「三キロほど先じゃねーかな」
「なら遠慮しとくわ。私は願いごとを叶えてもらうためにきたんだもの。
あんたは龍女と底なし沼でいちゃついてなさい」
私は反対方向にある不動尊――
『ここから徒歩五分』と矢印のある看板の先へと歩を進める。
しかし、繰り返し確認しておくけれど、宇藤と私は同伴者ではない。
たまたま一緒になったってだけの話。
なのにこの男は、再び私の後ろをストーカーっぽくついてくる。
ゲゲッ……!
心の深淵で蛙がふた鳴きした。
さらにこの直後に知ることになるのだが、
ここにきた男女は結ばれるという最悪な伝承まであったのだ。
このままでは私は先輩と結ばれるどころか、
誤って宇藤と結ばれる運命を辿る羽目になってしまう。
そんなのは天と地がひっくり返ったってあり得ないのに!
説明板を引っこ抜いて思い切り踏みつけて、かくなる上は、
護摩壇でお炊き上げもしてもらいたい衝動に私が駆られたのは言うまでもない。




